エスメラルダ(8)
ビアンカの軽やかな声がシルヴィアの意識をすくい上げた。
「ミネアが眠そう。小屋に行かない? マスタードラ、ミネアを抱っこしてあげるというのはどうでしょう。管理人さんも戻ってるかもしれないし、小屋に入ってお茶にしましょうよ。ね、ミネア、お腹すいたんじゃない?」
「すいた。ねむくないよ、びあんか」
「眠い子はみんなそう言うのよ。おやつ食べてお昼寝しよ」
「しないもん」
「あらそう、いいわよ。あたしはお昼寝する。シルヴィアもアルガスもどらもエルギンもみんな寝るわよ。ミネアひとりで起きてるの?」
「起きてるもんー」
「そんなこと言えるのも今のうちよ、ふふ」
ビアンカの言葉のとおり、小屋に戻って、お茶を飲んで、おいしいおやつを食べ終えた頃、ミネアは船を漕ぎ出した。ビアンカが連れて二階へ上がっていった。アルガスが外に出て、マスタードラは手持ち無沙汰に座り込んで、エルギンは黙りこくっている。シルヴィアはビアンカの後を追いかけた。逃げるように。
二階ではビアンカがミネアを寝かしつけていた。扉が開いていたので中へ入った。ややしてミネアはすうすうと寝息を立て始め、振り返ったビアンカは無言でやってきてシルヴィアの背後で扉を閉め、シルヴィアを見て、やっと囁いた。
「さっき、どうしたの? びっくりした。斬り合うのかと思っちゃった」
『お陰で助かったわ、ビアンカ。やっぱり気づいていたのね』
「喧嘩の理由は何?」
『帰ったら話す。それに喧嘩、なんてものじゃないわ。ああ、ラインディアにはまだしばらくは帰れなさそう』
エルギンがああもエリオット王に似た顔立ちじゃなかったら、印象も少しは違ったのだろうか。私の評価は正当とは言えない、そう思いながらシルヴィアは物思いに沈んだ。
姫をひとりで外に出すのはエルヴェントラの要請だ。
こんな時にひとりで外に出したりしない。俺なら。
彼女は死なない。僕が王になるまでは。
どう考えてもエルギンの言葉だけが異質だった。その自信は本当になんなのだろう。どうして断言できるのだろう。シルヴィアは身震いをした。誰かの意見を聞きたかった。今は無理だが、ニーナの家に帰ったら、絶対ビアンカとニーナに聞いてもらおう。シルヴィアひとりで抱えるには荷が勝ちすぎた。
どうしても、嫌な気分を振り払うことが出来なかった。
恐ろしいのだ。浮かべる表情や、雰囲気までもが、あの男に似過ぎている、エルギンのことが。
もう彼に頼めるとは思えなかった。
あの根拠のない自信が恐ろしかった。
姫が彼の差し出した手を断ったら、彼は一体どうするのだろうかと、どうなるのだろうかと、想像するのが恐ろしかった――
*
ビアンカはうとうとし始めていた。温泉に入って疲れたのだろう。シルヴィアはふたりを起こさないように細く開いた窓から外を覗いた。来た時にはあんなに楽しかったのに、今ではもう、すぐにでも、ニーナのところへ行きたかった。
と、下を、アルガスが歩いてくるのが見えた。
表情はよく見えないが、早足だった。どこへ行っていたのだろうと見ると、温泉とは逆方向から戻ってきたようだった。エスメラルダへ来る直前のアルガスを思い出した。姫を振り返って、静かすぎる、嫌な感じだ、と言ったときの彼を。
シルヴィアは羽ばたいて、アルガスのそばに舞い降りた。藍色と灰色の入り交じった瞳がシルヴィアを見た。
『何かあったの……?』
「静かすぎるんです」
あの時と同じことをアルガスは言った。
「その上管理人がまだ現れない。気味が悪い。今すぐ帰った方が良さそうだ」
『ふたりを起こしてくるわ』
「お願いします」
そして彼は小屋の扉を押し開いた。
「マスタードラ。今すぐ出た方がいい。厭な感じがする」
シルヴィアは窓から中へ戻った。階下で急に足音がわき起こった。ビアンカの体の上に飛び乗ると、ビアンカが跳ね起きた。
「ごめん! 寝ちゃった!」
『いいのよ。でも起きて。今すぐ出るそうよ』
「へ……あ、うん」
シルヴィアの口調に潜む色に気づいて、ビアンカはすぐに目を覚ましたようだった。ひとつ頭を振って、まだぐっすり寝ているミネアを抱き上げようとしたが、その前にアルガスが駆け込んできた。瞳がはっきりと藍色に染まっている。
「急いでくれ」
言うなりミネアを抱き上げた。乱暴な手つきにミネアが泣き声を上げた。仰け反って逃れようとするのをしっかり抱えて飛び出していく。ビアンカも急いで後を追った。
一体何が起ころうとしているんだろう。
シルヴィアはドキドキしながら再び窓から舞い降りた。下ではマスタードラが馬の準備を始めていた。エルギンは既に馬上だった。ここはエスメラルダなのに、と思うと理不尽さを感じた。集落のすぐそばなのに、一体誰が、何が、来たというのだろう。
絶対安全のはずだった。そうじゃなきゃミネアを連れて行くことを、エルヴェントラが許すはずがないではないか。
「や! がすのうまにのる! のるんだもんー!」
「ミネア姫」
「や! やーあーやー!」
眠いからか先ほどまでよりも主張が激しく、アルガスは仕方なく自分の馬にミネアを押し上げた。ビアンカが代わりにマスタードラの馬へ行った。シルヴィアには、マスタードラがビアンカに手を差し出す寸前に、わずかにためらったように思えた。けれどそれについて考える間もなく、マスタードラがビアンカを引き上げ、三頭の馬は一斉に走り出した。来るときののんびりとした行程が嘘のような馬蹄の響きがわき起こった。
そして。
やや遅れて、小屋の向こうの森から、やはり馬蹄の響きがわき起こった。
シルヴィアは羽ばたき、頭上を目指した。木々の梢を抜けて見下ろすと、きらめくものがちらちら見えた。まだ少し遠いが、見る間に近づいてくる。シルヴィアは羽ばたいて、三頭の後を追いながら目で距離を測った。
小屋の周りに、たくさんの馬が飛び出した。十数頭はいた、加えて次から次へと走り出て来る。乗っているのは皆一様にぼろをまとい、彫りの深い顔立ちの男たちだった。頭髪は黒ばかりで、鋭い目つきをした男たちは、示し合わせたように白刃を抜きはなった。夕暮れに向かいかけた日の光に剣がちらちらと光る。続々とその数が増え、何かひどく不穏な気配が膨れ上がった。
眼下の三頭は、ミネアを乗せたアルガスが先頭で、エルギンがわずかに遅れて次、二人乗りのマスタードラとビアンカが一番遅れていた。マスタードラは体が大きく、ビアンカは女性だが一人前の体つきだ。それで先程ためらったのだろうかとシルヴィアは考えた。ミネアをマスタードラが、アルガスがビアンカを、乗せる方が速いと判断したからなのだろうか――
追手はぐんぐん距離を狭めてくる。いつしか彼らは弧を描いて、三頭を押しつつもうとするかのように展開しつつあった。叫び交わす声もいくつか聞こえた。シルヴィアはぞっとした。それは、全く聞き覚えのない言葉だったのだ。言葉が全然通じない民なんて、アナカルシス周辺にはもういないはずなのに。
――どこから来たというのだろう、
こんなに大勢で。
エスメラルダの人達に気づかれずに、森に潜んでいたのだろうか。こんなに近くに。いったいどうやって。
マスタードラが、馬上で剛剣を抜き放った。ビアンカが馬にしがみつくように身を伏せた。マスタードラの左手が、ビアンカの背に乗せられた。と、
「マスタードラ! 橋まで待て!」
アルガスが怒鳴った。マスタードラは返事をしなかった。聞こえたのかどうなのか、意味が分からなかったのか、反応がなかった。ただ左手が、ビアンカの背から外れただけだ。
そしてアルガスはやや速度を落としてエルギンに並んだ。
「ミネア姫を」
エルギンも無言で右手を伸ばし、アルガスの前で馬の背にしがみついていたミネアの上着を引っつかんだ。ミネアは悲鳴を上げて馬のたてがみを握り締めたが、アルガスがその手をはなさせた。ミネアの小さな体がすっぽ抜けるように移動してエルギンの馬に倒れ込む。シルヴィアは悲鳴を上げかけた。一瞬転がり落ちるのではないかと思った、こんな速度で投げ出されたら、大ケガどころの話じゃない。
エルギンが速度を上げた。いや、アルガスが落としたのだった。ややしてマスタードラの馬と並んだ。シルヴィアは高度を下げた。ふたりが言葉を交わしたように思えたので。
辛うじて聞えた。マスタードラが、
「逆でもいいんだぞ」
「俺は兵を出せない」
「道理だな。――死ぬなよ」
速度を上げた。目の前が少し開けた。来る時渡った丈夫な橋が見えて来た。アルガスがさらに速度を落とし、無骨な剣を抜いた。あの時と、同じように。
シルヴィアはアルガスの馬の首に飛び降りた。速度がゆるんでいるからか、今度は巧くいった、ぶざまに転げたりせずに、足を踏ん張ってアルガスを見上げた。
『どうするつもり』
「止める」
『無茶だわ!』
あの時とは数が違う。三倍以上だ。言葉も通じない、得体の知れない人達だ。それに突破するのとくい止めるのとではわけが違う、気がする。アルガスは眉をしかめた。走る馬の上で話すのは難しいのだろう、単語だけのような返事が聞こえた。
「死なない。エルヴェントラに、はやく」
『駄目よ!』
「仕方ない。護衛は、邪魔になれば放り出す」
――護衛。マスタードラが、邪魔になれば、放り出す。……なにを、
疑問の答えはすぐに見つかった。なにを。誰を。決まっている。
『……そんな』
「俺でもそうする。エルヴェントラに、一刻も速く。それから姫に、草原のまの、半数だと」
『草原の半数? あ、草原の馬の半数? それでわかるのね? ……いいわ。少しの辛抱よ、すぐ連れてくるから!』
少なくともここでシルヴィアがアルガスと一緒に残っても全く何の役にも立てない。これがラインディアの兵ならよかったのにと思いながらシルヴィアは羽ばたいた。あれがまた、ルーウェン様の率いる隊なら本当によかったのに!
エルギンが橋を渡り始めている。マスタードラももうすぐだ。でも馬蹄の響きは本当に背後にまで迫っている。しかも初めに見たより数が増えていた、森の奥から、後から後から湧いて出て来ていた。今や百頭にも届きそうな数だ。先頭はもうアルガスの背後にまで迫っている、見るうちに隣に並びかけている。橋に先に駆け込まれるのではないかと思ったせつな、橋の目前でアルガスがいきなり馬首を返した。先頭の馬が唐突に体当たりを受けて派手に倒れた。背後の馬が竿立ちになり、白刃のかみ合う音と悲鳴と狼狽の声と怒号と馬のいななきが沸き上がり、シルヴィアは目をそらして羽根をふるった。マスタードラの、続いてエルギンの頭上を飛び越して、エスメラルダを目指した。
エルギンの食い入るような視線を感じたが、目を向けることはできなかった。




