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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第七章 シルヴィア=ラインスターク
80/251

イーシャット、家路を急ぐ

 もうすぐラシェルダに会える。


 姫とアルガス、それから不思議な鴉令嬢と別れて数刻。イーシャットはエスメラルダに続く細い山道に、再び戻って来ていた。


 もうすぐ帰れる。――つまりラシェルダに会える。


 そう考えるとつい、笑みがこぼれてしまう。

 周囲にはひた隠しにしているが、イーシャットは内心、渋々、自分は愛妻家なのだと認めないわけにはいかなかった。


 ラシェルダは本当に気立ての良いエスメラルダ娘である。少々活発で、気っ風と肝っ玉が良すぎる点があるらしく、あれじゃあ嫁のもらい手がないよ――と近所の女たちに言われていたそうだ。イーシャットが結婚を申し込んだとき、ラシェルダの両親は涙を流さんばかりにして喜んだ。嫁に行けるかどうか心底案じていたのだという。


 正直言って、意味がわからない。

 ラシェルダのようないい女を、嫌がる男なんているだろうか。


 しかしイーシャットにとっては、ラシェルダの評判が芳しくなかったことは幸いだった。イーシャットが申し込むまで先約がおらず、誠に運が良かったと思っている。ラシェルダは本当に気立てがいい。美人だしいい女だしすこぶる可愛い。アナカルシス全土を飛び回る仕事に追われるイーシャットの帰りを、二歳になる愛息子と一緒に待っていてくれる。そろそろ帰ると知らせてあるから、帰ったらきっとすぐに、イーシャットの好物ばかりを揃えた食卓を調えてくれる。一緒に酒でも飲みながら食卓を囲み、旅先の話をして笑わせたり留守の間の話を聞いたりしたい。彼女に土産を渡さねばならないし、息子を放り上げて振り回してくすぐって遊んでやらなければならない。エルギン王子への報告を済ませたらまっすぐに飛んで帰らなければ。


 普段はあまり周囲に見せないようにしているが、今はひとりなのでイーシャットは遠慮なく笑み崩れた。姫がラインスターク家のご令嬢に警告するために飛んで行ったばかりだというのに、師匠たる自分がいそいそと家族に会いに帰ったりしていいのか――そんな罪悪感も覚えはするが、半年ぶりに家族に会えると思うとやはり心は羽が生えているかのように軽く、身体もつられてとても軽かった。できるならこのまま飛んで行きたいくらいだった。何度も何度も、馬を急かしたくなる気持ちを押さえつけなければならなかった。


 がくん。

 急に馬が止まった。

 身体も心もふわふわして馬に乗ってる実感がなかったので、突然のことにイーシャットは驚愕して転げ落ちそうになった。「おい、どうした」馬に声をかけ、首筋に触れ、更に驚いた。

 馬が硬直している。


 何かいるのだ。


 戦慄した。馬の視線を辿っても、そこには緑の茂みがあるばかりだ。


 一瞬、魔物だろうか――と考えた。姫を狙ったという魔物のことが頭にあったからだ。

 しかしすぐに、そうじゃないと思い直した。十年前、エスメラルダに魔物が入り込んだ事件があった。あの時イーシャットは魔物のすぐ傍にまで行った。それどころか追い回され、毒の固まりを撃ち込まれ、王子を担いで逃げ、奪われた王子を追いかけて取り戻したりもした。

 あの時の経験から言えば、魔物はもっと冷たい。

 威圧感というか、怖ろしい程の圧力を周囲に振りまき、それが酷く冷たかったことを覚えている。


 今は少なくとも、冷気はなかった。また、馬は怯えてはいなかった。硬直して、緊張している。が、それは恐怖のためではないようだった。イーシャットは馬の鼻面を撫で、「何がいるんだ」と囁いた。もちろん返事はなかったが、その問いは、イーシャットの予想とは違った結果をもたらした。


『邪魔をする』


 前方、馬の視線のあたり。

 先ほどはただの緑の茂みしかなかったそこに、巨大な、銀色の、獣が居た。


 獣が現れた瞬間、馬が鼻面を下げた。前足を折り、その場にぬかずくような姿勢を取った。そのまま腹を地面につけ、鼻面を下げたまま蹲った。

 さっき馬が硬直していたのはやはり恐怖のためではなかったのだとイーシャットは考えた。

 馬は畏まっていたのだ。――雄大なる獣の王に。


 銀狼だ。

 

 イーシャットは今まで一度も見たことがなく、ちまたでも伝説の生き物に近い扱いだが、実在する獣である。ニーナの、それから大勢の【契約の民】の身体に刻まれた紋章は、銀狼の持つ紋様を盗んだものだと言われている。今、イーシャットの視線の先に居る銀狼に、その若草色の紋様は見えない。しかし姫の話では――ファーナを狩ろうと追い立てていた数頭の銀狼がいた――魔力を使うときにだけ、白銀の毛皮に若草色の紋章が浮かび上がるらしい。


 大きさは、馬よりは若干小さく見える。しかし人を乗せて易々と走れそうな、雄大な体躯であった。何より見事なのはその白銀の毛皮だ。ピンと尖った耳、きりりと通った鼻筋、理知的な若草色の瞳。その瞳を見て、イーシャットは我知らず、膝を折った。馬の振る舞いに倣うように、その場に膝をつく。


『訊ねたいことがある』


 予想より少し近い場所で銀狼の声がした。頭の中に直接響くような、荘厳な響きを持った声だった。顔を上げると銀狼は少し近づいていた。口は閉じているが、その声ははっきりとイーシャットに届いた。


『東の方に巨大な建物があるだろう。石で作られた――』


 東と言えばアナカルシスの方角だ。イーシャットは少し考え、巨大と言うからにはやはり王宮のことだろうと思った。


「アナカルディアにある王宮のことでございましょうか」

『おうきゅう。そう、それだ。その建物に住むことになる人間と話がしたい』


 イーシャットは瞬きをした。住むことになる――つまり王になる存在、と言うことだろうか。


「次期国王と。エルギン=スメルダ・アナカルシス王太子殿下と、ということですね」

『人の世の権力の移り変わりに我々は関与しない』銀狼は重々しく言った。『我々は人魚とは違う。人の世には関わらぬ。責務の担い手はもはや我々ではなく人間だ。我々の関与が人の行く道に何らかの陰を落としてはならぬ、だから人に会わぬよう今までずっと避けてきた。しかし事態が変わりつつある』


 イーシャットは必死で話の筋を追った。この雄大な獣の王相手に、粗相があってはならない。


『事態が変わった』銀狼は重々しく繰り返した。『箱庭の中に魔物が入り込んでいる。それも二頭』

「二頭――」


 一頭はクレイン=アルベルトという、姫を狙った魔物のことだろう。しかし、もう一頭いるというのか。イーシャットの不得要領顔を見ても、銀狼は苛立ちもせず、ただ淡々と続けた。


『事態が変わった。だからあの王宮に住むことになる、一番力のある存在に会いたい』





 馬は、銀狼が鼻先を馬の額に近づけただけで動きを取り戻した。ぶるるるる、と身体を振るい、イーシャットを乗せると嬉しそうに張り切って走り出した。かなりの速度だったが、銀狼は息を乱しもせずに易々と付いてきた。走る馬の背の上で、イーシャットは舌を噛まないよう気をつけて口を開いた。


「王宮へも行かれたのですか」


 王宮に住むことになる人間に会いに来る、と言うのは、考えてみたらおかしな話だ。魔物がいる、その対策について話があるというのなら、まずは国王に会いに行くのが筋というものではないだろうか。


 十年前に、イーシャットは、現在の王、エリオット=アナカルシスの傍へ寄って、直接言葉をかけられたことがある。

 あの時の高揚感を、忘れることがどうしてもできなかった。あの時は名君だった――そう、声をかけられるだけでうっとりして心酔してしまうような、魅力に溢れた人だった。数年前に一度か二度、遠目に見ただけだったイーシャットの顔を覚えていて、エルギン王子の側近であるということまで記憶していた。息子に寄せる愛情の深さが、それでわかるというものではないだろうか。


 懐が大きく、快活で明朗で、若くて有能で、とても魅力のある王。

 十年前は、確かにそうだったのに。


 それからたった三年でティファ・ルダの虐殺を引き起こし、十二歳の少女を森に放して狩るような、遊びに興じるところまで堕ちた。【契約の民】のみならず、ティファ・ルダの戸籍に載っている女性や子供までひとり残らず引きずり出して処刑した。黒髪を持つ十代の少女だと言うだけで兵士に命じて集めて殺す、そんな非道を行う暴君だと、頭ではよくわかっている。とっくに王の所行に怒りと諦めを抱いている。あの王はもうダメだ。早いところ王座から引きずり下ろしてエルギン王子に即位していただかねば。そう思っているし、そのために妻子を置いて国中を飛び回って働いている。自らの働きに恥じるところなどひとつもない。


 それなのに。


 イーシャットには、王の変節が、どうしても信じられなかった。十年前に会っていたから。親しく声をかけていただいていたから。エルロイ=ルッシヴォルグという偽名まででっち上げて、陛下のために情報収集したりしたから。集めた情報を持っていったとき、あの方がどんなに喜んだかを、良く覚えていたから。


 まさかあの人が。王を騙った別人の仕業ではないのか。そんな疑念が心に染みついて、どう振り払っても取れない。


「……王が狂ってしまわれたのは、魔物のせいなのですか」


 そう、聞かずにはいられない。

 銀狼は若草色の瞳でイーシャットを見上げ、


『知らぬ』


 ひと言、切り捨てるような口調で言った。イーシャットはしょんぼりした。そりゃそうだろうけどさあ、と思う。

 銀狼は人間には関わりたがらない。人が来たらすぐに姿を消すというのは有名な話だった。ファーナを追い立てていた銀狼たちも、姫が姿を見せた瞬間に、ファーナを殺すのを辞めて姿を消した――つまり、いたいけな少女が魔物に食い殺されても銀狼は関与しない、ということだ。人間の規則に従う存在ではない。


 それなのに、今さらなぜ。一体なぜ、次期王位継承者に会いに来たのだろう。


 銀狼はそのままずっと黙っていたが、イーシャットの意気消沈に絆されたのか、仕方なさそうに言った。


『あの建物は我らを封じる』


 建物。王宮のことだ。イーシャットは銀狼を見た。


『人魚が我らを閉め出すために縒った封じのまじない、それを編み込んで人間に建てさせたのがあの建物だ』


 イーシャットは驚いた。初めて聞いた。

 イーシャットの知っている王宮のおとぎ話と言えば、王座の下にあるという一本の杭の話である。新年の儀式の際に王族が集められ、王宮の図面を建築家が検証し、その杭の存在を示す。同時に、杭にまつわる説話が語られる。エルギン王子がイーシャットに話してくれたところによると、その杭を抜けばあの巨大な王宮が全て、がらがらと崩壊するというのである。アナカルシスの王がどれほど強大になっても、どれほどの権力を手に入れても、それは誰かが杭一本抜けば崩れるものである。王座に座る者はそれを忘れるな――初代の王が、その戒めのために作ったと、言われている。


『我々はずっとあの建物を黙認してきた。人間の王――あの建物を建てた一族の長は人魚の圧力に負けた、が、完全に言うなりになったわけではなかったからだ。人魚の目を盗んで長は、作り手に細工をさせた』


 イーシャットは思わず身震いをした。人間の語り継ぐ伝説とは少々違うが、合致する箇所がある。


「杭、ですか?」

『そう聞いた。人魚の支配を脱する日が来たとき、その時長の立場にいるものが、その杭を抜く。……長は我々にそう誓った。だから我々は、あの建物を見逃してきたのだ』

「人魚の、支配……?」

『我々はこれからも黙認し続ける、その立場を変える気はない。だが――最近空気が不穏になった。だから釘を刺しに来たのだ』


 銀狼の声は低く、今日ここへ来たことが、実は不本意だったことがうかがえる。銀狼はきりりとした眼差しでひたすらに前を向きながら、独り言のように言った。


『人の世に関わる気はない。しかしそれも、執着を抱いた魔物が出るまでの話だ』

「しゅうちゃく?」

『魔物は危険だ。しかし正気の魔物であれば理性がある、自らを滅ぼすほどの災厄は呼び込むまい。だが執着を抱き気の触れた魔物はいつか、箱庭に亀裂をもたらす』

「――」

『箱庭の崩壊は人間のみの問題ではない。生きとし生けるもの全てが死に絶え、縷々続いた全ての営みが潰え無に帰す危機だ。……先日かすかな執着を感じた。思い過ごしであれば良いのだが』


 この銀狼はどうやら警告しに来たようだ、と、イーシャットは考えた。

 銀狼はずっと人間を避けてきた。王宮を作った王が人魚の圧力に屈しながらも密かに王宮に杭を潜ませた。それに敬意を払って。

 しかし敬意を払っている場合ではなくなるかも知れない、ということなのだろうか。姫を狙って王妃宮に攫いに来た、クレイン=アルベルトのことだろうか。

 それとも――もう一匹いるという、別の魔物のことなのだろうか。


 ラシェルダと息子に会えるのは、少し先のことになりそうだ。銀狼と並んで馬を走らせながら、イーシャットはそう思った。

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