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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ

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エスメラルダ(9)

    *




 ヘスタは細い目をした男だった。ロギオンの小屋で会ったことはあるが、あまり印象に残っていなかった。目が細く、細身で、灰色の頭髪をしている。だが顔にはしわがあまりなく、あのときはロギオンより年上かと思ったが、実はエルヴェントラよりも若いようにも見え、年齢がいくつなのか見当がつかない。


「【アスタ】の者たちを受け入れてくださって、本当に、ありがとうございます」


 ヘスタの慇懃な礼を、舞は微笑んで受けた。正装で笑うのもお前の仕事だと、エルヴェントラに言われた。舞もそう思うので頑張っているのだが、ヘスタの背後にはデリクがいて、先ほどからしかめっ面をして見せたり目配せをして見せたり、舞が何か言うたびに大げさに感心した様子を見せたりするので、顔を歪めずに微笑むには非常な努力が要った。デリクめ、と舞は思った。終わったら蹴飛ばしてやる。


「……何かご不便な点がございましたら、いつでもおっしゃってください」


 何とか笑いを声に含ませずに言い終えると、デリクは早速感謝に堪えない、という顔をしてみせるのだった。舞は咳払いをした。いったい何の恨みがあって、デリクはこうも舞をからかおうとするのだろう。ヘスタも何かがおかしいと気づいているはずだが、彼が振り返っても当然デリクは何でもない顔をして直立不動に戻っているので、何が起こっているのかよくわかっていない。腑に落ちない顔をしながらも、


「いえ、充分よくしていただいています」

「医師や薬師の方々に、ここの学問所に加わっていただけるのは、こちらとしてもありがたいことです」


 舞はもう一つ咳払いをして、


「皆さんご無事で、本当によかった。道中危険はありませんでしたか」

「平穏そのものでした。用心棒たちもかなりの数戻ってきて手を貸してくれましたし、魔物の出現も、ありませんでしたし」

「そうですか」

「ここのところずっと忙しくしていましたからね、今日は休ませることにしたんですよ」


 ヘスタは言って、微笑んだ。舞も微笑みを返した。と、デリクが初めて口を出した。


「……なんだ、だから今日はいねえのか。昼から姿が見えねえなあって思ってたんだ。どこへ行ったって?」

「デリク、失礼だろう」


 ヘスタが叱責したが、デリクは平気だった。体勢を崩して腕を組み、舞を見てニヤリと笑った。


「くそう、何とか笑わせてやろうと思ったのになかなか手強いな。だが今更【最後の娘】でしたかーなんて畏まれるかよ、バカバカしい。なあエルティナ……いや、ほんとの名前は姫、だっけか。変な名前だな。姫って柄でもねえだろうによ、親にさんざん文句言ったろ?」

「デリク!」


 ヘスタが悲鳴じみた声を上げた。

 舞は口元を手で押さえて、顔を歪めた。もう駄目だ。今はエルヴェントラが用事でいないからいいようなものの、もし今戻ってきたら、後で盛大に嫌みを言われるに違いない。何とか絞り出した声は我ながら笑いをたっぷり含んでひどく震えていた。


「デリク、ひどいよ、こんなに頑張ってるんだから温かく見守ってよ」

「見守ってたじゃねえかよ。今まで笑わずにいてやったじゃねえか」

「エルヴェントラが戻ってきたら罵倒されるよ」

「そうなのか。そりゃすまねえな。じゃ応援してやるぜ、頑張れ頑張れー」

「なんておざなりな……」


 舞は呼吸を整え、ヘスタに頭を下げた。


「申し訳ありません。少し待ってください。整えますから」

「いえ申し訳ないのはこちらです。つれてくるんじゃなかった。【最後の娘】にお会いできると言ったらどうしてもついてくると言って聞かなくて」


 ヘスタは恐縮し、デリクはニヤニヤして、舞は何とか呼吸を整えた。ヘスタが場を仕切り直すべく再び口を開こうとした寸前で、


「で、ビアンカはどこへ行ったって?」

「少し黙っていられないのか」ヘスタはうめいた。「ビアンカは温泉だ。ここの北、馬で少し行った場所に小さな温泉があるそうで」

「温泉かよ! 何で俺も誘わねえかな、水くせえ」

「今からでも行ってこい。今すぐ。即座に」

「もう夕方じゃねえか、そろそろ戻ってきちまうよ。しかし不用心だな、まさかひとりで行ったんじゃねえだろうな」

「ひとりじゃない、もちろん。エルギン王子の護衛は暇だそうで、頼むと言っていたぞ」

「……なんだよなんで俺に頼まねえかなあ! わざわざ王子の護衛の手を煩わせることねえだろうよ!」

「お前には用心棒をまとめるという仕事があるじゃないか、子供のようなことを言うんじゃない」

「……そうだけどよ」


 デリクは鼻を鳴らして黙った。視線が、開け放たれた窓の方へ漂った。何しろビアンカは、デリクの親友であったロギオンの愛娘のような存在で、その上王に命を狙われかねない立場にある。安全だとわかっていても、近くにいないと思うだけで不安なのだろう。


 それにしても、本当に、もうすぐ夕方だ。冬の太陽はもう少し傾いていて、辺りはわずかに空気の匂いを変えて、夜の準備を始めているように思える。


 舞もつられて窓の外を見ながら思った。


 後少ししたら帰ってくるだろう。ビアンカも、そしてアルガスも。そろそろ会談を切り上げて、仮病の準備を始めた方がいいかもしれない。


 ヘスタは黙ってお茶を啜った。舞は視線を彼に戻してその細い目の辺りを眺めた。

 緊急の用件があったんじゃないのかな、と少し疑問に思った。エルヴェントラは、ヘスタがじりじりしながら待っている、と言っていたように思うのに。それともこれから切り出すのだろうか。未だに言い出さないところを見ると、よほどに言いにくいことなのだろうか。


「……ビアンカをよろしくお願いします」


 ヘスタは器を置くと、静かに切り出した。


「私は近々【アスタ】へ戻ります。いえ、すぐではありませんが、あの地の事後処理などがありますのでね。デリクは残りますが、用心棒たちはもう、用を終えて、少しずつ出立しつつあるんです。ビアンカをよろしくお願いします。どうかこれ以上危険な目に遭わずに済むよう、ここで安全に暮らさせてやってください」


「……承りました」舞は微笑みを浮かべた。「ビアンカが望めばですが、ここでいつまでも暮らしてくださってかまいません。エルヴェントラに戸籍と永住権を頼んでありますから」

「ありがたい。お礼を申し上げます」


 ヘスタが深々と頭を下げた。舞は嬉しくなった。これを言うために、『じりじりしながら待っていた』のだろうか。

 デリクが意外そうな顔をしている。舞はわずかに首をかしげた。


「デリク、あなたにも永住権を。えっと、戸籍は?」

「いらねえよ、自分で焼いたんだ、今更恥ずかしくてもらえるか。でも永住権の方はありがてえな」

「え、あなたも流れ者?」

「そうさ、決まってるだろう」


 デリクは深くは語らなかった。舞もそれ以上は訊ねず、頷いた。デリクに永住権、と頭の中に書き込んでおく。


 さあ、これで話は終わりのはずだ。

 舞はヘスタを見守った。忙しい身なのだから、用件が済んだらすぐ戻るはずだ。少しだけそわそわした。エルヴェントラが戻ってくる前に、具合悪くなり始めておきたいのだが、デリクがいる限りそんな演技など始められない。盛大にからかわれるに決まっている。ところがヘスタは腰を上げないのだ。茶を少しずつ少しずつ、大事そうに飲んでいる。まだ切り出すことがあるのだろうか。


 ウルクディアの名代も、ラク・ルダの神官も、セシリア姫の使いも、用件を述べて舞の返事を聞いて、いくつか世間話をしただけで、すぐに帰って行ったのに。


 ヘスタが顔を上げる。そして器を置いて、何か言いかけた。


 ところが舞は、それを聞く前に、鋭い羽音を聞いた。思わず立ち上がった。振り仰ぐと、窓の外に広がる空に、黒い黒い鳥が一羽あった。窓に向かう間にみるみる近づいて、そして、悲鳴じみた声が響き渡った。


『エルヴェントラ! ミネア姫が危険です! 温泉で賊に襲われました――』

「シルヴィア!」


 窓から飛び出すとシルヴィアが舞に気づいて方向を変えた。再び悲鳴が聞こえた。


『すごい数なの、百人はいたの、ミネア姫が危険よ、早く早く兵を出して! 早く! 姫、グウェリンさんが、草原の馬の半数だって、それでわかる!?』

「草原の馬の半数……!?」


 悟るのに一瞬かかった。その間にシルヴィアが舞の手の中に飛び込んできた。鴉の体はぶるぶると震えていた。デリクとヘスタが扉から駆けだしてくる、道を歩いていた者たちも足を止め、周囲の家の窓からも顔が覗く。全員が注視する中、舞は悲鳴を上げた。


「……大変だ! エルヴェントラ、エルヴェントラー!」

「ここだ」


 振り返るとエルヴェントラが道を走ってきていた。舞も駆け寄り、


「温泉で百人以上の賊が、ミネアが――」

「そこは聞こえた。来い。走りながら聞く」


 エルヴェントラは舞の隣を素通りし、舞も後に続いた。エルヴェントラは首にいつもかけている呼子を吹き鳴らした。音に応じて周囲がにわかに騒然として、舞はエルヴェントラに追いついた。


「王がどこかで検問をしいて、草原の馬の半数を押収したって地下街で聞いた。賊が乗ってるのはその馬だってガスが」


 エルヴェントラは舌打ちをした。舞の肩に移ったシルヴィアが叫んだ。


『グウェリンさんが橋で食い止めてるの、ひとりで! お願いです、早く、』

「ひとりで……!?」


 舞はつんのめるように足を止めた。一瞬呼吸ができなくなった。エルヴェントラも足を止めて振り返った。茶色の目が底知れぬ陰を宿した。


「橋でか。マスタードラも一緒のはずだな、それならミネアが逃げ延びるまでは何とかなるだろうな、あの腕なら」

「……馬鹿!」悲鳴じみた声が出た。「出さないつもりか!?」


 エルヴェントラは舞を睨んだ。


「当然だろう。あなたもわかるはずだ、ルファルファの神官兵を動かしたと王に知られる愚を犯せない。格好の口実を与えることになる。【最初の娘】の後継が危険ならばまだしも――」

「カーディス王子の名代だ!」

「今なら握り潰せる」

「百人以上だ、ひとりで持ちこたえられるわけない、遅からずここにも来る、」

「集落の正当防衛なら問題ない」


 ――このくそじじい!

 歯ぎしりした時、頭に天啓がひらめいた。


「エルギンも一緒なんだ! エルヴェントラ、王子の危機にも手をこまねいたと思われて構わないのか!?」


 エルヴェントラは再び舌打ちをした。何やってるんだあの王子は、と低く毒づいた後、再び走り出した。出す気になったらしい。舞は後を追わずに計算した。そして踵を返した。


『どこ行くの!?』

「エルヴェントラは今のところ大丈夫、でもエルギンとミネアが無事にたどり着いたら、集落の範囲を超えてまでは出さないかも」

『そんな! そんな――』

「だからデリクに頼む。流れ者を雇うよ。ああやっぱりオーレリアに来てもらえばよかった!」


 来た方へ駆け戻ると、デリクはまだ待っていた。エルヴェントラの家の前は少し開けており、そこには不安そうな住民たちがざわめきながら集まり始めている。デリクは住民たちを背に仁王立ちになっていたが、舞を見ると前進を止めるように両手を広げた。


「温泉がどうしたって。ビアンカは!?」

『無事よ、マスタードラの馬に乗ってるわ』


 マスタードラの。舞はぞっとした。

 マスタードラはエルギンの護衛だ。エルギンだけの。


 ――これだから護衛というものは。


 だからデリクがさらに何か言おうとするのを遮った。


「デリク、あなたは流れ者だ。あなたを雇える? それから【アスタ】の用心棒で手のすいてる人を全員雇いたい」


 デリクが舞を睨んだ。


「全員だと? まだ二十人はいるが」

「アルガス=グウェリンが橋で賊をくい止めてる。ひとりで」背筋がぞくりとした。「――迎えに行きたい。王の差し金かもしれないんだ、神官兵も王子の兵も大っぴらには動かせない。だからあたしが流れ者を雇う。危険だからひとりにつき棒十本出す。全額前払いだ。それにあたしも行く」

「……本気か」


 デリクはまじまじと舞を見て、ニヤリと白い歯を見せた。


「そいつは豪勢だ。よし、集落の出口に集める。金を持ってきな」


 デリクはきびすを返した。シルヴィアが、舞を見た。


『あなたも行くって、まさか』


 舞はごく声を潜めた。他の人達に聞かれては困る。


「この件においてはエルヴェントラは信頼できない。ビアンカのこともマスタードラのこともガスのことも、もちろん用心棒たちのことも平気で見捨てる。ミネアとエルギンが戻ったら、集落の外に陣を敷いてそこで終わりだ。向こうが攻めてこない限り、指一本も動かさない。だから用心棒たちは多分行きたがらないよ、棒十本でも安いくらいだ。あたしが一緒に行くと言えば少しは安心できるはず」


 そうでなきゃ誰も行かないかもしれないのだ。それしか方法がない。


『でも――』

「もう日が暮れる。シルヴィアはニーナと一緒にいて」


 家を目指して走りだしながら舞は続けた。


「エルヴェントラが話を聞きたがるはずだ。いいシルヴィア、エルヴェントラが話を聞きたいからと言っても、ニーナのそばから離れちゃだめだよ。どういう状況だったのか、できるだけ詳しく話しておいて。あたしも戻ったらすぐ聞きたいから」

『戻ったら』

「戻るよ。心配しないで」

「姫!」


 自宅の周囲を取り囲む人垣の中から、デクターとニーナが走り出て来た。デクターの目は吊り上がってい、ニーナは張り詰めた顔をしていた。舞は呼吸を整えた。


「温泉に行ったみんなが、謎の賊に襲われたんだって。デクター、ガスが、橋で、ひとりで――」


 デクターは舌打ちをした。


「あのバカが」

「デリクと【アスタ】の用心棒を雇った。迎えに行ってくる」


 周囲の人垣がざわめいた。旗色が悪くなる前にと家に駆け込もうとしたが、その前にデクターに左手をつかまれた。


「行ってくる、じゃないだろ。僕も行く」


 舞は首を振った。


「あなたにはニーナの治療をしてもらう必要がある。だめだよ」

「あたしがデクターを雇うわ。ついて行ってもらう」


 ニーナが青ざめた顔で、けれどきっぱりとした口調で言った。ニーナを見ると、ニーナは、周囲の人々にも聞こえるようなはっきりとした声を張り上げた。


「あなたが行かなきゃいけない理由は分かってる。だから止めないけど、デクターをつれていかなきゃ許さない。彼は【四ツ葉】よ。一緒なら安心だわ」

「でも――」

「言っておくけど、あなたにもしものことがあったら、あたしはもう治療なんか受けないわよ」


 ニーナは、腕を組んで、舞を睨んだ。


「エルヴェントラにもそう言うわ。何かあったら是が非でも神官兵に動いてもらうから安心して。でも戻って来る気なんでしょ? それならデクターが一緒に行ったって何の問題もないじゃない。夜の分は今済ませてもらったの。明日の朝食後までに戻ってくれば平気よ。いい、エスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダ、あなたの主は誰? これ以上の反論は許さない。言い争ってる暇も無いわ」

「……わかった」


 舞がうなずくと、デクターが手を放した。舞は笑った。


「正直ありがたい。ニーナ、ついでに神官兵の馬も借りたい。先に行って説得しておいてくれない?」

「いいわ。デクター、一緒に来て。……走っても平気かな?」


 ふたりは集落の出口に向かい、舞は人垣をかきわけて家に飛び込んだ。寝室に駆け込んで寝台の下に隠してあった壷を引きずり出して、かつぎ上げた。中身は詰まっているはずなのに、重さは全く感じなかった。シルヴィアがようやく口を開いた。


『いきなりだったのよ。どこに潜んでいたのかわからないの。あんなに大勢で、一体――』

「小屋には管理人がいるはずだよね。ロイドは?」

『行った時から姿が見えなかったの』


 家を飛び出すと空が既に赤く染まり始めているのに気づいた。少しずつ濃さを増す夕焼けが血の色に見えて、舞は顔をしかめた。いくつかの鳴子が呼び交わすように鳴り渡っている。大勢の神官達が迎撃の準備を整え始めている。エスメラルダは騒然とした空気に包まれていた。町並みを突っ切って行くうちに、シルヴィアが口ごもりながら言った。


『姫、帰ったら聞いて欲しいことがあるのよ。温泉でね、いろいろとあったの……本当にいろいろと』

「わかった。ごめん、それも先にニーナに話しておいて? 時間が取れるのが遅くなったら困るから」


 集落を抜けると、前方が一段と騒然としていた。神官兵達が集結し始めていて、その中央に、ちょうど馬が止まったところだった。乗っているのはエルギンとミネアだ。周囲の者たちがまずミネアを、それからエルギンを助け降ろした。泣き声を上げるミネアが運ばれて行く。舞は少しホッとした。エルギンは残って、来た道を睨んでいる。そこにたどり着いた。シルヴィアは羽ばたいて地面に降り、離れて行った。ミネアを見に行ったのかな、と舞は思った。


「エルギン、無事!?」


 振り返ったエルギンはひどく壮絶な顔をしていた。


「無事だよ。僕とミネアはね」


 舞は隣に並んで道の先を透かし見た。遠くで馬蹄の響きは聞こえているが、それは複数ではないようだった。ややして前方の森を抜けた馬がいた。馬上でマスタードラが、抜き身の剣を握ったまま、兵が集まり始めているのを見て少しだけ表情をゆるめた。


 馬は見る間に近づき、いなないて地面を蹴立て、横向きに止まった。しがみついていたビアンカが青ざめた顔を上げ、神官兵達がかけよってビアンカを抱き下ろした。抱き抱えられるようにして集落の方へ連れられて行く。こちらも何とか無事のようだった。舞は息をついた。マスタードラは降りず、馬首を返した。振り返ってエルギンを見た。


「奴らはまだ追いかけて来ていないようです。行きますよ」

「――ああ」

「少し待て、【アスタ】の用心棒も行く」


 男たちを引き連れて走って来たデリクが大声を上げた。驚いたことに十数人はいた。舞はまだ抱えたままだった壷を、たどり着いたデリクの目の前に置いた。重さは感じなかったのに、ずしん、と壷が音を立て、用心棒達が驚きの声を上げた。デリクが壷をのぞき込んだ。


「ひとり十本にしちゃ随分多いな」

「全額あなたに預ける。帰ったら好きに分けて。馬は神官兵のを借りられる。デリク、でも、ビアンカは無事に戻ったよ」

「だから何だ。まだひとり戻らねえのがいるんだろ」

「ありがとう」


 ニーナが命じてくれたのだろう、馬はすぐに揃った。マスタードラも馬を取り替え、デクターも用心棒も全員乗った。一頭、馬が残っている。振り返るとニーナが青ざめた顔で、うなずいた。舞は残った馬に手をかけて、言った。


「じゃ、行こう」

「……待て」


 エルギンが声を上げたが、舞は構わず馬に乗った。用心棒達がひそひそと囁き交わし、一様に安堵の顔を見せた。聞いていたはずだが、信じていなかったのかもしれない。マスタードラは顔をしかめ、エルヴェントラが舌打ちをしたが、ふたりとも何も言わなかった。言ったのはエルギンだけだ。今まで聞いたことがないほど、固い声だった。


「姫も行くのか」

「行く」


 理由は言わなかった、多分わかっているだろう。エルヴェントラは用心棒とマスタードラのためには指一本動かさないが、舞の主は本来は、エルヴェントラではなくニーナだ。もし一行が危機に陥れば、ニーナが何とかしてくれる。まだ何か言おうとしたエルギンの声を、デリクの大声が遮った。


「ありがてえ! 【最後の娘】が俺達の働きを見届けてくださるとよ!」

「それにデクターも。【契約の民】も一緒に行く」


 口を挟むとデクターが馬上で芝居がかった一礼をし、用心棒達がいっせいに鬨の声を上げた。舞は首元のエスティエルティナの感触を確かめた。

 そして、ニーナに言った。


「じゃ、行ってくるね」

「ええ。待ってるわ」


 ニーナは青ざめた顔で、でも微笑んだ。エルギンがニーナを振り返った。舞は走りだした一行の後を追い始めていたから、エルギンがニーナに何と言ったのかは聞こえなかった。


 夕焼けはいよいよ赤く、森に続く道の先は闇に覆われ始めている。追っ手はまだ来ないようだ。森の中はやけに静かだ。舞は首元のエスティエルティナを握り締め、馬を走らせた。

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