エスメラルダ(16)
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デクターと一緒に外に出ると、角を曲がった辺りでニーナが待っていた。ミネアはエルヴェントラと手をつないでだいぶ先を歩いている。ニーナはビアンカをじっと見て、
「時間があんまりないわ。でもまさか、あなたがいても遠慮しなかったってこと? あのマスタードラが? スヴェンだけならまだわかるけれど」
「マスタードラはあたしを外に出そうとしたの。ニーナが呼んでるって言ってた。でもその前にスヴェンが来て」
「……申し訳なかったわ」
ニーナはビアンカの手をつかんだ。
「あたしが甘かった。本当に申し訳ないわ」
「ううん、気にしないで。姫が来てくれたからなんともなかったの。でも、ねえ、姫にだけは言うなって言ったわ、協定がどうとかって。どういうことなの? アルガスが丸め込んでたけど、でも姫は信じてないわよ。あたし黙っているの、厭なのよ。あの人には【アスタ】で借りがあるの。ヒリエッタに道案内を頼んでまで、あたしに知らせに来てくれた。それに、あの人には知る権利があると思う。知るのは辛いことなのかもしれないけれど、知らないまま事態が進むのはもっと残酷だわ」
ニーナはビアンカをしばらく見つめた。デクターは黙ってふたりの会話を聞いている。ニーナは、そして悲しげな顔をした。
「……後で話す。そうね、あなたまで協定に巻き込むことは出来ないわ……。でもお願い、今だけ。ガルシアが来て、エルヴェントラが会合に行ったら、ミネアを家に送ってすぐ戻る。そしてあなたに全部話す。その上で判断して欲しい。だから今だけ、舞には黙ってて。お願い」
「……いいわ」
うなずくと、ニーナは心底ホッとした、という顔をした。デクターはそこで初めて口を出した。
「それって僕も聞いていいのかな。姫に庇護を宣言した手前、不穏な事態なら聞いておきたいんだけど」
「いいわ。アルガスにも聞いてもらう……どうしよう。聞かせない方がいいのかな。ああ、もう、わかんない。デクター、あなたはアルガスを良く知ってるでしょう、だからまずあなたに話して、その上でアルガスにも知っておいてもらった方がいいかどうか判断してもらえる? 混乱して来たわ」
「まあいいよ。あいつはどうせしばらく眠らないといけないんだから」
「ごめんなさいね、こんな事態になっちゃって。エスメラルダは本当に平和なの、不穏なのは舞の周りだけ。ビアンカ、本当にごめんなさい。でも心強いわ。あたし今までずっとひとり……この件に関しては、ほとんどひとりだったのよ、五年近くも! じゃああたしの家で待ってて。デクター、寝てないんでしょう。寝台使ってもかまわないわよ。ビアンカ、【アスタ】の方が気になるでしょうけど、ひとりで動いちゃダメよ。あんなことがあった後だから、ヘスタ、だっけ? あの人も許してくれるわよ、あなたも家で休んでて頂戴。じゃ――」
「かーさま――!」
曲がり角でミネアが呼び、ニーナはミネアに向けて手を振った。そして、
「ごめん、行くわね。じゃ、また後で」
慌ただしく走って行った。デクターはニーナを見送って、やや不安そうな顔をした。それからビアンカを見た。ビアンカとデクターの視点は同じくらいの高さにある。
「さて、僕が君達を置いて行ってから、あの家で何があったのか、きりきり白状してもらおうか」
「聞いてもらえるなら嬉しいわ。ニーナの家に行きましょう。あたし誰かに話したくてむずむずしてるの。こんなひどい話ったらないわ」
ニーナの家につくまでに、話はすっかり済んだ。
デクターは黙ったまま最後まで聞いた。聞き終えた時には目が吊り上がっていた。ビアンカは、考えに沈むデクターの横顔をじっと見た。徹夜のせいだろう、目が血走っていた。頬も青白い。
エスメラルダに来てからはずっと、デクターは手も喉元も見せている。そこに絡み付く紋章はニーナのものとそっくりだ。その紋章がかすかに輝き出しているのにビアンカは気づいた。そして見とれた。何てきれいな紋章だろう。
【アスタ】には【契約の民】が大勢いた。契約の紋章には見慣れている。けれど、ニーナとデクターのものは、ほかの【契約の民】のものとはかなり違うような気がした――見た目は変わらないはずなのに。
「……何てこった。厄介な姫君だな」
しばらく経って、ニーナの家に上がり込んで、居間の長椅子に身を投げ出して、デクターはようやく言った。ビアンカは厨房を覗いて来ようかと思っていたが、聞きとがめて振り返った。
「厄介なって、誰が?」
「姫がだ。あの子はどうもわからない」
「あの人は悪くないでしょう。悪いのはエルギンよ」
「それはそうだ。もちろん。悪いとは言ってない。厄介なって、言っただけだ」
デクターは長々とため息をついた。ビアンカは長椅子の前に椅子を移動させて座った。
デクターは仰向けに寝転んで、天井を睨んだ。
「厄介なというか、ややこしいというか。ティファ・ルダの生き残りで、【最後の娘】で、エルギン王子の思い人で、その上月がひとつしかない場所から来たって? ひとつでも厄介なのに、なんでここまで。てんこ盛りもいいとこだ」
「……月が、何ですって?」
「ビアンカ、僕、腹が減った」
目を閉じて、デクターは呟いた。
「徹夜で魔力を使ったからぺこぺこなんだ。へとへとだし。ちょっと寝たいし。マーシャの朝食、まだ残ってるかい?」
「ないけど……探して来てあげる。待ってて」
厨房でパンとかハムとかを探しだし、ついでにミルクとバターと青菜をいくつか選んでもって行くと、デクターはさっきと変わらない体勢で目を閉じていた。寝ているのかと思ったが、ビアンカが盆をそっと置くとぱちりと目を開いて身を起こした。目の吊り上がり具合は少しマシになっていて、元気も出て来たようだった。パンに手を伸ばしながら、少し明るい声で言った。
「まあニーナを待って、話はそれからだな」
「そうね。少し寝たら? 毛布借りて来てあげる」
「何から何まで申し訳ない。【アスタ】の女王に世話してもらえるなんて光栄だな。身がすくむ思いだよ。……ビアンカ、君はこれからどうするんだ? ここには……少なくともこの集落の周りには、魔物は入り込まないけど、人間の方はあまり君に安全だとは言えないようだ」
「どうするって? あたし、他に行く場所なんてないのよ」
「今日、ガスだけじゃなくてあなたも、ルファルファの娘の庇護に入ったと、ここの住民に見せられたわけだから、まあ滅多なことはしないと思うが……いいかいビアンカ、姫は多分近いうちにまた出掛ける。アンヌ王妃をもう一度説得しに行くはずだ。そしてニーナは……病がぶり返す」
「……何ですって?」
「俺もずっと君についているわけには行かなくなる」
口調が地になったことにビアンカは気づいた。デクターは真剣な目でビアンカを見ている。
「ニーナの孵化が近づいてる。さっき分かった、あれは嵐の前の静寂だ。今度の孵化は激しいだろう。出来るだけ引き伸ばすが……自信がないんだ、いざとなれば俺がやらなきゃならないんだが、どう組み上げていかわからない」
デクターは顔をしかめた。
「巨大な、複雑な装飾のある建物があるとする。それが地震とか、何かの天変地異でばらばらに崩れたとする。俺がしなければならないのは、その建物を再び組み上げることだ。ひとつのかけらも残さず、それもできあがりは今までの建物とは全く違うものになるはずのものを。できあがりの形を俺は知らない。知っていればできる、と思う、でも知らないで、どんな家具があるかもわからないで、きちんと組み上げられるかどうか、本当に自信がない」
そして再び食べ始めた。詰め込むように。
全部口にいれて、もぐもぐ噛んで、飲み込んだ。
「うまく行ったとしても、ニーナは数日起きられない。俺は五日ほど寝たきりだった。うまくいかなかったら永遠に起きない。姫もニーナもいなくなる、エルヴェントラは信用出来ない、ニーナを組むのに失敗したら俺もここにはいられない。ガスも危険だが、君もだ。……今のうちにデリクに別の場所を探してもらった方がいいんじゃないか」
「あたしはここにいるわ」
ビアンカは急いで口を挟んだ。ここまできて今更別の場所になんか行けるわけがない。
「もし姫が出掛けて、ニーナも動けなくなったら、デリクにくっついてるわ。それに大丈夫よ、ニーナは死んだりしないわよ」
「……俺は」
「きっとうまく行くわ。だってあなたは治ったんでしょう? 何だっけ、孵化って、変なものじゃないんでしょう? 自然に逆らうようなものじゃないんでしょう? 女王が呼んでるって言っていたけど、その、女王って、ルファルファ神のことなんでしょう? 世界を創るような女神だもの、ただ闇雲に呼んだりしないんじゃない? 組み上げる方法だっていざとなればきっと分かるわよ。アルガスだってあんなケガなのに目を覚まして、話すことだって出来るようになったんだもの。デクターはそんなすごいことができるんだもの、大丈夫。きっとうまく行くわ」
デクターは疲れたようにビアンカを見ていた。
そして、ややして、微笑んだ。
「ありがとう。あなたは本当にすごいな。……いざとなればわかる、か。そうかもしれないな。考えてみれば一番初めのマヌエルは自力で孵化したはずだし、何も知らずに誰かの手助けをしたはずだしな……」
ビアンカは少しホッとした。優しい人だ、と思った。デクターはビアンカに慰められたフリをしてくれたのだろう。
唐突に悲しくなった。
自分は、デクターと、なんて違うんだろう。デクターの悩みを本当に理解してあげられるとは思えない。デクターと自分は、多分全然違う世界に住んでいるのだ。同じ物を見ても、デクターは多分、ビアンカとは全然違う景色を見ているのだ――
あたしもニーナみたいに、孵化出来ればいいのに。
デクターと同じ場所に、立てればいいのに。
デクターは悲しげに微笑んで、静かに言った。
「ちょっと寝てもいいかな?」
「あ、うん。ごめん。毛布借りてくるわ。あ、あたしの借りてる寝台で寝たら? 長椅子じゃ体が痛くなるわよ」
「気持ちはありがたいけど、ここがいいんだ。君の寝台でぐーすか眠れるほど神経太くないんで」
「……そう? じゃちょっと待ってて」
毛布を取って戻ってくると、デクターはもう眠り込んでいた。ビアンカはその細い体の上に、そっと毛布をかけて、寒くないようにていねいに包み込んだ。
そして自分も毛布を取って来て、椅子の上でひざを抱えた。夢見が悪かったし、いろいろあって疲れていた。少し寝ようと思った。デクターのそばでなら、ぐっすり眠れるような気がして。




