黒髪の娘(5)
*
エルティナは黙したまましばらく走り続けた。シルヴィアは彼女の邪魔にならないよう、背負った背嚢に移動した。ここなら肉に食い込むことを心配せずにしっかり掴まっていられるし、動きの邪魔にもなりにくいだろう。
けれど端から見られたら、一体どのように見えるだろう。
せっかく帽子をかぶっているのに、背中に黒い鳥がへばりついていては、黒髪を靡かせて走っているように見えてしまいはしないだろうか。
エルティナの走りに合わせて上下に揺れる視界の中で、背嚢の留め金を見つめる。嘴と爪を使えば何とか外せそうだ。今ばかりは猫などに乗り移らなくて良かったと思えた。肉球ではこの留め金に太刀打ちできなかっただろう。視界が揺れるので難しかったが、エルティナが門に続く大通りに近づくより先に、留め金をはずして背嚢の中に潜り込むことが出来た。翼を畳んで落ち着いてから、首だけ出して辺りを見回す。うん、なかなか居心地がいい。
兵士はまだしつこく追いかけてきているのだろうか。
そして門へはまだたどり着かないのだろうか。
背嚢に潜り込めて落ち着いたからか、急に辺りが気になりだしてきた。エルティナはよどみない足取りで走っているのだが、先ほどから何だかやけくそになってる感じがするのだ。結構な速さで走っているが、疲れないのだろうか。
と、エルティナが急に止まった。ぽんと弾んで勢いを殺し、
「また迷ったー!」
叫んだ。
「どうなってんのこの街! ああもう信じられない、くねくねくねくね曲がりまくって嫌がらせかこらー!」
淑女とは言い難いような悪態を、涼やかな笑い声が止めた。シルヴィアの心臓が一瞬止まった。出し抜けに響いてきたせいというよりは、聞き覚えのある声だったからだ。
――アルベルト様……!
「し、失礼。難儀しておられるようで」
エルティナが睨んだからか、アルベルトは笑いを噛み殺したようだ。シルヴィアは背嚢の中に頭を隠した。見つかりたくはなかった。蹴られた感触はまだ生々しい。
「ようやく追いつきました。――そう警戒しないでください。私はクレイン=アルベルト。薬師の宿から追いかけてきていたんです。【アスタ】から派遣されてね」
「【アスタ】」
エルティナが呟いた。アルベルトの声が深みを帯びる。
「ガルテは王に目をつけられています。それに気づいた【アスタ】に、ガルテに警告するようにと命を受けて、宿へ向かう途中でした。ところが貴女が追われていたので、貴女を逃がすのが先だと思って」
「それはご親切に」
エルティナの声はまだ固い。アルベルトが囁く。
「信じられないのはわかります。しかしガルテはまだ大丈夫。貴女を安全な場所へ逃がしたらまた警告しに行けばいいだけの話です。しかし貴女は――よしんば門にたどり着いても通行を許されるわけがありません。裏道をお教えしますから。とりあえずこちらへ」
「……」
「早く。追っ手が来ますよ。【アスタ】はこれ以上、一人たりとも、王の手へ渡すつもりはないのです」
アルベルトの声は真摯だった。彼の心情が迸るようだった。シルヴィアは三日前の告白を思い返していた――静かなのにとても力強くて、青灰色の瞳がこの上もなく雄弁で。
ああ、やはり、アルベルト様だわ。
シルヴィアは背嚢の中で翼を持ち上げて目を覆った。
私は、この優しいアルベルト様にさえ、厭わしげに見られる存在になってしまったのだわ――
「わかりました」
エルティナがそう言った。再び背嚢が上下を始める。アルベルトが付き従うように動いたのを想像した。あの洗練された身のこなしで、彼はエルティナを導いているのだろう。シルヴィアは背嚢からわずかに顔を出し、そしてすぐに引っ込んだ。アルベルトの肩と、肩に流れる金髪がちらりと見えたからだ。
――アルベルト様……
シルヴィアは複雑な感情をもてあまして、ひとつ、ため息をついた。アルベルトのことを愛しているわけではないのに、もうあの夜のように、そして今のエルティナのように、アルベルトに付き添われて歩くことは永遠にないのだということが、無性に哀しかった。
それからしばらくの間、シルヴィアは、狭苦しく蒸し暑い背嚢の中で耐えなければならなかった。
エルティナが歩くにつれて上下する袋の中は、ひどく息苦しかった。薬師の住居に入ったときよりはだいぶ中身が減っているはずだが、それでもいろいろ細々したものは残っていた。お金の袋と、さっきガルテから買っていた大きな貝が、足に当たって痛くてたまらない。かといっておおっぴらに動くわけにはいかなかった。隣を歩くアルベルトに見つかっては大変だ。鴉を背負って歩くエルティナが、アルベルトから奇異な目で見られるのは厭だった。
ようやく上下の振動が収まったときには頭痛さえし始めていた。鳥だからなのか、酔うことはなかったが、それにしたって最悪の気分だ。むしむしするし、ガルテの薬が臭うのだ。鼻につんと来るようなかすかな香りは、ケガしたときにはいいかもしれないが、狭い背嚢の中で嗅ぐには適していない。
その上再び空腹が襲ってきていた。我ながら情けないが、飢え死に寸前のところに飲めたのはミルクだけだったのだ。幾らたらふく飲んだって、消化も早いというものだ。
「ここで夜になるまで休んでいてください。夜になったら抜け道にご案内しますから」
アルベルトがそう言って、エルティナがありがとう、と言った。先ほどからの二人の会話から察するに、どうやらここはアルベルトの住居らしい。【アスタ】が用意したものでしてね、このような住居はこの周辺の街にはたくさんあるんですよ、と、アルベルトが言っていた。そもそも【アスタ】というものが何なのか知らないシルヴィアだったが、その会話を聞くにつれ、王に抵抗する秘密組織のようなものなのだろうか、と思い始めていた。
――アルベルト様は、王の仕事を務めながら、そんなお仕事もなさっているのだわ。
それは大変危険なことではないのだろうか。
「走り詰めで疲れたでしょう。食事を用意させますから、どうぞ夜まで寛いでいてください。私は済みませんが失礼して、薬師に警告してきます」
「何から何まで……」
「いえ、これも【アスタ】の意思です。【アスタ】までたどり着ければもう安心ですよ。もう少しの辛抱ですから。――では、これで」
アルベルトが出て行くと同時に、エルティナが背嚢を下ろして口を開けてくれた。急に新鮮な空気がなだれ込んで、思わず咳き込みそうになりながら、シルヴィアはよろよろと這い出した。
「ごめん、時間かかったね。大丈夫?」
『ありがとう……』
反射的に礼を言いながら、シルヴィアは空気を貪った。首を出していたときはあんなに居心地が良かったのに、潜り込むだけで地獄に変わろうとは。何度も深呼吸を繰り返すシルヴィアの背を、エルティナの指がそっと撫でてくれている。
「クレイン=アルベルト、か……」
エルティナが呟いた。
「【アスタ】の使者ね……ガルテさんが王に目をつけられているのに【アスタ】が気づいてアルベルトを派遣、ちょうどその時にあたしが追われてるのに気づいて、あたしのが緊急だと判断して追いかけてきたと。つじつまは合う、かな。……合いすぎる気も」
『助かったわね、エルティナ』
シルヴィアはエルティナに向き直った。正面から彼女を見て、どこもケガしていないようなのに安堵した。良かった。本当に良かった。アルベルトがエルティナを見つけてくれて。
――私みたいな目に遭わずに、済んで。
「そう……だね」
『アルベルト様は優しい人よ。若いけど有能なんだって聞いたわ。黒髪の子を匿ってる組織が【アスタ】って言うのよね。そこから迎えに来てくれたのなら、もう大丈夫だわよね。良かったわ、あなたが』
「しっ」
エルティナがシルヴィアを抱え上げて背嚢に再びつっこんだ。間髪入れずに扉が叩かれる。
「失礼いたします、お食事をお持ちいたしました」
若い男の声だった。シルヴィアは――
背嚢の中で、唐突に湧き上がった衝動を何とか抑えつけた。
――何これ……!
今まで難無く動かせていた体が唐突にシルヴィアの支配を逃れ、シルヴィアの意識に反して勝手に動き出そうとしていた。
シルヴィアは呼吸を整え、暗く息苦しい背嚢の中で、必死に体を押さえ込んだ。それでもエルティナは気づいたらしく、背嚢を背中に隠した。
「ど、どうぞ」
「失礼いたします」
恭しいと言っても良いような声と共に扉が開く。同時に匂いが――美味しそうな、匂いが、ガルテの薬の香を追いやるように吹き付けてくるのが感じられた。美味しそうなものが近づいてくる。食事だ。食べ物だ。腹が減った――自分の中で暴れ回る存在に、シルヴィアは仰天した。
一体これはなにかしら――?
体は確かに空腹を覚えている。でも給仕が食事を置いて出て行くまで待っているくらいの余裕はあるはずだ。しかし食事の香りはいよいよ高まり、それを嗅ぐにつれて衝動も募っていく。邪魔をするな、と誰かが叫んだ――あの声だ。シルヴィアはおののいた。鼠の死骸を前にして、嘴を伸ばさないシルヴィアを罵った、あの情け容赦のない怒りに満ちた、誰のものかわからないが恐ろしい声だ。
邪魔をするな。お前は既に邪魔をした。人間の食べ物ならいいと言ったじゃないか、もうお前に任せてはおけない、食わせろ食わせろ食ワセロ。食わなきゃ死ぬというのに!
――これは俺の体だ……ッ!
シルヴィアは悲鳴を飲み下した。誰の声だかようやくわかった。考えてみればあたりまえだ。これはこの体の声、シルヴィアが乗り移ったために片隅に追いやられていた、可哀想な鴉そのものだ。
――お願いだから、今だけだから、ここにいるのがばれたら殺されるかもしれないのよ。
どうやって鴉を抑えられたのか、よくわからない。鴉の意識は、人間であるシルヴィアからすれば希薄で、ほとんど体に宿る本能に過ぎなかった。でもだからこそ、食料を前にした鴉の抵抗はすさまじかった。危うく何度も追い出されそうになりながらも、シルヴィアは言い聞かせ続けた。ごめんなさい、許して、でもお願いだから、もう少しだけ我慢して。
永劫にも思えるような時間が過ぎ、食事を並べ終えて給仕に移ろうとした男を、エルティナが言葉巧みに追い出してくれた。ちょっと疲れているので、先に一眠りしたいと思うんです。食事は後でいただきますから、とか何とか言っているのはかろうじて聞こえた。給仕の男はその後も、茶を注いだりなんだりしていたようだったが、そのうち出て行く気配がする。全く何をぐずぐずしているのか、用はないと言ったのだから早く出て行けばいいのに、暴れ出そうとする鴉を何とか押さえつけていたシルヴィアは、扉が閉まるやいなや鴉を解放した。もうこれ以上抑えておけなかった。否抑えたいとも思わなかった。これは鴉の体なのだ。シルヴィアに、腐った鼠を拒否する権利なんかなかったのだ。鴉の怒りが直接胸に響いてくるようで、いたたまれなくて堪らなかった。
自由になった鴉は背嚢から飛び出した。
「かあ――ッ!」
「わ、待って、駄目!」
エルティナが止めるなどとは思いもよらず、行動を制御するのが一瞬遅れた。ぱっと鮮血が散った。あろう事か、鴉は食事の邪魔をしようとしたエルティナをつついたのだ。
「つ……っ」
『ご、ごめん!』
「かあッ!」
シルヴィアは動揺して謝ったが、エルティナも鴉もやめようとはしなかった。エルティナは必死で鴉を抑えつけようとし、鴉は死にものぐるいで逃れようとする。つつくたびにエルティナの手から鮮血が飛び、何とか止めようと思うのに、鴉の攻撃を止めさせることが出来なかった。
『やめてやめてやめて、ケガさせないで、お願い!』
――邪魔する奴を排除して何が悪い!
本能が叫んでいる。これは人間の食べ物だ。お前は人間の食べ物なら食べていいと言ったじゃないか。なぜ邪魔されなければならない、
『エルティナ放して、お願い!』
シルヴィアの悲鳴がはじけて、エルティナの手が反射的にゆるんだ。その隙に鴉はエルティナの手から逃れて卓に飛び乗った。足下に美味そうな食べ物の山。
「駄目、食べちゃ駄目!」
『どうして止めるの? 美味しそうよ。ごめんなさい、ひどいことをして……でもこの子をこれ以上止められないの。止めたくないの、この子はお腹を空かせているのよ』
それでも伸ばされたエルティナの手を避けて舞い上がった鴉の口には、大きな肉の塊が一切れ挟まれていた。鴉は歓喜の声を上げて肉を飲み込んだ。美味い、そう嬉しそうに叫ぶ鴉を、シルヴィアは少し離れたところから見ている気分だった。美味しい、良かったね。そう言って頭を撫でてあげたいような、愛おしいような気分だ。
どんなに辛かっただろう。どんなに悔しかっただろう。空腹で、これを食べなければ死ぬと思うほど辛いときに、目の前に落ちていた美味しそうな鼠の死骸を、鴉はどんな思いで見つめていたのだろう。
「吐いて」
エルティナが泣きそうな顔をしている。鴉は当然無視して、もう一度滑空して食卓をかすめ、大きな肉を取った。エルティナの手の届かない場所に降りたって、その美味しい肉汁たっぷりの芳醇な肉を心ゆくまで貪る。
――人間の食べ物も悪くない。
そう鴉が思ったようなのが、何より嬉しい。
鴉が少し落ち着いたので、再びエルティナを見ることが出来た。そして驚いた――エルティナは、泣き出しそうな、悲痛な顔をしてシルヴィアを食い入るように見つめているのだ。
「吐いて」
『大丈夫――、よ』
そう、大丈夫。エルティナが何を心配しているのかわからない。これはアルベルト様が用意してくれた食べ物で、鴉も喜んでくれたし、お腹がいっぱいになって、鴉も私もとっても嬉しい。
空腹が満たされて、すごく安心した。今までにないほど気分が良かった。気分が良くなりすぎて――眠くなってくる、ほどに。
鴉の体が棚の上からゆっくりと落下する。下でエルティナが泣き出しそうな顔をして、受け止めるために手を広げてくれたのが見える。その手から血が出ているのを見て哀しくなる。ごめんなさいねひどいことをして――でもこの子も、必死だったのよ――
どうしてそんな顔してるのかしら。
シルヴィアは最後に思った。
――お腹がいっぱいになって、眠くなっただけなのに。




