家路(5)
今度の邪魔は上から来た。上の方の寝台にいた者が、ゆっくりと降りて来ていたのだが、舞のすぐ目の前に降り立つや否や、短刀を抜いて舞の寝台に飛び込んで来たのだ。長いふわふわの、亜麻色の髪が目に入った。ニーナの顔が頭をよぎった。けれどアルガスがその人の足を横から蹴りつけたので隙ができた。体が横にそれつつ、それでも突き出されて来た手首を舞は弾いて、横向きに倒れ込んだその人の襟首を掴んで寝台に押さえ付けた。ぐっ、と喉が鳴って苦しげにしかめられた顔には見覚えがあった。舞は思わず叫んだ。
「い・や・が・ら・せ・か……!」
「ひぃっ!? なんで!? なんで既に激怒状態なのこの子!?」
押さえ付けられた女性が泣き声を上げ、舞は四方八方から白刃が突き出されているのに気づいた。すぐ上の寝台からも、さっきパンを三つ受け取った男も、その隣の男も、そしてアルガスも、舞が押さえ込んだ女性の額、腹、足、短刀を握ったままの手の上に、それぞれ剣を突き付けていた。アルガス以外は全員草原の民なのだろうか、頭のどこかで考えながらも、ようやく話を聞けるはずだったのに邪魔をされた怒りはまだ治まらなかった。朝からずっとこうだ。聞きたい話に入る寸前で必ず邪魔が入るのだ。何かの呪いか。ああイライラする、
「オリヴィア。いきなり襲いかかったら怒るのは当たり前だ」
アルガスが剣を突き付けたまま冷静な声で言った。オリヴィアと呼ばれた女性は泣き声を上げた。
「あたしだって悪いことだってわかってる! でもなんかこの怒りっぷりはちょっと違わない!?」
舞は苛立ちに任せて低い声で言った。
「用件を五文字以内で話せ」
「……短いな」
「オーレリア!」
本当に五文字で言った。舞は彼女の襟首を放したが、白刃はまだ一本も収められず、オリヴィアは仰向けに寝たまま涙声で言った。
「あなた鳩の町であいつと一緒にいたじゃない。だから行き先を聞こうと思ったの。あの女と、あんな女と仲が良さそうだったから、普通に聞いても教えてもらえないと思って、悪かったわ、ごめんなさい、もう疲れちゃって……ううう……」
「外へ」
アルガスが言って、舞は靴を履かずに床に下りた。それでようやく白刃が収められた。礼を言うべきだろうと舞が周りを見ると、剣を収めた男達はもうさっさと違う場所を向いていた。何事もなかったように。
助けてくれるくせに、どうしてこうもかたくなに無視するのだろう。
仕方なく頭を下げるだけにして、起き上がったオリヴィアを見た。鳩の町でオーレリアに挑んで返り討ちにあったあの女性が、今は一人きりで、しくしく泣きながら座り込んでいた。アルガスも剣を収めて、かがみこんだ。
「オリヴィア」
「久し振りね、アルガス=グウェリン」
オリヴィアは涙目で微笑んだ。オーレリアより大柄で、綺麗な顔立ちではあったが、どことなくいかつい感じのする女性だった。泣いたので化粧が崩れている。声もオーレリアよりだいぶ低い。そういえばオーレリアは、オリヴァー、と呼んでいたような。
――まさか、この人も。
「ごめんなさいね、あなたの連れに手を出そうとしたりして。でも危害を加える気は全然なかったの。オーレリアの居場所さえ聞ければ……」
「気持ちは分かるが。あなたの腕であの人に立ち向かうのは無理だ。諦めた方がいい」
「わかってるわ。みんなそう言うわ。でもあたしにはこうするしかないのよ……」
――何をしたんだ、あの人は。
舞は呆れてオリヴィアに歩み寄った。オリヴィアは涙目で舞を見上げ、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「いえその……オーレリアの居場所は知らないんです。十日以上前にイェルディアで別れて以来、全然。どこに行くかも聞かなかった」
「そう……」
「ご、ごめんなさい」
思わず謝ってしまうほどの憔悴だった。オリヴィアは微笑んだ。
「いいのよ。うん。本当にごめんなさい、素直に聞けばよかったわ。うん、あの、イェルディアで、アナカルディアに向かったらしいって情報があったの。それでまずここにって」
オリヴィアの言葉に、周囲が一瞬静まり返った。
そして爆発した。
「オルリウスが……!」
「この辺りに来てるんだって!?」
「なんてこった」
「あの疫病神……!」
ざわめきが波紋のように広がって行く。舞は更に呆れた。なんて評判が悪いんだろう。
オリヴィアが微笑んだ。悲しげに。
「グウェリン、あなたもあいつの毒牙にかからないうちに急いで出掛けた方がいいわよ。あたしが目的を遂げられればすべて丸く治まるのに、ね……」
アルガスは額を押さえた。周囲から同情のため息が漏れた。どうやらオリヴィアは応援されているようだった。オーレリアの評判が悪すぎるのかもしれないが。
舞は、訊ねた。訊ねずにはいられなかった。
「……何でオーレリアを?」
「あいつは……!」
オリヴィアがぱっと顔を上げた。涙に濡れた目に憎悪が宿った。
「あたしのいい人を盗ったのよ! あの悪魔!」
「どろどろ?」
「長くなる。聞く気なら座った方がいい」
アルガスがため息交じりに言って場所を開け、舞はオリヴィアの目の前に座り込んだ。不用意な発言をしたのだろうかと後悔する前に涙ながらの説明が続く。
「あたしには恋人がいるの、とっても優しい人で、あたしたちふたりとも農夫だったわ、木訥だけどあったかくって、誠実で、こんなあたしを心底愛してくれてたわ」
舞はアルガスを見た。
「どろどろ?」
「別世界が覗けるぞ」
アルガスは騒動で散らばっていた夜食を集めて何事もなかったかのように食べ始めていた。舞は手を伸ばしてオリヴィアの隣に落ちていたお茶入りの革袋を取り戻した。アナカルディアの地下水で入れたお茶は冷めても美味しかった。
「あたしたちは毎日幸せだった。子供は望めなかったけど二人で充分満足だったわ。でもそこへあいつがきた。純朴なあの人を簡単に籠絡して」
「……あの人って……男の人、だよね」
呻いたがオリヴィアは答えなかった。自分の世界に入ってしまっていた。アルガスの話はちっとも聞けないのに、どうして他の人のどろどろな身の上話をこってりと聞いているんだろうと、根源的な疑問が兆した。そして今度は邪魔が入らないのだった。本当に何かの呪いじゃないかと疑いたくなる。
「さんざん玩んで、それで何て言ったと思う? 手に入ったものには興味が失せるのよねって、あっけなく捨てたのよ! ぽいって! 果物の皮か何かみたいに!」
「……うわあ」
「やつれ果ててあの人は帰って来た。あたし、許したのよ、だって誰だって一度は過ちを犯すものだわ。あの人は涙ながらに謝って、またまじめに働くようになって。もとのように平穏な暮らしが戻って来たの。それが!」
「……まだ何か」
「またあいつが来たのよ! 人肌が恋しくなっちゃったとか言って! 悪魔だわ、疫病神だわ、綺麗なのは顔だけで中身は魔物みたいな奴だってあたしにはわかっていたわ! それなのにあの人はまた……!」
「ま、また……なんだ」
「仕方ないのよ……だってあいつ、あたしよりずっと綺麗だし……あいつには毒みたいな魅力があるのよ……あいつの魅力に逆らえる男なんてきっといないんだわ……」
いやいやいや、と周囲の男全員が手を振ったようだが、オリヴィアは見ていなかった。手巾を取り出して涙を拭い、はなをかんだ。舞に視線を戻す。
「あたし、今度も許したのよ。あの人を」
「……すごいな」
「でもまたそこにあいつがきて!」
「うん……だいたい分かりました……」
想像以上にどろどろだった。オリヴィアは手巾で顔を覆ってさめざめと泣き出した。アルガスが囁いた。
「別世界だろう」
「うん……勉強になった」
「あたしにはあの人しかいないのに! あいつにはいくらでも相手がいるのに! どうしてあたしたちを放っておいてくれないのよ! だからあたしはあいつを排除しなきゃいけないの、あいつがいる限りあたしたちに平穏はないのよ!」
「いくらでも相手がいるんだ……さすがだ……」
「……いやいくらでもはいないと思うが?」
「オリヴィアさんって心が広いね」
すると隣で聞いていた、明るい色の髪をした男が身を乗り出して囁いた。
「相手の男も最悪なんだよ」
「え、そうなんですか」
「事情を知る者は皆オリヴィアに、相手の男の本性を伝えようとするんだがな。かたくなに信じようとしないんだ。だが考えてみな、木訥で誠実な男がこう何度も同じことを繰り返すと思うか」
「……うわあ……」
「初めは本当に泣いて謝ったらしいがなあ。何度でもオリヴィアが許すもんだから。あんたも覚えておくんだな。許し過ぎるのも考えもんだぜ」
「うん……覚えておこう……あれ、でも待って。オーレリアはその男の人がそういう人だって知らないのかな?」
「知ってるだろ。そこも好都合なんだろうよあの色魔には」
「え、でも……」
舞はオーレリアとそれほど長く一緒にいたわけではないから、本当はどうなのか分からない。けれど、何だか、それはオーレリアにはそぐわない気がした。その男の人は、つまり、オリヴィアが何度でも許すのをいいことに、オーレリアが現れるたびに二股をかけているということになる、のだろう。オーレリアがそれを喜ぶとは、舞には思えなかった。
そう言おうとしたが、その前にアルガスが舞の腕に触れた。振り返るとアルガスは自分の口に指を当ててみせた。黙っていろということらしい。舞は黙った。
オリヴィアはもうしばらくさめざめと泣いたが、そのうち気が済んだらしかった。ごめんなさいねともう一度謝って、しおしおと上に戻って行った。数段上の寝台にもぐりこむまで見送ってからアルガスを見ると、
「オーレリアが手を出したのは確かだが、本当は最初の一回だけのようだ」
低い声で言った。舞はオリヴィアの寝台を見上げた。亜麻色の巻き毛が一筋垂れているのが見える。
「そしてその男に再び手を出すことはないだろうな。二度と」
「ええ? じゃあ……教えて上げた方が」
オリヴィアが戸籍を焼いてまでオーレリアを追いかけているのは、これ以上手を出されるのが嫌なため、放っておいて欲しいためのはずだ。それならばもう追いかける必要だってないし、オーレリアも命を狙われることもないし、オリヴィアが顔面に蹴りを入れられることもないわけで、すべて丸く収まるはずなのに。しかしアルガスは首を振った。
「まず第一に聞く耳がない。第二にこの事態を仕組んだのはオーレリアで、第三に、俺はオリヴィアに言うなと口止めされている」
「……なんで」
「さあ。俺も全部知っているわけじゃない。オーレリアに会えたら聞いてみるといい」
「でも……可哀想な気がする、あんなに泣いて、憎んで、追いかけ続けてるなんて」
「そうだな。あなたは口止めされているわけじゃない。だからオリヴィアに教えるのも自由だ。だが俺は、オーレリアの望みどおりにした方がいいように思う」
「……なんで?」
「だからオーレリアに聞いてくれ。俺も全部知っているわけじゃないんだ。推測でしかないから不用意に話せない」
舞はしばらく考えた。そして頷いた。
「うん。わかった。じゃあオーレリアに会えたら聞いてみる」
「それがいい」
「近いうちに会えるといいな」
つぶやいて寝台に戻ると、アルガスは無言だった。不思議な関係だと舞は思った。オーレリアの行動を支持し、口止めを律義に守るわりに、会いたくはないわけだ。不思議だ。
寝台に横たわると疲れが押し寄せて来た。もうアルガスに先程の話を蒸し返す元気も残っていなかった。昼寝で蓄えた体力は、この不思議な街の熱気と人いきれと、先程の騒動とどろどろの身の上話で尽き果ててしまったようだ。エスメラルダに帰るまでにまた機会もあるだろう。堅い枕に頭を乗せて、薄い布団を被って、ため息混じりに舞は言った。
「……お休み」
「ああ」
アルガスも丸めた上着を枕に横になった。床には枕もないのだ。多分足を充分伸ばすことも難しいのではないだろうか。借りばかり増えてしまうようでなんだか後ろめたいが、どうしようもなかった。舞が寝台を譲ろうとしても聞くはずがないし、一緒に使うわけにはいかないし、オーレリアの言葉を思い出すまでもなく、恥をかかせることになるのだろう。
騒音は未だ宿中に充満している。この音が消えることはないのだろうか。誰の声なのか、か細い泣き声はまだ続いている。眠れるだろうかと少し不安になったが、目を閉じるうちに意識が遠のいた。オリヴィアとオーレリアと、フィガスタとアルガスと、オリヴィアに白刃を突き付けた男たちと、馬屋の店主と、宿の外で舞に近づこうとした誰かと、威嚇して追い払ってくれた男の顔がぐるぐる回った。草原の民の庇護を受けられる……長の命令は絶対だ……長がひざまずいた……草原の民を手にいれた……
――あれ、
眠りに入る寸前に気づいた。
――ひざまずいたのはヴェガスタじゃなくてフィガスタだ。
起きたらアルガスに聞いてみよう、と思った。邪魔が入らずに聞ければ、の話だが。
*
「……寝てるな」
「はあ。そうですね」
「娘っ子がこんなところでよく眠れるな。今し方いろいろ聞いたがよ、つくづく、想像とはだいぶ違うぜ」
「はあ。そうですね」
「なんだ? 寝ぼけてんのか。珍しいな」
誰かは笑ってそのまま沈黙した。遠ざかって行ったのかもしれない。舞はもぞもぞした。今の話し声は誰のだったか。そしてここはどこだったか。考えるうちに周囲の騒音に気づいた。寝る前よりは少し和らいでいるが、それでも眠れたのが不思議なくらいの音量だ。辺りは薄暗かった。朝日の色ではなかった――ではまだ夜なのだろうか?
「あ、そっか――痛っ」
身を起こした舞は上の寝台に頭をぶつけた。
痛い。
「大丈夫か」
まだ芒洋としたアルガスの声が聞こえる。頭をさすりながら見るとアルガスは身を起こした体勢のままぼんやりしていた。舞は痛みを忘れた。寝ぼけている。
ぼんやりした声が再び聞こえた。
「顔を洗って来る」
「あ、うん」
アルガスはよろよろと立ち上がり正面へ歩いて行った。昨日の足取りが嘘のようにふらふらしていて危なっかしい。よろけて人を踏んで罵声を浴びたりしている。大丈夫だろうかと心配になっていると、昨夜、具を挟んだパンを三つ取った男が、座り込んだまま言った。
「よく眠れたか」
見ると目が合った。どうやら舞に言っているらしい。無視するのはやめたのだろうか。それにさっきアルガスに話しかけていたのはこの声だ。舞はうなずいた。
「はい、おかげさまで。譲ってくださったんでしょう。どうもありがとう」
いかつい顔立ちの男は、どことなくヴェガスタを思い起こさせる風貌だった。真っ黒の髪はもじゃもじゃで、髭は剃っているが、濃い。かなり凶悪な顔立ちの男は、舞をしばらく見た。彼の周囲の男たち、いずれも黒髪の者たちが、目配せを交わしあった。
舞は身じろぎをした。何だろう。
と、男は、にま、と笑った。
「なに、気にするな。食べ物は持ってるのか」
「ええ」
「交換しないか」
言って男は舞に、動物の皮をなめして作った布包みを放ってよこした。
「山羊のチーズに堅パン、羊のハムにキュウリの酢漬けだ。珍しいだろう」
「ん……わ、すごい匂い。ああ、でも、これだ。懐かしいなあ」
「あ? 懐かしいのか?」
「ええ、父が好きだったんです。お酒に合うってよく食べてた。えっとこれが朝食かな。どうぞ」
舞が差し出した包みを受け取りながら、男は少し近寄ってきた。思ったより若い、と舞は思った。よくよく見るとアルガスよりいくらか年上、という程度のようだ。男はしげしげと舞を見た。
「草原の民の血が混じってんのか?」
「あたしが? いいえ。でもなんていうのかな……その……異国のものが手に入りやすいところに住んでた、というか」
「ふん。あんたも好きか?」
「これ? 子供のころは苦手だった。父がおもしろがって食べさせようとするのが嫌だったな。あと青い、かび? の入ったチーズとか」
「試してみな」
促されて、堅パンに、ヤギのチーズを乗せて口に入れた。つんとくる異臭を裏切らない味がした。思わず鼻にしわが寄り、そのまましばらく考えた。お酒が飲めればもっと美味しいのだろうか。しかし子供のころのようにすぐに吐き出したいほどではなかった。そしてしばらく味わい、飲み込み、少し経つと、後味のまろやかさに気づいた。美味しいという感じではない、少なくとも自分で好んで求めに行くことはなさそうだ。けれど幾度か続けて食べたら、いつかふと思い出してどうしても食べたくなる日が来そうな気はした。
「どうだ」
「うん。……うん」
もう一口食べた。
そしてうなずいた。
「三日後くらいにわかる、のかな。感想が」
「なんだそりゃ」
「なんて言ったらいいのか……食べ慣れない味。後味は好きです。あたしがもう少し大人になれば美味しいと感じられるのかも」
もう一口食べた。
「慣れて来ました。でも目に染みる」
「それはヤギのチーズの中じゃまろやかな方なんだが」
「そうなんですか。ああ、そう、そう、訓練が要りそうな味です。だから三日後に思い出してみて、もう一度訓練したいかどうか、自分に聞いてみる」
男は笑い出した。その人だけじゃなく、周りの人間も笑った。舞は驚いた。周囲にいた数人の男たちが、みんな自分の反応をみていたことに気づいたからだ。いつの間にか、昨日宿の外で舞の隣にいた男も混じっていた。彼も今は舞を見て、そして面白そうに笑っている。上の段からも笑い声がした。チーズをくれた男はまだ笑い顔のまま言った。
「んじゃ今度会った時に感想を聞かせてくれ。いいな?」
「あ、はい」
「つくづくおもしれえ娘っ子だ」
男は首を振りながら舞の包みを開き、うお、と声を上げた。そしてもうひとつ包みを放ってよこした。
「さっきのじゃ割にあわねえ。三日後の再訓練のためにもうひとつやるぜ」
「ああ……ありがとう」
「もう少しで夜明けだ。あと一時間程で馬も届く。どうせ今日もらえるんだろう? ああ? なんだよ別に嫌み言ってるわけじゃねえよ、あんたの用は本当に急ぎなんだろうから気にすんなよ。それ食ったら……けど遅ぇなあいつ、寝てんじゃねえのか」
本当だ。
アルガスの姿は消えたまま未だ現れない。あのふらつき具合を見た後では心配になって来る。舞は残りの堅パンにハムとチーズを乗せて噛み付いた。だんだん慣れて来て、ざりざりした堅パンの表面にとろみのあるチーズが蓋をするようなからみ具合は悪くないと思い直した。ハムは不思議な匂いがするが美味しい。酢漬けは顔をしかめるほど酸っぱかったが、ハムとチーズの臭さがそれで消えた。全体的に悪くない朝食だった。三日後、また絶対挑みそうな気がする。
後片付けをして身支度をして、靴を履いてもアルガスは戻ってこない。お茶を飲んで革袋をしまい、背嚢を背負って立ち上がって、アルガスの置いていった大きな背嚢を眺めた。担げるかどうか心底不安だ。縮めればいいのだが、あまり人前で見せる技ではない気がするし。
「様子を見に行くなら……これも持って行くべきですね?」
呟くと、デボラの豪勢な朝食をあっと言う間に平らげた男が笑った。
「まあそうだな。あいつまで庇護する義理はねえからな、戻って来たらそっくりなくなっていても不思議はねえな。まあいいさ、そのうち戻るだろうから放っておけよ。まだ馬も届いてねえ時間だしよ、急ぐこたねえ。ここならあんたを置いていっても安心だって思ってるから離れてるんだろ。あいつだって五年以上流れ者やってんだ。あんたぐらいの年の時にはひとりで歩いてた。心配するこたねえよ」
舞は自分が本当の年齢より三つほど幼く見られることをよく知っていたので、頭の中で修正した。十六に五を足すと、二十一。うん。それくらいだろう。エルギンと同い年くらいだろうと思っていた。
「五年も前からご存じなんですか?」
「あいつを? ああ、昔っから何かと因縁があってな。それに【アスタ】の用心棒の中にも草原の民はいたし、評判も悪くねえ」
昨夜に比べて男はかなり友好的だった。周囲の草原の民たちも、話にこそ入ってこないが、目が合うと頷いたり笑ったりする。昨夜の見事なまでの無視がこうなると不思議なのだが、とにかく友好的になったのは嬉しいことだった。
舞は男の隣の床に座り込んだ。男がこちらを向き直った。
「あんた流れ者にはあんまり詳しくねえんだろ。流れ者にはな、大きく分けると二種類いる。評判のいい奴と、悪い奴だ。悪い奴は仕事を選ばねえ、金さえ手に入れば何でもする、人さらいでも恐喝でも盗みでもな。だが実際、流れ者にとって評判ほど大事なものはない。オルリウスの嫌われっぷりを知ってるだろう? だがあいつは、人間としてはさておき、流れ者としての評判は悪くねえんだ。仕事は一流だ。契約は裏切らねえ。だからあれほど嫌われていても一目置かれる」
「流れ者の美学、というもの?」
「ああそうだ。それを守るかどうかが大事なんだ。わかるな?」
「ええ」
「グウェリンだが」男はアルガスが戻ってくる様子がないことを確かめた。「かなり評判がいい。あんたが選んだのか? いい護衛を選んだな。若いが腕も立つ、汚え仕事はしねえし、選んで受けた仕事は首尾よくやり遂げる。だから俺も覚えていたし、寝台だって譲ってやったのさ。評判がよければいろんなところで有利だ。自然と味方されたりするしな」
「そっか……すごいな」
「それに養父も有名だしな」
来た、と舞は思った。アルガス以外の口から身の上話を聞くのは気が引けたが、それでも聞きたかった。素知らぬふりをして軽くたずねた。
「有名、なんですか」
「まあな。ヴィード=グウェリンといや、名だたる剣豪だったんだ。剣術大会とかには出なかったが、鬼のように強かったって話だ。弟子はひとりも取らなかった。それがひとりだけ子どもを拾った。それがあいつさ。たったひとりだけおめがねにかなったってわけだが、なるほどさすがにそれだけのことはあるよ。
そんでヴィードが火あぶりになった時――」
――火あぶり?
舞はかたずを呑んだ。ではやはり、【契約の民】だったのだろうか。
ところが。
やはり呪いのようだった。
宿の入り口に、ひとりの華奢な女性が立ったのは、目の隅に見えた。ところが、その瞬間、入り口付近の空気が凍った。ついで潮が引くように、ざざざざっ、と入り口付近から人が引いた。誰かが上ずった声を上げた。
「おおおおおオルリウス=ケイン=マクニス……!」
それで宿中から音が消えた。




