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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ

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エスメラルダ(14)

    *




 シルヴィアがアルガスの手から羽をどけた。心配そうに顔をのぞき込んでいる。ビアンカも見ると、アルガスは目を閉じていた。眠ったのだろうか。


 背の枕をどけてもっと楽な態勢で寝かせた方がいいのだろうか。ビアンカは手をわきわきさせた。ひとりでできるだろうか。起こしてしまうのも悪い気がする。【アスタ】では子どもの世話も料理も洗濯も保存食作りも、さまざまな仕事をしたが、けが人の世話はしたことがない。


「……シルヴィア?」


 囁くとシルヴィアはこちらを見た。言葉はない。デクターのやり方を真似てみよう、と思った。


「あの。これは、温泉での、あの、喧嘩が関係してるの……?」


 シルヴィアは頷いた。ビアンカはそれに勇気づけられて、すとんと椅子に座った。秘密にしたいわけではないらしい。唇をなめ、少し考えた。そして、


「それは、姫に関係することなのね?」


 シルヴィアが頷く。


「あの時は、アルガスがエルギンのことを怒ったのかと思ったわ。でも逆なのかな?」


 頷いた。そして首を傾げた。両方なのかもしれない。ビアンカは眉根をよせた。昨夜シルヴィアがニーナに話した、そして姫には話さないでくれとアルガスが頼んだ、何かを、聞きたいと思ったが、そういう訊ね方ではシルヴィアは答えないかも……答えられないのかもしれない、と思って、ぞっとした。


 答えられないのかもしれない。

 言葉を発さないのではなく、出せないのかもしれない。


 昨日、何があったのだろう。デクターの道具はシルヴィアの喉元に、ちゃんと若草色に輝いているのに。


 ビアンカは、昨日、馬から降りた後、すぐにニーナの家に連れて行かれた。マーシャに暖かなお風呂に入れてもらって、暖かなスープとおいしい夕食をできるかぎり食べなさいと言われて、ほとんど食べられなかったのだがスープだけはたっぷり飲んで、そしてすぐに寝たのだ。へとへとに疲れていたから。でもニーナたちが戻るまで待っていればよかった。話を聞いておくべきだった。急に不安が胸を締め付けた。温泉でアルガスの目が藍色に染まって、マスタードラが腰を浮かせた。本当に助かったわ、とシルヴィアに言われた。それに喧嘩なんてものじゃないわ、ああ、まだ、ラインディアにはしばらく帰れなさそう――


 ニーナの懸念。姫は帰って来なかった。面会謝絶だと突っぱねようとした、スヴェンと言う人の冷たい顔。ガルテか医師がいたらできるだけ引き留めて、とニーナは言った。


 ビアンカは腰を浮かせ、そして戻した。誰かを呼んで来た方がいいんじゃないだろうか。でも、誰を。医師を? なぜ? なんのために?



 と。

 扉が鳴った。



 返事をする間もなくマスタードラが顔を出した。彼は険しい顔をして、ゆっくりと中に入ってきた。アルガスを見、シルヴィアを見、そしてビアンカを見た。

「ビアンカ。ニーナが呼んでいる」


 ――嘘だ。

 ビアンカは、唇を湿らせた。


「変ね。ニーナとはさっき会ったばかりよ」

「火急の用だと言っていたぞ」

「どうしたのかしらね。でもあたし、ガルテに留守番を頼まれているの。アルガスが起き出して素振りを始めないように見張っててくれって言われてるの」

「ビアンカ。行った方がいい。心配しなくても素振りなんかできない」


 目を覚ましたのだろう、ややかすれた声でアルガスが言う。マスタードラが頷く。ビアンカは、アルガスを睨んだ。が、その静かな瞳を見返して、考えを改めた。


 あたしでは役に立たないのかもしれない。ここに残っても。

 誰か他の人を連れて来た方がいいのかもしれない。デクターとかニーナとか、そう、姫とかを。


「……わかった。じゃ、ちょっと行ってくるわね。すぐ戻るわ」


 そう言うと、マスタードラが安心したように息を吐く。ビアンカは、さりげなく扉に向かう。心臓がドキドキした。マスタードラは愛用の剣を下げている。ケガ人を見舞うには不適切ではないか。それに、目立たないようにもう一本、剣を持っていた。


 ――何のために。


 扉を開けようとした寸前に、その扉がさっと開いた。ビアンカは顔を強打しそうになって危ういところで飛びのいた。入って来たのはスヴェンだった。マスタードラは舌打ちをし、スヴェンはビアンカの目の前で、中に入って扉を閉めた。行く手を阻むように立ち塞がっている。シルヴィアの羽音が聞こえた、窓から飛び出そうとしたが、それはマスタードラが阻んだ。シルヴィアを乱暴な手つきで叩き落とし、窓を閉めた。暗闇が落ちる、


「シルヴィア!」


 ビアンカは駆け寄った。窓や壁の透き間から細い細い日光が幾筋も差し込んでいる。シルヴィアはよろよろと身を起こし、ビアンカの手にすがりついた。ビアンカはシルヴィアを胸に抱き上げてマスタードラを睨んだ。今朝見た夢が脳裏を過ぎった。あれは起こるはずのことだったのだと、今やはっきりビアンカは悟った。


 違和感に気づいたのはマスタードラの馬に乗ろうとした時だ。マスタードラは手を差し出すのを一瞬ためらった。


 次はアルガスの怒鳴った言葉だ。マスタードラ、橋まで待て。マスタードラの手がビアンカの背からそれで離れた。橋まで待て――何を。


 アルガスが橋で食い止めなかったら。

 賊に追いつかれて取り囲まれていたら。


 マスタードラはビアンカが邪魔で、剣を振るえない状態だった。背にかかった手。首根っこをつかまれて放り出される自分。自分がいなければマスタードラは剣を振るえる、エルギンに追いついて守ることができる。

 アルガスが止めてくれたのだ。――それなのに。


「……一体何のつもりよ」


 低い声でビアンカは言った。マスタードラの大柄な体は陰になって目の前に立ちはだかっている。彼は咎めるような口調で言った。


「スヴェン」

「嫌がってたじゃないか、マスタードラ。こっちの方が手っ取り早い。それに勘の鋭そうな娘だ、何か感づいていただろう」


 スヴェンは酷薄な声で言い、


「アルガス=グウェリン。警告だ。ケガが少し良くなって動けるようになったらすぐにここを出ろ。そして戻ってくるな。二度と」

「何の話よ」

「本人には分かってる。アルガス=グウェリン、ビアンカ=クロウディア姫とシルヴィア=ラインスターク姫の――」

「マスタードラ。最後まで言わせていいのか。あなたの剣が汚れるぞ」


 アルガスが静かに遮り、マスタードラは舌打ちをした。「スヴェン、黙れ」と言った声はひどく凄惨で、スヴェンが鼻白んだように黙った。普段の気のいいマスタードラの面影は、今やどこにもなかった。


 ビアンカは息を吐いた。ビアンカ=クロウディア姫と、シルヴィア=ラインスターク姫の。続きはきっとこうだ。命が惜しければここを出ると誓え、と言おうとしたのだ、


「どうしてよ」


 ビアンカは拳を握り締めた。エルギンとアルガスの険悪な様子、ニーナの懸念、ああ、どうしてあたしはこんなに馬鹿なんだろう。ふつふつと腹が立って来た。ロギオンの顔が脳を過ぎった。あのときビアンカは悔しくて泣いた。【アスタ】を守れなかったこと。ロギオンをみすみす死に追いやってしまったこと。もし【アスタ】がもっと平和な、もっと安全な場所にあったら、ロギオンもビアンカもデリクもイルジットもずっとずっと、あのまま幸せに暮らしていられたはずだったのに。【アスタ】が別の場所にあったなら。エスメラルダのような場所にあったなら。そう思って、悔しくて泣いたのだ。王の手が届かない場所にあったならと。


 それが、どうして。

 どうして。

 どうして、


「ここはエスメラルダじゃないの!?」


 叫んだ。


「エルギン王子の評判を聞いたことある!? 名君だって言われてるわ、早く王位を継いで、アナカルシス全部をエスメラルダみたいに治めてくれないかって、みんな望んでる。エスメラルダは平和で豊かで、何の心配もなく暮らせる国だって――ここに来れば何の理不尽な出来事もなく、落ち着いて穏やかに暮らせるって、理想郷みたいに言われてる。それがどう、このざまじゃないの。こんなことがどうしてエスメラルダで起こるのよこの馬鹿――!」

「ビアンカ、」

「冗談じゃないわ。これじゃ今の王と変わらない。何にも変わらないじゃないの!」

「違う」


 マスタードラが呻いた。ビアンカは、


「何が違うのよ! こんな脅迫して! この人は大ケガしてるのよ、それをこんな、」

「姫がいけないんだ。あいつが」


 マスタードラが低く言った。それは悲鳴みたいに聞こえた。


「グウェリン、あいつはお前を助けるために、自分が自由に使える金を丸ごと差し出した。普通なら一生暮らせる額をためらいもせずにだ。その上当然のようについて来やがって、さらに帰って来てからも盛大に取り乱した。心配で心配で会議の時にも上の空で、食事もろくにとらないで。さっき見てきたがありゃ一睡もしてない――そんな様子を、エルギン様に見せやがった! しょうがないじゃないか!」

「何がしょうがないのよ、馬鹿!」

「あんたは何も知らないだろう! 知ってれば分かるはずだ。エルギン様は名君だとも。そうだとも。だがあの人の背負う重圧があんたにわかるか!? 姫はエルギン様の命綱なんだ! あの子がいなければ――」

「それじゃ本当に今の王と変わらないじゃないの!」


 自分で何を言っているのか良く分からないままにビアンカは叫んだ。


「言い訳が欲しいだけじゃないの! 失敗したら姫のせいにしたいだけよ! そんなのひどいじゃない! 王は黒髪の娘を狩るのをあの子のせいにした、それと同じよ、名君になるためにはあの子が必要だなんて、そんなのおかしいじゃない!」


 マスタードラはつくづくとため息をついた。そして何かをアルガスに向けて投げた。寝台の上にどさりと落ちたのは、持っていたもう一本の剣だ。


「自分のなくしたんだってな。貸してやるよ」

「ちょっと――」

「もう黙ってくれ! 今更やめられるならこんな話しないだろう!」

「ビアンカ、手が届かない。取ってくれ」


 アルガスが静かに言った。ビアンカは寝台の上の剣を見下ろした。そして持ち上げて、鞘を払った。シルヴィアが羽ばたいて、ビアンカの肩に移った。アルガスが手を出しているが、ビアンカは自分で構えた。


「そんな体で何ができるのよ」

「ビアンカ」

「ここまで来たら同じよ。あいつがあたしとシルヴィアを見逃すわけないわ。このどぐされ非道を目の当たりにしたんだもの」


 マスタードラが剣を抜いた。スヴェンは入り口に陣取っている。手が震える。ビアンカは呼吸を整えようとした。ああ、馬だけじゃなくて、けが人の看護だけじゃなくて、剣もデリクに習っておくべきだった――


 マスタードラが足を踏み出す。と、シルヴィアがビアンカの肩を軽く蹴って、舞った。


『お下がりなさい。下郎』


 静かな声だった。彼女は寝台の上に舞い降りて、アルガスの前で翼を広げた。


『お粗末な話だこと。エルギン王子の剣だとか、当代一の剣豪だとか、持て囃されて思い上がっているようだけど、この方のケガをいいことに寝込みを襲うような真似をして。卑劣だわ。汚らわしい。もう二度と、剣豪だなどと名乗らないことね』


「どけ」


『盾になれるとは思わないわ。剣も持てない私でも、あなたは平気で斬れるんでしょう? 卑怯者、やってごらん。このような非道を見過ごすくらいなら、あなたの剣をわずかでも汚す方がずっとましだわ』


「シルヴィア姫。どいてください」


『グウェリンさん。どうか許して頂戴。私は愚かだった。本当に愚かだったわ。ビアンカまで巻き込んで。私が甘かった。まさかこんな非道を、曲がりなりとも剣豪と名乗る方が起こせようとは思わなかった。デクターさんに全部話して、泣きついてでも残ってもらえば良かった』


「……」


『マスタードラ、あなたもいつか王の剣になる。今からでも覚えておくがいい。主君から自分の意に反する命を受け、どうしても主君の意を翻すことができないと悟ったら、高潔な剣はどうふるまうべきなのか。おじ様なら――第一将軍なら、利き腕を落とすわ。けが人を卑劣な手段で殺すような真似をするくらいなら!』

「やかましい!」


 スヴェンが遮った。シルヴィアは黙らなかった。


『主君からこんな非道を命じられること、そのことをまず恥じなさい! 平気で従うと思われていることを恥じなさい! あの王だとておじ様にこんな非道を命じたりしない、命じればおじ様を失うことになるとわかっているからよ!』


 マスタードラが呻いた。


「命じられたわけじゃない。どいてくれ、シルヴィア姫。頼む」

「マスタードラ。……剣を収めた方がいい」


 アルガスが少し声の調子を変えた。ビアンカも、と続けた。


「誰か来た。ほら、聞こえるだろう。ビアンカ、剣を隠せ。早く」


 その時にはみんなにも聞こえていた。廊下を軽やかな足取りが歩いてくる。スヴェンが唸り声を上げ、マスタードラが剣を構えた音がした。次いで、こんこんこん、と扉が鳴った。

 ああどうか、エルギン側の人間ではありませんように――

 マーシャならばどうだろう。足音は、ビアンカにはひとつしか聞こえなかった。扉を開けた瞬間にマスタードラが剣を振り下ろしたら一体どうなるだろう、そう思いながらも、ビアンカは声を張り上げずにはいられなかった。


「どうぞ、入って! 開いてるわ!」


 声に応じて、扉が開く。小柄な影が入り口で立ちすくんだ。アルガスが息を詰め――そして、明るい軽やかな声が聞こえた。


「わ、暗。なんで窓を閉めてるの?」

「姫……!」


 スヴェンが狼狽の声を上げた。マスタードラが歯軋りをした。シルヴィアが羽ばたき、ビアンカはスヴェンとマスタードラを刺激しないよう、明るい声で言った。


「ちょっとね。構わないから窓を開けて?」

「ビアンカ」姫は不思議そうに言った。「入るよ。マスタードラ、何してんの? スヴェンも。エルギンが捜してたよ、外で。ミネア、ちょっとここで待ってて。暗いから」

「まー」


 ミネアもいる。ビアンカは長く震える息を吐いた。姫とミネアなら、マスタードラも斬りかかったりはしないはずだ。安心したら手から力が抜けて、ごとん、と剣が落ちて倒れた。


「何しに来やがった」

「エルヴェントラは何を――」


 その音で我に返ったか、マスタードラとスヴェンが同時に声を上げた。姫はずかずかと中に入ると、ばん、とばかりに窓を開けた。さっと明るい光が差し込んで、姫は一瞬目を細めた、久しぶりに見るその横顔はやややつれて、疲れているように見えた。そして振り返り、アルガスを見て、


 ――微笑んだ。ビアンカはどきりとした。なんて顔で微笑うんだろう。

 こんなに綺麗な人だったなんて、今まで全然知らなかった。


「ガス。起きられるんだ。良かった。ミネア、いいよ。入っておいで」

「がすー!」

「待って、ゆっくり! 体当たりしたら痛いから!」


 慌てて姫がミネアを抱きとめ、一瞬顔をしかめた。それからミネアの手を引いて寝台を回ってアルガスの隣に連れて行った。ミネアは元気そうで、昨日の怖い経験はすっかり癒されたようだった。ミネアは寝台の上によじ登ると、まるまる太った腕を伸べて、アルガスの首にそっと回した。


「びょうきはだいじょうぶ?」

「大丈夫です。おかげさまで」


 アルガスが答え、ミネアの頭を撫でた。姫はその様子を目を細めて見、ややしてシルヴィアを見て微笑み、ビアンカに目を移して笑顔を見せ、ビアンカの足元に転がる剣に気づいた。不思議そうな表情が一瞬よぎった。そしてスヴェンを、次いでマスタードラを見た。マスタードラは剣を収めていたが、ひどく壮絶な顔をして姫を見ていた。頬が青い。


「ね、ふたりとも、エルギンが捜してたってば。外にいるよ」

「あなたは何をしにこられた」


 スヴェンが軋るような声で言う。姫は、


「エスメラルダを救った英雄に、ルファルファの娘として、誠意を示しにきた。……さっきどうとか言ってたけど、エルヴェントラも一緒だよ。エルギン王子の補佐役殿、これはルファルファの娘たちからの、正式な要請と捉えていただく。アルガス=グウェリンに、ルファルファのふたり娘の庇護を宣言する。マーシャが世話をするって張り切ってるそうだし、今すぐ移したいんだけど」


「う、移す!?」


「うん。エルギンの許可はさっきエルヴェントラが取ったよ。王子の誠意はもう十分伝わったんじゃない? 昨日から今までの、一番危険で大変な容態の看護を受け持ったんだものね。ルファルファのふたり娘としても、手をこまねいてる訳にいかないんだ。急な要請で申し訳ないんだけど、聞き届けていただく」

「困る」

「そう? そうだね、アルガスがどうしてもルファルファの庇護を拒むというなら、あたしたちとしてもどうしようもないけど――」


 姫はアルガスを振り返った。そして左手を挙げ、一瞬動きを止め、次いで軽い仕草をした。優雅で洗練された、ひらめくような左手の動きだ。同時に軽く膝を曲げ、改まったいい方で口上を述べた。


「アルガス=グウェリン。昨日の働きには誠に助けられました。その恩に報いる方法を私たちはこれしか知らないのです。どうかルファルファのふたり娘の庇護を、受けていただきたい。流れる方にはご迷惑でしょうが、せめて一時的にでも」

「恐縮です。【最後の娘】」


 アルガスの声はあくまで落ち着いていた。


「一介の流れ者風情にそこまでのお申し出、身に余る光栄です。本来なら身の程をわきまえ、ご辞退申し上げるべきでしょうが、あまりに高貴なお申し出ゆえ、拒むことなど考えるだけで身が竦みます。この上は、あまりお手を煩わせることにならねば良いがと祈るばかりです」


 アルガスの口上を、姫は初めは意外そうに、次いで面白そうに聞いた。最後の方ではおかしくてたまらないという笑顔になっていた。姫は喉を鳴らして笑いを抑え、真面目な顔を取り繕った。


「受け入れていただいて良かった。では参りましょう。ルファルファのふたり娘は誠意を尽くしましょう。何かご不便があったらいつでも言われるといい。――よく知ってたね、ガス。正式なのって初めて聞いた」

「たしなみだ」

「そうなんだ」


 姫は笑いだし、マスタードラとスヴェンを振り返った。話は終わりだとばかりに部屋を出て行こうとする。が、スヴェンがその前に立ちはだかった。目が血走っていた。ビアンカは息を詰めた。姫につかみかかるのではないかと思った。姫は意外そうにスヴェンを見上げた。


「何、スヴェン? まだ何か?」

「姫、あんたという人は。どうなってるんだ、本当に自分の立場が分からないのか。いったい――」

「……困るんだ」


 マスタードラがふたりの間に割り込んだ。姫は二歩ほど下がって窓辺で立ち止まったが、マスタードラを臆せずに見上げた。


「何が? 聞いたでしょう。アルガスにも異存はないって。エルギンの許可も得てるんだし、急な要請で申し訳ないとは思うけど、聞き届けてもらえないかな」

「駄目だ」

「……」


 姫の横顔が変化した。

 彼女はマスタードラを見、スヴェンを見、窓のある背後に目だけを動かした。彼女が入ってきたとき、閉まっていた窓に。そしてマスタードラの剣に目を落とし、ビアンカの足元の剣を見て――


 再びマスタードラを見上げた。そのときには雰囲気が一変していた。ビアンカは思わず見とれた。なんて獰猛な横顔だろう。唇が赤くて、開いたら牙でも覗きそうだ。


 マスタードラが少し身構えた。姫は口を開いた。牙は覗かなかったし、口調は今までと変わらなかった。


「しょうがないな、マスタードラは。まさかとは思うけど、怪我が少し良くなったらすぐにでも手合わせしたいからって言うんじゃないだろうね。駄目だよ、怪我人に手合わせなんか申し込んだらエルギンが泣き出すよ、今度こそ」

「姫――」

「しょうがないな。もう。わかったよ」


 え、わかっちゃうの!? とビアンカは思わず口を出すところだった。けれど姫はこちらを振り返り、すたすたと歩いてくると、椅子を引き寄せて寝台の隣に座り込んだ。ビアンカの目の前だ。そして手を伸ばして足元の剣を拾い上げ、鞘に収め、アルガスの右手が届く場所に立て掛けてから、


「ごめんね、ガス。マスタードラがだだをこねるから、移すのは無理みたい。よっぽど気に入られたんだね? でも庇護を与えるって宣言したんだから、移せないまでも、できる限りのことはするから。あたしとニーナとマーシャで、交代でそばにつくことにする。そうすればあなたもルファルファの二人娘の誠意を疑わずにすむよね?」


「あまり手を煩わせたくはないんだが」


「ガスが気にすることじゃないよ。マスタードラがいけないんだ。ねえシルヴィア……あなたをこんなことに使いだてするのは本当に本当に申し訳ないんだけど、ニーナに伝えてきてくれない? もうすぐガルシアさんが、えーと昨日の、賊の首領がね、もうすぐ来るかもしれないんだ。あたしはそこに出なきゃいけないから、それまでにマーシャを寄越してくれるように伝えて欲しい」


 シルヴィアは頷き、窓枠に乗った。ミネアがマスタードラを振り返って、いー、と歯を見せた。


「どらのばか。ミネアにはわがままいうんじゃないっていうくせに」

「ねー、おかしいよね、ミネア。ぷちぷちくんは大人のくせにね」


 ぷちぷちくんって、なんだ。


「……わかった」


 マスタードラは呻いた。それはたぶん、姫とミネアがここから動かない上、シルヴィアを行かせては同じことだと観念したからだろう。壁に寄りかかり、ため息をついた。


「移すといい。我を張って申し訳なかった」


 姫はまた立ち上がって、にっこりした。


「わかってくれればいいんだ。あたしとニーナとマーシャが交代でこの家に上がり込んだら、エルギンが近々発狂するよね。じゃ、ガス、ちょっと待ってて。人を頼んであるんだ、そろそろ戸板も来るはず」

「……冗談じゃない。自分で歩く」


 アルガスが呻いて、姫は笑った。


「大変だ。うわごとを言い始めた。急いで移して休ませないと」





 姫が出て行くと、スヴェンが忌々しげにため息をついた。マスタードラは壁により掛かったまま無言だった。急に疲れ果てたように見えた。そのマスタードラを少し見た後、スヴェンが言った。


「わかっていようが、先ほどまでの話は他言無用だ」

「守る義理はないわね」


 ビアンカが言うと、スヴェンが歯をむき出した。


「では警告だ。姫にだけは言わない方がいい。ニーナ姫も同じ意見だろうよ。協定をあちらから破棄するのはニーナ姫にも得策ではないことだから。こっちは破棄したくてうずうずしてるんだ」

「協定……?」


 それはいったい何だろう、ビアンカは聞き返したが、スヴェンもマスタードラも何も言わなかった。ミネアは不安そうに、スヴェンとビアンカを見比べている。アルガスがその背を軽く叩いている。ややして数人の足音を引き連れて、姫が軽い足取りで戻ってくる。彼女がたどり着く前に、スヴェンは出て行った。マスタードラは残って、どこまでも項垂れていた。恥じ入るように――悔やむように。

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