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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ

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エスメラルダ(11)

   *


 アルガスが戻ってきたのは、姫たちが出かけてから一刻半ほど経ってからだった。


 デリクが馬に乗せて戻って来、すぐに、待機していたエスメラルダの医師たちが群がった。容態を見、医師たちはうなずき交わし、戸板に乗せて運ぶよう指示を出している。ニーナの肩に乗っていたので、シルヴィアもアルガスのすぐそばまで近づくことができた。ただ暗いので、シルヴィアにはあまりよく見えなかった。ひどい怪我をしているが、生きている、ということは、周囲の会話でわかった。


「ガルテを呼んでくれ。こいつとは顔見知りだ。【アスタ】の誇る凄腕なんだ」


 戸板とともに遠ざかっていきながら、用心棒の筆頭らしい男が言っている。どこへ運ばれるのだろうと考えていると、ニーナが息をついた。


「ああよかった……生きていたわね」

「【アスタ】の用心棒! 姫はどうした?」


 エルギンが声を上げ、ついてきていたもうひとりの用心棒が答えた。


「後で来る。あんたの護衛とデクターがついてるから心配ない。用心棒の大半も残っている」

「なぜ一緒に来ない?」

「もうすぐ来るはずだ。心配ない、あの様子じゃ危害を加えられたりは絶対しないな。なんだか、賊の首領がな、いや賊って感じでもなかったけどな。彼女に話があるんだと」

「話……?」


 エルギンがいぶかしそうに呟いた。シルヴィアももっと聞きたかったが、男はかまわずに行ってしまった。エルギンの後ろにいた誰か、たぶんエルギンの補佐役か誰かが、「全く流れ者というのは――」と不平の声を上げた。エルギンが振り返る。


「スヴェン、構うな。流れ者は身分にこだわらないから流れ者っていうんだ。こだわるようなら戸籍を焼いたりするもんか」

「そうですけどね。王子に対する態度じゃないでしょう」

「だから流れ者にとっては、身分なんて何の意味もないんだ」


 エルギンの声にはかすかに暗い響きがあった。シルヴィアは、早くニーナがエルギンのそばから離れてくれないかと思っていた。温泉での会話がいやでも思い出される。


 流れ者は身分にこだわらない。

 全くその通りなのだろう。


 だからアルガスだって、王子に遠慮する必要なんかないのだ。


 早くニーナに伝えなければと思うのに、エルギンがそばにいるのでちっとも話ができない。と、エルヴェントラがシルヴィアに言った。


「シルヴィア姫。あなたのお話では、言葉の通じない、ぼろをまとった、盗賊のような相手だと言うことでしたね」

『ええ、そうです。言葉がちっともわかりませんでした』

「しかし、それではなぜ姫に話ができるんでしょうね。それに襲ってくる様子もない。グウェリンも大ケガはしたが生きて返された。いったいどういうことでしょう」

「エルヴェントラ、シルヴィアに聞いたってわかるわけないわ」


 ニーナがやんわりとたしなめてくれ、エルヴェントラは「失礼」と言った。シルヴィアはホッと息をついた。本当に、ニーナのそばから離れるな、と姫が言った理由がよくわかった。



 少し後。


 森の中から馬蹄が聞こえ始めた。急ぐ様子もなく、落ち着いた足音は、十数頭はありそうだ。少しして、人間の耳にも聞こえ始めたのだろう。戻ってきたわ、と呟いて、ニーナが足を踏み出した。エルヴェントラがその隣に立ち、神官兵たちが来る者を迎えるように松明を掲げる。


 戻ってきた。


 マスタードラが先頭だった。両手を広げて合図をした。その後ろに姫とデクターが続き、さらに【アスタ】の用心棒たちが続く。神官兵たちが歓声を上げた。姫はデクターと並んで馬を走らせていて、どこも怪我などしている様子はなかった。顔を上げてニーナを見、口元を緩めた。口々に歓声が上がる中、姫は馬を下りて、少しよろめいた。


「舞!」

「ごめん、大丈夫。ただいま、ニーナ。シルヴィア。何も危険はなかったよ」


 けれど姫の頬は真っ青だった。視線が集落の奥の方を漂った。ニーナが姫の手を取った。


「大丈夫、さっき運ばれていったわよ。ガルテって舞が言ってた、ウルクディアでシルヴィアを食べようとした薬師じゃないのかしら? 【アスタ】が誇る凄腕の医師なんだって言ってたけど? そんな人がどうして鴉を食べようとするのかしらね」

「へえ……そうなんだ」


 姫は口数が少なかった。なんだか、上の空のようだった。視線が幾度も集落の奥に向けられた。デクターが馬を下りて姫の隣に並び、ニーナに会釈をした。


「デクター、本当にありがとう。報酬は後で渡すわね。話を聞かせてちょうだい」

「それはこちらにも願いたい」


 エルヴェントラが口を出し、集落の方を示した。


「全員私の家へ来てもらいたい。マスタードラも、できれば用心棒のうち誰かひとりにも。シルヴィア姫もぜひ」

「私も行くわ」


 ニーナが言い、シルヴィアを肩に乗せたまま、さっさと歩き出した。エルヴェントラがたしなめる声を上げた。


「ニーナ、もう寝た方がいい」

「冗談言わないで。眠れるわけないでしょ。もう病人じゃないんだから」

「それは病をすっかり退治してから言ってほしいものだが……」

「デクターがいるんだから平気よ。さ、みんな行きましょ。体がすっかり冷えちゃったわ。エルヴェントラ、場所はあたしたちの家にしてもらうわ。詰めればみんな入るでしょ。晩ご飯みんなまだなんだし、今気づいてみたらお腹ぺこぺこ。でも別の場所で食べたらマーシャが拗ねるに決まってる」

「しかし」

「しかしじゃない。マーシャが一番腕を振るえるのはうちの台所なのよ、知ってるでしょ。行くわよ、舞」

「……うん」


 姫がようやく頷いて、足を踏み出した。ニーナが少し戻り、隣に並んで腕を組んだ。それは傍目には、危険な場所に行っていた親友をようやく迎えた喜びを表しているように見えたかもしれないが、でもシルヴィアにはわかった。心がここにないような状態の彼女を上手に誘導するためなのだ。放っておいたらどこに行くかわからない、そんな状態だった。


 いったいどうしたんだろうと、シルヴィアは姫の肩に移って、その顔をのぞき込んだ。頬が白い。視線は何度も何度も、自分の前と集落の奥を往復する。


「大丈夫よ。大丈夫よ。死にゃしないわ。しっかりしなさいよ」


 ニーナがごくごく声をひそめて囁いた。鴉の聴覚でなければ聞こえないような小さな声だった。


「もう少し我慢して。エルヴェントラの事情聴取が済んだら様子を見に行ったらいいわ。お願い、しっかりして頂戴、生きてたんだからこれ以上死なないわ」

「……変な言い方」


 姫はようやく微笑んだ。そして足取りが少ししっかりした。視線は前に向けられて、それからシルヴィアに移った。


「大丈夫だった、シルヴィア? エルヴェントラにいじめられなかった?」

「心外だ」


 エルヴェントラが後ろで言った。姫は振り返って笑った。


「あなたは怒ってなくても威嚇してるみたいな口調だからいけないんだ。シルヴィアは深窓の令嬢なんだからね。あたしと違って」

「本当にそうだな。あなたのような図太さに慣れると、普通の人への思いやりを忘れる」

 エルヴェントラが憎まれ口を叩き、姫は顔をしかめて見せて、そして前を向いた。



    *



 マーシャは山盛りのごちそうを作って待っていた。たぶん舞が無事に戻るかどうか心配で心配で、それを紛らわせるために黙々と料理をしていたのだろうとニーナは想像した。その量たるや相当なもので、舞、ニーナ、エルヴェントラ、エルギン、マスタードラ、デクター、遅れて呼ばれたデリクと、【アスタ】の用心棒がさらに三人来たのに、全員に行き渡った。もちろんシルヴィアにも。


 話をしながら全員食事を済ませ、お茶を飲んだ。舞がほとんど食べなかったので、ニーナは不自然にならないよう、みんなの目を盗んでいくらか手伝わなければならなかった。舞の好物ばかりが出たのに、ナイフとフォークで細かく細かく切り分けているだけだった。うわべはしっかりしていたが、やはりいつもの舞ではなく、口数がなく、頬も白く、心臓が押しつぶされそうな気持ちで居るのは明らかだった。エルヴェントラの質問にもほとんどデクターが答えた。舞は時折頷いたりするだけだ。


 よほど心配なのだろう。

 ニーナも祈った。アルガスが死にませんようにと。




 食後の茶を飲む頃、エルヴェントラが言った。


「……それで、賊が言った、げーむ、ごーる、というのは何だ。がっこう、は聞いたことがあるが」


 舞はエルヴェントラをじっと見た。質問の意味がちゃんとわかっているのだろうかと、不安になる頃、やっと言った。


「あたしの故郷で使われていた言葉」

「……え、」


 ニーナは思わず舞に向き直った。やっぱりそうなのか。薄々覚悟はしていたが、そうはっきり言われると、ぎゅうっ、と胸が締め付けられた。故郷。故郷、月がひとつしかない場所、今までその話は舞の口からしか聞いたことがなかった、でも、


「なぜ賊がその言葉を知っていたのか」

「……わからない」

「賊はあなたの故郷の人間なのか」

「……違う」舞は肩を落とした。「それなら言葉が少しは通じたっていいはずだもの。顔立ちも全然違ったし。それに馬に乗ってた。あたしの故郷で馬に乗る人なんていなかった……たぶん」

「へえ? じゃあ何に乗るんだ」


 とデリクが口を出した。舞はそちらを見たが、エルヴェントラが遮った。


「それはいい。とにかくだ。賊はそもそも攻めてくる様子がなかったんだな。それに、姫のような人間がいるのなら、あの男が言っていたような相手じゃないことは明らかだ、と言ったんだったな、デクター」

「そう」


 デクターは短く答えた。なぜ彼にだけ言葉が通じたのだろうとニーナは考えた。舞の故郷、という話が終わったのでホッとした。これ以上舞の故郷の話なんか聞きたくなかった。


「あの男、とは誰だろうな。ふん。馬を渡した人間か」

「だろうね」とエルギンが言った。「どこの誰だか知らないけど。明日賊が謝罪にきたら聞いてみないとな」

「つまり、推測だが。馬を渡した誰かはここにエスメラルダがあると教え、襲うべき相手だと教え、なんらかの手段で彼らをここに送り込んで、襲撃させようとしたが、ガルシアという男がその嘘に気づいて襲撃を取りやめた、ということか」

「今の段階ではそうだろうね。明日になったらわかるだろう」

「……」エルヴェントラはしばらく考え、デクターを見た。「あなたにだけ話が通じた理由が知りたい。それはあなたが【四ツ葉】だからか? ニーナも通じるか?」

「さあ、どうだろう。シルヴィア姫に試してもらえばわかるかもね」

『え、私?』


 シルヴィアがびくりとした。デクターは身を乗り出した。


「あなたが普通の人に自分の言葉を伝えられるのは、僕が作った魔法道具を身につけているからだ。そうじゃなきゃ、いくら話そうと思っても、鴉の鳴き声が出るだけだ。そうでしょう。だってカラスには、人間のような複雑な発声器官がないんだから。だから僕は伝えようと声に含ませる意志を言語化する魔法道具を作ったんだ……ああ、詳しい講義は後でしますよエルヴェントラ。よかったら」


「……それをお願いするかどうかは別として、シルヴィア姫。申し訳ないが、その道具をはずして、話してみてくれませんか」


『……ええ』


 シルヴィアがニーナに首をのべたので、ニーナはその細い首から若草色の細い鎖をはずした。シルヴィアは顔を起こして、「かあ――」と言った。


「どうだ、ニーナ?」

「……駄目ね。わからないわ」ニーナはシルヴィアの首に鎖を戻した。「でも舞、この状態でも、シルヴィアの声が聞こえたこともあったんでしょう」

「え? ……あ。うん。でもなんか、悲鳴とか、そういう感じの時しか聞こえなかったけど」

「講義していいかな」


 デクターはどうやらしたくてたまらないようだった。


「それはシルヴィア姫の力だ。たぶんシルヴィア姫にはかなりの素養があったんじゃないかって思うな。精神だけになってもその残滓が残っていたんだろう。ニーナ、たぶんあなたはね、あの賊に、あなたの言葉を伝えることはできる。僕もさっきそうしたからね。体の周囲を取り巻く魔力の流れに意志を乗せて相手に届ければいい。ちょっと練習すればすぐできると思うよ。風や水に意志を伝えるのと似た要領だ。でも言葉を受け取る方は、あなたじゃなくて相手の素養が必要だから――」


 エルヴェントラが遮った。


「講義をありがとう。つまり、デクター、あなたはシルヴィア姫に作ったその道具のように、私の意志を相手に伝える――そして相手の意志を受け取るための道具も作れるのか?」

「両方? そりゃそうか。報酬次第だな」

「作れるのか?」

「作れる。リルア石があればだけど」

「用意させよう」


 エルヴェントラは頷いて、身を乗り出した。


「是非頼みたい。報酬はいくらでも出す。明日までに少なくともひとつ、できれば複数ほしい」

「いくらでも? そりゃありがたい」


 デクターは腕組みをして、にんまりと笑った。


「いやあ嬉しいなあ。今まで趣味で研究してたけど、売り込める日がやっと来た。エルヴェントラ、学問所で魔法道具の研究をしてる人がもしいたら紹介してください」

「学問所に興味があるのか。では学問所に籍を置いてはどうだ。そのうちそういったリルア石の研究がもっと進めば、あなたに講義をお願いできる」

「そりゃいい。嬉しいな」


 舞の手が、膝の上でむずむずしているのにニーナは気づいた。自分にかかわる話が終わりなら、中座してでもアルガスの様子を見に行きたいと思っているのは、ニーナにはよくわかった。ニーナは手を伸ばして舞の手を握りしめた。ニーナにはある懸念があった。アルガスの心配をするのはいい。ニーナは大歓迎だ。だが、エルギン側の人間の前であまりその様子を見せるのが得策だとは思えなかった。少なくともアルガスが動けるようになるまでは。


 エルギンは細い綱の上で危うい釣り合いをとっているような状態なのだと、ニーナはよく知っていた。


 その釣り合いは簡単に崩れる。舞次第で。


「さて、それでは――状況はよくわかった。皆さん、お集まりいただいてありがとうございました」


 エルヴェントラは口調を改め、デリクや用心棒やデクターに向かって頭を下げた。


「どうぞごゆっくりお休みください。ご尽力に誠に感謝します。また何かありましたら話をうかがわせていただくかもしれませんので、数日はとどまっていてくださると助かります。デリク、私の家で預かっているものがある。家の者に伝えておいたから、帰りにお受け取りください」


 多分先程舞がデリクの前において見せた壷だろう。


「ああ、どうも」


 デリクは言い、用心棒たちも立ち上がった。デリクが卓を回ってくる。舞は今までずっと上の空に近かったが、さすがに今は、ニーナの手をそっとはずし、立ち上がった。デリクを見て、頭を下げた。


「ありがとう、デリク。皆さんも。デクターも。本当に、助かりました」


 デリクがにっこりした。今までずっと、何だかエルヴェントラとエルギンを威嚇しているような態度だったのに、舞には明けっ広げな笑顔を見せた。


「何言ってやがる、こんな楽な仕事も珍しいぜ、姫。結果としては何の危険もなかったし、何より気分のいい仕事だった。流れ者として気分のいい仕事に巡り会えるのは貴重なことだ。もしまた何かあればいつでも言いな。お前の依頼なら何でもやるぜ。他の奴らもそうだろうよ」


「……ありがとう」


「それにお前は立派な流れ者になれる」デリクは言って、ぽん、と舞の肩を叩いた。「なる気になったらそれもいつでも言えよ。地下街に連れてって元締めに顔見せしてやるし、必要なことは全部教えてやる。いいか、俺の名はデリクだ。よく覚えておけ」


 座ったままのデクターが、面白そうな表情を浮かべた。そして手を上げた。


「はいはーい、僕もそうする。覚えといて、姫。僕はデクター=カーン」

「あなたがたは――」


 エルヴェントラが低い声をだしたがふたりとも平気だった。デリクはニヤリとして、舞の頭もぽんと叩いて、エルヴェントラを挑発するように見た。


「あんたにも覚えておいてほしいな、エルヴェントラ。じゃな、夕食旨かったぜ。マーシャって人に挨拶して帰らねえとな」


 彼らはどやどやと出て行った。デリクと一緒に来た三人の用心棒も、通り過ぎざま何か囁きながら――名乗っているようだ、たぶん――舞の肩や頭をぽんぽんと叩いていった。舞は四人を見送ってから、不思議そうに頭に手を当てて、エルヴェントラを見た。


「じゃ――話は終わりだよね。あたし寝る」

「待て。あなたの仕事は済んでない」

「えええ――」

「明日賊が来るまでに準備しておかなきゃならないことがある。執務室へ行くぞ」


 エルヴェントラはそう言い、舞をにらんだ。舞は長々とため息をついたが、諦めたように出口を目指した。でも出口で振り返り、最後の抵抗を試みた。


「せめてお風呂に入りたいんだけど」

「寝る前に入ればいいだろう。早く行け」

「あああ……鬼だ、鬼がいるよ……」


 舞はそのまま渋々と部屋を出て行った。やはり心ここにあらずといった風が少し残っていて、シルヴィアにもニーナにも何も言わなかった。ふだんの舞ならありえない事だ。デクターが立ち上がった。ニーナは声をかけた。


「お疲れさま、デクター。本当にありがとう」


 さっきの宣言は一体なんなのか、後で聞いてみようと思った。デクターは機嫌が良さそうで、にこにこしている。


「いえいえ。ねえニーナ、ガスはどこにいるか知ってるかい? 様子をみて来ようと思って」

「知らないわ。医師に聞けば分かるんじゃないかな」

「僕の家だ」


 エルギンが口を出した。シルヴィアがかすかに息を詰めたようだ。ニーナは気づかなかったふりをした。


「あら、そうなの?」

「彼がいなければエスメラルダになだれ込まれていたかもしれないし、本当に助かったからね。手厚く看護させてもらおうと思ってさ」

「それはありがたいな、王子」


 デクターはさらににっこりした。


「じゃあ僕も今晩は泊めてもらおう。ガルテの手伝いもできるし」

「手伝い? あなたも医師か薬師なの?」

「違うよ。ニーナにしてることと同じことをするだけだ。時間はだいぶかかると思うけどね。体の中の魔力、というか、生命力? そういったものの流れを整える。ケガによって滞ってるところをほぐせば治りもずっと早い。これはガルテにはできないし」

「それはすごいわ。よろしく」

「いえいえ。それじゃあニーナ、シルヴィア姫。お休みなさい」


 デクターはにこやかに挨拶をして、そのまま部屋を出て行った。マスタードラもニーナとエルヴェントラに挨拶をして、エルギンに先に行ってます、と言って続いた。エルヴェントラも出た。最後にエルギンが残った。


「……シルヴィア姫。ちょっとお話があるんですが」


 エルギンが立ち上がりながら、静かに言う。

 ニーナはシルヴィアの小さな足が肩に食い込むのを感じた。厭だ、とシルヴィアが思ったのが分かった。厭だ。行きたくない。


「エルギン、シルヴィアは本当に疲れているみたい。明日にしてよ。あたしももう寝る。疲れたし」

「すぐ済むよ。ニーナが寝るまでにはお返しする」

「駄目よ」


 ニーナはエルギンを軽く睨んだ。ふと、昔に戻った気がした。十年前。まだニーナがエルギンを好きだった頃。初恋だった、エルギンのためなら何でもできた頃――

 ニーナはだだをこねた。エルギンにこねるのは久しぶりだ。


「いや。もう、いやだわ。シルヴィアは本当に疲れてるんだもの。もういい加減にして。舞だって疲れてるのにエルヴェントラが連れて行っちゃうし、もうこれ以上は駄目。あたしたちはこのまま寝るの。寝るんだもん。寝るんだもんー」

「うわ、ミネアそっくり」

「でしょ、ミネアの駄々こねはあたしの直伝だもの。ふふ。悪いけどエルギン、今夜は本当に駄目。明日でいいでしょう。へとへとなのよ、シルヴィア抱っこして寝るのが気持ちいいんだもの、言うこと聞いてくれないと、また病気になるわよ」


 なればいい、と思われているのは知っている。

 今までずっと、舞の味方はニーナだけだった。


 ニーナがいなくなれば、舞にはエルギンから逃れる術がなくなる。エルギンは協定だって守らなくて良くなる。王になる前に、舞を手に入れられる。エルギンが今、どんなに自分の死を望んでいるか、ニーナは良く知っていた。


 だから言ってやった。あえて。


「あたし取り乱してるの。当然でしょ、ミネアもあんな目に遭うし、舞まで。もう発作が起こりそう。ねえエルギン、あたしがまた具合悪くなったら困るでしょ」


 エルギンは困ったように笑った。


「……もちろん」


 嘘が上手になったものだ。お互いに。


「シルヴィア、一緒に寝てね。さ、行きましょ」

「しょうがないな。お休み、ニーナ。お休みなさい、シルヴィア姫」

『……ええ。お休みなさい』


 エルギンが出て行き、ニーナはシルヴィアとふたり、がらんとした居間に残された。ふう、とため息をついて、ニーナは椅子に座り込んだ。疲れた。エルギンと話すと本当に疲れる。


 昔は大好きだった。

 本当に、大好きだったのに。


 今は嫌いだ。大嫌いだ。どうしてこうなってしまったんだろう。


『ありがとう。助かったわ……』


 シルヴィアがささやき、ニーナは、苦笑した。


「いいのよ。行く前はそうでもなかったのに、帰ってきてからずっと、エルギンが怖いのね、シルヴィア」

『……ええ』

「お風呂に入ろう。そして寝よう。舞には悪いけど。明日になったら元気も出るわ」

『話を聞いて欲しいの。今すぐ。お風呂場なら誰にも聞かれる心配はないわね。お願い、これ以上は持っていられない。重すぎるのよ』


 ニーナはシルヴィアの切羽詰まった口調にちょっと意外に思いながらも、頷いた。


「いいわ。分かった。お風呂に入ろう。聞かせてちょうだい、シルヴィア」


 ニーナはシルヴィアを肩に乗せ、お風呂に向かった。

 そして聞いた。温泉で何があったかを。




      *




 シルヴィアはつっかえつっかえ、同じことを何度も言ったり、言いあぐねたりしたので、すべて聞き終えた時は寝支度をして寝台に潜り込んでいた。全部言い終えると、シルヴィアは長く震えるため息をついた――疲れたのだろう。ニーナには分かっていた。シルヴィアにもう、あまり時間がないことも。話したり考えたり、特に心配したりすることが、その時間をさらに縮めることも。ニーナは心底感謝して、シルヴィアの黒い羽を撫でた。


「話してくれて、ありがとう、シルヴィア」


 危ないところだったわ、とは言わなかった。先程のエルギンの顔が思い出された。エルギンはシルヴィアに何の用だったのだろう。胸がざわついた。


 ビアンカは聞いていない。アルガス=グウェリンが、ティファ・ルダで舞を救ったあの子だと言うことを。舞が今でも気にしている、置いて逃げたことを心底悔やんでいる、七年前のあの子だと言うことを。知っているのはマスタードラとエルギンとアルガス本人と、そしてシルヴィアだけだ。


 ニーナには絶対知られたくなかっただろう。


 アルガスはまだしばらく舞と話せない。だから邪魔になるのはシルヴィアだけ。さっき舞を待っている間ずっと、エルギンがニーナから離れない、と気づいてはいた。ミネアの様子を見に行った時もさりげなくついて来たし、ビアンカのところに行った時も、そして集落の入り口に戻った時もやっぱりついてきた。理由が分からなかったが、多分、あれはニーナではなくシルヴィアから離れなかったのだ。ただの烏だ、排除するのは簡単だ。デクターの道具を取り上げれば何も言えない、殺すのだって実にたやすい。死体の処理だって、森の中にぽい、と捨てればただの烏の死骸で済む。いないことが分かって騒ぎになっても、待ち切れなくてラインディアに帰ったんじゃないかと言えばおおむね丸くおさまる――


 やりかねない。エルギンは、舞のこととなると見境がなくなる。舞はエルギンの命綱だ。失うわけにはいかないのだ。


『……グウェリンさんが心配で』


 シルヴィアはつぶやいた。なんて気高い精神だろうとニーナは感嘆の念を抱いた。クレイン=アルベルトが『追い払った』理由は良く分かる。魔物はこういう気高い人間が苦手だ。


「今夜は大丈夫よ。デクターが一緒にいるし。問題は明日ね」


 ニーナはため息をつき、布団に横たわった。


「エルギンは舞のことになるとおかしくなるの。あなたの心配はもっともなことよ。今のままじゃアルガスに何をするか分からないわね。……あたしのせいでもあるんだけど。ああ、でも、嬉しいな。あたしは賭けに勝ったわ。舞にやっと」


『嬉しいの……?』

「王子だからって恋しなければならない理由がどこにあるの? エルギンも今夜思い知ったと思うわ。舞の様子をみたでしょう。あの子は疎いから多分、自分では気づいていないけど」


 少なくとも今、誰よりも気にかけている相手だ。

 ティファ・ルダのあの子だと知らなくても、どうして舞のことを知っていたのかも、舞はまだわからないのに、あの取り乱しっぷりはどうだ。ニーナは微笑んだ。嬉しかった。本当に。舞がエルギン以外の人間に特別な感情を抱いている、そのことが本当に、本当に、嬉しい。


 エルギンは思い知っただろう。舞がエルギンのために存在しているわけじゃないということを。

 思わずにはいられなかった。ざまあみろ、と。


「……明日の朝早く、アルガスを移すわ。まあ、念のためだけどね。また駄々をこねなきゃ」

『ああニーナ……ありがとう。本当に……心強いわ……』


 シルヴィアは言って、長々と息を吐き、そして、沈黙した。

 眠ったのだろう。布団の上に丸くなって、もう顔を上げない。


 ニーナはしばらくその羽を撫で、そして、力を抜いた。――疲れた。


 それにしても、生きていたのか。あの子が。

 生きろと言った、死んじゃだめだと。あの子がいなかったら、舞も今ここにいなかった。

 養父がローラを知っていた。なぜだろう。なぜあの夜、ティファ・ルダにいたのだろう。なぜ――


 ――いつでも流れ者になれる。地下街に連れて行って顔見せしてやるし、必要なことはみんな教えてやる。

 ――あんたにも覚えておいてほしいな、エルヴェントラ。


「覚えておくといいわ、本当に」


 ニーナは低くつぶやいた。


「舞はここにいなくても、もう、自分の力でどこにだって行けるってことを」


 ミネアが五歳になれば。

 エルギンが王になれば。


 ニーナもどこにだって行ける。舞と―― 一緒に。

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