エスメラルダ(18)
*
執務室に戻ると、部屋にいた人数が減っていた。捕虜になっていた者たちは一度返されたらしく、部屋にはガルシアとエルヴェントラとエルギンと、壁際に控えるマスタードラしかいなかった。長椅子の三人は額をつきあわせるようにして、机の上を見つめているようだった。舞が入っていくと、ガルシアが顔を上げて微笑んだ。
『お手数をおかけして申し訳ない』
「いえ、とんでもありません。……遅くなりました。ガルシアさん、アルガスが、昨日の勇士が、剣をありがとうと」
『そうか。これで肩の荷がひとつおりた』
「ここに座ってくれ。今重要な話を聞いていた」
エルヴェントラは静かに言って、自分の場所に舞を招き、自分はガルシアの隣へ移って、再び机の上をのぞき込んだ。そこにはエスメラルダの地図が置かれていた。大きな、詳細なものだ。
「話を戻す。ガルシア殿の一族は、五年前までかなり遠くの場所に住んでおられた。本当に遠くだ、言葉も通じぬほど」
『そう。そこはここのように、我らが信奉する神の勢力地だった』
ガルシアが言って、脇にどけられていた、もう一枚の地図を取り出した。それはひどく薄汚れて、ぼろぼろで、だいぶ古いもののようだった。
舞は地図をよくよく見て、首をかしげた。それは半島ではなかったが、周囲を森に囲まれていて、集落は全体的に丸く、真水も豊富だった。そして偉大な神の勢力地だという。
エスメラルダによく似ている。
『これが我らの故郷だ。今はもうない。二度と戻れない。大いなる災いが故郷を襲い、【壁】の中に閉じこめた』
「閉じこめた……故郷を?」
訊ねると、ガルシアは頷いた。
『五年の間に我が乳兄弟が様々な情報を集め、どういったことが起こったのか調べた。だいたい真相を掴んだように思う。それは次元の壁だ。次元というか、空間というか。ここでも有名な話らしいな、空間に歪みが増えすぎるとそれが寄り集まり、嵐のように襲うことがあるということは』
「ええ」
この世界にはよく起こる現象だと聞いていた。だから【最初の娘】は巡幸をやめることができない。【最初の娘】が巡幸を続ける限り、空間の歪みは退けていられるからだ。
『我らが神は巡幸をせよとは教えなかった。我々は祝福された土地に住んではいたが、空間に歪みが起こるなどとは露知らず、歪みを払う努力など一度もしたことがない。それどころか――』
ガルシアは言いにくそうに言葉を切り、
『――それで【壁】ができたのだ。本来なら歪みがうねりとなって襲い来るところを、祝福された神の土地、という場所であったため、うねりは動きを止め、【壁】となった。上手く言えぬのだが、わかるだろうか。うねりは動きを止め、【壁】となり、我らが故郷を取り囲んだ。生き物はすべて逃げ出した。人間、我らの一族だけは危機を悟るのが遅れた。危うく【壁】の中に閉じこめられるところだったのだ。先ほどあなたの同郷が我らを救ったと話しただろう。彼らが来なければ、本当に閉じこめられていただろう。
【壁】が閉じ始めるとどうなるか。急速に冷える。夏のはずが真冬よりもまだ寒かった。花や草も枯れる間もなく凍り付いた。木々も真っ白くなってな。恐ろしい経験だった。我らは愚かで、祝福された土地にしがみつこうとしていた』
「ガルシア殿は、エスメラルダに【壁】が出来始めていると言われるのだ」
エルヴェントラは静かな、静かな口調で言った。そしてエスメラルダの北東、森の奥の奥、山脈になりかけている辺りを指さした。
「この辺りだ。ガルシア殿はその【壁】を通ってこの地に入ったと」
「……通れないから【壁】というんじゃないの?」
「そこがややこしいところだ」
ガルシアは体を起こして、舞をじっと見た。
『空間の歪みは、非常に複雑だ。歪みというのは、詰まるところ【穴】なのだ。出入り口だ。だが、行き先は誰にもわからん。魔物の棲む世界に通じることもある――だから魔物は歪みを通ってくるわけだ。水の中に通じることもあるし、真っ暗な何もない極寒の闇に通じることもあるとか。地上から遙かに離れた上空に飛び出ることもある。でたら真っ逆さまに落ちるしかない。通って見ぬことには行く先を知る方法はないのだ。だから普通ならば【壁】は通れぬ。通ったら全く別の場所に行かされ、そこで即死する危険が多すぎる』
「……難しいですね」
『我々は昨日まで、ここから北東にいたのだ。アナカルシスのさらに北東だ。そこで【草原の民】と名乗る人々に会って、しばらく過ごしていた。初めは言葉は通じなかったが、荒々しいが親切な者たちで、半年ほどいる間に意思の疎通も何とか出来るようになった。
我々は永住できる場所を探している。アナカルシスは歪みが驚くほどに少なく――それは巡幸というもののおかげなのだそうだな? 永住には適しているように思えたが、さて、空いている場所がなくてな。【草原の民】に間借りし続けるのも申し訳ないと思っていた頃、そこへある男が来たのだ。十日ほど前だ。金色の髪で、女性かと思うほどの美貌だった』
「クレイン=アルベルトだと私は思った」
エルヴェントラが言い、舞も頷いた。
「あたしもそう思う」
けれど、十日前、といえば。
舞が、王妃宮にいた頃だ。
『男は【穴】を示した。この【穴】を通って出た先に格好の住処があるとな。先住民はいるが、野蛮で蒙昧で、この平和な国の安定を乱す蛮族だから、滅ぼしても誰も困らぬし、むしろ王は感謝しようと言った。ちょうど馬が多数手に入ったところでもあり、使いたいならば使うがよい、とも。【穴】の出口をなぜあの男が知っていたのか、それはわからぬ』
舞は、額に手を当てた。何か、また、頭をよぎった。
「魔物は……」
ガルシアが、急に声音の変わった舞に驚いたように顔を上げた。何か言おうとしたが、それはエルギンが止めた。舞は脳に浮かびかけたことを掴むように、呟いた。
「【穴】を操ることが出来るってこと……?」
「クレインはいろいろな場所に現れたって言ったね」
エルギンが誘うように言う。舞は、
「……でもおかしい、よね。あれ、おかしくない? 【穴】を準備するのに時間がかかるってだけ? でも……」
「あけるのに必要なものがあるのかも?」
「そうかも……ああ……なんか今思いついたんだけどな……」
舞はしばらく待った。他の三人もだ。でも、結局浮かんでこなかった。舞はため息をついて、頭の中の引き出しに印を付けてしまっておくことにした。もう少し眠って、頭もすっきりさせて、それからまた考えてみよう、と思う。
「ごめんなさい。中断させて。それで、あなた方が急に森の中に出てこられた理由もわかりました。十日前……それから昨日までは、どこで、何をなさっていたんです?」
『民の大多数はまだ北東にいた。男が連絡してくるのを待っていた。一番いい刻を計るからと言われてな。こちらとしても出立の準備もあったし、【穴】が本当にきちんとした場所に通じているのかどうか、調べる必要もあったしな』
「その【穴】はまだ残っているのですか?」
舞の問いに、答えたのはエルヴェントラだった。
「すぐに調査に向かう。閉じねばなるまいが、問題は【壁】だ。【壁】は簡単に消せるものではないらしい。ガルシア殿は、銀狼さえもがその土地を捨てて行ったと言われた」
「銀狼さえも諦めて捨てていくほどの、強い歪み……」
『それがどうも、有力な神の勢力地の、役目ではないかと思われる節があるのだ』
ガルシアが静かに言った。
『消すことが出来ぬほどの強い歪み。それを放っておいては周囲に多大な被害をもたらすな。だから、祝福の地だとか、清浄で高貴な土地が、その歪みを周囲に集め、害をなさぬように固定するのではないか。五年の間に調べた限りでも、ここ百年ほどの間に、そうして地図から消えた場所がいくつかあったのだ。この辺りには歪みが少ないが、先ほどの話では、十六年前にここで、そして七年前に少し離れた場所で、大きな戦役があったとか。流血が歪みに一番良くない。魔物を引きつけるし、人々の恨みや悲しみが空間に歪みを創り出す。この辺りに強い歪みが増え始め、それを払うことが出来なければ、どこか清浄な地が、歪みを自分の周りに集め始めるだろう。他の場所を救うために』
「それが……ここだと?」
エルヴェントラが沈鬱な顔をしている理由がわかった。ここが、と舞は、地図に目を落とした。
『世界は冷酷だ。自らを生かすために一部の土地を切り捨てる。急に冷え始めたら気をつけろ。ご忠告を申し上げる。土地にしがみつくのは愚かなことだ。神の勢力地となればご神体もあろうな。おそらく動かせるものではないだろう。だから捨てるのは反対も多かろう、あなた方にとってもつらい決断となるだろう。だがしがみついても取る術はない。閉じこめられて凍え死ぬだけだ』
「……肝に銘じます」
エルヴェントラが重々しくいい、ため息をついた。舞はガルシアを見つめた。
「よく、【穴】をくぐられましたね」
『私には一族の者に土地を見つける義務があるのだ』
ガルシアはこともなげに言って、舞に優しい視線を向けた。
『だから初めにくぐった。まあ勝算もあったぞ。あの男はうさんくさい男ではあったが、見事な馬を何百頭も並べて見せた。あれほどの馬をむざむざ捨てる意味がないしな。おそらく行った先の集落を襲って欲しいというのは本心だろうと踏んだ』
それでは初めから、クレインの、エスメラルダが蛮族の集まりであるという情報は、疑っていたと言うことなのだろう。だからアルガスの振る舞いを見ただけで、襲撃を取りやめたのだろう。舞はガルシアを見つめて、長々とため息をついた。
「……本当に、あなたのような方が長で、助かりました」
ガルシアは嬉しそうに笑った。
『光栄だ、エスティエルティナ』
*
椅子から転げ落ちそうになって、危ういところで目を覚ました。
よだれがこぼれそうになり、ビアンカはあわてて手の甲で口を拭いた。無理な体勢だったのに、すっかり熟睡してしまった。デクターは目の前の長椅子で、やはりぐっすり眠り込んでいる。
ニーナはまだだろうか。そう思って、ビアンカは毛布をはずして立ち上がった。廊下を覗くと、玄関に、ニーナが立っていた。真っ青な顔をして、立ちつくしている。眠気が一気に吹っ飛んだ。ビアンカは廊下を走って、ニーナに飛びついた。
「ニーナ!」
「……」
ニーナは瞬きをして、我に返ったようにビアンカを見た。血の気の失せた唇から、言葉がこぼれた。
「……ビアンカ。どうしたの」
「それはこっちの台詞よ! どうしたの、真っ青じゃないの!」
「……そう?」
ニーナは呟き、額に手を当てた。そして、よっこらしょ、と言いたげに家に上がった。若草色の紋章に覆われた手は血の気を失って真っ白で、ひどく冷たかった。ビアンカはニーナをまず、ニーナと姫の部屋に連れて行った。寝台に座らせて、その顔をのぞき込んだ。
「どうしたの。具合が悪いのね?」
――ニーナは病がぶり返す。
デクターの低い声が耳に甦ってぞっとした。
エスメラルダに着いたばかりの頃、ニーナは本当に死にかけていた。あの時のニーナに戻ってしまったようで、本当に心臓が冷たくなる。
「デクターを起こしてくる。ちょっと待っていて。いい?」
「……話をしないと」
ニーナがうわごとのように言って、ビアンカはわざと乱暴にニーナの腕を掴んだ。
「後でいい。いい、後で絶対聞くわ。今はここで待っていて。すぐ来るわよ」
そしてデクターを呼びにいった。デクターはすぐに跳ね起きて、まっしぐらにニーナの部屋に駆け込んだ。すぐに左手をかざして、真剣な面持ちで、ニーナを覗き込んだ。落ち着いた、低い声が聞こえる。
「ニーナ。聞こえるか。ニーナ?」
「……聞こえるわ、デクター」
「よし。寝台に寝るんだ。少し眠った方がいい。大丈夫、まだ先だ。俺が鎮めてやるから、今はゆっくり眠るんだ」
「……呼ばれてる。叫んでる。出せ、出せ、出せ、って……うるさいわ……なんて悲痛な声なのかしら……」
ニーナは呻いた。デクターに支えられて寝台に横たわった。ビアンカはニーナにそっと布団を掛けた。デクターの左手がニーナの額にかざされて、ニーナはすぐに目を閉じた。
「大丈夫。ニーナはまだ大丈夫だ。大丈夫だよ、ビアンカ」
デクターが囁く。それは自分に言い聞かせているように聞こえる。ビアンカは頷いた。大丈夫だとわかっている、とデクターに伝えるために。自分は何の不安も抱いていないと、デクターならちゃんと出来ると信じていると、デクターに思わせるために。
「ええ、大丈夫よね。マーシャを呼んだ方がいい? あたし、行ってくる。そして、交代して、アルガスのそばについてる。だから安心して、デクター。あたしとアルガスのことは心配しなくて平気よ」
「……ありがとう。ビアンカ、」
「なあに?」
「もう一度言ってくれないか」
静かな、静かなデクターの声に、ビアンカは、
微笑んで見せた。しっかりと。何の心配も抱いていない、晴れやかな顔で。
「大丈夫よ、デクター。ニーナは絶対大丈夫」
「……ありがとう」
デクターが微笑む。ビアンカも笑みを返して、マーシャを呼びに急いだ。
*
執務室の長椅子は寝心地が悪かった。弾力がありすぎて、体が浮いてしまう。寝返りをした瞬間に、舞は盛大に転げ落ちた。だん、と全身に衝撃が走って、うつぶせに倒れて彼女は呻いた。
痛い。
「……おやおや」
呆れたようなエルギンの声がして、舞はよろよろと身を起こした。恐ろしく眠かった。エルヴェントラからここにいろと厳命されたからまだ止まっているが、正直なところどうしてここにいなければならないのかわからなかった。家に帰って体を伸ばして寝たかった。髪もほどきたかったし、化粧も落としたかったし、正装も脱ぎたかった。そのどれもままならないという事実に、唐突に憤りを覚えた。
「……眠い」
低く毒づくとエルギンの声がまた聞こえた。
「寝ればいいだろう。それにしても、今は眠れるんだ。長椅子から転げ落ちるほど。君って人は、本当にひどい人だな」
それで少し目が覚めた。ひどい、どうして? と思って、そしてエルギンが同じ部屋にいたことに、今更ながらに驚いた。くっつきそうになる目を何とかこじ開けて部屋を見回すと、向かいの長椅子にエルギンが寝そべっている。
「……あれ、ガルシアさんは。エルヴェントラは? マスタードラは?」
「マスタードラは家に返した。ふたりは揃って【壁】を見に行ったよ。君は四半刻くらいしかまだ寝てない。僕には素養がないから見えないだろうし、つまらないだろうから戻ってきた。家に帰ろうかと思ったんだけど、君のご機嫌をうかがってからと思ってさ。そしたらよく寝てたから」
――だから?
舞はまだぼんやりしたまま、少し続きを待った。舞が寝てたから、向かいの長椅子に自分も寝そべった? 変なの、と思った。それなら家に戻ればいいのに。
自分のすぐわきに、毛布が落ちていた。たぶんエルギンがかけてくれたのだろう。舞は無意識のうちに頭を触って、結った髪をほどこうとした。これがごろごろして寝心地が悪いのだ、たぶん。ところがエルギンが声を上げた。
「何で取るんだよ」
「寝心地が悪いから」
「取らないでくれよ。もったいないな」
「もったいない……?」
「グウェリンはなんて言ってた? ウルスラを連れて行ったとき」
舞は呻いた。ほどくのは諦めたが、眠るのは諦められなかった。長椅子に再びよじ登った。毛布にくるまって、長椅子の上に丸くなる。
そして白状した。
「別に何も」
「何も?」
「変な顔してじろじろ見られた。変だと思ったんでしょ……」
さんざんだ。眠いからか、腹が立ってきた。アルガスもガルテもデリクもひどい。似合わないのはわかっている、したくてしたわけじゃないのに。もう二度とお化粧なんかするものか。
目を閉じた。さらに長いため息をついた。本当に眠かった。脳がぐずぐずに溶け出しそうだ。
それなのに、エルギンがまた邪魔をした。
「温泉でさ」
「んー?」
「いろいろ話をしたよ。彼と」
「……へえ」
舞はうずくまった体勢で両手だけを出して、ぺちぺちと顔を叩いた。そういえば、エルギンに言いたいことがあったのだ。マスタードラとスヴェンが、アルガスとシルヴィアとビアンカに何かしようとしていた、部下をもっとちゃんと統率しておいて欲しいものだと、言おうとして、やめた。
マスタードラがあんな顔をするのだ。よほどのことだったのだろう。
それにエルギンは外で二人を捜していた。二人が何をしようとしていたのか、知らなかったに違いない。今も知らないだろう。
アルガスとビアンカを、ルファルファの庇護下に入ったと大勢の住民に見せたのだし、スヴェンとマスタードラだってエルギンに隠れて何かをしようとはもうしないだろう。エルギンを哀しませるのは嫌だった。それに何より今は、眠くてたまらなかった。近々言わなければならないが、今は無理だ。舞はため息をつき、他に何か言わなければならないような気がして、ぼやけた頭の中から話題をひねり出した。
「温泉、楽しかった?」
「んー、まあまあかな。興味深い話も聞けたしさ」
「へえ」
どんな話をしたのだろう。聞きたかったが、目を閉じると、眠りが舞を引き寄せようとした。意識が薄れる。話はもういいから少し眠らせて欲しい、と思ったが、またエルギンが引き戻した。
「姫、王妃宮で魔物に生気を吸われたんだってね」
「……した話って、」眠くて声がかすれたので咳払いをした。「そういう話なの?」
「うん、それだけじゃないけどさ。どうしてエルヴェントラと僕に報告しなかったんだよ、そんな大事なことを」
「言ったよ。……言ったよね?」
「王妃宮の地下牢で魔物に会った、って言っただけだろ。生気を吸われたとまでは聞いてないな」
「……そうだっけ。そうだったかな」
「そうだったよ。本当に君は暢気なんだな。殺されるところだったって言うじゃないか」
「でも大丈夫だったし……」
「グウェリンが助けたからだろ。魔物を撃退できるなんてすごいもんだな」
「……撃退……そうだね……諦めて逃げた……」
ちかり、と再びあの手がかりが脳にひらめいた。舞は眠りに半分沈みかけた頭で、その手がかりをじっと見つめた。魔物は【穴】を操ることが出来るのかもしれない、だからいろいろな場所に現れることが出来るのかもしれない、でも――
――まだ時間がある。
時間って、何だろう。
エルギンは普段なら、舞が考えに沈んだら放っておいたり、助け船を出したりしてくれるのに、今は舞の様子に気づかなかったようだった。呟く声は低く、詰問しているかのように響いた。
「魔物はどうして君を狙うんだろうな?」
邪魔をされて舞は顔をしかめたが、エルギンは続けた。
「王妃宮までどうしてわざわざ連れに来たんだろうな?」
舞はため息をついて、そちらに話を合わせることにした。
「ティファ・ルダの生き残りだから……じゃないかな」
「それならビアンカだって連れて行ったっていいはずだろう。【アスタ】で気絶させて、首筋にあざをつけて、花束持たせて枯らす、そんな手間をかけるくらいなら連れ去った方が簡単なのに」
「そう……だね。あたしのことは、最高の調味料だって……」
「調味料って何だよ、塩か? 胡椒か? 砂糖なのか君は」
エルギンの声が脳を素通りした。舞は息を詰めて、記憶を探った。
――どれだけあなたを手に入れたかったか、わかりますか。
――【アスタ】で貴女を手に出来なかったことをどんなに悔しく思ったか。夜にも一度……その後もビアンカ姫でおびき寄せて……
「夜にも一度って、いつ?」
「は?」
エルギンが言葉を止めた。舞は体を起こして、虚空を睨んだ。ちかちかと、ようやくのことで、手がかりが明滅を始めた。舞はそれを見つめ、思い浮かんだことを口に出す。
「エルギン。エルギンみたいな立場の人が、夜に森の中で女性とお楽しみの最中に」
「はあ!?」
「誰かが迷ってその現場に踏み込もうとしてるのに気づいたら、あなたはどうする?」
「なんだよそれ……お楽しみ? 君からそんな単語を聞くとは恐れ入ったな。お楽しみってどの段階?」
「段階?」舞はエルギンを見た。「段階があるの?」
「そりゃあるだろう。なんてボケなんだ君は。この朴念仁」
「何で罵倒されてるんだろう……」
「うん、でも」
エルギンは罵倒して少し気が済んだらしく、考える気になったようだ。
「夜の森でってことは、人目を忍んで、ってことだよな。誰かが迷って踏み込もうとしてるのに気づいたら、そりゃ、中断して追い払いに出て行くかな。踏み込まれるよりはマシだもんな」
「……自分で?」
「そりゃそうだろう。女性に行かせるわけにいかないもの」
舞は立ち上がった。毛布を脱ぎ捨てて、エルギンを睨んだ。エルギンでも。エルギンのような立場の人でも、女性に行かせるわけにいかない――
「それってみんなそう? みんな普通そう!? それが常識!? あああ、シルヴィア! シルヴィアー!」
悲鳴を上げて、舞は走った。空気は冷たいが日差しの暖かな冬の午後に、窓から飛び出して、一目散に走っていった。ウルスラを連れて行ったときにはアルガスと一緒にいたはずだ。自分が裸足だと気づく余裕もなかった。あっという間にアルガスのいる家にたどり着くと、玄関に駆け込む時間も惜しく、舞は窓から飛び込んだ。
「シルヴィア! 落ち着いて!」




