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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第一章 黒髪の娘
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黒髪の娘(8)



「……!」


 アルガスは反射的に距離を取り剣を構えたが、その体勢のまま押されて大きく下がった。踏み締めた足が絨毯の上に長い筋を付けた。アルベルトは舞を見たまま立ち上がっていた。その細い体躯から、何か湯気のようなものが立ち上っているように見える。


「ウルクディアの町中で見たときから、何か変だと……思っていたんです」

「逃げろ!」


 アルガスが怒鳴った。その瞬間には舞の目の前にアルベルトがいた。目を見開いて舞を見ている。信じられないという表情が浮かんでいる。くん、と鼻が動いた。


「変な匂いがする、と、思っていたんです。……貴女は、まさか」


 ――匂い?


 アルベルトが手を伸ばした。おそるおそるといった指の動き。背後の扉から、階下で異変を言い交わす声が聞こえている。でも舞は動けなかった。動いたらアルベルトが何をするかわからない、正体不明の恐ろしさに絡め取られて。

 アルベルトの左手の指先が、舞の髪に触れた。


「ふふ……ははは」


 そして、笑い出した。おかしくておかしくてたまらないと言った風情の笑いはあまり朗らかで、あまりにも場違いだ。


「いた! いたんだ! そうか、ははは、この世にはまだ主の天敵がいたんだ!!」

「主……?」

「一緒に――……っ!」


 アルベルトの手が舞の肩をつかむ、寸前だった。

 目の前で、アルベルトの体が横に流れた。

 背後から駆けつけたアルガスがアルベルトを左に突き飛ばしたのだ。倒れたアルベルトに剣を構える。階段から駆け上がってきた新手がどやどやと背後の廊下に詰めかける。アルベルトは体勢を立て直したが、舞しか見ていなかった。


「一緒に来い! 一緒に来るんだ! 総ての歪みを正す者よ、お前は私のものだ……!」


 人間とは思えない速度でアルベルトの腕が伸びる。寸前にアルガスが割り込んだ。アルベルトの腕を剣で弾いた。がいん、金属音が鳴った。爪が伸びていた。鉤爪だ。大きく湾曲した鉤爪は漆黒だった。双方から繰り出される鉤爪をかいくぐり、アルガスがアルベルトに斬り込んだ。


 肩から腹にかけて、剣が食い込んだ。

 ガルテがひっ、と息を飲んだ。切り裂かれたアルベルトの肩からは、血が一滴も出なかった。露出した肉は黒く、黒く、どこまでもどこまでも黒い。体を半ば引き裂かれながら、アルベルトはなおも舞に鉤爪を伸ばそうとしている。その顔はまだ端正な人間のものだ。


「魔物だ……」


 ガルテが囁いた。その声ににじむ純粋な恐怖に、ふと、胸が痛んだ。ファーナはこんなじゃなかった、怖くて冷たかったけど、でも優しかった。


 ――あんな奴とファーナが、同じ存在だなんて。


 アルガスは剣を引き抜き、なおも伸ばされる腕に切りつける。腕が落ちかけ、アルベルトが後退する。それでも彼は引き下がらない。傷口がふさがり始めている。


「ガルテ、火だ!」


 アルガスが鋭く叫んだ。反応は顕著だった。アルベルトが腕を押さえ、大きく後ろに跳んだ。窓を押し開いて、後ろ向きに窓枠に飛び乗った。その間も彼はずっと舞を見ていた。アルガスにもガルテにも一瞥もくれず、ただ舞だけを、いとおしむように。


「よくぞ生きていてくれました。総ての歪みを正す者――“流れ星”。【魔物の娘】よ。黒髪の娘達が貴女の身代わりに狩られるのは、どんな気持ちでしたか?」

「ガルテ! 早くしろ!」

「だってお前――」

「またお会いしましょう、ティファ・ルダの生き残り。愛しい我が娘よ。王に伝えますよ。貴方の敵が再び起った、と」


 ガルテがようやく戒めを解き終わり、左肘に描かれた若草色の紋章を露出させた時には、アルベルトの姿はもはやなかった。代わりに階段を駆け上がってきた者たちが部屋になだれ込んで来て、ガルテが怒鳴った。


「さっきの奴らか、人がおとなしくしてりゃ好き勝手やってくれやがって……!」


 とたん、アルベルトが去った窓の外で盛大な水柱が立った。水柱は一気に窓を目指して押し寄せた。ガルテが舞を引き寄せ、包み込まれた腕の中で、アルガスが戸枠に掴まるのが見えた。奔流はガルテの怒りを表して、入り口から駆け込んできた男たちを押し流した。

 ガルテの左肘に、若草色の蔦のような刺青が絡み付いている。まばゆく輝く模様は、あまりにも懐かしいものだ。しかし、奔流が通り過ぎてガルテの腕を逃れた舞は言った。言わずにはいられなかった。


「水、なん、ですか!? 火は!?」

「はったりだ。魔物は火を恐れる」


 と言ったのはアルガスだ。くるぶしまでまだ残る水の中に降り立って、


「おまけに【一ツ葉】だ」

「悪いかよ!? こっちゃ善良な薬師なんだおまけに左手だ悪いかこのやろう!」


 ガルテが吠える。彼の周りだけ、絨毯が乾いている。

 水はその性質からしてあまり戦い向きとは言えない。治療に適していて、以前は医師や薬師が修行の仕上げに、左手に契約印を彫りに来ていた。ガルテの刺青を見つめて舞は沈黙した。ローラもそうだった。ローラも、彼女の母親役をしてくれていた、優しい優しい領主の妻も、左手に水との契約印を彫っていた。


「新手が来る。逃げるぞ」


 アルガスが窓を覗いて言った。ガルテがふん、と鼻を鳴らして、舞を見た。


「言っとくが俺は役に立たないからな」

「え、そんな、宣言されても……」

「足も遅いし剣も持ったことない。図体ばかりの薬バカ、食べる量だけ二人前、薬師のくせに血を見ると卒倒することもある三十路半ば。それが俺、よろしく。見捨てられないことを祈るぜ」

「や、すがすがしいですね、なんか」


 思わず笑ってしまいながら、笑っている場合ではないと分かってはいた。アルガスが部屋を突っ切って二人のそばを通り過ぎ、廊下に出た。ガルテを促して先に出し、舞も続いた。廊下を見回していたアルガスが、ため息をついた。


「やっぱり流されたか……」

「何だ?」

「鈴。……高いのに」

「相変わらず金欠なのかお前……」


 ガルテに同情されるようでは、よほどなのかもしれない。二人に続いてびしょびしょの階段を走りだしながら、舞は、アルベルトに言われたことを考えないように努めた。それでも勝手にアルベルトの声が頭の中で鳴り響いた。まさか生きていたとは、と言っていた。王も生きているとは思わなかったのだろう。半ば予想していたことだった。七年間、息をひそめていた。もしもの時のために備えてはいたが、でも、王がここまで狂いさえしなければ、おとなしく王位が委譲されるその時を待とうと思っていた、のに。


 ――まさか生きていたとは……


 改めてその事実を突き付けられると――

 生きていると思わなかったのならなぜ――


 ――なぜ、出頭せよと呼びかけたりしていたのだろう。


 おぞましい。

 王もアルベルトも楽しんでいるのだと、舞は知った。娘を返せとねじ込んだ親は、既に娘が死んだのではと脅えながらも、『代わり』を見つけだして差し出さずにはいられない。さっき会った、あの男のように。そして王から身を隠して若い時間を恐怖と無為に過ごさねばならない娘達や、その親たちは、既に存在しない【魔物の娘】を恨み、呪って、捜して――そして。


 【魔物の娘】だと疑いをかけられた娘はいなかっただろうか。後ろ盾のない娘や、人付き合いの悪い娘や、遠くから出稼ぎに来ていたような娘が、誤解されて差し出されたりはしていないだろうか。


 ――あたしの身代わりに、


「それにしても驚いた」


 アルガスの声で引き戻された。彼はよどみない足取りで走り続けながら、そこここで気絶している男たちを鋭い目で確認しながら、わずかに笑みを含んだ声で言った。


「まさか起きていたとは。すごい狸寝入りだった。あんな見事な狸寝入りを見たのは初めてだ」


 どうやら舞に言っているらしい。灰色の目がちらりとこちらを見たので、つい、


「そ、そんなほめられ方したのも初めてだ」

「何言ってんだお前ら、こんなときに」


 ガルテが呆れている。

 でも舞は、アルガスが、なぜこんなときに、そんな軽口めいたことを言ったのか、分かっていた。一体この人は誰なのだろうと、最初の疑問が再び兆した。ルファルファ神の【最後の娘】がついに起ったという噂は既に流れ始めていたが、舞の顔を知っているのはまだ、エスメラルダの人たちだけのはずだ。アルガスは【アスタ】の用心棒だという話だったが、まだ同盟の根回しの段階にもかかわらず、【アスタ】に顔も含めて知られているとなると、これは由々しき事態だ。それに、そう、【最後の娘】が『ティファ・ルダの生き残り』であるということなど、エスメラルダの中でもほんの一握りしか知らないことなのに。アルガスが見せた気遣いは、本当にありがたいものではあったが、でも、すべての事情を知っている者が見せるものではないだろうか。


 ――どうして知っているのだろう。

 気を許しちゃいけない、と、舞は自分を戒めた。たとえどんな気遣いを見せられようとも、アルベルトに斬りかかったのはどう見ても本気だったけれど、でも。

 ティファ・ルダの滅亡の夜に生まれた【魔物の娘】の顔を知るものは、エリオット王の側近と、虐殺に関わった兵士たちだけのはずなのだから。


 ――ヒルヴェリン=ラインスターク将軍を除いては。

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