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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第一章 黒髪の娘
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黒髪の娘(6)

 手の中に落ちてきた鴉の体は、ゆっくりと呼吸を繰り返している。


 舞はしばらく、呼吸を止めるようにして、鴉の小さな体を見守った。ただ眠っているだけだとわかるまで、死んでしまったのではないかという恐怖に身を縮めていた。鴉の呼吸がまだ続いている、これからも続いていくだろうと、ようやく思えるようになった時には、体がすっかり強ばっていた。力が抜けて、長椅子にくずれるように座り込む。


 つつかれて血が出た手が痛い。


 考えてみれば、この食事に眠り薬よりひどいものが入っているわけはないのだ。殺してしまったら、王の楽しむ余地がなくなるのだから。




 ガルテから買った薬を塗りながら、膝の上に寝かせた鴉について、しばらく考えた。さっきから――ちょっと前から、この子の言いたいことが分かる気がするのは、どうしてなんだろう。人間の意識が宿っているということについては、もはや疑う余地はなかった。この子がヘスの存在と効能を知っているとは思えなかったが――何しろつい先日、エスメラルダの学問所でその効果が発表されるまで、毒を持つ雑草だと信じられていたので――偶然に、ヘスを口にしてしまったのだろうと、そう結論づけていた。


 エスメラルダの学問所で発表されたヘスの効能は、摂取した者の肉体と精神を遊離させる、というものだった。遊離した精神は別の生き物、人間よりはるかに知能の低い存在になら、乗り移ることができると言う。イーシャットと、『てことは猫とか鳥とかに乗り移れば、簡単に敵陣にもぐりこめるんじゃないか』と話したので――残った体をどうやって運び込むのか、という点が解決しなかったので、使えるとしても偵察だけだという結論に達した――覚えていたのだが、あの知識がなかったら、舞とてこの鴉の中に人間の精神が宿っているなんて思わなかっただろう。魔物かと恐れたガルテの反応の方が、健全というものだ。


 ――でも、そればかりではないけれど。


 クレイン=アルベルトに蹴られたのは、舞が見たときには、確かに少女だったのだ。


 あんまり綺麗な子だったので、顔かたちまでよく覚えている。アルベルトの足元にすがりつくようにした彼女が蹴られてのけぞった時には、蹴った男に対して、何という鬼畜が存在するのかと愕然としたほどだ。でも地面に倒れたのは鴉で――でも蹴られたのは綺麗な少女であるはずで――少し経つまで、蹴られたことで鴉になってしまったのではないかと、思った位だ。


 アルベルトが蹴ったのは鴉に過ぎないと、少なくとも彼はそう信じているのだと、わかってはいても、信頼する気には到底なれなかった。そして信頼しなくて正解だったのだろう。鴉がとは言え、二切れの肉を食べただけで眠り込むほどの、薬を飲ませようとしたのだから。


 ――この子と、アルベルトが知り合いだなんて。

 ――ヒルヴェリン=ラインスタークの関係者なのに。


 脳裏に、当時既に白髪まじりだった男の、優しい表情がよみがえる。その面影はいつも、優しい、泣きたいような暖かさとともに、思い出される。いつも。


 先程薬師の住居で、ガルテと第一将軍について話していた時に、確かに悲鳴が聞こえた。ガルテに聞こえなかったのが不思議なほどの、脳を切り裂くような悲鳴だった。『おじ様』、と呼んでいたように思う。


 どうして声が聞こえるのかは、よく分からないけれど。


 でもラインスターク将軍の関係者なら、何としてでも、元の体に戻してあげたい。いやそればかりじゃない。この子は可愛い。姿形ではなく、存在そのものが可愛い、という感じ。第一将軍と良く似ている。そばにいるだけで自分まで浄化してもらえるような暖かさだ。知り合いらしいアルベルトが王の命令で黒髪の娘を集めているなんて、思いもよらない様子に、つい、言い出せなかった。道に迷ったりしなければ、あんな胡散臭い男についてきたりしなかった。イーシャットにはいつも言われたものだ、マイ、俺達みたいな仕事だと、方向音痴って結構致命的だぞ?


 ――ホントにそうだ。

 ――こんなところで。

 ――なにもこんなときに。

 ――……なにやってるのかなあ、あたし。


 ため息をついて、舞は鴉をお腹に乗せて、長椅子に寝そべった。走り続けてさすがに疲れた。空腹のことは考えないようにして、少しだけ、休もうと思った。わざわざ睡眠薬入りの食事をたっぷりふるまったのだから、アルベルトも夜までは放っておいてくれるだろう。

 お前の能天気っぷりには感心するよと、イーシャットに言われるだろうなと、考えながら。




 十分ほど経っただろうか。

 そろそろ起きてこの家の中の探索を始めようかと考えていた頃だ。

 そっと、扉が開いた音がした。


 恐らくさっきの給仕が、薬の効き具合を確かめに来たのだろうと思ったので、舞はそのまま寝たふりをした。狸寝入りは得意技だ。でも戸の隙間から中を窺ったその人は、一瞬息を飲み、そして――毒づいた。


「何をやってる……!」


 男だ。

 聞き覚えのない声だったので、意外に感じた。言葉の内容は何だか、知っている人間に対するもののように思えたからだ。何をやってる? 寝てるんですけど、と軽口めいたことを考えているうちに、男の気配が近づいてくる。


 一体誰だろう。狸寝入りを続けながら考える。この館の者、つまりアルベルトの味方ならば、舞が寝こけているからと言って毒づいたりはしないはずだ。


 男が隣に立った。手を伸ばせばすぐに触れる位置だ。屈み込んでくるのが気配で分かる。間近でまじまじと見つめられている。イーシャットからお墨付きをもらった狸寝入りだが、さすがに少々不安になって来たころ、男の手が頬に触れた。


 ぴりっとそこだけ電流が走ったような気がした。

 指先はすぐに離れた。ため息――深い深いため息が、聞こえる。


「睡眠薬か……参ったな」


 あたしが誰だか知っているのだろうかと、もう一度思った。落胆したような、ふがいなさをなじるような、このまま放っておくわけにはいかないというような、声音だったからだ。でも、何度記憶を探っても、この声の持ち主に心当たりがなかった。まだ若い男の声だ。低くて落ち着いた声は、憤りを含んでさえいなければ、きっと耳に快いだろう。


 ――あなたは、誰?


 目を開けたい衝動に駆られたが、その前に男が体を起こした。気配が離れて行く。男は扉のところで最後にしばらくためらって、そして、――出て行った。


 扉が閉まる。一呼吸おいて、舞は目を開ける。男の気配の失せた部屋は、さっきとは違ってひどく空虚な感じがする。


 背嚢に鴉の体と帽子をいれて背負うと、追跡を開始した。



   *



 館の中は静まり返っていた。


 外の方では、人が動いているような気配はするのだが、館の中には人が少ないようだ。そもそもそれほど広い建物ではない。舞から見て右手に、先程通って来た廊下と玄関があり、左手に裏口が見えている。正面には今までいた部屋と向かい合う形に扉があり、その左手に、二階へ続く階段があった。


 耳を澄ますが、今の男がどこへ向かったのか分からなかった。廊下にも階段にもふかふかの絨毯が敷かれていて足音がしない。舞は右を見て、左を見て、とりあえず階段を上がってみることにした。男は多分裏口から入っただろうから、ここから裏口側にある扉は既に調査済みだろう。全身の神経を研ぎ澄ませて階段を上って行く。


 踊り場を曲がると階段を上がりきったところにある扉が開いているのが見えた。二階にはその扉しかないようだ。とすれば随分広い部屋、と言うことになる。あの部屋には一体何があるのだろうと、考えて、ふと足を止めた。


 階段の上がり口付近に、細い細い糸が張られていたからだ。

 糸は膝くらいの高さに、階段の手すりから壁までぴんと張られていた。糸の端は壁の向こうに隠されるように留められて、端に小さな小さな石が結び付けられている。いや良く見ると石じゃなかった。鈴だ。下はふかふかの絨毯だから、糸が引っ張られて鈴が落ちても、かすかな音しかしないだろう。


 糸に触らないようにまたぎ越える。これを仕掛けたのはアルベルトではなさそうだ。アルベルトならもっと大勢に聞こえるよう、大きな音を立てさせただろう。ということは、あの部屋の中にいるのは、たぶんさっきの男だ。


 扉のわきに身を寄せて中を窺うと、誰かが中でゆっくりと動き回っているのが分かった。気をつけて聞かなければ聞こえないだろうくらい、わずかな音だ。


 気配がゆっくりと、奥へ移動して行く。気配を探り、男が一人しかいないこと、そして向こうを向いたのを確かめてから、そっと中を覗いた。


 背の高い男だった。

 簡素な旅装に身を包んだ、引き締まった体躯が見えた。肌は浅黒く、頭髪は明るい茶色だ。眉根をよせて、記憶を探った。こんな体つきの男に会ったことがあるだろうか。いや、全く心当たりがなかった。エルティナとしても、舞としても、そう、【最後の娘】(エスティエルティナ)としても、こんな知り合いはいないはずだ。


 顔を見たら思い出すかもしれないけれど。

 男が何かを捜しているらしいそこは、豪奢な部屋だった。どうやら若い貴族の女性が住むために作られたらしく、目を引くのは部屋に作り付けになっている大きな衣装戸棚だ。部屋の半分ほどは占めそうな巨大なもので、中で数人が入って、なおかつ座ったりして、服をじっくり吟味できそうなほどの巨大さだ。男は真っ先にそこを捜したらしく、開いたままの扉からさまざまな衣装が覗いていた。どれも豪勢なものばかりだ。ニーナがこの部屋を見たらきっと大喜びだ。あの真っ白な絹のドレスなんて、ニーナに良く似合いそう。


 男は今は天蓋つきの寝台を調べ終え、巨大な鏡の方へ向かっている。

 何を捜しているのかは分からないが、小さなものではないようだった。捜す速度がすごく速い。金目のものにも興味はないようで、宝石入れは箱を触ってみただけで蓋を開けもしなかった。今は鏡の縁を丹念に調べている。と――


 カチリ、と、鏡が動いた。


 全身どころか二、三人は映せそうな巨大な鏡は、どうやら奥へ続く扉になっていたようだった。舞は顔を引っ込めた。鏡の角度が変わったら、男に見られてしまう。隠れる寸前にちらりと見えた男の顔にも、やはり見覚えはなかった。目を見ないと決断は下せないが、でもやっぱり知らない顔だ。まだ若い男だった。年上だとしても二、三歳程度だろう。年下だということは無さそうだ。


 と、先程毒づいたのと同じ声が、再び毒づくのが聞こえた。


「くそ……ッ!」


 何があったのだろう。捜し物が見つかったのだろうか。再び首を突き出した舞の目に、鏡の奥の部屋にあるものがちらりと見えた。


 ――嘘、


 壁に造り付けられた水槽のようなものの中に、


「……嘘」


 声が、漏れた。

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