シルヴィア=ラインスターク(3)
*
風呂から戻ると、急に疲れた。温かい食事を山盛り食べたせいもあるかもしれない。歯を磨いて寝支度を済ませる内に睡魔が襲ってくる。目をこすると、粗末な机の上に乗っていたシルヴィアが言った。
『疲れたのね。どうぞ、ゆっくり休んで。本当にもう、旅に出た方がゆっくり休めるってどういうことなのよ。全くエルヴェントラと来たら』
最後の方は少々憤りを含んでいて、本当にすっかり嫌われちゃったんだ、と思った。
普段よりかなり早い時間だったが、寝台を見るともう眠くてたまらなかった。イーシャットが休むように勧めたのは、もしかしてアルガスのためばかりではないかもしれない。ふらふらと寝台にもぐり込もうとすると、待って、とシルヴィアが言った。
『あ、待って。ごめんなさい、手紙を書きたいの。墨壷の蓋を開けてくれない?』
「手紙?」
シルヴィアは、羽根を合わせて見せた。拝むように。
『それから便せんも一枚もらえないかしら。墨壷は見つけたんだけれど、やっぱり紙は高級なのか、こういう宿には備え付けがないのよ』
「いいけど、誰に書くの?」
『ビアンカとニーナに。私、アイオリーナに会ったら、もうずっとそばにいるつもりだから』
舞は納得した。寝台を出て背嚢を探り、【最後の娘】の花押が入っている便せんを取り出した。机において墨壷のふたを開け、椅子に座ると、シルヴィアが羽を振った。
『いいのよ、あなたは疲れてるんだから。自分で書けるわ』
「ええ?」
『出来るわよ。そうね、そのふたをひっくり返して、そこに少しだけ墨を入れてくれない? そう、それくらいで。これなら爪で書けるわ。ほら』
シルヴィアは足の爪を墨に浸し、紙をひっかいて見せた。
「かなり時間がかかりそうだよ?」
『そんなに長い手紙を書く気はないし、自分で書きたいの。燭台をつけておいてくれれば書けるわ。大丈夫、終わったら羽で消せるんだし、私は明日の移動中に眠れるんだもの。あ、終わってもふたが戻せないわね、これだと。うーん、じゃあ、その陶器のお皿……これって灰皿かしら? こっちに墨を入れて、墨壺には蓋をして。ありがとう。これで書けるわ』
シルヴィアがいそいそと爪を墨に浸した。最初の文字をひっかいて、どう、と言いたげに首を傾げて見上げてきた。舞は微笑んで、お休み、と言った。
『お休みなさい。……ねえ姫?』
「ん?」
『……何でもない。よく休んで』
寝台にもぐり込むときには、鳥の爪が紙をひっかくかすかな音がよどみなく聞こえ始めていた。舞は粗末な寝台に身を横たえて、毛布にしっかりくるまった。枕に頭を乗せるとすぐに、意識が溶けた。自分で思う以上に、疲れていたようだった。
残り四日
旅支度を調えて、一番先に食堂に行ったのは舞だった。
食堂に鴉をつれて入るのを咎められるかと思ったのだが、早朝だからか、それとも泊まり客がそもそもいないからか、他の客の姿は一切見えず、宿の店主も何も言わなかった。舞はシルヴィアから受け取った手紙を、中身を見ないように気をつけて丁寧にたたんで、背嚢に入れた。それから山盛りの食事を取ってきた。寝台の威力はすばらしく、疲労は綺麗さっぱり拭い去られたかのようだった。
「手紙、イーシャットに預けようか。アナカルディアには行かなくて良さそうだし、たぶんまっすぐ帰ると思うよ」
『んー』
シルヴィアは取り分けた食事を嬉しそうに覗き込んでいたが、舞の言葉に顔を上げた。
『そんなに急ぐ手紙じゃないし、いいわ。アイオリーナに会ったら出してもらえるし』
「そう? ……いただきます」
手を合わせるとシルヴィアが首を傾げた。
『変わった挨拶ね』
「うん。……子どもの頃の習慣ってほんとになかなか抜けないよね』
『こう? ――イタダキマス』
「そうそう」
しばらく無言で食べた。シルヴィアもお腹がすいていたようで、舞と変わらないくらい勢いよく食べた。お代わりを取りに行こうかと思う頃、イーシャットとアルガスが降りてきた。舞は手を振って、眠たげなアルガスの顔色を見て、やや満足した。こちらも、昨日よりだいぶ良さそうだ。
「おはよう。調子はどう、ふたりとも」
「ああああ……ねみい」
イーシャットはあくびをし、アルガスは頷いた。目はまだ半開きで、前髪が濡れていた。たぶん一生懸命冷たい水で顔を洗ったのだろう。寝過ごさなかった根性はたいしたものだ。荷物を置いて食事を取りに行ったが、足取りは少しふらふらしている。シルヴィアがそれを見とがめた。
『まあ。昨日よりよろよろしてるわ。大丈夫なのかしら』
「あれは寝起きのせい。顔色は昨日よりずっとマシだね」
『寝起き? まああ……アイオリーナと同じだわ』
シルヴィアは言って、くすくす笑った。
『流れ者でも朝に弱い人っているのねえ。アイオリーナは本当に朝が苦手なのよ。お茶を三杯飲んで冷たい水で顔を洗ってようやくまともに話せるの。宵っ張りだからいけないんだわ。本を読むのが大好きなのね、それで、つい夜更かしをしてしまうんだって言うの。あなたは朝に強いのね。いつも早起きだし』
「や、あたしも駄目だったんだよ、ちょっと前まで。最近平気だな。何でだろ。成長期が終わったからかな?」
「お前に成長期があった試しがあるのかよ」
戻ってきたイーシャットが憎まれ口を叩いた。舞は顔をしかめて見せた。
「イーシャットはこれからどうする? アナカルディアには行かなくて良さそうだよね」
『そうだな。やっぱ一度エスメラルダに戻るわ。王妃に警告するにせよ、エルヴェントラにお前の動向を伝えてからの方がいいだろうからな。鳩、やっぱりお前が連れて行け。ラインディアでの動きをすぐ知らせられるから」
「わかった。……ねえイーシャット。ニーナとビアンカに護衛をつけたの」
アルガスは取って来た山盛りの食事を黙々と食べ始めていた。食欲はあるらしく、食べているうちに目も覚めてきたようだ。舞はその様子を少しの間見守ってから、イーシャットに視線を移した。
「オーレリア=カレン=マクニスという流れ者なんだけどね」
「ぐっ!」
イーシャットが食事を喉に詰まらせた。吐き出しそうになったがそれを両手で止めて、しばらく咳き込んで、飲み込んで、舞の差し出した水を飲み、
「んだってえ!?」
「あーやっぱり知ってるんだ、オーレリア。エスメラルダに来たことあるんだ?」
「お前なあ! よりによってなんつー野郎を」
「あーやっぱり性別まで知ってるんだ。いつ頃来たの? 何であたし知らないのかな?」
イーシャットはしばらく呼吸を整えた。ようやく落ち着いて、また水を飲み、
「いや数日しかいなかったんだよ、マスタードラもエルギン様も会ってないはずだ。会ってたらマスタードラが一刀両断してくれてたかもしれねえ、惜しいことをしたな。そう、お前らが巡幸行ってる間だったな。いつだったか……五年くらい前になるか? 出入り禁止になってるはずだが、お前が通したんだな? あの疫病神を」
「ふふ。大丈夫、騒動は起こさないはずだから。ちゃんと契約したし……あれで大丈夫だよね?」
訊ねると、アルガスは無言で頷いた。イーシャットはそれを見て、少し安心したようだった。
「ちゃんと契約したのか。じゃあ大丈夫だな」
「有名なんだね、オーレリアって」
「有名っつーかさ……俺ぁ諜報担当なんだぜ。気に留まった相手はとりあえず一通り調べるに決まってんだろ。けどなんでだ? わざわざよりによってあんな奴に頼まねえでも」
「それがわからないんだ」
舞は食べ終えて、ごちそうさま、と言い、残った食事で弁当を作り出しながら、眉根を寄せた。
「自分でもわかんない。たぶん気になることがあるんだ。イーシャットも気をつけておいてくれないかな」
「ふん」イーシャットは舞を見て、誘うような調子で言った。「エスメラルダにいた人間にはニーナとビアンカ姫を任せられないと思ったわけだな?」
「……そう、かな。どうだろう。ニーナは孵化の最中で動けないし、デクターも付きっきりだし、ビアンカはその間ひとりに……」
だからどうしてデリクに頼まなかったのだろう。舞は動きを止めた。眉根を寄せて、考え込んだ。どうしてデリクではいけなかったのか。
デリクはビアンカを傷つけたりは絶対しないはずだ。そう信じている。それなのに。
舞の思考をなぞるように、イーシャットが低く呟いた。
「ひとりに。だがビアンカ姫には【アスタ】の用心棒がついてるはずじゃなかったか?」
「そうなんだ……けど……」
「それにどうしてニーナのことまで」
そうだ。どうしてニーナのことまで――
舞は顔をしかめた。
何がこんなに気になるのだろう。よく考えなければならない。よく。
気になると言うより、違和感がある。何か根本的なこと、気づいてみれば簡単なことが、頭から抜け落ちているような気がする――
と、イーシャットが遮った。
「悪かった。今はアイオリーナ姫とヒリエッタのことだけ考えな」
舞は顔を上げた。アルガスが、イーシャットと舞のやりとりを興味深そうに見守っていたのにそれで気づいた。イーシャットは探るように舞を見た。
「警告する方策は考えてあるんだろうな?」
「――うん。ルーウェン=フレドリックという騎士を捜す。事情を全部話して第一将軍に警告してもらう」
「そうか。うん、よく眠ってすっかり元気になったようだな」
イーシャットは言って、ニヤリとした。アルガスのことかと思ったが、イーシャットはまっすぐ舞を見ていた。太い眉を上げて、イーシャットは珍しく、にっこりと笑った。
「こっちは任せろ。心配すんな」
「うん」
舞もにっこり笑った。
「ありがとう、イーシャット」
イーシャットは全然変わっていなくて、それが本当に嬉しかった。
マスタードラのあの様子を見た後では、特に。
イーシャットと別れると、辺りは急に静かになった。シルヴィアは昨夜遅かったためかうつらうつらし始めていて、アルガスは相変わらず無言だ。舞は鳩の籠にパンを差し入れた。よく訓練されていて、鳩は時折喉を鳴らす他は、存在を忘れそうなほどに静かだ。
街道は森の中に続いていた。道は少しずつ登りになり始めている。今夜には、アリエディアにつけるだろうか。
アルガスの顔色は本当にかなり良くなっていた。と、上着の隠しを探って小さな袋を取り出した。先ほど、出がけに宿の店主に何か交渉して、受け取っていたものだ。興味津々で覗き込むと、アルガスは手のひらに出したものを見せてくれた。
「松の実と眼豆とチーズだ。血を作る」
「へええ、そうなんだ」
「食べるか?」
「ううん、いい。流れ者の知恵なんだ……すごいな」
「これは養父の知恵だ。つまり兵士の」
言ってアルガスはかりかりと豆を噛んだ。眼豆、と呼んだのは茶色で、皺が寄っていて、親指の先ほどの大きさだ。舞はつくづくとそれを見た。
「……アーモンドだ。なるほど、眼豆か。懐かしい。へえ、血を作るんだ。知らなかった」
「あーもんど?」
「故郷でよく食べた。チョコレートの中に入ってた。お父さんのおつまみにもなってた。美味しいよね、それ」
「……食べるか」
「ううん、いい」
舞は首を振って、視線をもぎ放した。物欲しげに見えるのだろう。図星だ。
「兵士。そっか。第一将軍の客将だったって言ってたっけ……」
すると、アルガスが苦笑した。
「なかなか話す機会がなかったな。誰から聞いた?」
「エルヴェントラがそう言ってた。ってことは、あなたも第一将軍に面識があるんだ?」
「……」
アルガスは少し考えた。
「そうだな。何度かお会いしたことはある。ただ、あちらが今俺を見てそうとわかるかどうかは疑問だな。名を出せばわかるだろうが。……別にたいした話でもないのに、なかなか話せなくて悪かった。養父はローラ姫の兄なんだ」
「兄!?」
思わず出た大声に、シルヴィアがびくっとして顔を上げた。
「ごめん」
「血のつながりはない。ローラ姫の一番上の兄と、養父の妹が結婚したというだけだ。養父はラク・ルダの出身だ。ローラ姫と同じ」
舞は目を丸くしていた。そう言えば、ローラは遠くからお嫁に来たと聞いた。地名までは覚えていなかったが、それがラク・ルダだったのか。
シルヴィアはしばらくふたりを見比べていたが、まだ眠かったようで、すぐに丸くなって眠ってしまった。
アルガスは相変わらずゆっくりとした口調で続けた。
「養父は素養が全くなかった。ラク・ルダに限らず、神官の家では、素養がない人間は肩身が狭いそうだ。その上粗野で乱暴で、一族の鼻つまみ者だった。十八歳の時に家を出たが、長男だったので、全く家に帰らないというわけにもいかなかったようだな。だがローラ姫の家と親戚になってからはますます居場所がなくなった。ローラ姫のご実家、シェイテル家は、ラク・ルダで一番由緒正しい家柄だから」
「……そうなんだ?」
「そうでなくばティファ・ルダのディオノスの妻にはなれまい」
ディオノスというのはつまり、エスメラルダでのエルヴェントラのような地位だ。舞はまだ呆然とした気分のまま呟いた。
「そうなんだ……。ローラはね、遠くからお嫁に来たんだって。魔力の素養があったから、十代の頃にティファ・ルダに留学してた。その時にセルデスが好きになっちゃって、実家に帰ったローラを追いかけていって、毎日通い詰めて窓辺で歌って、拝み倒して結婚してもらったって言ってた」
「では運が良かったな、家柄が釣り合って」
「……なるほど、そういうものか……」
「出会ったとき、養父は二十五歳で、ローラ姫は三歳だったとか。ローラ姫は養父に懐いたんだそうだ。養父もローラ姫が可愛くてしょうがなかったと言っていた。滅多に会わないのに、会うたびに抱きついてきてくれて、別れるときには散々泣いてくれたと。娘のように思っていたと。養父が完全に勘当されてからは一度も会わなかったらしいが、手紙はずっと届いていた」
「あああ……」
舞は頬に手を当てた。記憶が閃いた。暖かなセルデスの居間で、ローラはよく手紙を書いていた。誰に、と一度聞いたことがある。ローラは微笑んで、声を潜めた。
――知り合いのおじさんに書いてるの。
――セルデスには内緒よ。姫も一言書いてみる? あなたのことも何度か書いたんだから。
「そうなんだ……あれ、あなたのお養父さんに書いてたんだ」
「それで養父はあなたのことも知っていた。九歳の可愛い女の子を拾ったそうだ、と、俺に一度話したことがある」
舞は額に手を当てた。
ローラは子どもが出来ないことをずっと悩んでいたのだと、ある時セルデスがこっそり言ったことがあった。
――だから俺は感謝している。お前がここに来てくれて。
「『知り合いのおじさんが子どもを拾った。その手があったか、って思った』」
アルガスを見て、舞は微笑んだ。
「前にローラが言ってた。思い出した……あれって、あなたのことだったんだね」
「そうか」
「セルデスは止めたんだって。何もそんなに大きな子どもを養子にしなくてもって。ローラは自信たっぷりに、知り合いも九歳の子を拾って立派に育ててるわって言ったって。これは近所のおばさんが教えてくれたんだ」
「……そうか」
どうやら呪いはもう発動しないようだった。街道は森の中を緩やかに上りながら続いていて、人通りは全くなく、かなりの速度で進んでいても話をするのに支障はなかった。もし本物の令嬢だったなら、こうはいかなかったのだろう。だから令嬢でなくて良かったと、舞は思った。
「養父はずっとローラ姫を気にかけていた。そして彼女が慈しんでいるというあなたのことを。ラインスターク将軍と共にいた時、王がティファ・ルダを攻めると聞いて、王に談判しに行った。養父は短気だったし、脅すようなことも言ったんだろうな。最後にはシェイテルの名も出した。王は……クロウディア家をあのような手段で没落させてまでティファ・ルダを攻める準備を整えていた。そこへ勘当されたとは言えシェイテル家の親族が名乗り出た。養父にはいかなる取引も脅しも効かなかった。だから投獄して、……マーセラ神殿のムーサに始末させたんだ」
「クレイン=アルベルトは?」
「養父は鬼も裸足で逃げ出すほどの腕だった。魔物でなければ捕らえられまい」
「ああ、そっか……」
「俺は養父が戻らないので様子を見に行って、牢に忍び込んだ。養父は俺が来たのを知って、第一将軍が野営地に置き去りにされたことを知ったんだ。王は既に進軍を始めていたから。今すぐに第一将軍に知らせろと言った。それから、出来るならばローラ姫と彼女の養女をティファ・ルダから逃がしてくれと」
アルガスの表情は平静で、変化は何も見られなかった。けれど言葉がわずかに湿り気を帯び、瞳に、藍色が混じった。灰と藍が入り交じった瞳で静かに言葉を紡いだ。
「だがそこへアルベルトとムーサが来て、俺は逃げられなかった。養父を焼いた炎でムーサは俺の戸籍も焼いた。ムーサとアルベルトは俺を放ってそのままティファ・ルダへ出かけた。自分たちで殺すまでもないと思ったんだろうな」
――戸籍を、
舞は息を詰めた。あっさりとした口調で簡単に片づけたが、それでは――
望んで焼いたわけではなかったのだ。クレインとムーサによって、養父と戸籍と、両方を無理矢理奪われた。どんな気持ちでその炎を見たのだろうと思うと、なんだか苦しい気がする。
けれどそこに触れることは出来なかった。舞はだから、別のことを言った。
「放って、いったんだ……?」
「彼らも急いでいたからな。取るに足りないと思ったんだろう。ただ本当にまるきり放ったわけじゃない。マーセラの神官に任せたんだ」
「あなたを?」
呟くと、アルガスは苦笑した。
「七年前だ。あなたも小さかっただろう」
「そう……かな」
そう言えばイーシャットも言っていた。三年でこんなに大きくなるかよ、と。
七年前はもちろん、もっと小さかったのだろう。よく考えれば当たり前だ。アルガスだって、生まれた時からこの体格だったわけではないだろう。
「それで俺はそのまま第一将軍へ伝えに行った。その後ティファ・ルダに行ったんだ」
「それであたしを……見た?」
アルガスは頷いた。舞はしばらく考えた。それではあの時、第一将軍と一緒にいたのだろうか。王の天幕に? でもあの時、将軍はひとりだった。子どもなんて近くにいなかった。七年前、アルガスは十四歳だったと言った。十四歳の男の子というのは、どんな風なんだろう。出会った頃のエルギンは、どんな風だっただろうか。少なくとも、兵士のような体格ではまだないだろう。暗かったし、顔が見えて、七年経ってもひと目でわかるような距離にいたら、舞だって覚えているはずだ。あんな場所に子どもがいたとしたら。
「だが地下街で聞くまで、あなたが本当にローラ姫の娘だったのか、確信が持てなかった」
やや性急な口調で言われて、曖昧に頷いた。視線を向けると、気遣わしげな目にぶつかった。
「俺は本当に子どもだった。第一将軍を連れて行けばなんとかなると思っていた。人を、それもふたりも、あのような場所から逃がすことがどんなに難しいか、少しも知らなかった。何の用意もしていなかった。だからずっと謝罪をしたいと思っていた、俺がもっとちゃんとしていたら、あなたはあんな思いをしなくて済んだはずだ」
アルガスの、灰色と藍色の入り交じった瞳に、あの揺らぎが見えた。【アスタ】では傷ついたのだと思った。地下街で、恐れだと悟った。そして今、はっきりと分かった。
罪悪感だったのだ。
舞は微笑んで、首を振った。
「そんなことない。第一将軍をつれてきてくれただけでも充分。大変だったね。ありがとう」
「……いや」
舞の脳裏をちらりと、かん高い少女の喚き声がかすめた。舞は眉根を寄せた。それは自分の声だった。自分が怒鳴った声だった。どこへ逃げろというの、逃げる場所なんかないじゃないか――
と、
「やっと話せてよかった」
アルガスの声が再び思考を遮った。舞はうなずいて、前を見た。
何かまだ隠してる、と思った。第一将軍と一緒に来て、舞を見たなら、あの場に子どもがいたはずだ。けれどそんな記憶は舞にはない。天幕の中に入らなかったなら、舞の顔を見られたはずがない。
今聞いた謝罪はもちろん本心からだった。第一将軍を呼んで来たという言葉にも嘘はない。そう、すべて本当のことを話している。でも、まだ話していないことがある。なんだろう? この期に及んで、舞に話したくないことなどあるだろうか。ちらちらと脳をさまざまな会話の断片が明滅した。あんたくらいの時にはひとりで歩いてた、心配するこたねえよ――彼は僕の友人なので――ムーサを通さずに、世界を見たいと思ってね――すぐそばにムーサにへばり付かれた状態で、どうやってアルガスを見つけだしたのだろう――でも間違いじゃなかったんだ、よかった。あなたは、ローラ姫が――マーセラの神官に任せた。取るに足らないと思ったんだろう――
それだ、と舞は思った。
アルガスは弟子を取らなかったヴィード=グウェリンが、ただひとりだけ見いだして育てた子どもだった。九歳からの五年間、毎日みっちり剣技をたたき込まれていたはずだ。クレインもムーサもそれを知らなかったのだろうか。神官などに任せて放っておけるような存在に見えたのだろうか。いくら七年前でも。
――七年前だ、あなたも小さかっただろう。
――三年でこんなに大きくなるかよ。
――あちらが今俺を見てそうとわかるかどうかは疑問だ。
『お腹がすいた』
唐突にシルヴィアの声が割り込んだ。舞は瞬きをした。シルヴィアの黒い静かな瞳が舞を覗き込んでいる。シルヴィアは首を傾げて、恥ずかしそうに言った。
『ごめんなさい、でもお腹がすいたの。恥ずかしいわ、私ったら』
「あ……そう? じゃあ」
「チーズでもどうですか」
言ったアルガスの声には、かすかな感謝が感じられた。舞は背嚢を取り出して、しかめかけた顔を隠した。
「それはあなたの血を作るんでしょう。心配しなくても食料はたっぷり持って来た。さっきの朝食の残りでいいかな?」
『もちろんだわ。ごめんなさいね、最近我慢が……我慢するのをやめたの。言いたいことは口にしないと』
「いい心掛けだね。はい、どうぞ」
『ありがとう』
シルヴィアは上品に食べ物をついばんだ。その様子を見ながら、舞は考えるのをやめた。今はアイオリーナ姫のことを考えなければならない。それからビアンカとニーナのことも。
アルガスは少なくとも嘘はついていない、舞の顔を知っていたことも筋は通っていた、一応は。もう警戒が必要な相手ではないことはとっくの昔に分かっている。
だからとりあえずは満足することにした。
ただ、悲しかった。すべてを話してもらえないことが。
自分でも――意外なほどに。




