家路(6)
舞は思わず立ち上がった。オーレリアは旅装で旅塵にまみれていたが、それでもそこにぱっと大輪の花が咲いたかのような艶やかな雰囲気をまとっていた。オーレリアは静まり返った宿中を眺め回し、それはそれは妖艶な笑みを浮かべた。
「うふふふ……久し振りねえみ・ん・な♪」
「よるなあ――ッ!」
悲鳴染みた声が湧き起こる。我勝ちに逃げ出そうとする者もいるが、何しろ宿中に人が詰め込まれている状態でそれほど素早く逃げられるものではなかった。オーレリアは逃げ惑う者たちを、追いかけ回すでもなくものすごく気持ち良さそうに眺め回していたが、ふと舞に目を留めた。その目が見開かれた。
「あらエルティナ、何してんのよこんなところで。こんなに早くまた会うとは思わなかったわ」
「あ……あの……オーレリア?」
舞は頭上を見上げた。オリヴィアはなぜか顔を出さなかった。チーズをくれた男が囁いた。
「ちょうど朝食買いに行ってら。間がいいんだか悪ぃんだか。早く帰ってくればいいがな」
「帰って来た方がいいんだか、悪いんだか……」
舞はオーレリアに視線を戻した。オーレリアは軽やかな足取りでこちらに向かってくる。彼女は人を避ける必要はなかった。道は彼女の前に自然と開かれるからだ。何だか女王が歩いてくるみたいだと、舞は場違いな感想を抱いた。
女性のものにしか思えない、艶やかな声が近づいてくる。
「ねえあんたさ、アルガスにあれから会った? ひっぱたいてやった? アナカルディアに行ったはずなんだけど全然消息が掴めなくなっちゃってさ。ここの人達全然教えてくんないのよ。あたしがアルガス追いかけるのが気に入らないのかしらね、どう思う?」
「や……どう思うとか言われても……」
目の隅に、当のアルガスの背嚢が見えている。オーレリアが覗き込んでくる。この人を相手に嘘をつき通せるかどうか、自信はなかった。なんとか話をそらそう、と焦って考えた。
「あ、あの、オーレリア。入れてもらった炎、役に立ったの。ありがとう」
「えええっ!?」
がっ、と肩を掴まれた。美貌が覗き込んで来た。どうしてこの人はこんなにも美貌なのだろう、と舞は思った。こうまで美貌でなければ、人生狂わずに済んだ人が大勢いそうな気がする。
「え、で、だ、大丈夫だったのあんた!?」
「うん。おかげさまで……でも炎、消えちゃって」
「そりゃそうだわ。ああ、そうなんだ、でも役に立ったんならよかったわ。でも心配だわねえ……新たに入れてあげよっか」
ざわ、と周囲がざわめき、オーレリアは一瞬しまったという顔をして、舌打ちをして、舞から手を放して腰に当て、辺りを睥睨した。
「女の内緒話に聞き耳立ててる殿方たち、何か言いたいことがおありのようね? あたしが親切にしたらそんなに不思議? それともあたしの裸が見られるからって色めき立ったってわけ?」
「何でだよ」
チーズをくれた男がつっこんだ。
「嬢ちゃん気をつけな。そいつが親切にする時には絶対何か下心が」
「あらそうよ、もちろんじゃないの。ふふ」
オーレリアは再び舞を覗き込んだ。
「ねえエルティナ、あんた今からアナカルディアに行く?」
「え? あ、ううん。もう行かない。出て来たところ」
「なあんだ。ま、いいわ。あたし西の方に行きたいのよね、アルガスが向かうとしたら次はそっちだって気がすんの」
「な、なんで?」
「勘」
恐ろしい人だ、と舞は思った。
「それにあたしもね、そっちに用があるのよ。デクターがどうもそっちに行ったらしいのね。だからそこであんたの出番よ。あんたと一緒に行けば目的地に入り込むの簡単そうだしー、通行証いらないしー、護衛必要でしょー? ここにいるってことは既に流れ者の護衛がついてるんだろうけどさ、あの炎が役に立ったってことは、これからも、炎を持つ護衛は多い方がいいと思うのよね。あんたもそう思うでしょう。護衛してあげるから、あたしを雇いなさいよ。なんだか違う方向に行ってるみたいだけど、最終的には西に行くんでしょ?」
「や……そそそそれはどうなのかな?」
「なによ。マーティンたちにいろいろ吹き込まれたんでしょう。ちゃんと契約交わせば大丈夫よあたし、あんたの護衛には最適なんだし、もうひとりにも手ぇ出さないって約束するわよ」
「そそそそれでもそれはどうなのかな。あの。あれ。でもそれなら大丈夫……なのかな?」
「やめとけ嬢ちゃん。手は出さないにしても別のもんを出すぜきっと」
「なによフェリスタ、余計なこと言うんじゃないわよ」
オーレリアが睨んだ。ちっ、と舌打ちしたような気がしたのは気のせいだろうか。
「珍しいじゃないの、いかなる権力も嫌いなくせして、この子の肩はもつ訳?」
「俺ぁそれ以上にあんたが嫌いなだけだ」
「あらそお? ふん、まあいいわ。とにかくエルティナ、あたしを雇いなさい。雇うわよね。雇うわよねえー? お買い得よ。特別に安くしといたげるから。炎もただでつけちゃうわよ」
「やめとけって。ただでさえ苦労が多いだろうに、これ以上背負わせるこたねえだろう。やつれて憔悴して胃に穴が空いて西に着く頃にゃ病気になるぜ、護衛が」
フェリスタ、と呼ばれた男が言う。三日で逃げ出した、と言った時のアルガスを思い出せば、舞もそう思うのだが、オーレリアの無駄に美しい顔が有無をいわさぬ迫力で覗き込んで来ていて、これ以上どう断ればいいのかさっぱりわからない。どうしよう、と舞が途方に暮れたとき、救いの神が現れた。ようやく。
「オーレリア……っ!」
朝食を買いに行っていたオリヴィアが、駆け込んで来たのだった。誰かに知らされたのか、朝食の包みも持たず、すごい形相で剣を抜いた。
オーレリアが振り返る寸前、舞はその綺麗な顔に、不思議な表情がよぎったのを見た。ところがそれについて考える間もなく、オーレリアはオリヴィアを振り返った。その横顔に浮かんだのは、ひどく邪悪な笑みだった。
「あらオリヴァー。久し振りねえ」
――久しぶり?
「何が久し振りよ! ひと月も経ってないじゃない! あんたっていつもそう言うのよ、あたしのことなんか眼中にないって言いたいんでしょう!」
激昂したオリヴィアが叫ぶ。オーレリアが、下がってなさいよ、と囁くので舞は下がったが、内心首をひねった。舞にはこんなに早く会うとは思わなかったと言い、オリヴィアには久しぶりだと言った。それはオリヴィアに会う方が楽しみなのだと言うふうには取れないだろうか?
「ここで会ったが百年目よ! 覚悟しなさい!」
「本当に面倒な女よね、あんたって。男でもないあんたに付きまとわれても嬉しくもなんともないわ。ウーラノは元気? そろそろ人肌恋しくなっちゃったし、どうせなら彼に会いたいもんね」
「殺してやる……っ!」
オリヴィアが殺到する。オーレリアはその突進を鮮やかに避け、ついでとばかりにオリヴィアの足を引っかけて転ばせた。身のこなしには大人と幼児ほどの差があった。オーレリアは毒々しい笑みを浮かべたまま、倒れたオリヴィアを見下ろして、舞に言った。
「エルティナ、あたし近々西に行くからね。この女を片付けてからだけどさ。ついたら入国できるように口添えよろしくね」
「……うわあ」
「待て!」
がばっと身を起こしたオリヴィアが再び剣を構えたときには、オーレリアは滑るような動きで入り口に向かっていた。オリヴィアは荷物も持たずにオーレリアの後を追い、二人はあっと言う間に宿から消えた。鳩の街では剣を抜いて大立ち回りをしたのに、ここではしないのだろうか。護衛につくのは諦めたのだろうか。ぽかんとしている舞に、フェリスタが言った。
「本来なら地下街での喧嘩はご法度なんだよ。オリヴィアは戸籍を焼いて日が浅いし、頭に血が上ってるからなあ。オルリウスは腐っても一流だ。街の外に連れ出してから本格的にぶちのめすつもりなんだろ。やれやれ、なんであの顔とあの腕に、よりによってあの性格かねえ……」
「遅くなった。申し訳ない」
出し抜けにアルガスの声が聞こえた。思い詰めた顔をして足早に歩いてきた。どこへ行っていたのか、何をしていたのか、問う前にフェリスタが言った。
「もしかしてオリヴィアを呼んできたのか?」
「え? いや違う。もう少し遅ければそうしようかとも思ったんだが」
「思ったんだ」
「洗面台の近くで寝てた。本当に申し訳ない」
「ね、寝てた?」
「オーレリアの声で目が覚めた。何というか。寝起きはどうも」
アルガスは本当に情けない顔をしていた。舞はさらにぽかんとし、フェリスタを初めとする草原の民たちは、いっせいに、盛大に、爆笑した。
「は、は、は! こりゃ傑作だ! すげえなアルガス=グウェリン、こいつぁいいこと聞いたぜ!」
「情報屋に高く売れるぜきっと――」
「嬢ちゃん気をつけろよ、朝に兵士に見つからねえようにな!」
「どうも。――行こう」
情けない顔のままアルガスは言い、背嚢を背負った。舞は毛布を畳み、その上に枕を乗せて、点検した。よし、忘れ物はない。
「それじゃ……お世話になりました」
頭を下げるとフェリスタが顔をしかめた。周囲の男たちが手を振り、舞がきびすを返す前に、フェリスタが言った。
「感想、忘れんなよ」
「あ、はい」
「気ぃつけろよ」
頷いて、もうひとつ頭を下げてからアルガスに追いつくと、アルガスは感心したように舞を見た。
「随分仲良くなったんだな」
「うん、朝食を交換した」
灰色の目が見開かれた。
「本当か? それは……すごいな」
「すごい? どうして?」
アルガスはその疑問には答えなかった。ちょうど宿の外に出て、人波に乗ったからだ。夜明け前という時間だからか、昨夜よりはだいぶ人が減っていた。混んではいるが、舞でも普通に歩くことができるくらいだった。物売りの声も昨日の半分ほどに減っている。それでも普通の街ではみんなまだ寝静まっている時分であることを考えれば、ちゃんと活動している人間がいるあたりがこの町らしい。
少し行くとアルガスが速度を落として舞の左隣に並んだ。並んで歩けるくらいに人の量が減っている。
アルガスは改めて、頭を下げた。
「本当に申し訳なかった」
「あ、ううん。気にしないで。まだ馬も届いてない時間だって言ってたし」
「フェリスタがか。彼があなたを気に入るとは思わなかったな。ヤギのチーズ、食べられたのか」
「うん。すごい匂いだった」
「そうか」
「ガスは食べたことある?」
「ある。すごい匂いだと思ったな、初めは」
同じ感想を述べてアルガスは笑った。
「初めは口に入れられなかった。次は一口で吐き出した。飲み込めるようになるまでしばらくかかった。だが慣れというのはすごいもので、今ではたまに、無性に食べたくなることがある」
「ふうん。お酒に合うって聞いたけど、ガスはお酒は飲むの?」
「必要があれば」
「必要がなければ飲まないの?」
「ああ。養父が飲んだくれると散々な目に遭ったから」
舞は瞬きをした。
「散々な目って……?」
「養父は短気で乱暴だった。酒を飲むと歯止めが利かなくなったんだ」
言ってアルガスは舞を見下ろし、少し困った顔をした。
「あ、いや。悪い人じゃなかったんだが、手加減がどうもできない人だった、というだけだ」
「名だたる剣豪だって聞いたけど……さっきのあの、フェリスタさんに」
「それは確かだ。鬼のようだったと言う話を聞くが、俺は、鬼も裸足で逃げ出すだろうと思っていた」
「すごいね。何年くらい一緒にいたの……あ、戸籍があった五年間か」
「そう。九歳の俺を拾って、俺が十四歳の時に死んだ」
「九歳。じゃああたしと同じだ」
「……同じ」
アルガスが少し息を詰めたようだ。舞はアルガスを見上げた。
「なに?」
「あなたも九歳で、拾われたのか? 誰かに?」
「うん。ティファ・ルダの領主、セルデスがあたしを拾った」
舞はアルガスの反応を少しいぶかしく思った。この驚きは、自分と同じ九歳で誰かに拾われたというせいなのだろうか? 確かにすごい偶然だと舞も思うが――
「セルデスか。彼も有名な剣豪だったそうだな」
「うん、そうなんだってね。後から知った。とっても優しい人だった。あたしに剣とか馬の乗り方とか教えてくれた。ローラは怒ってたけど。女の子なんだから、他にもっと教えることがあるでしょうって。あたしは面白くて好きだったけど――」
「――ローラ」
「うん。セルデスの奥さん。とっても綺麗で、おこりんぼで、本当に優しい人だった」
「……そうか」
アルガスは微笑んだ。
舞は思わず足を止めた。
――なんだ、今のは。
どうして。どうしてだろう。どうして、ローラの名前を聞いて、あんなに嬉しそうに笑ったのだろう。急に止まった舞を、後ろから来ていた人達が舌打ちしつつ避けて行く。アルガスが振り返る。脳裏をローラの、あまりに暖かな笑顔がよぎった。声まで聞こえた気がした。マイ、どうしたの、いいのよ、気にしないでいいのよ――
ふたつの月を見るのが怖いのなら、そう言えば良かったのに――
ティファ・ルダの、セルデスの家の、暖かな居間の匂いが押し寄せた。舞はたじろいだ。抱き締めてくれたローラの、柔らかな感触を肩に感じた。初めて会った時には言葉も通じなかった、汚れて、寒くて、飢えて、不安で、哀しくて、怖くて怖くて怖くて、縮こまるしかなかった舞を、ローラが救ってくれたのだ。お湯にいれてくれて、食べ物をくれて、しっかり包んで、抱き締めてくれた。辛抱強く言葉を教えて、この世界で生きて行けるようにしてくれた。
――あったかくて優しくて、怒りんぼのローラ。
疑問が口からこぼれ出た。
「ローラを……知ってるの?」
アルガスの目が、揺らいだ。【アスタ】で見たあの色が瞳をよぎった。あの時は傷ついたんだと思ったが、本当は違うのではないだろうか。舞は自問した。傷ついたというよりは、
――何か恐れているような、
何をだろう。アルガスに恐れることなんてあるのだろうか。魔物にも臆さずに向かい合える人なのに。
舞は足を踏み出した。道を行く人がふたりをじろじろ見るのを感じたが、構う余裕はなかった。
「ガス」
アルガスは一瞬だけ目を伏せた。
「直接知ってるわけじゃない」
そして、何か決意したように、舞を真っすぐに見た。二歩戻って、舞の目の前に立ち、覗き込んで来た。あの色が失せた瞳は、今は穏やかだった。
「今までずっと確信が持てなかった。だからいつか聞きたいと思っていた。でも間違いじゃなかったんだ。良かった。あなたは、ローラ姫が――」
「さあさあよってらっしゃい見てらっしゃい!」
出し抜けに大音声の売り声が割り込んだが、これ以上邪魔される気はなかった。邪魔されていいような状況ではなかった。だから舞もアルガスから目をそらさなかったし、アルガスも話し続けようとした。のだが。
「世にも珍しいしゃべる鴉だよ!」
ふたりは同時に振り返った。
やはり何かの呪いなのかも知れなかった。




