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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第六章 エスメラルダ
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エスメラルダ(1)

    残り十日



 エスメラルダに到着したのは、次の日の、朝食時だった。


 街道は、林の中を緩やかに上っていた。シルヴィアは「もうすぐだよ」という姫の声に意外に思った。エスメラルダという国を、シルヴィアは漠然と、ウルクディアやラインディアのような場所だと想像していたのだ。つまり、華やかな都会だと。ところが周囲には林しかない。街道の煉瓦はきちんと手を入れられているようだが、街なんかどこにも見えない。なんだかものすごく田舎にきた、という気がする。


 姫が馬を止め、降りた。アルガスはと見れば、こちらも同じように降りていた。シルヴィアの視線に姫は微笑んだ。


「もうすぐ国境があるからね。馬に乗ったままじゃちょっと」

『国境……』


 どこにあるというのだろう。シルヴィアは馬の頭の上で伸び上がって前方を透かし見た。何も見えない。本当に林しかない。


「それにルファルファ神の勢力地に入るから。エスメラルダの中枢区では徒歩が基本なんだよ。でもシルヴィアはそのままで構わないよ。ガス、馬は国境で預けられるから……でもその馬ラインディアの、旅馬じゃなくて軍馬だよね。放したらラインディアに帰るのかな」

「どうかな。どさくさで乗って来てしまったが、シルヴィア姫がラインディアに帰られる際にでも返した方がいいかもしれない」

「じゃあ放さないでって伝えておこうか……」


 その時、シルヴィアは、姫の声に、かすかな震えを感じた。


 覗き込むと頬が青かった。平然とした顔で、事務的なことを話し続けているのに、唇からも血の気が失せている。徹夜が堪えたのだろうか。それとも故郷に帰ったから、旅の疲れがどっと出たのだろうか。もう少し馬に乗ったまま進んでもいいんじゃないかと思っているうちに、姫の足が、止まった。


 シルヴィアは息を飲んだ。彼女は硬直していた。馬もいぶかしげに止まって彼女を見た。アルガスが心配そうな視線を注いだ。姫は唇を噛んでいた、顔もしかめていた、その顔は本当に真っ青で、今にも倒れそうだ。


『どうしたの、どこか、痛いの?』

「ごめ……なんでもない」


 なんでもないって顔じゃない。そして足が動かない。するとアルガスが言った。


「心配なら、シルヴィア姫に見て来てもらっては」


 ――何を、


「……いい。平気。大丈夫。もうちょっと……」

「あ、いたな! おおーい!」


 唐突に、斜面の上の方から太い声がかけられた。姫がぱっと顔を上げた。見るとまだだいぶ遠いが、斜面を上り切った辺りに人影があった。大柄な男の人だった。彼は口元に両手を当てて怒鳴った。


「やっぱ硬直してやがったかー! 大丈夫だ、ニーナがお待ちかねだぜ!」

「……生きてた!」


 姫は悲鳴じみた声を上げ、足を踏み出した。そしてアルガスを見た。アルガスはうなずいた。


「馬は預かる。こちらのことは気にしないでいい」

「ごめん……!」


 彼女はシルヴィアにも申し訳なさそうな一瞥を投げて、そして、背嚢も荷物も全部放り捨てて走りだした。それはもう飛ぶような走り方で、ウルクディアで兵士に追われていた時よりもまだ、速いのではないかと思うほどだった。シルヴィアが事態を悟って微笑んだ時にはもう、叫んだ誰かのところに迫っていた。大柄な男は飛び込んで来た姫を抱き上げ、「良く戻ったなこんにゃろう!」と盛大な歓迎の声と共に斜面の向こうへ放り投げた。姫の小柄な姿が向こうへ消える。


『そっか、ニーナ姫が心配で……グウェリンさん、良く分かったわね。あの人が硬直した理由』

「【アスタ】でビアンカが死んでいるのではないかと思った時、やっぱり同じふうでしたから」

『そう』


 アルガスは姫の荷物を拾い上げて馬の背に乗せ、自分の馬と、姫の置いて行った馬と、両方の手綱を取って歩きだした。斜面の上にいる誰かはこちらを迎えるべく動き出しているが、まだだいぶ遠いから、少しは時間がありそうだ。

 シルヴィアはアルガスの横顔を見た。今しか機会はないかもしれない。


『……グウェリンさん?』


 声を改めると、灰色の瞳がシルヴィアを見た。


「どうかしましたか」

『お話があるの』

「……なんでしょうか」


 シルヴィアは降りてくる人間までの距離を目で測った。

 アルガスになら頼めるだろう、と思った。今回の短い旅で良く分かった。この人の姫を見る目の、あまりの優しさで。デクターの言った言葉は正しかった。怖いのは見かけだけだ。それに腕も立つ。最適だ。


『……あの。姫には言わないでね。私にはもう、どうやらあまり時間がないようなの』


 アルガスが立ち止まった。馬が二頭とも、不満そうに鼻息を漏らして止まった。


「時間が、ない、とは」


 シルヴィアは、アルガスの方を見なかった。だからどんな表情をしたのか、わからなかった。前方の大柄な男はゆっくりと降りて来ているが、長話ができるような余裕はなさそうだ。急がなければ。


『だってこの体は鴉ですもの。私の体じゃないもの。鴉の脳で人間の意識を支えるのには限界があるそうなのよ。最近物忘れが激しくなって、うまく言葉が出なくなって。話すのに少し苦労がいるのよ、言葉を組み立てるのが疲れるの』


「……それは」


『いいの。覚悟はしてるし、あなたに気に病ませるつもりはないのよ。どうかお願い、気にしないで。私が言いたいのは姫のこと。居心地が悪かったでしょうに、いろいろと、一緒に聞かせて申し訳なかったわね。あのね、私、姫には絶対に生きていてもらいたいの、元気で幸せでいてほしいの。恩人だもの。大好きだもの。ねえわかるかしら、あの人は、私をもう一度人間にしてくれた。あのまま、誰にもわかってもらえずに飢え死にしていたらと思うと本当にぞっとする。でもそれを差し引いても、私はあの人が大好きなの――もういいじゃない、って思うの。もう充分ってほどひどい目に遭ったのに』


「……はい」


『でもランダールという人が呪いをかけたわ。私、ランダールという人が嫌いだわ。あのね、考え過ぎかとは思ったのだけど。【最後の娘】がたったひとりで動く方が、いろいろと効果は高いのかもしれないって思ったの、その効果を期待したんじゃないかって……うまく言えないんだけど。わかるかしら』


 意外にも、アルガスは頷いた。


「わかります」

『そう、あなたもそう思って? そうじゃなきゃルファ・ルダの王女に匹敵する地位にある人が、たったひとりで出かけて、ウルクディアで兵士に追いかけ回されるなんてあるわけないものね? ああ、時間がないわ。用件を言うわね。あなたのお仕事は、エスメラルダに着いたらそこで終わりなのでしょう? でもあの人はこの後も、安全なここにはいられないのだろうって思うの。またアナカルディアに出かけたりするんじゃないのかしら。それも、ひとりで。少なくとも、エルギン王子が王位を継ぐまでは。だから……それまで、あの人の護衛を、お願いできないかと……思って。次のお仕事が入っていて無理かしら。でもできればぜひ。何もお支払いできない、だからあなたの好意におすがりするしか、ないんだけれど』


「はい」


 シルヴィアはアルガスを振り仰いだ。


『え……引き受けてくださるの?』

「はい」


 アルガスの声はひどく優しかった。


「エスメラルダにいる間は安全でしょうが、外に出る時には、何か理由を作ってついて行く。お約束します。既にいろいろな人から頼まれていますし」

『いろいろな人……?』

「カーディス王子にもきつく言われています」

『カーディス様! あなたを姫につけてくださったのは、』

「ええ。それから草原の民の、新しい長にも釘を刺された。そして俺の、養父にも」

『お養父さまにも……?』

「何より俺自身が、あの人に無事でいてもらわなくては困るんです」


 アルガスはいつもよりは早口でそう言うと、息をついた。そして頷いて見せた。


「ご心配なく、シルヴィア姫。力の及ぶ限り、お心に沿うよう働きます」

『……ありがとう。良かった、ホッとしたわ』


 ため息をつくと、アルガスが微笑んだ。


「あの男が、あなたを恐れた理由が良く分かりました」


 ――あの男?


 誰のことだろうか、鴉などを恐れる男などいるだろうか、と疑問に思ったが、そこで時間切れだった。人間の目でも顔が見分けられる距離にまで近づくや、大柄な男が再び大声を上げたのだ。


「おま、え、あれじゃないか! ほら! グウェリン、そうだ、グウェリンだろう!? 護衛ってお前だったのかー!」


 叫びながらどどどどど、と地面を揺らしてかけてくる。知り合いだろうか、と思ううちにアルガスが声を上げた。


「ご無沙汰しています、マスタードラ」


 マスタードラ。姫の話に何度か登場した、剣豪だという人の名前だ。随分大柄で、そして人の良さそうな男だとシルヴィアは思った。目尻が垂れていて、眉も下がっていて、両手がとても長く、背をやや丸め気味にしているので、何だか大柄な割に気弱な印象だ。今はすごい形相だが――とその形相が破顔した。


「ほんっとにご無沙汰じゃないか! 大きくなりやがって、一瞬わかんなかったぜ! 薄情な奴だよな、またすぐ来いよって言っておいたのによ、何年振りだ? 三年か? なんだよ姫の奴、護衛がお前ならそう書きゃいいようなものをな。いや待て、あいつは知らないんだっけか?」

「そうですね。前にお邪魔した時にはちょうど不在でしたから」


 マスタードラはアルガスの手から手綱を奪い取った。


「馬なんか放っておけ。国境の人間に頼めばいい。ほら行くぞ」

「え? どこに」

「また来た時は剣の相手をしてもらうって言ったろう! ぐずぐずすんな!」

「待ってください、シルヴィア姫が――」


 アルガスの言葉も耳に入らないようで、マスタードラはさあさあさあさあとアルガスを引っ立てて行ってしまった。シルヴィアは呆気に取られていたが、二頭の馬と共に取り残されて、どうしましょう、と辺りを見回した。けれどありがたいことに、斜面の上から新たな人影が姿を見せていた。その人は、マスタードラに引きずられて行くアルガスをまじまじと見ながら、そのわきをすりぬけて、にっこりして、駆け寄って来た。


「やっほーシルヴィア、長旅お疲れさま!」


 ビアンカだった。シルヴィアはほっと息をついた。


『ああ、よかったわビアンカ! 無事だったのね』

「それはこっちの台詞。姫がすっごい勢いで走って行くのを見たから、迎えに来たんだよ。人間ってあんなに速く走れるんだってびっくりしちゃった。護衛ってやっぱりアルガスだったんだ。けど何あれ?」


『さあ……知り合いだったみたいね。グウェリンさんは前にここに来たことがあるみたい。剣の相手をするって約束していたとか……でもグウェリンさん、徹夜明けなのにね』

「あはは、可哀想。マスタードラって、ふだんは本当におっとりしていて、なんかぼんやりした人だなって思っていたけど、剣のことになると人が変わるんだって。聞いてた通りだ。おもしろーい」


 ビアンカは二頭の馬の手綱を持って歩かせ始めた。シルヴィアはほっとした。手がないというのはいかにも不便だ。


『ニーナ姫の命、デクターさんが延ばせたの?』


 口止めされていたから、姫には言えなかったことだ。ビアンカは軽く頷いた。


「うん。あ、ニーナはニーナ姫って呼ばれるの嫌がるよ。あたしがここに来てもう五日になるけど、初めはすごく……本当に死にかけてるって感じだったの。寝台に寝たきりで。でも日に日によくなって、今は自分でお風呂にも入れるようになったんだよ。すごく喜んでた。ご飯ももりもり食べられるようになったしね。もう治っちゃったんじゃないかってほど元気になったと思うけど、デクターは一日三回、食事の後に何かしてる。何してるのかまではわかんないけど」


『そう。よかったわ、本当に。早く会いたいな』

「覗きに行ってみる? もう姫のあいさつも一段落しただろうし――」


 斜面を上がり切った場所に粗末な小屋があって、ビアンカが馬を引いているのを見てか、男の人が手伝いに降りて来た。馬を預けることができ、荷物も後で届けてくれると言ったので、ふたりはそこで身軽になった。小屋から少し上がると斜面の頂上で、そこから、集落が一望できた。シルヴィアは羽を震わせた。なんて小さなこぢんまりした集落だろう――そしてなんて、清浄な空気だろう!


「【アスタ】に似てるよね、なんだか」


 腰に手を当ててエスメラルダを見渡したビアンカは少し、嬉しそうだった。


「中央に見えるあれ、ほら、小さな綺麗な煉瓦の家。あれがニーナと姫が住んでる家。あたしもあそこに泊めてもらってるんだよ。マーシャって人が切り盛りしてる。これがまたすっごいいい人で、もう、お母さんって言葉を人間にしたらああなるんじゃないかって人だよ。で、右手の――ほらあっちの斜面を上がった真ん中くらいに大きな建物があるでしょう。あれが学問所。変な人がいっぱいいるよ」


 ビアンカはひとつひとつ説明してくれながら、シルヴィアを肩に乗せてゆるやかな斜面を下って行った。見た感じ、どこもきちんと整っていて、綺麗で、征服された時の傷痕は見えなかった。それにしても田舎だった。空気は澄んで冷たく、とても清浄だ。生まれて初めて、肺の奥の奥の奥まで空気が染みとおったような気がした。


「【アスタ】から続々人が来てるんだよ。アンヌ様も行く先を用意してくださったんだけど、それよりはエスメラルダの方がいいって考える【契約の民】はすごく多かった。だってほら、学問所があるしね? お医者さんたちが大勢来てる。女の子たちの方はそうでもないかな。あたしは【アスタ】から来る人たちの総合世話係みたいな感じになっちゃった。いろいろ忙しくって、あっと言う間に時間が過ぎちゃうよ。でもヘスタとデリクが一緒にきてくれたから助かった。ヘスタって本当に有能だよ。今まで実はあんまり好きじゃなかったんだけどちょっと見直したかも」


『ヘスタさんって、ええと……』


「ロギオンの秘書やってた人。中年で目がほっそくて口数多い割に何考えてんのかわかんなくて苦手だったんだ。まあ今も苦手ではあるけど、入ってくる人たちに家をあてがって不足がないように準備して、エスメラルダ側に頼む必要があることは頼んでくれるし、あたしやデリクじゃどうにもならないからね、そういうの。ガルテはさっさと学問所に入り浸っちゃって、生まれてからずっとここに住んでますって顔して薬草の研究ざんまいだよ。あの人実は医師の資格も持ってんだって、【アスタ】の案内人になった時に薬師の方が便利だからってそうしたらしいんだけど、あんなに人相悪くてあんなに商売下手であんなに食い意地が張ってて血が苦手なくせに医師だなんて、大丈夫かしらね」


 ビアンカのおしゃべりが懐かしく、シルヴィアはうっとりとそれを聞いた。姫もこれくらいしゃべってくれればいいのに、と思った。ビアンカがいれば、あのような雰囲気になることだけはなかっただろう。誰もがひとつは天賦の才能を与えられると言われるが、ビアンカの場合はこのおしゃべりに違いない。これだけしゃべって全くうるさくないどころか、人をいい気持ちにさせるなんてすごいことだ。




 斜面がゆるやかになり、家が増えてきた。道行く人に、ビアンカは愛想よくあいさつをした。すっかり顔見知りになったようだ。それどころか、町の人々はシルヴィアのこともよく知らされているらしく、誰も奇異な目で見たりせず、それどころか人間にするように、シルヴィアにもていねいなあいさつを投げてくる。シルヴィアはさらにうっとりした。自分が鴉であることを忘れてしまいそうな居心地のよさだ。


 ここがエスメラルダか。

 シルヴィアは周囲を見回しながらにっこりした。

 到着したときには田舎すぎると思ったが、アイオリーナをここに連れてきたい、と今は思う。


「ああ、ビアンカ様。シルヴィア姫と会えたんですね」


 ニーナの家だという煉瓦造りの家のすぐそばまできた時、ちょうど裏口から出てきた人がいる。大柄な、ふくよかな女の人だ。ゆっくりとした、暖かな声は、その人の人柄をまざまざとシルヴィアに伝えた。その微笑みも。


「そちらが、シルヴィア姫でいらっしゃいますか。まあまあ、遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」

「マーシャよ」


 ビアンカが言ってくれ、シルヴィアはビアンカの肩の上でていねいに頭を下げた。


『初めまして、マーシャさん。お世話になります』

「あら、やだ、マーシャとお呼びくださいな。どうぞお入りください……と言いたいところなのですが、どうしましょうかしらねえ」


 マーシャは初めて少し困った顔をした。


「いえね、今、姫様がニーナ様に、報告なすっているところなのでね。申し訳ないけど、近づかない方がいいと思うんですよ」

『報告……?』

「三カ月分ですからね。夜までかかりますよ、きっと。エルギン様からも、姫様が戻ったらすぐ会いたいからくれぐれも知らせてくれと言われているのですが、明日にしようと思っているところで」

「何をそんなに報告してるの?」


 ビアンカの問いに、マーシャは微笑んだ。


「何もかもですよ。何もかも。申し訳ないのですが、どうぞお静かにお入りくださいませ。見つからないように覗いて見るくらいなら構わないかと思いますから、ご覧になってはいかがですか。邪魔しちゃいけないのがお分かりになるかと思いますよ。シルヴィア様の湯浴みとお食事の準備をしますから、玄関からお入りになってください。ビアンカ様、ニーナ様たちのお部屋の、左にある居間にお通しいただけますか? 恐れ入りますが、くれぐれも中断させることのないようにお願い申し上げます」


 マーシャの指示にしたがって、ふたりは玄関に回った。姫君が住むにはかなり小さなこぢんまりした建物だった。けれどきちんと整頓され、手入れが行き届いていて、とても居心地が良さそうだ。ビアンカは靴をていねいに拭ってから家に上がった。正面に見える扉は閉じられている。――けれど。


 中から話し声がしている。


 いや、聞こえるのはひとつの声だけだ。それは姫の声だった。かすかだがシルヴィアにはよく聞こえた。つっかえつっかえ、話したいことが多すぎて口がうまく回らない、と言うような切羽詰まった話し方で、シルヴィアは不意に胸を衝かれた。


 三カ月分、胸に溜めてきたことを、洗いざらいぶちまけている。


 そうして洗っているのかもしれないと思った。心とか感情とか、ウルクディアであの父親に浴びせられた言葉だとか、シルヴィアの突き刺してしまった刺だとか、そういう重くて辛い出来事すべてを、ニーナの前で洗い流しているのかもしれない。こうして七年前の出来事も洗ったのかもしれない、だからあんな風に、シルヴィアを気遣いながら話すことができるようになったのかもしれない――


「ニーナの部屋はここだけど……」


 ビアンカが指さして、覗いて見ようか、と言うのに、シルヴィアは慌てて首を振った。確かにこれは邪魔しちゃいけないことだ。ビアンカにはシルヴィアほどはっきりとは聞こえないのだろう。話が【アスタ】での出来事に移っている。これ以上聞いちゃいけないわと、シルヴィアは羽ばたいて先に進んだ。


『……行きましょ、本当に、邪魔しない方が良さそうだわ』

「そう……?」


 ビアンカは首をかしげたが、逆らわずに後をついてくる。シルヴィアはマーシャが手招きした居間の方へ、とんとんと床を蹴って進みながら、安堵を、覚えた。


 ――あんな風に話せる人がいて、そしてその人が死なずに済みそうで、本当によかった。


 少しだけ。少しだけ、淋しいような気もしたのだけれど。

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