家路(9)
※残酷表現があります
*
ファーナがどうしてあそこにいたのか、舞には良く分からない。人がたくさん死んだから歪みができた、と言っていたように思うが、記憶はもはや曖昧だ。ファーナは血の匂いに引かれて歪みを越え、こちら側に来た、らしい。けれど銀狼――番人、とファーナは言った――が、歪みを嗅ぎ付けてファーナを見つけ、即座に抹消しようと狩りたてた。舞とファーナは似たような立場同士だった。銀狼に追い立てられて逃げ続け、飢えていたファーナは、舞を追いかけていた兵士を見つけて、
食べた。
舞は木の上でそれを見ていた。羨ましいとどこかで思った。ティファ・ルダの夜から六日が過ぎ、その間舞は、ほとんど何も食べていなかった。
そこにいた人間を全部食べ尽くすと、銀狼が現れた。銀狼というのは人間の前に姿を見せたがらないものらしい、とは後で知ったことだ。銀狼はファーナを包囲し、殺そうと、白銀の毛皮に若草色の蔦のような光を浮かび上がらせた。舞にとってはあまりに身近な紋章だった。ローラは水と契約していた。畑に水をまく季節には、毎日のようにその光を見ていた。
「ローラ……!」
叫んで、今まさにファーナに襲いかかろうとしていた若草色の光の真ん中に落っこちた。銀狼はとっさにその光で舞を受け止めてしまい、人間だと分かると、ファーナの目の前に残して消えた。多分ファーナが舞を食べるのを期待したのだろう。舞がいなくなれば元のように魔物を狩れる。けれどファーナはそうしなかった。飢えは少し満たされていたし、美味しそうなものは他にいっぱいいたし、舞と一緒にいれば、銀狼が近づかないことを悟ったからだ。
ファーナは知能は高かった。そう、クレイン=アルベルトのように。少なくとも、初めのうちは。
先程の仲間の悲鳴を聞き付けて、兵士がやってきた。ファーナが彼らを食べているうちに舞は逃げた。ずっと気にかかっていたことがあったからだ。ずっとティファ・ルダに戻りたかったが、今まではどうしてもそれができなかった。
『戻ったの……?』
シルヴィアが震える声で訊ねた。シルヴィアのような人にとっては、おぞけをふるうような話だろうに、どうしてこうまで頑張って聞き続けるのだろう。不思議だったが、舞はそれには触れずに、うなずいた。
暗い昏い森の記憶が嘘のように、現実はのどかだった。
アルガスはふたりが、何か真剣に話しているのに気づいたのだろう。先程よりももっと離れている。日暮れまではまだ少し時間があり、人どおりも全くないからだ。舞は、シルヴィアに視線を戻した。
「うん。だって他に行くところなんてなかったし……王がセルデスとローラをどうしたのか、すごく気になっていた、から」
一日かけてようやくのことでティファ・ルダに戻った時には、再び夜になっていた。焼け焦げた家々と、静まり返った沈黙が舞を迎えた。広場の真ん中に張り付け台が作られていて、そこに、ふたつの骸がかけられていた。
矢がたくさん刺さったままのセルデスと、両手を失ってぼろぼろに傷ついたローラが。
「お墓に入れたいって思ったんだ。他の人全員は無理でも、せめてセルデスとローラだけはって。でもひとりじゃ無理だった。よじ登って綱を切ったはいいけど、体が地面に落っこちてすごく痛そうな――ええと。それ以上、全然動かすこともできなかった。疲れてたし、ケガもしてたし、穴も掘れなかった。そうしたらね、ラインスターク将軍が、そこに来たんだ」
『おじ様が……? ひとりで?』
「うん。虐殺に加わらなかった兵をまとめたりしていろいろ忙しくしていたんじゃないのかな。やっと来られたって言ってた、やっぱり、お墓を作ろうと思ってくれたんだって。将軍はあんまり大柄な人じゃないのにね、セルデスとローラをひとりで運んで」
秋とはいえ七日も経つのだ、死体は既に腐り始めていた。舞にもあの匂いが届いたのだから、将軍はもっと辛かっただろう。でもそこまでは言わず、舞はあの将軍が愛娘の学友に選んだ、気高い少女を宿す鴉を見た。
「お墓に入れてくれた。他の人達の骸も、機会を見つけて必ず葬るから、安心しろって言ってた。それからあたしに薬と、食べ物をくれて。謝りはしなかったけど、あの目を見られただけで充分だった。あたしを連れては行けない、って言った。でも七日も生き延びて、ティファ・ルダに戻ることができたのなら、次は西を目指すといいって教えてくれた。そっちにはエスメラルダがある――」
――だがもし人に訊ねるなら、ルファ・ルダと言った方が通りがいい。ティファ・ルダと同じく滅ぼされた国だ。九年ほど前のことになるが。そこには確かそなたより少し大きいくらいの年頃の姫君がいる。そなたを匿えるとしたらあそこだけだ。遠く辛い旅路となるだろうが、そこまでたどり着ければ、助かる道があるかも知れぬ。
一言一句まで、まざまざと思い出すことができる。
将軍も、そして舞も、はるか遠くにあるエスメラルダまで、あの時の舞が本当にたどり着けるとは思っていなかった。将軍はとても苦しそうな顔をしていた。舞を連れて行けないことを、とても辛く思っていた。優しい人だと思った。そしてようやく――本当にようやく、舞が死ぬのを止めてくれた、その代わりに殺されてしまった、優しい誰かのことも思い出した。
逃げろ、とあの子は言った。死んじゃだめだ、とも。
エスメラルダに行けばいい、と、今、優しい人も教えてくれた。
それなら行ってみようかなと、思ったのだ。行けるところまで。
将軍が墓を作り終え、舞が食事をし終え、将軍からもらった食べ物の残りを服の中に仕舞い終えたころ、そこにファーナが現れた。
ファーナは舞を探していた。彼に舞を逃がす気はなかった。舞と一緒にいれば銀狼を遠ざけることができ、そして美味いものが向こうから寄ってくる。だから一緒にいる、と宣言し、その代わり、お前の望む場所に連れていってやると、言ったのだ。
舞はまだあの時、魔物がどんな存在なのか知らなかった。人間を食べたのは見たけれど、舞にとっては別に惜しみたい人間ではなかったし――
「将軍は、体のどこかにケガが残ったりしなかった?」
口調を変えて訊ねると、シルヴィアは驚いたようだった。
『え? ええ。おじ様はとてもお元気よ。雨の日には古傷が痛むと良く言ったけれど、それはもっと前の傷だったみたいだし』
「そう。良かった。ファーナと取引するのを邪魔してくれようとしてね。魔物なんかと口を利いては駄目だって言って、怒ったファーナが……」
――邪魔をするな。お前のことは別に食いたくないんだ。特に美味そうでもないし。
――やはりあなた自身は、それほど美味しくないですね。
舞は瞬きをした。記憶の中のファーナと、ついこの前聞いたばかりのクレイン=アルベルトの声が甦った。ファーナは実に美味そうに王の兵士たちを食べた、事実、後になって、あんな美味い物を食ったのは初めてだと舞に言った。同じ人間なのに、味が違うのだろうか。見ただけで魔物には、美味しそうかどうかがわかるのだろうか。
――あなた『自身』は、美味しくないって、なんだ。
――あなたは最高の調味料だ、とも、言っていたような……
『姫……?』
シルヴィアが不安そうに言うので、舞は疑問をひとまず置いた。
ファーナは第一将軍の体に爪を引っかけ、ぽい、とばかりに放り捨てた。作ったばかりのこんもりした塚に叩きつけられた姿を最後に、それ以来、将軍の姿は見ていない。噂ではたくさん聞いたけれど。塚が柔らかかったから、ケガをせずに済んだのだろうか。
「ファーナはあたしをつれて西に向かった。少しして時間の感覚はなくなったんだけど、後で計算してみたら、一緒にいたのは二カ月くらいだった。ファーナとはすぐに仲良くなったよ。名前をつけて……」
『ファーナって、あなたがつけたの? 不思議な名前ね』
「うん、本当はファーファにしたかったんだ。毛がふわふわで、洗濯したてみたいに触り心地が良かったから。白くなくて黒かったけど。でも言いづらくて結局ファーナになっちゃった」
シルヴィアは不思議そうに、そう、と言った。意味が分からなかったのだろう。舞も説明はしなかった。
「ここからはもう本当にあやふやなの。王が追いかけて来ていたのは確かだけど、ファーナがあんまり強くて被害が大きすぎるから、手を出さないようにしたみたいで、ファーナが食べられるのは数日にひとりかふたり、くらいになっていたのかな。でもファーナは元気だったよ、銀狼を相手にしなくて良かったし、普通に生きてるだけなら、そんなに食事をしなくていいみたいだった。いざとなれば木とか花とかを枯らして生気を吸えたし。
あたしの方は……いつもお腹がすいてたな。木の実とか、薯とか、木の皮とか食べていたんだけど、充分とは言えなかった」
ファーナは二週間もしない間に、舞に懐いていた。それは例えば犬が飼い主に尾を振るような、全身全霊を傾けるような、そんな慕い方だった。どうしてそうなったのかは良く分からない。舞への愛情を深めるにつれ、ファーナは少しずつおかしくなっていった。知能が退行していっていたように思える。細かい歯車がひとつひとつ抜け落ちていくかのように、少しずつ、少しずつ、狂っていった。けれどそれは後から振り返ってそう思うだけで、その時は、あまり疑問にも思わなかった。
寒くて、いつも飢えていた。ファーナはなんとか舞を暖めようとしたが、ファーナが懐に包めば包むほど舞は凍えた。食べ物も採って来てくれたが、ファーナが殺した動物や、触れた木の実は、舞の体には毒のような効果をもたらした。特に生き物の方は食べた後胃がひっくり返るような勢いで吐き、さらに体力を奪われた。ファーナは嘆き、どうして食えないのかと舞に聞いた。こんなに美味いのに。わかった。待ってろ。もっと美味いのを採って来てやるからな。
次第に舞はファーナに隠れて食べ物を探すようになった。弱っているところを出来るだけ見せないようにした。舞を心配することでファーナの精神が蝕まれて行ったことを、薄々察していたのかもしれない。昼間、ファーナが眠ったころに起き出して食べられる物を探した。ファーナに見つからないように。飢えていることを悟られないように。
がりがりにやせ細って、泥だらけで、多分人の目には、舞は小さな汚い獣に見えただろう。
「いつの間にか、エスメラルダの近くまで来ていたんだ。こっそり起き出して食べ物を探している時に、ニーナに会った」
『ニーナ……? あなたの、親友という人ね?』
「うん。同い年なの。あの時十二歳だった。ニーナはね、今と同じ症状で苦しんでた。でも子どもだったからなのか、今よりはマシだったみたいだけど。自分の足で歩いていたしね。
ニーナは、ひとりで、温泉から戻るところだったんだって」
『温泉があるの?』
「うん。エスメラルダの中心から、北に、馬で一刻くらいのところに鄙びた温泉があるんだ。万病に効くんだって。温泉の近くに崖があって、その先に海が見えるし、とってもいいところだよ。落ち着いたら連れていってあげるね」
『……ん。楽しみだわ』
「崖のそばに小さな小屋があるんだ。ニーナはそこに、マーシャと一緒に湯治にきてた。気分がいい日はひとりで温泉を往復してた。その途中であたしを見つけた。……食べ物をくれて、おしゃべりしてくれた。また人間に戻った気がしたな」
『……あなたが私にしてくれたのと同じことだわ』
シルヴィアは呟いて、翼で舞の腕を軽く叩いた。
『嬉しかったでしょうね。その気持ちは、本当によく分かるわ』
「……そっか」
舞は微笑んで、シルヴィアの羽に触れた。
ウルクディアで、舞は、シルヴィアに、あの時のニーナと同じことをしていた――それなら、シルヴィアがデクターのことを知らせるためだけに舞を捜しにきてくれたことも、少し腑に落ちる気がした。
あの時の舞と、同じ気持ちだったのなら。
「あたしはファーナに隠れて、毎日ニーナに会いに行った。そのうちニーナは、一緒にくればいいのにって、言ってくれたけど、ファーナを置いて行く気にはなれなかった。あの時には、ファーナがニーナを気に入らないだろうって薄々知ってた。ファーナはもう、少しおかしかったんだ。どうしてああなったのか、本当に分からないんだけど。だからファーナにはニーナのことは内緒にしてた。知られたら怒られるって思ってた。ばれたらニーナに何をするか分からなかった。後ろめたい気持ちもあったけど、ニーナに会いに行くのをやめることだけはできなかった」
ある日待ち合わせの場所にニーナは来なかった。発作が起きたためだった。舞はしばらく待ったが、ニーナがもう来ないのかもしれないと思った時の恐怖は、今もまだよく思い出せる。ようやく諦めて食べ物を探しに行こうと思った時、舞は、そこに袋が落ちているのに気づいた。
それはランダール、今はもういない、ニーナの兄が仕掛けた罠だったのだが、その時の舞は、その誘惑に抗えなかった。中にはせっけんの入った壷と、乾いた拭布が入っていたのだ。ニーナから温泉の場所は聞いていたし、すっかり冬で、寒くて寒くて、体に付着した汚れが急に気になってたまらなくなった。ニーナは毎日温泉に入ってとても綺麗だったから、舞の汚さが嫌になったのかもしれない、とも思った。舞はその袋を持って、温泉に行って体を洗った。
それで人間だとわかったのだとランダールは言っていた。
ニーナの様子を見に来たランダールは、発作に倒れた妹から、友達に食べ物を持って行ってくれるよう頼まれた。ニーナの望みなら叶えてやりたかったが、ニーナはこの世にふたりといない貴重な存在だ。害になるものを近づけるわけに行かなかったから、ニーナの言うとおりの少女なのかどうか、確かめるつもりだったのだと。
温泉ですっかり綺麗になった後、舞はランダールに捕まった。
ニーナは、病を治してくれる人間が見つかったから、近々家に帰る。お前のところにはもう来ない、だから一緒に来るか、と聞かれた。
舞はファーナのことを考えた。
ニーナと一緒に行きたかった。ランダールは、ニーナに同い年くらいの友人を作ってやりたいと思っていたから、数々の甘い餌を舞の前に並べた。毎日お風呂に入れるし、美味しいものをたくさん食べられるし、ニーナが元気になったら毎日遊べるし、ふかふかの寝台も待っていると言った。そんなぼろぼろの服を着ていなくても、洗濯された乾いた服を毎日取り替えてもいい、とまで。
それでも。
それでも舞には、ファーナがいた。ファーナのことはニーナにも言えなかった。ニーナに嫌われるのが怖かったからだ。それに、おかしくなっているファーナに、ニーナと一緒に行きたいなどと言えるはずもなかったし、舞が黙って消えたらファーナはどうするのだろう、と思うと、そんなことはできなかった。ファーナには舞しかいなかったのだ。ファーナは舞を愛していた。狂気に蝕まれるほどに。
ニーナは次の日に家に帰った。そして体に【四ツ葉】を彫って、元気になった。
舞はファーナのもとに戻って――
『……姫?』
シルヴィアの声に舞は、我に返って、自分の指先を目の前に持ち上げた。血の気が失せて、かすかに震えていた。
「……ごめん。えっと、王は、その頃、エスメラルダに圧力をかけて、魔物狩りへの協力を取り付けていたんだ。ニーナとランダールが戻るともう、狩りの準備が始まっていたんだって。ランダールはすごく頭と勘の鋭い人だった、大きな魔物と小さな魔物を王が追いかけていること、二カ月前に王が、ティファ・ルダを滅ぼしていたこと、とかを考え合わせて、あたしのことだって悟った。ランダールはたぶん、他人事じゃなかったんだ。自分も子供のころに、故郷を滅ぼされているから。一緒に暮らすようになってみると、あんまり親切な人じゃないなって思ったんだけど……あの時は頑張ってくれた」
ランダールはすぐに温泉へ戻った。イーシャットとマスタードラが一緒だった。ファーナはそれに気づいて、舞を引きずるようにして逃げた、らしい。舞にはその辺りの記憶はない。死にかけていたからだ。
ファーナのところへ戻った時、ファーナは初め、舞が温泉に入って綺麗になったことを喜んだ。けれどニーナに会えなくなったことで舞は落ち込んでいたから、普段より注意力が足りなかった。ファーナは舞が人間に会ったこと、自分に隠れてずっと会っていたことを悟ると、怒って、哀しんで、悔しがって、泣いた。舞を傷つけるようなことはしなかった。だが、舞を懐に包み込むようにして、そして、舞を、
――舐めた。舞を取り戻そうとするかのように、舞を二度と逃がさないようにするかのように、自分の中に閉じ込めようとするかのように、執拗に執拗に、舐めたのだ。不快な感触ではなかったが、ファーナの舌が触れるごとに力が抜けた。命を舐め取られているみたいだった。恐怖はなかった。哀しかっただけだ。ファーナと同じ存在になれないことが、ただただ哀しかった。
そのことはシルヴィアには言わなかった。舞は言葉を探した。
「ファーナとあたしを三人が見つけたのは王の軍勢より少し早かった。ランダールがだいたいの居場所を知っていたからね。ファーナは、マスタードラを見ると、あたしをおいて襲いかかった。その隙にイーシャットとランダールがあたしを隠した。ちょうどあの、崖のそばだったんだよ。ランダールがあたしを背負って崖を少し降りて、そこにあった窪みに隠した。イーシャットがいろいろ、あたしが崖を落ちたみたいに細工をしてくれてた。マスタードラは、王の目の前で、ファーナを殺した」
『強い人なのね』
「うん。それもあるけど、ファーナがおかしくなっていたせいもあるのかも。あとエスメラルダの、ルファルファの勢力地の近くでもあったし。王はマスタードラの剣ごと、ファーナを台車に載せて、意気揚々と帰って行ったって。あたしのことは少しおざなりに探しただけで、死んだと思い込んで帰ったって」
そして王宮前にいるのを見るまで、ファーナを見ることはもう二度とないのだと思っていた。もうあの体はどこにもないと思っていた。まさかあんな場所に、生きてたときと全く変わらない姿で、飾られていたとは思わなかった。
話は終わった。夕暮れが迫って来ていた。アルガスが先程から少しこちらを気にしているようだ。話が終わるまで近づいてくる気はないのだろう。舞は馬を速めようとしたが、シルヴィアがその前に言った。
『……それから?』
「え? そこで終わり。あたしは死んだものと思われて、エスメラルダに匿われることになった。ニーナの病も治って……その、一時期はね。そしてふたりで遊んだり勉強したりして幸せに育ったわけです」
『そう……良かったわ』
それからしばらく、シルヴィアは黙っていた。街道を外れて野営地を探し、風の吹き込まない廃屋を見つけて、食事を取って寝支度をして、舞が居心地良く毛布に包まるまで。火を使えないこともあって、鳥目のシルヴィアは食事の後はほとんど動かなかったから、もう寝ていると思っていた。だから出し抜けに言われた時には驚いた。
『死んでいると思っていたのなら、』
「へっ!?」
『どうして王はその……あなたのせいにしたのかしら』
「え、何が? ……ああ、そっかそっか。さあ、わかんないけど」
ウルクディアで悟ったことまで話さなくてもいいかと思ったので、舞はそう言った。シルヴィアはずっと、そのことについて考え続けていたのだろうかと、少しだけ不思議に思った。
『【最後の娘】が起ったことと、関係あるのかしら?』
「ううん、それは逆だから違う。王が黒髪の娘を集め始めたから、エルギンがもう我慢できなくなって、あたしに頼んだの。名乗りを上げてくれないかって」
『名乗りを――? ごめんなさい、私本当に詳しくなくて。【最後の娘】って、名乗るものなの?』
アルガスが黙って腰を浮かせようとしたので、舞は手を上げた。
「別に聞かれても構わないことだから、いいよ。外は寒いし。ええとね、【最後の娘】というのは、この剣の名前なの」
舞は首もとにかけた革紐を取り出して見せた。けれどシルヴィアには見えないだろう。月明かりもない廃屋の中はほとんど真っ暗だ。アルガスにも見えるかどうか疑わしい。
「エスメラルダの集落の近くに、綺麗な泉があって。そこにあったの。でね、この剣が、あたしを選んだ。今から三年前、十五歳……待って、もう十六? 誕生日を迎えたかどうかの頃、やっぱり秋だった。巡幸が終わって戻って来たばっかりだった。その泉というのはルファルファ様のご神体だから、巡幸明けはいつも、戻りましたってご挨拶に行くんだ。まだ家にも戻ってなかった」
あれは恐ろしい体験だった。国中を経巡る、半年にもわたる旅を終えて、ようやく休めるところだったのだ。
「ニーナがもう臨月に入ってたからね、いろいろ大変だったんだ。や、あたしは何もしてなかったんだけど。でもお陰で出産の時にはそばにいられなくて散々だった」
『赤ちゃんがいるの?』
「うん、もう三歳だから、今はもう赤ちゃんじゃないけどね。すっごく可愛いよ。すっごく。すっごく。あたし叔母バカなの。会ったら仲良くしてね」
『もちろん』
「ああでも三カ月も離れてたから忘れられちゃったかも……どうしよう……イェルディアでお土産は買ったんだけどなあ」
シルヴィアの声が笑みを含んだ。
『よっぽど可愛いのね』
「うん。あ、ごめん、脱線して。ええと、そう、帰って来てすぐ、泉に行ったら剣があった。あたしはそんなのがあるって知らなかったけど、みんなどよめいてたよ。ついに誰かを選ぶのかって。そして――まっすぐあたしのところに飛んで来た」
『……飛んだの?』
「そう。こう……空を滑って」
見えないと分かっていても、手で示さずにいられなかった。
「あたしはそれが何なのか、どうしてあたしのところに来るのか、全然知らなかったんだ。だからどうしていいかわからなかった。でもニーナがすごく……怒った」
『怒った?』
「どうして舞なのよって、言った。すごい見幕だった」
実際のところ、すごいどころの話ではなかった。ニーナは立ちすくみ、みるみる顔から血の気が引いた。倒れるのではないかと思った矢先に今度は頬に朱が差して、彼女は目を吊り上げて叫んだのだ。
――どうして舞なの、なんでよりによって舞なのよ! ひどいわあんまりだわ! お母様のバカ、人でなし……!
そのまま舞を押した。逃げて、受けないで、お願い――
「……だからあたしは逃げたんだ。ニーナがあんなに怒るんだから、受け入れちゃだめなんだって思った。それくらいすごい剣幕だったんだよ。あんまり怒ったから産気づいてそのまま生まれちゃったくらい」
『……どうして?』
「さあ……後で聞いたけど、あの時は出産前で気が立ってたのよって言ってたな」
『じゃあ、わけもわからないまま逃げたの?』
「うん、そのときはね。でもその後でイーシャットが追いかけて来てくれて、いろいろ教えてくれた。逃げるんなら頑張れよって馬と食べ物と水と寝袋と渡してくれたな。イーシャットは、それは断ろうと思えば断れるものらしいから、その方法も聞いて来てやるし、それまで頑張って逃げろって言った。あのね、【最後の娘】というのは、【最初の娘】、今はニーナだけど、その存在を守る剣なんだって。【最初の娘】は花なの。世界のほころびを正す、存在するだけで世界を整える花なの。それでその花を守って、歩く道を平らかにして、危険がないようにする、それがこの剣の役目」
『そしてあなたの役目なのね』
「うん。一カ月半くらいずっと逃げ回りながら考えてた。どうしようかな、受けてもいいのかなって。逃げても逃げても追いかけてくるから疲れてもきてたし、なんだか重大そうな役目だから、気後れがしてたし。それにニーナがあんなに怒ったしね……やっぱり断ろうかなって思ってた頃、ランダールが来た」
『ニーナ姫のお兄さんがね』
「うん。もし重責を担えるかどうかで不安を抱いているなら、心配しなくても、お前の代わりはいくらでもいるって言った」
シルヴィアが羽を広げ、アルガスが身じろぎをした。憤慨したシルヴィアの声が聞こえた。
『あんまりだわ』
「うん、でも、そう思わなければ引き受けられなかったよ。この剣は、持ち主が死ねば、次の人間を選ぶんだって。【最初の娘】は唯一の存在で、死んだら取り返しがつかないけど、【最後の娘】は失敗しても次がいる。あんまり重く考えるな、ただの剣じゃないかって言った。心配しなくても、お前が死んでも誰も困らないって。だから、それならまあいいかなって」
『……ひどいのね。ニーナ姫が怒った理由が分かるわ』
「そう? でもあたしは、後で、あのとき受けといて良かったって思った。王があんまりひどくなって、エルギンが我慢しきれなくなったときに。エスメラルダとしては、エルギンが一度起つって決めたなら、絶対に成功してもらわなきゃならなかった。だからニーナも全面的に応援する必要があるでしょう。それでエルギンが、いよいよ起つから、あたしに名乗りを上げて欲しいって言った。ニーナはもう病気になっていて、自由に動けなくなってた。ニーナの代わりになれるなら、頑張ろうって思った」
『それは最近のことなの?』
「うん、エルギンは本当にギリギリまで待ってたんだ。黒髪の娘が狩られ始めて、それで本当にもう駄目だって思うまで。だから名乗りを上げて、まだ半年くらいしか経ってない」
シルヴィアはまた、しばらく考えていた。
舞はそろそろ横になろうかと思った。シルヴィアがもう寝たのではないかと思ったし、ティファ・ルダのことを話すとやはり疲弊するのだ。アルガスに聞きたいことはあった。ローラを知っているようなのはなぜか、邪魔が入り続けて聞けなかったことを全部、聞きたかった。でもどう水を向けていいのかも分からないくらい、疲れていた。
すると唐突にシルヴィアが言った。
『私は』
「わ、起きてたんだ」
『【最後の娘】にはいくらでも代わりがいるかもしれないけど。あなたの代わりはどこにもいない。そう思うわ』
「……うわ」
『疲れたさせたわね。ごめんなさい。ありがとう、話してくれて。お休みなさい』
「……お休み」
シルヴィアは羽根で舞の腕を軽く叩くと、うずくまって沈黙した。舞はその、影にしか見えない黒い姿を眺めてしばらく考えた。シルヴィアはどうして、舞の話をこうも聞きたがったのだろう。なんだか急いでいるみたいだった。でも、なぜ?
舞はアルガスのいる方を見た。毛布に包まってはいるようだが、まだ体を起こしていた。
シルヴィアに話したせいで、ティファ・ルダのことをまざまざと思い出した。ローラのことも。アルガスがローラを知っていて、それで舞のことも知っていたということなど、あるのだろうか。それならローラが話してくれていてもよさそうなものなのに。
「……ガス?」
「どうした」
「えっと……お休み」
「ああ」
低い声は耳に快かった。初めからそうだった、と思いながら、毛布に包まり直して、廃屋の床に横たわった。疑問ばかり増えて行く。どうしてアルガスは舞を知っていたのか。どうしてあの声は、こんなに耳に快いのか。どうしてシルヴィアは急いでいるように思えるのか。どうしてファーナとクレインは舞を美味しくないと言ったのか。どうしてニーナは、エスティエルティナが舞を選んだとき、あんなに怒ったのか――妊娠中で気が立っていたとしたって、あんなに怒ったニーナを舞は知らない。
それに……そう。
フィガスタから聞くまで、舞は、医師の存在を知らなかった。アナカルディアにニーナとエルギンと一緒に行ったという、腕の立つらしい医師の存在を。ニーナが病に倒れた時に、その人の噂すら聞かなかったのはなぜなのだろう。
時折、本当にたまにだが、ニーナは舞に秘密を作る。医師のこともそう、エスティエルティナのこともそうだ。エルギンに乞われて【最後の娘】と名乗ったとき、ニーナは本当に哀しそうな顔をした。でも何も言わなかったのだ。普段のニーナだったら、絶対、嫌なことは嫌と言うはずなのに――
――帰ったら聞いてみよう。
眠りに入る寸前に舞は思った。
――きっと大したことじゃない。医師のことは忘れていたのだろうし、エスティエルティナのことは、本当に気が立っていただけだ……
それが真実ではないことは、もうわかっていたけれど。




