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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ
60/251

エスメラルダ(6)

    *




 ミネアは本当にかわいらしい女の子だった。


 外見は、エルヴェントラよりはニーナに似ている。いいことだ。エルヴェントラは有能そうだが、あまり見目麗しいとは言えない。


 ミネアは舌ったらずな口調でよくしゃべった。天真爛漫で利発な子だった。シルヴィアのことを気に入って、一緒の馬にいないと怒る。そしてアルガスに最初から懐いた。アルガスの馬に乗るのだと主張して譲らなかったほどに。


「まーはどうしてこないの、どーしてどーして」


 ミネアは姫のことをまーと呼んだ。アルガスの馬に乗り、シルヴィアを独占して、しばらくは機嫌が良かったのだが、それでもやはり姫が来ないことが不満のようだった。同じことを何度も繰り返した。


「かーさまはしょーがないわ、びょうきだもの。でもまーはげんきなのに」

『忙しいんですって。ひどいわよねえ』

「とーさまがいけないのよ。とーさまがまーをひとりじめしてるのよ。まだおみやげもらってないのに、ただいまいってないのに、とーさまのばか!」

「ミネア、わがまま言うんじゃない」


 ビアンカを乗せているマスタードラが言うのに、ミネアは不満そうに唇をとがらせた。シルヴィアはこっそり耳打ちした。


『でもあんまりよね、私はわがままだとは思わないわ。一目くらい会わせてくれてもいいわよねえ?』


 ミネアの顔がぱっと輝いた。


「でしょ! そうおもうでしょ! どらのばか!」

「ミネア――」

『だからね、お父様に言うといいわ。怒っちゃダメよ。あなたならお父様のお膝に座れるでしょう? お父様が椅子に座っている時にお膝に上るの。にっこりしてね、お父様を見上げて、お父様、姫に会いたいなあって、言ってご覧なさい。絶対会わせてくれるわ』

「ほんと?」

『私を信じて、やってご覧なさい。ついでに、姫と一緒においしいものが食べたいなあ、ゆっくり遊びたいなあって、言うといいわよ。いい、絶対怒っちゃダメよ。あくまで笑顔よ。お膝に上るのを忘れちゃダメよ?』

「むずかしそう」

『あら簡単よ。あなたならできるわ。帰ったらすぐやってご覧なさい? よかったらそばにいてあげる』

「やった! じゃあやる!」


 アルガスが顔を歪めた。笑いをかみ殺しているようだ。隣に並んだエルギンが、こちらは遠慮なく笑いながら言った。


「シルヴィア姫、あなたは恐ろしい人だ。それは確かにひとたまりもないな」

『そうでしょう。アイオリーナは今もこの手を使うわ。膝じゃなくて、肩に後ろから抱きつくのだけど。おじ様だってひとたまりもないもの、三歳の愛娘なら……なんて言うのかしら。そう。『いちころ』だわね』

「シルヴィア姫……」


 マスタードラが困ったように声を上げる。しかしビアンカが笑って言った。


「どうしていけないの? 我がままは言ってないわ、それだと。希望を述べるだけだもの。ねえ手綱ってこう引けばいいの? 止まるとき」

「あ、そうです。こいつは慣れてますから、強く引かなくて大丈夫」

「温泉ってもうすぐ? 着いたらやらせて」

「いいですよ」


 ビアンカの誘導でマスタードラはあっさり抗議を忘れた。ビアンカはこの機会に馬の乗り方を覚えるつもりらしい。ニーナのものだという柔らかそうな脚衣はビアンカに良く似合った。くるんくるんと跳びはねる髪を髪どめで留めて、ふだんより少し凜として見える。血色のいい頬が空気の冷たさに赤く染まっていて、ビアンカを見ているだけでも楽しくなる。


 そしてアイオリーナを思い出した。早く帰りたい。ルーウェンを説得できたことで自信がついていた。アイオリーナなら、やはりシルヴィアの目を見るだけで分かってくれるはずだ。


 会いたかった。消えてしまう前に。

 会いたかった。今まで一緒にいられて幸せだったと、伝えておきたかった。どうか幸せになってくれるように、カーディス王子殿下と幸せになってくれるように、伝えておきたかった。





 馬を歩かせて半刻が過ぎた。ミネアが疲れるのではと心配したが、彼女はいつか行う巡幸のためにか、馬に乗る練習を始めているようで、元気一杯だった。退屈もそれほどしないようで、アルガスに手綱を握らせてもらってからは、真剣な顔付きで前を睨んでいる。自分で馬を操っている気分に浸っているらしい。なんて可愛いんだろう、とシルヴィアはうっとりした。姫が『叔母バカ』になる気持ちが良く分かる。


 目前に橋が見えている。木でできた頑丈そうなものだが、幅が狭く、二頭の馬が並ぶのは難しそうだ。エルギンがミネアに道を譲り、ミネアは一人前にうなずくような礼をして、意気揚々と橋に挑んだ。シルヴィアはこわごわと橋の下を覗いた。少し下に幅の広い川が見えていた。落ちても死ぬような距離ではないが、もしもミネアとアルガスが転落したらと思うと気が気じゃなかった。


 けれど馬はつつがなく橋を渡りきり、ミネアが満面の笑みを浮かべてアルガスを振り返った。アルガスは端的に讃辞を述べた。


「すばらしい」

「やったー!」


 ミネアは馬の上で飛び跳ねた。アルガスが笑みを浮かべた。怖いのは本当に見かけだけなんだ、とシルヴィアは思った。


 その先の道は森の中に続いていた。【アスタ】を取り囲んでいたのと似た、梢の透間から日がたっぷり差し込んでくる、明るい居心地のいい森だった。道は広く、再び、エルギンが並んで進んでいた。


 シルヴィアはできるだけエルギンの方を見ないようにしていた。顔を見ない分には、エルギンは気持ちのいい相手だった。軽妙な口調でいろいろと説明をしてくれ、笑わせてくれ、ミネアを上手にあやした。ビアンカとはもうすっかり仲良くなったようで、先程から遠慮のない軽口を交わし合っている。この二人の会話を聞くだけでも楽しかった。ビアンカと同じく、雰囲気を作るのが上手な人だ。この人には頼めるのかしら、と、シルヴィアは先程からそれを見極めたいと思っていた。


 エルヴェントラという人が、どうにも油断ならない感じがする。姫の話を聞いたときに抱いた懸念は、エルヴェントラを見て、そして姫への態度を見て、少しずつはっきりとした疑惑へと成長し始めている。


 ランダールという人は、どうやら二年ほど前に死んだらしいのだが、多分今のエルヴェントラと良く似ているのではないだろうか。長旅から帰ったばかりの姫を、閉じ込めているようにしか思えない。食事時にくらいは帰したっていいだろうに、ミネアにお土産を渡すくらいは、させてくれてもいいだろうに。


 あの時アルガスは、シルヴィアの懸念を、わかる、と言った。そうなのだ。ここに来てからはっきり知ったが、【最後の娘】というのはやはり、地位的にはエスメラルダの王女に匹敵する身分なのだ。いくら生まれつきでないとは言え、そんな人をなぜひとりで旅に出したりするのか、知れば知るほど疑問がつのる。そもそも若い女性が、それも黒髪の娘が、このご時世に、ひとりで旅をするなんて考えられない。その上彼女は、ティファ・ルダのただひとりの生き残りなのに!


 ランダールは姫に、お前が死んでも次がいる、と言ったそうだ。

 シルヴィアには、それがランダールの本心だったとは思えない。

 本当は。本当は、【最後の娘】の責を担い、その上で、王に捕らえられて殺されてくれる方が、都合がいい、と、思っていたのではないのか――


 それはさすがに考え過ぎだろうか。もちろんそこまで思ってはいないだろう。でもこれだけははっきりしている。


 彼女が王に、捕らえられても、エルヴェントラは困らないのだ。

 その方が、王を非難できる材料になるからだ。


 そう、おじ様は、第一将軍は、ティファ・ルダの夜を、そしてエスメラルダに行けと伝えた小さな少女を、忘れてはいないはずだ。そのティファ・ルダの最後のひとりが生きていて、【最後の娘】の責を担い、その上で王に殺されたとなれば、第一将軍ももはや、王に味方をしなくなるのではないのか――


 考えすぎだろうか。でも。彼女に護衛をつけずに放り出す理由など、他に考えられない。


 エルギンはどう考えているのだろう、と、シルヴィアは隣の気配をうかがった。

 エルギンも、エルヴェントラと同じ考えなのか。それとも、アルガスのように、彼女を守る方に与してくれるのか。今回それを見極められれば、そして頼むことができれば、安心してラインディアに帰れるのに。





 海の匂いがする。


 森を進むうちに、いつしか、潮騒の音もかすかに聞こえ始めていた。鴉の聴覚と嗅覚はとても鋭く、それに気づいたのはシルヴィアが一番早かった。崖がある、と言った姫の声が思い出された。いいところだよ、落ち着いたら連れていってあげるね。


『先に来ちゃったわ……』


 手綱を持つのにも飽きて、ビアンカとおしゃべりを続けていたミネアが、シルヴィアの呟きを聞きとがめた。


「え、なーに?」

『姫がね、ここの話をしていたの。落ち着いたら連れていってくれるって。先に来ちゃった。あああ、やっぱり姫も来られれば良かったのに』

「だよねー!」

「シルヴィア姫、あなたまで……」


 マスタードラが困った声をあげたが、ビアンカの同意の声にかき消された。


「そうだよね、手紙だの書類だの来客だのって働かせ過ぎよ。せっかくおしゃべりしようって待ってたのに、あたしほとんどしゃべってないよ」

「ミネアはあってもないよ!」

「ひどいよひどいよ!」

『ひどいわひどいわ!』

「ひどいひどい!」


 三人の大合唱にマスタードラはあわあわと口を動かした。そして、


「しかし今は本当に忙しい時期なんですよ……しょうがないじゃないですか。【最後の娘】なんですから」

「王子様は来てるじゃないの」

「うわ、こっちに来たよ」


 エルギンは苦笑して、お手上げ、というように両手をあげた。


「僕だって忙しくしてたんだよ、ずっと。今日は運よく来客がなかったんだ。だからほっぽり出して来た。帰ったらまた寝る暇も無いよ。姫は来客があるんだ、しょうがないじゃないか」

「そうなんだろうけど、でも、長旅続きだったのよ? 一日くらい休ませてくれてもねえ」

「姫はね、三カ月いなかったんだ。本当に緊急の用件が山ほどたまってたんだよ。あと同盟の呼びかけ人ってことになってるから、彼女自身が書かなきゃいけない書類は本当にたくさんあるんだ。あれでもほとんどの書類はエルヴェントラが片付けてたはずだよ、スヴェンと違って有能だからね、エルヴェントラは。それに、さっきちょっと解放されてたし、午後は来客って言ってたから、たぶん書類は一段落したんだ。明日辺りから少し体があくと思うよ」


 来客がなければね、とエルギンは言い、シルヴィアは、どうだか、と思った。それにしても、


『さっき解放されていた?』

「ええ。お昼が済むまで、って言ってましたけどね。誰か捜してるんだって言ってたな」


 ミネアが叫んだ。


「ずるーい!」

「偶然だったんだよ、ミネア。もう少し時間があればミネアを呼びに行って会わせてあげてたよ」


 ビアンカが振り返った。


「え、じゃあ、あたしたちが出かけるってことも聞いたの?」

「聞いた。行きたいなあって言ってたよ」

「そりゃそうよ! ひどい! ひどいわ! それならどうして拉致して来ないのよ!」

「拉致って……」


 エルギンが苦笑した時、遠くにぽつりと、小屋が見えた。


「だってそうじゃない、王子様のくせに。そういう時に権力使わないでどうするのよ。王子様ってのは、たまには白馬に乗って女性を拉致しないといけないのよ、知らないの?」

「何だよその偏った王子像……。それにエルヴェントラは僕の命令なんか聞かないよ。こっちは居候みたいな立場なんだからね? 肩身が狭い思いで日々暮らしてる僕の身にもなってみてくれよ。拉致なんかしたらそのまま放り出されるよ」

「そこを敢えて拉致してこそ王子様じゃないの!」

『あれが……昔ニーナが湯治の時に住んでいた小屋?』


 シルヴィアの問いに、エルギンは助かった、という風に声音を変えた。


「そうですよ。今も管理人が住んでいてね、誰かが使いたい時にいつでも使えるように整えているんです。こぢんまりしてるけど居心地はなかなかですよ。でもなんで知ってるんです? 姫から聞いた?」

『ええ。昔の話をいろいろと』

「へええ」


 エルギンは感心したようだった。


「随分仲良くなったんですね」

『……ええ』


 小屋のそばには小さな井戸があって、馬に水を飲ませるための盥も用意してあった。一行はそこで馬を降りた。ミネアは早速小屋に駆け込んだ。中で駆け回る音と、「ロイドー! ローイードー!」と叫ぶ声が聞こえる。ビアンカも興味津々、と言った体で小屋を覗き込んだが、マスタードラが呟いた。


「おかしいな。ロイドの野郎、どこへ行ったんだろう」

「温泉じゃないのか」

「かもしれませんね。見て来ましょうか」

「どうせ行くんだからみんなで行こう」


 アルガスがビアンカに「失礼」と言って小屋の中へ入った。マスタードラは井戸から水を汲み、盥にあけた。馬が寄り集まって水を飲み始めたころ、アルガスがミネアを連れて出て来た。ミネアが報告した。


「どら、ロイドがいないよ」

「捜しに行こう。温泉の方だ」

「はーい!」


 ミネアはぱっと走りだした。シルヴィアはほのぼのとそれを見守りながら、少々情けない気分になった。三歳の女の子が半刻以上も馬に揺られて、それでもあんなに元気に走れるなんて。自分はなんてひ弱だったんだろうかと。いや、ミネアは鍛えられているに違いない。シルヴィアがひ弱すぎるということはないはずだ。たぶん。


「待て待てー」

「きゃーっ♪」


 ビアンカが追いかけるとミネアは歓声を上げ、さらに脚を速めた。アルガスが無言で後を追った。上着の下に、あの無骨な剣を下げているのがちらりと見えた。見ると、マスタードラも、大振りの剣を携えている。

 こんな休暇のような時にも、


『いつも持ち歩くんですか』


 訊ねるとマスタードラは、へ? と言った。何について聞かれているのか、分からないようだ。


「習性なんですよ、きっと。体の一部のようなもので」


 エルギンが事もなげに言う。そして、問うように、シルヴィアに手を差し出した。シルヴィアはありがたくその手に飛び乗った。人間の歩く速度で飛ぶのは難しいし、地面を蹴って進むと話をしにくい。その上肩に乗せてもらえば顔を見ないで済む、と思ってしまって、シルヴィアは申し訳なく思った。エルギンはこんなに親切なのに。エリオット王とは、全然違うのに。


 道はゆるやかな下りだ。木の梢を通して、穏やかな冬の日差しが差し込んできていて、空気は冷たく清涼で、とても気持ちが良かった。前方をミネアがきゃーきゃー言いながら駆け回り、ビアンカが待て待て、と追いかけ回している声が聞こえる。楽しそうだなあ、とエルギンが言った。

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