家路(11)
*
――シルヴィア姫。どうか、この、手を、取ってはいただけませんでしょうか。
無骨な声がつっかえつっかえ言った言葉は、シルヴィアの記憶に刻まれていた。
アルベルトも似たようなことを言ったが、鴉になったシルヴィアをそうと分からずに蹴った。シルヴィアは今、わずかに恐れを抱いていた。ルーウェンにだって分からないだろう、分かる方が不思議だと。こんな醜い鴉がシルヴィアだとわかるなんて、そこまでの愛情を相手に期待するのは行き過ぎではないのかと。
けれど今のシルヴィアは、ウルクディアにたったひとりでいた時とは全く違った。シルヴィアは抱いた恐れを振り払った。アルベルトはそもそもシルヴィアのことなど愛していなかったからだ。ルーウェンは違う。違うはずだ。あの人の抱いてくれた愛情は、鴉だろうとなんだろうと、シルヴィアに向けられたもののはずだ、
――そうじゃなかったら七代先まで呪ってやる……!
『私です、シルヴィアです! ルーウェン=フレドリック様、私を覚えていてくださるでしょう!?』
ルーウェンは混乱しているようだった。それはそうだろう。いきなり鴉に名前を呼ばれたのだから。
けれどデクターの作ってくれた首飾りは、放つ声に、生前のシルヴィアの声とごく近い色を抱かせてくれている。ルーウェンはシルヴィアを見、そして前方の姫を見た。馬の速度を緩め、そして右手を上げた。
「――止まれ!」
馬蹄の響きがさらに緩んだ。それはシルヴィアが懇願したからというよりは、姫が、こちらを振り返って、速度を落としていたからのようだった。既に幾人かの兵が彼女の先へ出ていた。きりきりと引き絞られる弓が彼女を狙いながら取り囲んだ。どうして足を止めたのかと叱りたくなった、シルヴィアは矢を射ることをやめさせられれば、そしてできればアルガスの道を開ければと思っただけだったのに、姫まで立ち止まらなくてもいいようなものなのに。だが、彼女は平然としたものだった。立ち止まり、馬首を巡らせて、ルーウェンに向き直る。
ルーウェンがゆっくりと姫に近づいて行く。追いついてきた兵達がさらに幾重にも姫を取り囲んで水も漏らさぬ包囲を敷いた。シルヴィアはドキドキしたが、気力を奮って、舞の馬に戻った。そして馬の頭に降り立ち、胸を張って、ルーウェンを見た。
こうなった以上、是が非でもルーウェンを説得しなければ。
『ルーウェン様。お会いしとうございました』
シルヴィアは声に、出来る限りの愛しさを乗せた。
『こんな姿になってから、あなたに再びお目にかかることになろうとは。あなたの手を永遠に取れなくなった私を、それでも助けていただけるでしょうか』
ルーウェンは答えなかった。ゆっくりと馬を進めてきて、まずしげしげと姫を見、それからシルヴィアに視線を移した。隊長、と矢を番えた誰かが声をあげた。周囲の馬蹄の音が完全に消え、右前方、アルガスのいる方からの剣戟の音が唐突に聞こえ始めた。
さあ、囲まれてしまった。シルヴィアは翼と呼吸を整えた。クレイン=アルベルトがたどり着く前に、なんとか道を開かなくては。
『この人は私の大切な友人なのです。街道を進んでいたら、急に襲われましたの。黒髪でもないのに、どうしてなのかしら』
「……隊長」
先の誰かが不安そうな声をあげる。いったい隊長はどうしてしまったのだろうと、彼も、回りの兵達も思っているに違いない。ルーウェンはシルヴィアを見たまま動かなかった。シルヴィアと認めた風ではないが、捕らえよと、命を下すわけでもなかった。
さっきこの人の顔を思い出したのは、きっと予感だったのだ。
薯じみた、と侍女に言われた無骨な顔をシルヴィアはじっと見つめた。確かに、と、本心では、シルヴィアもいつも思っていた。今も思う、薯のようにでこぼこした顔だと。でも、だから何だと言うのだ?
『私を分かってくださらないの……? アイオリーナの居室で共に過ごした時間をもう、お忘れになってしまったの? 私は覚えているのに。いつかあなたの手を取りたいと、思っていましたのに。お返事を差し上げられないまま命を落としてしまったことを、どんなに哀しく思ったか』
「お命を……」
ルーウェンが呻いた。先ほどの兵がまた言った。
「隊長! どうなさったんです、鴉じゃないですか! 魔物ですよきっと! あなたをたぶらかそうと、」
『炉端で一緒に刺繍をしましたわね。本当に楽しかったわ。いただいた薔薇の手巾、大事にしておりましたのよ』
「馬鹿なことを言うな、魔物め! 隊長がなぜ刺繍など」
ルーウェンが、顔をしかめた。そして声をあげた兵士を一瞥した。
「少し黙っていてくれないか。そもそも、私に刺繍の趣味があってはおかしいか?」
「へっ!?」
「矢を下ろせ。……シルヴィア姫」
ルーウェンは端的に命じて馬を降りた。そして歩み寄り、姫の馬の左に立った。姫にはもう一瞥も向けず、馬の頭に立ったシルヴィアに、視線を注いだ。
「私の趣味を人前で話さぬと、お約束いただいたではありませんか」
『ええ。本当に申し訳ないと思います。でも信じていただけるかどうか、不安だったので――』
「我らは王の要請を受け、王に刃向かう勢力の重要人物を捕らえようとここにいたのです。華奢な娘だと聞いていたのですが。この方は、姫の大切なご友人だということですが……?」
『ええ。本当に本当に、大切な人なの。アイオリーナに紹介するのが楽しみなの。もちろん、おじ様にもね。お願い、助けていただけませんか。後ろの人たちを止めてください。あの人は、私の友人の護衛をして下さっている人で、悪い人ではないんです』
ルーウェンは少し離れた場所でまだ続いている剣戟の方を目をすがめて見た。振り仰ぐと姫もそちらを見ていた。険しい顔をして、そちらを睨んでいる。まるで怒っているかのように。
視線を向けると、騒動は少しずつ近づいてきていた。アルガスを取り囲んだ兵達は十数人はいるのに、彼の前進を阻めずにいた。人馬に囲まれてアルガスの姿はよく見えないが、見る間に兵達の数が減って行く。がぃん、と鈍い音と共に、悲鳴をあげて誰かが馬から落ちて視界から消える。
ルーウェンは片頬に笑みを刻んだ。
「すさまじいな。我が隊の人間では足止めも難しい。リケロ、護衛を通して差し上げろ。これ以上の被害を被らんうちにな」
呼ばれた人間が隊を離れた。馬を走らせて剣戟の方へ向かい、ややして呼び子が鋭く鳴り渡るのが聞こえた。
それを見届けてから、
「……なぜ、鴉になられました」
ルーウェンがこちらに視線を戻して、訊ねた。その目には恐れが見えた。既に覚悟している悲劇を待ち受けるかのように、唇が引き結ばれた。シルヴィアは姫を振り返った。
『この人を通して下さいますわね? ありがとう、ルーウェン様。マ……エルティナ、どうぞ先へ。あの人もすぐ追いつくでしょう』
姫がシルヴィアに視線を注いだ。黒い目に哀しげな色が見えた。彼女は身を屈めて、左手でシルヴィアの翼を取って口づけた。
「ありがとう、シルヴィア=ラインスターク姫。あなたを選ばれた将軍のお気持ちが、よく分かります」
『最高の褒め言葉だわ』
「フレドリックさん、でしたか。どうかこの方を、くれぐれもよろしく」
姫はそう言い、頭をひとつ下げると、馬首を巡らせた。シルヴィアは羽ばたいて街道に降りた。ルーウェンが睨むまでもなく兵達は自ら動いて彼女を通した。アルベルトはまだたどり着かない。アルガス=グウェリンが倒したのだろうか。
今のうちだ、とシルヴィアは思う。
姫の後ろ姿が兵の包囲をつつがなく抜けるまで見守ってから、シルヴィアはルーウェンを振り返った。
『ルーウェン様。先程外套をすっぽり被った人がいましたわね。金髪の』
「はい」
ルーウェンはひざまずき、シルヴィアに手を差し伸べた。手のひらの上に乗ると、そっと持ち上げられた。
周囲の兵達が馬から降りて集まってきている。アルガスはと見れば、阻んでいた者たちが道を開けたのでその姿がはっきり見えるようになっていた。馬を速め、街道に乗り上げ、頭を下げつつ無言で通り過ぎた。行き過ぎる時にシルヴィアを見、目礼をひとつした。自在に操っていた剣ももはや収められていて、未だ藍色に染まった目と、誰かから奪った馬だけが、先程の乱闘の名残だった。
シルヴィアはルーウェンに視線を戻した。
『クレイン=アルベルト。あの者が私を差し出し、そして王が私を殺しました。私はまだやらなければならないことがあったのです――ですから鴉に意識を宿したのです。本当にそんなことがあるのかとお疑いなのは承知しています。私とて、自ら経験しなければ信じられなかったでしょうから』
姫とアルガスの姿が小さくなり、シルヴィアは、今さらながらに、安堵に身を震わせた。分かってくれた――ルーウェンはわかってくれたのだ!
これ以上、この人が、そしておじ様が、あの男を近づけないようにしなければならない。それは第一将軍の娘の義務だ。
『あの男、クレイン=アルベルトは魔物です。なぜ一緒にいらしたの? あなたともあろうお方が、あのような――ものと』
「将軍がはっきりとおっしゃらない限り、我々も王の要請をはねつけることができないのです。それも黒髪の娘や【契約の民】を集めるというような話ではなく、近々反逆者の重要人物がここを通る、とはっきりと言われては。しかし魔物とは。魔物とはあれほどひ弱な存在なのですか。馬の上で身を支えることもできず、黙りこくって、暇さえあればうずくまってばかりいましたが」
ルーウェンはシルヴィアを覗き込んだ。その目にはひどく切実な色があった。
「先程から話をそらそうとなさいますね。だがはっきりとおっしゃいました。王があなたを……殺した、と」
『ええ』
無骨な顔が歪んだ。
「もはやそれは……決まってしまったことなのでしょうか」
不思議な言い回しだとシルヴィアは思った。でも気持ちは分かった。シルヴィアも思っていた、鴉になってから、毎日毎日思っていたのだ。
『……ええ。こうなるとわかっていたのでしたら、はっきりとあなたを拒絶しておきましたのに。どうか許して下さい。私の体はもはやなく、あなたの手を取ることは永遠にできなくなりました』
「でもあなたはまだここにいらっしゃるではないですか!」
ルーウェンがシルヴィアを抱き締めた。羽に、ごつごつした頬が押し当てられた。シルヴィアは翼を苦労して抜き出して、ルーウェンの頬を包んだ。周囲の兵士に、顔を見られずに済むように。
「一目で分かりました。刺繍のことなど持ち出されずとも分かりました、瞳を見れば! なぜ……なぜです、あの瞳がまだ、ここにあるのに――」
ルーウェンが、膝をついた。兵士たちが、ひとり、またひとりと、馬に戻って集落へ引き返し始めていた。中にはシルヴィアに目礼して行く者もいた。信じていない者もいるが、誰も不満の声を上げたり、姫を追いかけたりする様子がないのは、きっとルーウェンの人徳なのだろう。
二人きりになるまで、ルーウェンは顔を伏せていた。
覚悟はしていたのだろうと、羽でそっと頬を撫でながらシルヴィアは考えた。そうでなければこんな鴉がシルヴィアの意識を宿しているなんて、すぐには信じられまい。シルヴィアが消えてからひと月以上経つ。生きているとはもはや、思っていなかっただろう。
そうであったらいい、と思う。
――アイオリーナも、おじ様も、私を愛してくれたすべての人達も。私の生存に、無益な期待を抱いていなければ、いいのに。
ややして――シルヴィアは呟いた。
『……分かって下さるなんて』
「私はあなたの外見を愛したわけではないのですから」
ルーウェンの声は存外しっかりしていた。シルヴィアは羽を少しずらして、透き間からルーウェンを覗いて見た。涙は見えなかった。ルーウェンはシルヴィアをしっかりつかまえて、その瞳を覗き込んだ。
「私の手を取って下さりたかったとおっしゃったのは、本当ですか」
『……ええ』
「それをお聞きできて」ルーウェンは顔を歪めた。「覚悟ができました」
『お覚悟が……?』
「いえ、あなたが気に病まれることではありません。それよりもシルヴィア姫、このまま、私と一緒に、来ていただけますね? 将軍にお話しなければ。ご説明いただきたいのです。私の口からはとても……」
『……いえ。申し訳ないのですけれど』
シルヴィアは言って、身を引こうとした。ところが飛び立つことはできなかった。ルーウェンがシルヴィアをつかまえているからだ。痛くはないが、動けない。
『……あの。お放しいただけませんか』
「いやです」
『……あの』
「ようやくあなたをこの手につかまえたというのに、放す男がどこにいます」
切実な声に、シルヴィアは、胸を衝かれた。
絶世の美貌とまで言われた顔も、体ももはやない。ここにいるのはただの醜い鳥だ。――それでも。
まさかこんなことをまだ、言ってもらえるなんて。
ルーウェンの頬に口づける唇がないことを、こんなに悔しく思う日が来るなんて。
姫を何とか助けたい一心で、軽はずみなことを言ってしまった。申し訳ないと思った。もう一度聞いてもらえるなら、今度こそ、本気で、あなたの手を取りたかったと言えるのに。
『――私には、まだやらなければならないことがあるんです。どうしても行かねばなりません。早く追いつかなければ、二度と見つけられなくなってしまいます』
「あの方は、あなたに、別れを告げたように思いましたが」
『彼女は、私がもしあなたと共に行く気なら、私が気兼ねせずに済むようにと、ああ言ってくれただけです』
ルーウェンが黙った。シルヴィアは言葉を重ねた。
『いつかあなたに、ラインディアへお連れいただく日も来るでしょう。その日はきっと近いでしょう。でも今は駄目です』
「あなたは、【最後の娘】という存在を、本当によくご存じなのですか」
ルーウェンの言葉に、シルヴィアは頷いた。少しだけ誇らしげに。
『ええ』
「王への恨みを晴らすならば、確かに彼女のそばにいるのが一番です。だが危険です。あまりにも。彼女らルファルファの二人娘は、ある矛盾を抱えてエルギン王子に与しておられる。矛盾に気づいておられるのか――おられるでしょう、もちろん。今はその矛盾を無視するしかないのでしょう。だが王が代わった瞬間からその矛盾が牙をむきます。アナカルシスの王とルファルファ神は、相いれない存在同士なのですから――マーセラ神がなぜここまで育つことができたとお思いか。ルファルファの娘たちは大いなるうねりの中心にいる。今も、そしてこれからも。あなたをそんな場所に行かせたくはないんです。いくら大切な友人でも!」
『矛盾とは……?』
シルヴィアは少し待った。けれどルーウェンは説明しようとはしなかった。鋭い瞳がシルヴィアを見守っている。
彼女は、
考えた。
そして。
『私は、自分で決めたのです。彼女と共に行くと。少なくとも、今しばらくは』
「シルヴィア姫」
『ご心配には感謝します。けれど私は、参ります』
ルーウェンの手が、緩んだ。シルヴィアは微笑んで、その手を逃れ、羽ばたいた。
ルーウェンが彼女の意志を尊重してくれたことが、嬉しかった。とても。
『それに先のことまでご心配いただくには及びません。用が済めばあなたを訪ね、アイオリーナに会いに行くつもりですから。その用は、本当にすぐ済むんです。……それに』
言っておいた方がいいのだろうと、シルヴィアは思う。
声が震えぬように気をつけて、シルヴィアは言葉を紡ぐ。ルーウェンのいかつい顔を見守りながら、今身につけているのがリルア石でなくて本当に良かったと、話しながらシルヴィアは思う。
もしリルア石だったなら、まだ覚悟の決まらぬ情けない心の内まですべて、さらけ出してしまったのだろうから。
*
しばらく無言で馬を走らせた。
ややして速度を緩めると、アルガスが左側に追いついて来た。街道を並んで走らせながら、やはりしばらくは二人とも無言だった。舞は手首に巻いた革紐付きの鞘に、縮めた宝剣を戻し、革紐を元どおり首にかけて、ようやく口を開いた。
「無事で良かった」
「そうだな。その上鴉の身で知り合いを説得するとは、大した姫君だ」
舞はアルガスを見た。彼はもちろん大まじめだった。このボケが、と舞は思った。
「……もちろんそうだけど、でもあなたもだけどね?」
「俺が?」
「ありがとう。おかげで助かった」
「……いや」
「ケガはないの? 大丈夫なの? ――もう、嫌だな、感謝はしてるんだ、本当に。でも嫌なんだ。こういうの慣れてない」
「慣れなければならないだろう。【最後の娘】とはそもそもそういうものだ」
「そんなことない。【最初の娘】なら分かるけど」
「……」
アルガスは舞を見、何か言いかけ、やめた。
代わりに違うことを言った。
「ケガはない。シルヴィア姫のおかげで助かったが。心配をかけて申し訳なかった」
「でもだって、馬から落ちたでしょう」
「ああ」
アルガスは頷いて、鐙の上から右足を退けた。そこに折れた矢の先が隠されていた。赤黒くぬめって見えるそれを慎重に取り上げると、先端の匂いを嗅いで眉をひそめた。
「参ったな。あの馬の代金と見舞金を払いに行かなければ」
通常、旅人が旅馬を買う時には、一時的な利用料のみを払う。街道や隠れ道沿いの町ならば、どこでも乗り捨てることができるし、そうでない場所で放したとしても、馬は元いた町まで自力で帰るよう訓練されているものだ。殺すか、大ケガをさせてしまった場合には、買った町まで馬の代金を払いに行くのが通例だ。これは流れ者の場合も変わらないのだろう。
ということは、あの矢には、馬でも殺せるほどの毒が、塗られていたというわけで――
「誰が放ったのかわからないが。この量では生きてないだろう。いい馬だったのに、可哀想なことをした」
――どうしてこんなに平然としていられるのだろう、このボケは。
「アルベルトだって、シルヴィアが言ってた」
どこからか取り出した火口に火打ち石で火をつけ、おこした炎を矢に近づけていたアルガスは、その手を止めてこちらを見た。
「……確かか」
「見たんだって。炎の入ったこの剣で、あれだけ傷つけても、数日で動けるんだ……」
「そうか。なるほど。あの乱闘の中にこの毒矢を放てるとは、よほどの神経の持ち主だとは思った」
アルガスは言って、沈黙した。火口が矢の、黒くぬめった辺りに近づくと、ぼっ、と炎が上がった。しばらくその炎を見ていたが、十分焦がしたと見るや振って火を消し、火口を密封して仕舞い、矢をしばらく冷まして、匂いを嗅いで、指で触って確かめてから、ようやく、ぽい、と捨てた。
「オーレリアに来てもらうべきだったな。どうやって先回りしたのかはわからないが、アルベルトが動けたのなら、あの場所にあれほどの追っ手がいたことも頷ける。あいつが追いついていたら、シルヴィア姫の説得も無為に終わったろう。危ないところだった。
……それにしても、俺には、逃げ切れるはずだったあなたが、馬を自分で止めたように見えたが」
――そら来た。
舞はアルガスを睨んだ。
「シルヴィアまで残して行けば良かったって?」
「そうだ」
「ルーウェンという人がシルヴィアだってわからなかったら彼女はどうなってた? それに後ろにいた兵が、シルヴィアが叫んだのを聞いて射ようとしたんだ、魔物かと思ったんだろう、それが普通だもの――それでも止まらずに見捨てろって!?」
「……そうだ」
「あたしは嫌だ!」
「嫌でも」アルガスはにべもなかった。「行くべきだ。今回は本当に運が良かったんだ。次からはそうしてくれ」
舞は馬を止めた。振り返ったアルガスの目には先ほどの乱闘の余韻が、薄く藍色に残っていた。護衛というのはそういう存在だとわかっている、わかっているが、あの可憐な存在まで自分の犠牲にしなければならない理由が、舞には本当にわからなかった。いくらでも代わりがいる、それが【最後の娘】のはずだ。だって舞は、ニーナの剣なのだ。ランダールがそれでいいと言ったのだ。そう重く考えるな、単なる剣じゃないかと。
エスメラルダに帰るまで、もう追手がいないといい、と切実に思った。
あんな思いは二度とごめんだった。シルヴィアに向けられた矢を見るのも、アルガスが剣に囲まれるのも、毒矢で射られるのも二度とごめんだ。それが自分のせいだなんて、単なる剣を生かすためだけだなんて、おかしいじゃないか。
そう言っても、それが護衛の仕事なのだとアルガスは言うだろう。そのために雇われているのだからと。平然と、顔色ひとつ変えず、そう言うだろう。
――そんなことも覚悟せずに起ったの?
不意にオーレリアの声が胸に響いた。
――あんたが考えることは自分がするべき仕事をいかにやり遂げるかだわ、そうでしょ?
そうだ。それは正論だ。やるべきことはたくさんある。
――些事にかかずらってないで前を向きなさい前を。起つ時決めたんじゃないの? そんなことも覚悟せずに起ったの?
覚悟はいろいろした。舞だって選ばれてから起つまでの二年半の間、ただぼんやりしていたわけじゃない。自分が死ぬ覚悟も、ニーナやミネアやマーシャやエルギンやイーシャットやマスタードラや、エスメラルダの優しい人々が死ぬかもしれないことも、失敗してエスメラルダが今度こそ滅ぼされるかもしれないことも、ティファ・ルダの二の舞いになることも、数々の覚悟をして来た。【魔物の娘】として弾劾されることも、なぜもっと早く出てこなかったかと詰られることも、あの王の顔を再び見ることも、ローラとセルデスの死をまざまざと思い出してまた眠れなくなることも、全部覚悟した。でも。
誰かが自分を守るために死ぬかもしれないなんて覚悟はしていなかった。あの夜、あのティファ・ルダの夜の、顔も知らないあの子だけで、もう充分すぎるほどなのに!
シルヴィアが、そしてアルガスが、死ぬかもしれないなんてことは本当に些事だろうか? ティファ・ルダの声は最悪の場合はビアンカに頼めるし、【最後の娘】はまた選ばれる。それなのに、いくらでも代わりの効く自分のために、どうして誰かが死ななければならないんだろう? それを当然だと、思わなければならないのだろう?
舞は、ため息をついた。言ってもしょうがないことだと、分かっていた。
だから、頷いた。
「……わかった」
再び馬を歩かせて、その後しばらくはアルガスの顔を見なかった。泣き出したい気分だった。多分自分の方が間違っているのだろう、カーディス王子がアルガスを舞に護衛としてつけたのだから、それがアルガスの仕事なのだから、笑ってねぎらって、お礼を言うだけで済ませるべきだったのだ。次もよろしくね、とか言って。シルヴィアにも――もし戻って来たらだが――ありがとう、助かった、ルーウェンという人が分かってくれるなんてすごいねとか、良く勇気が出たねとか、そんなことを言うだけで済ませるべきなのだろう。シルヴィアが何で立ち止まったりしたのよって怒ったら、うんごめんね動転しちゃってえへへ次は気をつけるよとか言って。次は、あなたをおいて行くから心配しないで、って!
ちきしょう、と声に出さずにつぶやいて、舞は馬を速めた。
そして死んだというアルガスの馬の、代金と見舞金は、ニーナに頼んで無理にでも押し付けてもらおう、と思った。たっぷり色をつけてもらおう。護衛なのだから必要経費は受け取る義務がある。そうそれから舞の馬の借り賃も、地下街の宿代も、シルヴィアを助ける時に払った謝礼も、茶色のかつらの代金も、それからそれから、えーとえーと。
考えて気を紛らわせていないと、何度でもさっきの光景が、甦ってこようとするので。




