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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ
74/251

エスメラルダ(20)


     *




 ウルスラが走り出した。前方に出来つつある人垣に慌てたように駆け寄っていく。ビアンカも後を追いながら、その人垣の中にアルガスとシルヴィアがいるのに気づいた。なあんだ、と少し思った。ニーナを診てもらおうとウルスラをニーナの家に連れて行ったのに、ニーナもデクターもここにいた。これならアルガスたちと一緒に来れば良かった。


 ウルスラが人垣をかき分けて、その中がちらりと見えた。そしてビアンカも走り出した。中央にニーナが倒れていて、デクターがその体を支えている。


 ――始まったのだ。


 心臓がどくんとはねた。


 ――僕は自信がない。どうしていいかさっぱりわからない……


 エルヴェントラが蒼白な顔をして膝をついていた。目は食い入るようにニーナを見ている。その表情を見て、ビアンカは胸を衝かれた。なんて悲痛な顔だろう。


「どいて頂戴。手伝うわ」


 ウルスラが、ニーナの周囲の人間を退けて、デクターの向かいにひざまずいた。デクターが目を開け、ウルスラを見た。ウルスラはしっかりと頷いて見せた。


「それでいいのよ。とっても上手。私も手伝うわ。――安心して。私は何度もしたことがある。失敗は一度もないわ」


 そしてニーナに左手をかざした。

 エルヴェントラが、呻いた。


「頼む……頼む。ニーナを」

「大丈夫。絶対死なないわ。助かるから、今は邪魔しないで。大丈夫よ、なんて綺麗――こんなに綺麗な孵化は初めて見たわ――」


 助かる。


 ウルスラの態度があまりにもきっぱりしていて、何の心配もないのだと、少なくともウルスラはそう思っているのだと、わかって、ビアンカは長く震えるため息をついた。デクターは食い入るようにニーナを見ていた。彼は微動だにしなかった。いったい何をしているのだろうと、考えて、ビアンカは唐突に、壮絶な悲しみを感じた。


 デクターが何をしているのか、あたしには見えない。

 デクターは、ウルスラと同じ生き物なのだ。ニーナも。

 ――あたしとは違う、存在なのだ。


「……ニーナ!」


 悲鳴じみた声が背後で聞こえ、ビアンカは振り返る。旅支度を調えた姫が、化粧を落として、髪もほどいて、ちゃんと靴も履いて、走ってきていた。誰かから知らされたのだろう、頬が真っ青だ。ビアンカは姫を抱き留めた。


「大丈夫だって。ニーナは助かるって。ウルスラは何度もやったことがあるんだって。これで本当に治るのよ、姫。デクターの治療もいらなくなる。ニーナは大丈夫、だって、ウルスラが」

「……ビアンカ」


 姫は一瞬、ひどく思い詰めた目をした。その目を見下ろして、ビアンカは微笑んだ。


「あたしがここにいる。大丈夫よ。あたしがちゃんと見てる。あなたは行くところがあるんでしょう。行ってらっしゃい、姫。ニーナは大丈夫。絶対大丈夫。みんながついてるから、大丈夫よ」


「……」


「時間がないのよね? 行かなきゃいけないんでしょう? アンヌ様のところへ行くのね。孵化はね、かなり時間がかかるそうなの。デクターは五日ほど寝たきりだったって言ってたわ。そんなに待っていられないでしょう? あなたにはやることがあるんでしょう? ここにいたって出来ることないわ、だから、行っておいで。待ってるから。あたしがここで、ちゃんと見ててあげるから」


「……」


 姫はビアンカの手を握った。その手は震えていた。その手を握り返して、ビアンカは晴れやかに微笑んで見せた。


「行ってらっしゃい」

「……ありがとう。ありがとう。お願いします。……行ってきます」


 唇を噛みしめて、姫の冷たい手がビアンカの手を放した。彼女は踵を返した。一度も振り返らずに、まっすぐに、走っていく。

 アルガスが足を踏み出した。その背を、エルヴェントラの声が追いかけた。


「アルガス=グウェリン」


 振り返ったその目を見て、エルヴェントラがため息をついた。頬は青いが、その顔には、いつもの表情が戻っていた。


「お前もニーナも彼女を見くびっている。先代が見込んだ娘だぞ。あの子は本当に嫌なら本気で抗う。今朝やったように。私の命じることに従っているんじゃない。自分のしたいようにしているだけだ。護衛が必要なら自分で雇う。自分の身は自分で守る。マスタードラとイーシャットが様々なことを教え込んだ娘だ。だから――ひとりで行くのは彼女の意志だ」


 アルガスの言葉は辛辣だった。


「それが呪いだと、ニーナ姫は言われたのではないですか」

「……全くだな」


 エルヴェントラは唇を歪めた。


「もう止めない。仕方ない。説得できるものならやってみるがいい」

「そうします」


 アルガスは短くいい、姫の後を追いかけた。と、シルヴィアがその肩を離れて、ビアンカのところへやってきた。肩には乗らなかった。ビアンカの目の前に舞い降りて、黒い瞳がビアンカを見上げた。


 ふと。

 ビアンカは、その小さな鴉の姿に、可憐な、とてもとても美しい少女の姿を見た。


 あまりの美しさに絶句した。この世のものとは思えない、本当に天使のような美貌だった。今にも空気に溶けてしまいそうな――この世に存在してはいけないのではないかと思うほどの。


 ――本当に綺麗な人なんだなあ。


 デクターの声が耳に甦った。


 ――肖像画を見たときにはいくらなんでも美化しすぎだろうと思ったけど、僕が甘かった。


 本当だ、とビアンカは思った。

 あたしが甘かった。なんて綺麗な人なんだろう。

 そして――ぞっとした。今まで鴉にしか見えなかったのに。あたしにはデクターのような力は、全然ないそうなのに。

 どうして今、シルヴィアの本当の姿が見えるのだろう。


『私、行くわね、ビアンカ』

「え――」

『もう会えないと思うわ。あなたに会えて本当に嬉しかった。私、あなたが大好きよ、ビアンカ=クロウン――ビアンカ=クロウディア姫。お会いできて幸せよ。あなたの優しいおしゃべりが、本当に本当に、大好きだわ』

「……シルヴィア?」

『アイオリーナに会ったらきっと楽しくおしゃべりができると思うわ。さよなら。良かったら、私のこと、覚えておいてね。ニーナとデクターさんに、どうぞくれぐれもよろしく』


 そしてシルヴィアは、舞い上がった。夕暮れに向かい始めた空を、黒い姿が飛んでいく。


 ――さよなら。


 はっきり、そう言った。

 ビアンカは立ちつくした。

 もう二度と、会えないのだと、はっきり悟った。




      *



 国境に向かう道の真ん中で、エルギンが待っていた。舞ははずむ呼吸を整えて、背の高いエルギンの数歩前で足を止めた。エルギンは鳥籠を持っていた。中には鳩が一羽、入っている。


「出かけるんだ」


 静かな声が聞こえる。


「うん。行ってきます。お金は持ったよ?」


 エルヴェントラにもニーナにも言われたことだ。不安に閉ざされそうになる自分を奮い立たせるための、軽口のつもりだったのだが、エルギンは乗ってこなかった。静かに舞を見つめて、頷いた。


「よろしく。――良かったら」

「うん?」

「マスタードラを連れて行かないか」


 舞はきょとんとした。ニーナが心配で心臓が押しつぶされそうだったが、その圧力も少し失せるほど驚いた。エルギンがこんなことを言うのは初めてだ。


「どうして? マスタードラはエルギンの護衛でしょ」

「だからだ。僕がここから出なければいいだけの話だ。そうだろ?」

「……駄目だよ、エルギン」


 でもそうすればアルガスとビアンカとシルヴィアは安全になるのかもしれない、と一瞬考えがよぎったが、舞は首を振った。


「昨日みたいなこともあるもの。ガルシアが襲撃を取りやめたってアルベルトが知ったら、また何か仕掛けてくるかもしれないでしょ。マスタードラが承知するわけないよ」

「……でも」


 エルギンは一瞬だけ、ひどく心配そうな顔をした。どうして今更、と舞は思った。今までだって舞はずっと、ひとりで出かけていたのに。


「大丈夫。草原の民の庇護がある。草原の民って国中に散らばってるんだって。だからどこに行っても安全なんだって。すごいでしょう」


 言うと、エルギンは悲しそうな顔をした。舞が一瞬たじろぐほどの、絶望さえ感じさせるほどの、強い強い悲しみが見えた。

 けれどエルギンはすぐにそれを押し殺した。微笑んで、そして、頷いた。


「……わかった。どうか、無事で」

「うん。ありがとう」

「鳩を持って行ってくれ。エスメラルダの鳩だ。なにかあったら手紙を出して」

「……助かります」


 エルギンから籠を受け取ると、鳩がくるくると喉を鳴らした。と、エルギンが動きを止め、舞はエルギンを見上げて、彼が、舞の背後を睨んでいるのを知った。足音が近づいてくる。舞は振り返り、そこに、アルガスの姿を見た。


 アルガスは既に旅装で、剣も持ち、背嚢もちゃんと持っていた。シルヴィアがその肩に乗っていた。舞は愕然として、鳩の籠を取り落としそうになった。寸前で持ち直して、アルガスを見上げた。


「……え。ケガ、は?」


 耳に快い、低い声が答えた。


「もう治った。ウルスラが治してくれた」

「そんな……」


 信じられない。あんなにひどい怪我だったのに。


「神業だった。壮絶に気持ちが良かった。もう傷は跡形もない。どこにでも行ける」

「信じられない……」

「そう? 僕は信じる。経験者だからね」


 エルギンが言い、舞は首を回してエルギンを見た。エルギンは口元に笑みを浮かべていた。先ほどの哀しそうな表情は既にどこにもなかった。舞は思わず鳩の籠を抱きしめた。エルギンが浮かべている微笑みは、昨日、温泉に行く前に、医師の話をしたとき――舞の左手に唇をつけたときに、見せたものと同じだった。


「昨日言っただろう。十年前の医師のことをさ。気持ち良かったかどうかは覚えてないけど」

「そういえばそんなこと言ってたね……でも」

「おかしいな。何でそんなに驚くんだ? 君の故郷には、ひどい怪我を跡形もなく治せる医師なんて、たくさんいるんじゃないのか」

「……え?」


 冗談を言っているのかと、思った。

 でもエルギンの瞳は真剣だった。微笑みももはや消え、睨まれているみたいだと舞は思った。どうして、と思った。どうして睨まれているのだろう。

 どうして怒るのだろう。


「そんなの……いなかったよ」

「嘘だ」

「嘘じゃ……ないよ。ガスくらいの傷だとたぶん入院だね。一ヶ月くらい出てこられなかったと思うよ。どうしてあたしの故郷にそんな医師がいると思ったの? あっちには魔法も魔力も契約もないんだよ」


 エルギンは顔をしかめた。


「箒に乗って空を飛ぶ人間は?」

「は? 何それ、魔女? それで宅急便やるんだ」

「何言ってるんだ、君は。これはまじめな話なんだ。まじょって何だよ、箒に乗って空を飛ぶ人間を、知っているのか?」


 いったいこの会話は何なのだろう。時間がないというのに。舞はいぶかしくエルギンを見上げた。


「魔女は箒に乗って空を飛ぶよ。でもお話だよ。実在はしない。あたしの故郷には、そんな人はいなかった。お伽話のなかにはいたけどね。黒い服着て箒に乗って空を飛ぶんだ。……でもごめんねエルギン、話は帰ってからでいいかな。暗くなる前に出かけないと――」


 と、アルガスが言った。


「俺も行く」


 舞はアルガスを見た。旅装だったからまさかと思ったが、本当にそのつもりだなんて。


「何言ってるの? まだ顔色悪いし、寝てた方がいいよ。護衛はいらない。草原の民の庇護があるし」

「護衛に行くんじゃない。カーディス王子に知らせる必要がある」

「や、アンヌ王妃に伝えるんだから、もちろんカーディス王子にも伝えるけど……」

「こっちは一刻を争うんだ。あなたが自力でたどり着くのを待ってるより自分で行く方が速いに決まってる。だが王妃の方へはあなたが行かねばならないんだろう、だから、ついでに連れて行ってやろうと言っているんだ」

「な」舞は口をぽかんと開けた。「……なんですと?」


 アルガスは腕組みをして、首を傾げた。危ぶむように。シルヴィアが肩の上で、やはり首を傾げた。それはとても良く似た動きだった。


「アナカルディアまでひとりで行けるのか? 一本道じゃないぞ。迷ってラインディアにでも行くのが落ちだ」

『そうよねえ。私もそう思うわ』

「……し、失礼だなふたりとも!」

「運よく何かの僥倖が起こって王宮にたどり着いたとしても、どうやって入るつもりだ?」

「――なんとかする。こないだの地下道も覚えてるし」


 アルガスはまじまじと舞を見た。地下道をか、ひとりで行けるわけがない、あなたもそう思うだろう、そう雄弁に灰色の瞳が語っていて、舞は悔しさに顔を歪めた。もちろんだ。あの地下道をひとりで迷わずに通るなんて無理に決まっている。だがアルガスはそうは言わず、頷いた。


「確かに何とかするんだろう」


 ……よけいに悔しい。


「だが時間がかかる。一刻を争うんじゃないのか。俺は一人でもいつでも入れる。抜け道も他にもいくつか知っているし、そもそも通行証を持っている」

「……おおお」

「連れて行ってやる、と言っている。残念だが護衛ができるほど体力がない。まだ。だから護衛じゃなくて案内人だ。もちろん金は取る。あなたは気前のいい雇い主だそうだな。案内人の相場は知ってるか? 本当なら玉三個というところだが、俺も行くついでだから、板一枚にまけといてやる」

「すごい値下げっぷりだね……」

「雇わないなら仕方ないな。先に行くぞ」


 灰色の目がすがめられて、舞は、


「――ふ、」


 思わず笑った。地下街で、シルヴィアを取り戻してくれた時、あの店主に作り話を並べ立てた時と同じ口調だった。なるほど、流れ者はこうやるのか、と思った。参考になった。いつか使ってみよう、と思う。

 シルヴィアが羽ばたいて、舞の肩に移ってきた。その軽さを懐かしく思いながら、舞は頷いた。もう、こう言うしかなかった。


「わかった。じゃああなたを雇うよ、アルガス=グウェリン。前払い? 今棒しか持ってないんだけど」

「くずれてからで構わない」

「シルヴィアは――」

『私も行くわよ。足手まといにはならないわ。私の方はただで結構よ?』

「あは、そう? 遠慮しなくていいのに。じゃあお願いします。国境で馬を借りよう。……エルギン、それじゃ、行って来るね」


 エルギンは、静かな瞳で舞を見ていた。微笑んで、手を振った。


「腕のいい案内人が見つかってよかったな。気をつけて、姫。待ってるから」

「うん。行ってきます」


 そして舞は、シルヴィアを肩に乗せて、鳩の籠も持って、エルギンの隣を通って歩きだした。ニーナのこと、アンヌ王妃のこと、マスタードラとスヴェンのこと、エスメラルダにできつつあるという【壁】のこと、ヒリエッタのこと――さまざまなことが頭の中をぐるぐる回り始めていたので、後ろをついて来るアルガスと、ここに残るエルギンが、すれ違う時に一言ずつ言葉を交わし合ったことには気づいても、内容までは分からなかった。


 アルガスが動けるようになったのはいいことだ、と歩きながら考えた。シルヴィアもついて来てくれる。だから、問題はニーナとデクターとビアンカだ。


 ニーナの孵化は大丈夫だと言われた。ウルスラは本当に信じられないほど、まるでお伽話のような腕の持ち主だったから、ニーナもきっと治してくれる。アルガスの回復を見た今なら、そう信じられる気がする。でもビアンカは。孵化は五日かかると言っていた、その間ニーナもデクターもウルスラも動けないとしたら、ビアンカはひとりだ。大丈夫だろうか。デリクに頼んでおいた方がいいのだろうか、でも――


 アルガスが追いついてきた。舞は、彼の担いでいる重そうな背嚢に手を伸ばした。ケガは癒えたというが、本当に治ったとは言えないようだ――だって顔色が良くない。貧血気味なのではないだろうか。


「重いでしょう」

「……助かる」


 素直に言われたので、背嚢を縮めた。ぽん、という音を立てて大きさが縮む。思えばこれも、知らない人から見れば神業みたいなものだと、思い至って、舞は少し微笑んだ。こういうことができる世界なのだ、あんなケガも半日で治っても、不思議ではないのかもしれない、と。

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