エスメラルダ(15)
戸板の上に座り込んで、アルガスは本当に心底居心地が悪そうだった。ミネアが一緒に乗っているからなおさらかもしれない。ビアンカは戸板に並んで歩いた。すぐ隣には、シルヴィアを肩に乗せた姫がいる。彼女は今更、不快げに顔をしかめていた。
「さっきの」
「……うん」
「いったい何? 温泉で何かあった?」
「あたしにもよくわかんない」
姫はビアンカを見上げた。黒い瞳にはまだあの獰猛な色がかすかに残る。
「……信じられない。本当に申し訳ない。エスメラルダなら安心だからって言ったのに。何であんな……さっぱりわけがわからない……ごめん」
言って、姫は表情を取り繕った。周囲にエスメラルダの住民がいるからだろう。ビアンカは居心地の悪そうなアルガスを見、話を変えることにした。
「……ねえ、庇護って、さらし者にすることなの? なんか遠回りしてるように思えるけど」
「ふふふふ」
姫は、気を取り直して、そして含み笑いをした。
「しょうがないじゃない。自分じゃ歩かせられないし、こうするしかないよね?」
「楽しそうね」
「楽しくない?」
「……ちょっと楽しい」
「やっぱり。あたしも楽しい」
アルガスが無言で睨むのに姫は笑みを投げた。
「申し訳ないとは思ってる。でも夜まで待つわけにもいかなさそうだったし。それにこれはニーナの考えでもあるんだ。勘弁してくれないかな」
「ニーナ姫の? 俺をさらし者にすることが?」
「そう」
姫は頷き、戸板を運ぶ男たちが一斉に笑う。アルガスはますますむすっとし、ミネアがその頭をよしよしと撫でた。
「がんばれがんばれ。もうちょっとのしんぼうだ」
アルガスはがくりと頭を垂れた。
「……恐れ入ります」
それは逆効果だわミネア、とビアンカは思うが、黙っていた。
「ニーナは何かたくらんでる」
低い声で、シルヴィアとビアンカにだけ聞こえる声で姫は言った。
「ガスを英雄に仕立て上げるつもりらしい。まあ嘘はひとつもついていないし、演出を派手にするだけで別に害もないと思うから、いいんじゃない? だから、ルファルファの庇護に入ったことをできるだけみんなに見せた方がいいのかなと思って、人どおりの多いところを選んで歩いてるんだけど」
「……それはいい考えね」
ビアンカが思わず呟くと、姫はビアンカを見上げた。協定っていったい何だろう。その不思議そうな顔を見ながらビアンカは考えた。姫にだけは言わない方がいい。ニーナも同じ考えだ、こっちは破棄したくてうずうずしてる――
そもそもこの人は、ずっとエスメラルダに住み、ずっとエルギンがそばにいるのに、エルギンが何を考えているのか、自分をどう思っているのか、全く気づいていないのだろうか。鈍い。鈍い。鈍すぎる。この朴念仁、と思いながら、話を変えた。仕方なく。
「にしても久し振りね。ホントに忙しくて、大変ねえ。昨日も徹夜だったんだって?」
「んー、ちょっとは寝たよ。でもエルヴェントラの家から出してもらえなかったんだ。アンヌ王妃のこと考えてるんだけどちっとも答えが出なくて、今は情報待ちってところ。もっと早く来るべきだったのに。ごめんなさい」
「……いや。だが、これからあの賊の首領が来るとか?」
アルガスが、わずかに気掛かりそうに姫を見上げた。
「うん、なんだかあたしに会わせたい人がいるんだって。ガルシアさんは別に悪い人じゃなさそうだったよ。それが終わったらさすがに家で寝かせてくれるんじゃないかな――あ、ここです。お願いします」
集落の半分近くを練り歩いた戸板はようやくデクターの借りている家につき、アルガスが心底ホッとした、というように息をついた。エルギンの家に比べると、二間しかない小さな家だ。だが今や居心地は遥かに良かった。マーシャが先に来て寝台を整えており、ニーナもデクターも待っていた。ミネアはニーナを見ると早速抱き着きに行き、ニーナはミネアの肩に手を置きながら一行を迎えた。
「ようこそ、ルファルファの庇護下へ、アルガス=グウェリン。歓迎します。あなたの昨日の働きで、ミネアもエスメラルダも救われました。【最初の娘】の感謝をどうぞお受けください。ケガが治るまでの間だけでも、どうかご遠慮なさらぬよう」
アルガスは姫に口上を返した時より、かなり居心地の悪そうな様子で頭を下げた。さらし者にされたのが尾を引いているのかもしれない。ニーナは天女のような麗しい笑みを見せる。
「お疲れさま、舞。シルヴィア、ビアンカ、どうぞこちらへ」
戸板を運んで来た住民たちがねぎらいの言葉を受けて出ていくまで、ニーナはその態度を崩さなかった。
ルファ・ルダの王女ふたりは本当に綺麗な人たちだ、とビアンカは少しうっとりした。ニーナは特に、生まれついての気品と威厳をたたえていて、服装は簡素なのに、内面からわき出る雰囲気が、彼女をあでやかに彩っていた。ふわふわの茶色い巻き毛が、小さな白い顔、華奢な体の周りで踊っている。ずっと伏せっていたからか、肌は透き通りそうにあくまで白く、頬だけがピンク色に染まっていて、鳶色の瞳がきらきらしていて、輝くばかりの美しさだ。背が高くてほっそりしていて、ドレスが映える体型だ。また首元や手に見える若草色の蔦のような紋章が、貴金属の代わりを果たしている。この人の正装を見てみたいなあ、本当に綺麗だろうなあ、と思う内に、エスメラルダの住民たちが口々に見舞いの言葉と挨拶を投げながら出て行き――ひとり残らず出るや否や、ニーナは表情をガラリと変えた。笑顔が色を変えて、屈託なくさらに輝いた。
「アルガス、こちらはマーシャよ。食事の腕は保証するし、あたしの看護をずっとしててくれたからいろいろ慣れてる。……でも思ったより元気そうね? 良かったわ、本当に。ごめんなさい、舞もあたしも今まで放っておいて。エルギンの家にルファルファの娘が上がり込むのはいろいろと面倒なのよ」
「お気遣いなく」
寝台の上に、枕を背にして楽な姿勢でアルガスが座ると、早速マーシャが湯気の立つ絞った拭布を手渡し、腹の上までふかふかの布団で包み込んで、顔を拭き終わった時を見計らって暖かい飲み物の入った器を渡し、かいがいしく立ち働き始めた。アルガスが遠慮する気分も起こらないようなきっぱりさっぱりとした動きで、ビアンカはしげしげとその動きを見つめた。こういう技能はいつ必要になるか分からない。
と、姫が言った。
「で、さっきのはいったい何?」
顔をかすかにしかめながら椅子を引き寄せて、寝台の右隣に座り込んだ。彼女は今や不快の色を隠す様子もなく、先ほどの獰猛な香りが顔の辺りにただよった。眠たげだったデクターがぱちりと目を開いて、おもしろそうに身を乗り出した。
「さっきのって?」
ニーナが訊ね、姫は顔をしかめた。
「不穏な感じだったんだ。入ったら窓が閉まってて、スヴェンとマスタードラが中にいて。スヴェンひとりならまだしも、マスタードラがなんであんな――」
ビアンカはニーナの表情を見守っていた。ニーナの表情がわずかに変化した。彼女はアルガスを見て、ビアンカを見て、姫に視線を戻した。呼吸を整えたのが分かった。姫はアルガスを見ていてニーナの様子には気づいていない。アルガスは静かに首を振った。
「大したことじゃない。温泉で意見の食い違いがあったんだ」
「意見の食い違い? どれだけ食い違えばああなるわけ? それにスヴェンは行ってないのに?」
「気にしないでくれ。本当に大したことじゃないんだ。剣技のことでちょっと。スヴェンは別の用で来たばかりだったし、無関係だ」
姫は問うようにシルヴィアを見た。シルヴィアは静かにうなずいた。ビアンカも見られた。ビアンカは無邪気を装って首をかしげて見せた。さっきも言ったけど、あたしもよくわからないのだ、でも大したことじゃないと思うよ、と。
姫は信じなかった。アルガスに視線を戻して、一瞬、ひどく悲しげな顔をした。けれどすぐにその陰は消えた。そう、と呟いた声は平静だった。
「そう。ならいいんだ。あたしの師匠が迷惑をかけたんじゃなかったならホントに良かった」
「師匠か。ティファ・ルダのセルデスと、あのマスタードラがあなたを鍛えたんだったな。あなたの腕はウルクディアでちらりと見たが、なるほど大したものだ」
「おっと、褒められるとは思わなかった。どうしよう。じゃあケガが治ったら手合わせする?」
「ぜひ。だが腕と言えば――」
「……アルガス=グウェリン。ルファルファの庇護下へようこそ」
低い声がして、窓を見ると、仏頂面のエルヴェントラが覗き込んでいた。アルガスは軽く頭を下げ、姫が振り返って嫌そうな顔をした。エルヴェントラはその顔を見てしかめっ面をした。
「姫、もういいだろう。……なんだその顔は」
「……わかりました」
姫は渋々立ち上がった。アルガスを見下ろして、
「慌ただしくて申し訳ない。じゃあまた来るね」
きびすを返そうとして、悲鳴を上げた。
「……痛ぁっ!?」
「そんなにか。悪い」
アルガスが掴んだ姫の手をぱっと放した。シルヴィアが羽を広げ、ミネアとニーナが身を乗り出した。姫は涙目で肩をさすっている。アルガスが訊ねた。
「聞こうと思っていた。腕をどうした」
「わかんない。朝から痛いんだ。でも力を入れなければ平気だから」
デクターが、まじまじと姫を見、ややして、笑った。
「ひひひ」
「何がおかしいかなもう……」
「まー。いたいの? へいき?」
「そんなにひどいの、舞」
ミネアとニーナが同時に言った。ニーナはさらに腰を浮かせた。
「昨日の賊との対面がいけなかったんだわ。それに一睡もしてないんだし。長旅終えた後も全然休む間がなかったんだし、疲れが肩に来たんじゃないの? ひどいわよエルヴェントラ、今朝から痛むって言ってるのにさっきまで家に返しもしないで。三カ月よ、三カ月。三カ月も旅した後に書類責めにして、ケガ人をこの上さらにこき使う気じゃないでしょうね? 舞には休息が必要だわ。そうだわミネア、そろそろおなか空いたんじゃない?」
ミネアはぱっと手を上げた。
「すいたー!」
「母様と父様とご飯食べるって約束していたわね」
「……待て」
エルヴェントラが呻いたが、ニーナは待たなかった。
「父様はずっと舞をひとりじめしていたから、今度はあたしとミネアで父様をふたりじめしないとね」
「するするー! ごはんたべるー!」
「じゃあ行きましょ、父様のお家でマーシャのご飯を母様と父様と一緒に食べる、どう、ミネア?」
「さいこー!」
ミネアが外へ駆け出して行く。ニーナも後を追い、戸口で振り返った。
「ガルテに、アルガスがここにいるって伝えさせておくわね。舞、賊との対面にはどうしても出なきゃならないんでしょうから、それまで少しでも休んでおいて。その前にガルテが来たら肩を診てもらうといいわ。エルヴェントラの方はうまくやるから心配しないで」
「そういうことは本人に聞こえないところで言ったらどうか」
窓辺でエルヴェントラが低い声で言い、その瞬間にミネアの体当たりを受けてよろめいた。ニーナはそちらを見て笑った。
「うふふ。聞こえてもどうしようもないでしょ。一緒にご飯を食べるのを楽しみにしてるミネアの腕をふりほどけるならやってご覧なさい」
「ニーナ、いいの?」
「いいのよ。あなたたち、ずっと、アンヌ王妃をどう説得するかで頭を悩ませてたんでしょう。でもたまには息抜きも必要よね? 舞もそうだけど、エルヴェントラも、最近ずっと忙しくて休む暇が無かったんだもの。少しの間くらい、ミネアとあたしとで癒してあげなくっちゃね。あらあたしったらなんかすごくいい妻って感じだわ、ほほほほほ。じゃあ皆様ごきげんよう」
ニーナは言って、ちらりと、ビアンカに意味ありげな視線を投げた。ビアンカはすぐに合点した。姫のいないところで、状況を説明しろ、ということだ。
「……じゃああたしそろそろ、【アスタ】の方に戻るわね」
腰をあげると、シルヴィアが、かすかに頭を下げてきた。ビアンカはにっこりして、手を振った。
「じゃね、また夕方に来るわ。アルガスも姫も、お大事に。デクターもゆっくり休んでね」
「ひとりで大丈夫……?」
姫が不安そうに言った。やっぱりさっきのが何でもないなんて、信じていないのだろう。ビアンカは明るく笑ってみせた。
「なんで? 大丈夫よ。あたしはよく寝てるんだから。どっこも痛くないし」
「……そう……? でも……」
「【アスタ】の人たちの方に行くなら、学問所の隣を通っていくよね。僕、登録しに行くようにってエルヴェントラに言われてるんだ」
デクターが言って問うように見上げて来た。ビアンカはついホッとした。
「あら……それならついでだし、一緒に行きましょっか。でもデクター、寝てないんじゃないの?」
「平気だよ、一日くらい。じゃあ姫、またね。ガス、素振りなんかしないで寝てろよ」
アルガスが苦笑し、姫はデクターがビアンカについていくと言うことに、安堵したようだった。彼女はどう思っているのだろうと、部屋を出て行くデクターの後についていきながら、ビアンカは考えた。
師匠であるというマスタードラが、アルガスとビアンカとシルヴィアに危害を加えようとしたと言うことを、どういうことだと思っているのだろうか。
そしてそれが自分のせいだと知ったなら、いったいどう思うのだろうか、と。
*
ビアンカとデクターが出て行くと、急に沈黙が落ちた。
シルヴィアがしゃべらない、と舞は思った。今日はまだ、シルヴィアの声を聞いていない気がする。アルガスは思ったよりも元気そうだったが、顔色はやはりまだ悪く、今は疲れたように目を閉じている。
自分はここにいていいのだろうかと、ふと疑問が兆した。
お見舞いは済んでしまったし、マーシャもいるからやることもないし、養父のことを話せるような体力はなさそうだし、――それに。
舞はマスタードラに全幅の信頼を寄せていた。今までずっと。
ランダールが舞をマスタードラのところへ連れて行った日のことを、今でもよく覚えていた。エスメラルダにかくまわれて一年近くがすぎた、やはり秋のことだった。ニーナの巡幸が終わってエスメラルダに戻ってきた次の日だった。ランダールは舞を連れてマスタードラを訪ね、言ったのだ。この子に剣技を教えて欲しい。セルデスが見込んだ娘だ、筋は悪くないと思う。ひとりでも身を守れるように、敵を倒すのではなく道を拓けるように、生き延びる方策を教えてやって欲しいと。
ランダールは舞を残してすぐに去り、舞は固唾をのんで、その巨大な男を見上げた。マスタードラはあのときの舞には巌のように大きく、腕が長くて飛び退ってもすぐに捕まえられてしまいそうに思え、その割にひどく気弱げな顔をしていて――その不釣り合いさが恐ろしかった。ファーナを殺したことについて恨むような気持ちはなかったが、あのときの悲しみはまだ根強く残っていた。それに、マスタードラは、森の中で舞を追い立てていた兵士たちと似た匂いを持っていた。剣の。鉄の。人を殺すためだけに生まれた道具の。匂いがした。
ところがマスタードラは舞を見て、まず身をかがめた。舞と視線を合わせて、優しい笑顔で、言ったのだ。
『ふうん。ずいぶん元気そうになったな。何よりだ』
そしてぽん、と舞の頭を叩いた。
『セルデス殿が見込んだ娘か。生きてて良かったな、姫。セルデス殿は亡くなったが、あの方の剣技はお前の中で生きてるってわけだ。楽しみだな』
ああそういう考え方もあるのか、と、目から鱗が落ちた気分だった。
あたしの中にはセルデスの教えが生きているのだ。そしてローラの教えてくれたすべてのことも。舞が覚えている限り、ずっと。
それを教えてくれたのは、マスタードラだった。ファーナの仇だという思いも、一緒に過ごすうちに少しずつ消えた。木訥で、優しくて、筋がいいと褒めてくれた。教えは厳しかったが、いつも、教えがいがあると言ってくれた。マスタードラの優しい視線が大好きだった。――それなのに。
マスタードラがあんな顔をするなんて。
お前は邪魔だ、と、はっきり顔に書いてあった。マスタードラは素朴な男だ。剣技以外のことにはあまり頭が回らない。だから内心は隠しようもなく、彼の顔にありありと表れていた。いったいなぜここに来たのだ、来て欲しくなかった、お前さえ来なければ――来なければ――目的は果たせていたのに。
目的って何だ。
舞は泣き出したくなった。涙は出ないが、顔が歪んだ。
決まってる。でもどうして。アルガスを。シルヴィアを。ビアンカを。舞の大切な友人たちなのに。いったいどうして、この平和なエスメラルダで、今や舞の居場所であるこの大切な場所で。それにあのマスタードラが、いったいどうして――
『姫、長椅子に横になったらどう?』
シルヴィアの優しい声がして、舞は顔を上げた。寝台の上で、シルヴィアがこちらを見ている。しゃべったことに心底ホッとして、舞は咳払いをした。
「平気だよ」
『でも肩が痛むんでしょう。それに昨日寝てないそうね』
「や、寝たよ? 心配しないで。大丈夫」
そう、横になる時間くらいはくれたのだ。エルヴェントラはそこまで鬼ではない。ただ眠れなかっただけだ。シルヴィアは疑わしそうに首をかしげ、舞は笑って見せた。
「……でもマーシャもいるし、ここも大丈夫そうだね。あたし、家に戻って寝てくる」
『その方がゆっくり休める?』
休めるわけがない。そう思ったが、舞は頷いた。マスタードラとの間に何があったにせよ、それは舞に言えることではないのだ、アルガスもビアンカもシルヴィアも、舞には言う気がないのだ、そう悟ったことが思いがけず舞を打ちのめしていた。我ながら子供じみていると苦笑したくなった。たぶん一睡もできなくて疲れているせいだ、だから悲しい気分になるだけなのだと、自分に言い聞かせて、舞は立ち上がろうとした。だが再び悲鳴を上げる羽目になった。アルガスがまたしても舞の手をつかんだからだ。
「……痛あっ!」
「悪い」
「何なのさっきからもう! 寝てたんじゃなかったの!?」
「ガルテに診てもらってくれ」
アルガスは目を開いて頼んだ。舞は瞬きをした。どうして頼むのだろうと疑問に思った。診てもらうといい、とか、診てもらうべきだ、とかじゃなくて、診てもらってくれ、とは。
「これから賊に会うんだろう。腕が使えないのでは――」
「使えないわけじゃないよ。力を入れなければ平気だし。それにエルヴェントラもエルギンも一緒なんだし、賊といっても悪い人じゃなさそうだったよ」
「だが……」
「大丈夫だよ。人の心配してる場合じゃないでしょ。でも良かった、本当に。意識が戻ってるなんて、思わなかったもの。昨日は――」
昨夜の橋の上で見たアルガスの姿が脳裏に甦って、舞は言葉を切った。月光のせいか頬が青くて、生きてるように見えなかった。二度と肺の奥底まで空気が通ることはないのではないかと思った、昨夜の感触がまざまざと思い出された。
生きててよかった、とつくづく思った。
またこの耳に快い声が聞けて、本当によかった。
マスタードラがこの人をどうにかする前に邪魔することが出来て、本当に本当に、よかった。
アルガスは静かに言った。
「心配かけて申し訳なかった。それに用心棒を雇うのに、多額の金を使わせたとか」
舞は瞬きをした。知っているとは思わなかった。
「気にしないで、だって当然でしょう。エルヴェントラがおかしいんだ。でもエルヴェントラを許してあげてくれないかな、ガス。あの人は……責任感が強いだけなんだ」
「エルヴェントラは当然の判断をしたと思ってる」
「そう? そう思ってくれるなら助かるけど。デリクはすごく怒ってたみたいだった」
「庇護を」アルガスの口元に苦笑に似たものが浮かんだ。「デリクが庇護を宣言したとか?」
「庇護? デリクが? 誰に?」
「あなたにだ。地下街に連れていって元締めに顔見せしてやると言わなかったか」
「……言った。ああ、それがそうなんだ。流れ者の風習って変わってるよね」
「あなたは暢気だな」
やや呆れたように言われた。アルガスは今やはっきりと苦笑していた。
「草原の民の庇護に加え、フェリスタも朝食を交換し、その上デリクと【アスタ】の用心棒とは。近いうちに流れ者全員があなたに膝をつくことになりそうだ」
「そんなわけないじゃないか……」
「こんな人だと知っていたら、もっと早くに来ていたのに」
「……はい?」
「エスメラルダはあなたには狭いんじゃないかと今は思う」
疲れてきたのだろう、アルガスの声はかすれ始めている。目を閉じて、体から力を抜いた。舞は身じろぎをした。言ってることがなんだかおかしい。さっぱり意味が分からない。マーシャを呼んで、楽な態勢で寝かせた方が良さそうだ。
と、アルガスが目を開けた。
「覚えておいてくれ。……流れ者にならずとも、今度地下街に行ったら、俺もあなたを元締めのところへつれて行く。俺の名はアルガス=グウェリン。あなたに庇護を宣言する」
――何を言うかと思えば。
舞は思わず顔を歪めた。土気色の顔色で、マスタードラとスヴェンに脅されて、声をかすれさせてまで、こんなことを言うなんて。舞は今度は腕をつかまれないように注意して立ち上がって、呻いた。
「……覚えとく。ありがとう。待ってて、マーシャを呼んでくる」
マーシャはすぐに来た。たくましい腕でアルガスを支えて背から枕を抜き、横にさせた。舞は邪魔にならないよう、寝台の今までとは反対側に回ってそれを見守った。アルガスの左手が布団の上に出ていた。アルガスは目を閉じている。息をしているのかと不安になるような顔色だ。と、舞は、アルガスの左手の甲に目を留めた。手首から甲にかけて、白い傷痕が走っていた。浅黒い肌がそこだけ割れて、向こうから光が差しているみたいに見える。そういえば昨日、橋の上でもちらりと見えた。
古い傷のようだった。アルガスの癖を思い出した。無意識に袖を引っ張るような仕種――脳に何か引っ掛かった。不思議な傷痕だと思った。向かい合った相手に斬られたなら、甲から手首に向けて走るのが普通だ。でもこれは、逆で。
舞は目をこらしてまじまじと見た。
どういう体勢だったらこういう傷がつくのだろう。
この傷を知っているような気がした。でも、どうして。
見るうちにマーシャがその左手も、布団の中に包み込んでしまった。顔をあげた舞に、マーシャが微笑んだ。
「姫様、そろそろお昼ですよ。少しでも食べて休まれませんと」
「ああ……そっか」
そういえば昨日からほとんど何も食べていない気がする。気づいてみれば空腹だった。
「マーシャはここにいて。適当に食べるから」
「隣にご用意してありますよ。シルヴィア姫もどうぞ。大丈夫、顔色は悪いですが、それは当然です。日に日に良くなりますから。姫様はどうぞご心配なく、今は少しでもゆっくりなさい」
「……うん」
『ありがとう、マーシャ』
シルヴィアが久しぶりに口を開き、羽ばたいて舞の肩に乗って来た。ふたりは連れだって隣の部屋へ行き、おいしい昼食を腹一杯食べた。




