家路(3)
デボラが言ったとおり、王妃宮には昨夜に輪をかけてひとけが無かった。階段を上がるのにとても緊張したが、誰にも会わず、みんな出掛けたというのは本当らしかった。ついでに洗濯もさせてもらおう、石鹸もたっぷりもらおう、今日も髪を洗ってぴかぴかになってやる、と思いながら浴室を見つけだすと、そこにはシンディがいた。手持ち無沙汰に椅子に座っていたが、舞が来たのを知ると立ち上がった。舞の目は見なかったが、身を引くようなしぐさをしたので、入っていいのだろうと判断して中へ入った。
想像していたよりも、こぢんまりした浴室だった。
大理石でできた浴槽は小さいが、熱い湯をたたえていて、磨き上げられた大きな鏡が置かれた洗い場は綺麗な色の石が敷き詰められていた。シンディは舞の後ろからついて来て、デボラのように独り言を言った。
「拭布はこっちにたっぷりあるし。よし。石鹸壷は……うん、まだあるから、午後になったら補充すればいいかな。汚れ物入れる籠はここにあるし、回収も午後でいいかな。うんうん」
シンディはデボラほど平然としてはいなかった。視線が幾度も舞をかすめた。うんうん、と頷きながら、棚の辺りをうろうろした。
「アンヌ様のお使いになる百合の香油って、とてもいい匂いなのだけど、ええと、ひとたらししたほうがいいかな……」
「結構です。でもありがとう」
答えるとシンディはびくりとした。舞が服を脱ぐと、制止する間もなくそれを奪って、今日はいいお天気だから夕方までには乾くわ、と独り言を言いながら脱衣カゴに入れてしまった。そして振り返った。
「ついでに洗う物があればいいんだけど。だってこれっぽっちじゃ……その……デボラに叱られるわ」
「いいよ、人手が足りないんでしょう。自分で洗うよ」
「デボラが言ったとおりだわ。でもそんなことさせられない。だってデボラに叱られるもの。これからまた旅をする人には、綺麗な服はいくらあっても困らないと思うわ」
「でも……エスメラルダまではもう後少しだから、五日もあれば着くから、」
「五日も!? 大変!」
シンディははっきりと舞を見た。ほっそりした頬に赤みが差して、びっくりするほど綺麗に見えた。
「お願いです。下心があるの。あたし……あたしエスメラルダに行きたい。王太子殿下のの治める平和な国に行きたいの。何の心配もなく、暮らせるようになりたいの。アンヌ様とデボラと、カーディス様と一緒に。だからあなたに恩を売りたい」
あからさまに言われて、舞は体を洗い始めていた手を止めた。キラキラした瞳が舞を見据えた。
「あの……アンヌ様をまた誘いに来てくださるでしょう? あの……アンヌ様がどうして拒絶、なさったのかはわからないのだけれど、でも、諦めないでくださるでしょう? 近いうちに、あの方をここから救い出してくださるでしょう? 約束してくださらなきゃ、お着替えを出さないわ」
「あはははは!」
舞は思わず笑い出した。それから指を指した。
「さっきの服の隠しに、小さく縮めた背嚢が入ってる。その中に着替えがあるから、洗ってもらえる? お言葉に甘えて」
「……」
シンディは舞の服を探って言われたとおりに小さな背嚢を取り出した。不思議そうにいじっている。舞は泡だらけの手を伸ばして背嚢に触れ、元の大きさに戻した。わ、とシンディが可愛らしい声を上げ、急に重くなった背嚢を慌てて支え直した。
「破れたのもある。悪いけどそれは捨てて」
「破れた……はい」
何があったのか、とは問わず、シンディは取り出した着替えをより分けた。それから嬉しそうに破れていない着替えを脱衣カゴに入れ、破れたのは手に持って浴室を出て行った。舞は体を洗い終え、髪も洗って、乾いた拭布でまとめてから、浴槽に滑り込んだ。熱い湯が全身を包んで、昨夜の気持ち悪い感触を全て洗い流した。まだ昼にもならない時分に湯に浸かるのはあまり経験がなく、なんだか贅沢な気分だ。
シンディが戻って来た。盥を抱えていた。洗い場に陣取って、お湯を注いで石鹸を溶かし、汚れ物を入れて裾をたくしあげて素足で踏んだ。洗濯のやり方はここもエスメラルダも変わらない。量が多いと重労働だ。デクターが既に作っているという、『便利な道具』が、もしももっと進歩したなら、洗濯機もそのうちできるのだろうか。舞は湯船の縁に手を乗せ、その上に顎を乗せてシンディを見ながらぼんやり考えた。
シンディはくるくるとよく働いた。一時もじっとしていなかった。汚れた水を捨て、洗濯物をしぼり、綺麗な水を注いで洗濯物をすすいで、またしぼって水を入れ替え、すすぎの水が綺麗になるまで繰り返した。舞が充分お湯を堪能して風呂から上がるころには、汚れのすっかり取れた洗濯物が干されるばかりになってできあがった。シンディは絞った洗濯物を籠に入れながら言った。
「夕方にはお返しします」
「お願いします。それから……近いうちにアンヌ王妃と、あなたたちを迎えにくる。絶対、約束するから、着替えを貸してください」
「……はい」
シンディは舞を見てにっこりとして、まず、乾いたふかふかの拭布を差し出した。
「お拭きしましょうか」
「ええ? 結構です」
「そうおっしゃると思いました」
面白そうに言ったシンディは、歌うように続けた。
「流れ者と一緒にお食事をなさり、人手が足りないだろうからと洗濯もご自分でなさろうとし、さっさとおひとりでお体も洗って、百合の香油も断るお方が、世界で一番偉大な女神の愛娘とは」
「……よく叱られます」
「叱られるんですか?」
「うん。威厳が足りないって」
「そうですか。あたし、ヒリエッタ様のような方だと想像していたんです。あの方はあたしたちには命じるだけ、王妃の護衛には視線を向けようともしない。流れ者のことは存在しないもののようにふるまう。身分の高いご令嬢って、みんなそうかと思っていました。アンヌ様が特別なんだと思っていました。だから驚いただけです」
「ああ……それで」
それでヒリエッタは【アスタ】で、アルガスのことをああも鮮やかに無視したわけだ。つい感心してしまった。あそこまで徹底していると、なんだか特殊技能のように思えてくる。
「大きさ、大丈夫ですか」
「うん。ありがとう」
シンディは、服を着終えた舞を確認するように見て、ひとつうなずいた。それから鏡の前に舞を座らせて、昨日のようにていねいな手つきで髪を拭き、それから櫛を出して梳いてくれた。生乾きのもしゃもしゃの髪が、真っすぐに整えられていく。
「エスメラルダって、どんなところですか」
櫛と拭布を交互に使いながらシンディが聞いて来た。
「うーん……田舎、かな」
「そうなんですか?」
「ほとんど何もない。なだらかな斜面と林と森と、綺麗な川と。集落はあるけれど、人はそれほど多くない。商人をあまり呼ばないようにしているから、屋台もないし。あそこの中でお金を使うことってほとんどないんだ。【アスタ】に行ったとき、よく似てるなあって思った。
あ……年に一度、冬至の日を挟んだ三日間だけ、いろんなところから人が来て、市が開かれる。その時は華やかににぎわうけど」
「学問所は?」
「かつての神殿跡を修復してそこに本と机を詰め込んだだけ、という感じの場所。そこは大勢人がいて、今も少しずつ増えてるんだけど……学者って変わり者が多いから。あんまり同じ場所に住んでるって感じがしないんだ。あそこだけ別の国みたいな感じがする。同じ分野の仲間で寄り集まって、訳の分からない議論を交わしていたり、ひとりで研究のために世界のどこまでも出掛けて行って、ふらっと戻って来ては論文書いてみんなの前で発表して、またふらっと旅に出たりとか。ああいう生活も面白そうだなあって思うこともあるけど」
「ふうん……想像していたのとはだいぶ違うわ」
「そう? がっかりした?」
「いいえ。もっと行きたくなりました」
シンディはにっこりして、できましたよ、と言った。
舞が礼を言って離れると、シンディは化粧箱の中から平たい小さな皿と、小さな壷を三つ取り出した。壷には一つずつ、ごくごく小さな匙がついている。シンディが壷の蓋を次々と開けたので興味津々でのぞき込むと、どうやらそれは顔料のようだった。ねっとりした、赤と白と茶がそれぞれ入った壷の中から、わずかずつ顔料を取り出して皿の上で混ぜ合わせる。シンディの指先はとても繊細で、まるで魔法のようだった。化粧させるつもりなら断ろうと思ったが、それにしては量が少なすぎる。
「それって……なに?」
「お手を」
答えることはせず、シンディは舞の手を取った。皿の上にできあがった濃いクリーム色を舞の手の甲に伸ばすと、肌と見分けがつかないほど同じ色をしていた。一発で同じ色にするなんて、と感心するうちにシンディは新しい壷を取り出して、今作った色の顔料をすくって入れた。蓋をして、舞の手に乗せた。
「よかったらお使いください。指で薄く伸ばせば消せます。拭いたり洗ったりしたら取れちゃいますが、数回分は作りましたから。それに、ご存じでしょうが、そもそも三日もすれば消えるものです。家に戻られるころにはすっかりなくなりますよ」
何のことかは言わなかった。
「……ありがとう」
シンディがずっと、舞の首筋を見ないようにしていたのには気づいていた。今もそこには視線を向けなかったが、舞の手をはなす時、かすかに指先を握った。
「何があったかは存じません。でも本当に……ご無事で、ご無事で、なによりでした」
「うん。おかげさまで」
「どうか道中、お気をつけて。でもグウェリンさんって腕がたつそうですから、きっと大丈夫ですね。デボラが張り切っていました、厨房の人をだまくらかして、どっさりお弁当をつくるんだって。ここのお掃除が済んだら手伝いに行きます。五日分となると、日もちのするものにしないと」
「……なんだか申し訳ない……」
「この機会にたっぷり恩を売っておきたいだけなので、どうぞお気遣いなく。それに王妃宮にいる間は、それがたとえ流れ者であっても、下働きの召使いであっても、もちろん高貴な姫君であっても、飢えることだけはデボラが許しませんから。今日はゆっくり休んでください。そろそろ王子のお部屋のお掃除も済んだはずです。王妃は夕刻にはお帰りになりますが、二階に行かれることはまずありませんし、私達が気をつけています」
「……うん。本当にいろいろありがとう」
礼を言うと、シンディは微笑んだ。
「本当に、デボラの言ったとおりだわ」
「え?」
「いいえ、なんでもないんです。ここで失礼します、【最後の娘】。次にお目にかかるのを楽しみにしています」
にっこりして深々と頭を下げるシンディに、舞も頭を下げた。顔を上げたシンディはおかしくてたまらないという風に微笑んだ。舞は軽く手を振って、廊下の気配をうかがってから外に出た。王子の部屋に戻ったら早速使わせてもらおう、と思って、もらった壷を握り締めて、階段を軽い足取りで駆け降りた。
どうにかしてアンヌ王妃を説得して、もう一度シンディに会いにこなければならない。そしてそれは遠いことではないだろう。エスメラルダに連れて行ったらきっと喜んでくれるのだろうと思うと、その日が、今からとても楽しみだった。
*
日が暮れてから王妃宮を出た。
痣もきれいに消せたし、昼寝もして、昼食も夕食もたっぷり食べたので、昨夜とは別人のような気が我ながらした。王子の書きやすいペンと高級な墨を拝借して必要な手紙も書けた。一番近い集落で出せば、舞が帰ることを知らせられる。綺麗な乾いた服を着て、綺麗な着替えも入っているし、一週間は食べつなげそうな食糧も持たされた。準備は万端というところだ。
その上今度の抜け道は短かった。来る時もここを使えばよかったのに、と思うほどあっさりと王宮の外へ出たが、出口は外から開かない仕組みになっているのだそうだ。つくづく、ややこしい王宮だと舞は思う。
「まず馬を調達しよう。少々遠回りになるが」
アナカルディアの街をつつがなく通り抜けたころ、アルガスが言った。
「アナカルディアで手に入れるのは無理だ。だからまず南へ」
エスメラルダは西にある。舞はため息を隠した。レイデスから乗ってきた馬は街の手前で放してしまったが、どこかにつないで置けばよかったと思った。徒歩で帰るのは時間がかかりすぎるから、少し回り道でも馬を手に入れる必要は絶対にあるのだが、違う方向に行くのだと思うと出端をくじかれた気分だった。ここからエスメラルダまでは馬でたった四、五日の距離だ。もうすぐそばにまで、ニーナのすぐそばにまで、帰ってきているのに。
「じゃあレイデスまで戻る?」
「いやそこまでは行かない。南に流れ者が作った小さな街がある。夜だけ入れる街だ。そこでなら何でも買える。少々割高だが」
「手紙も出せるかな」
「書いたのか。エスメラルダへか? 多分出せると思うが」
相変わらずゆっくりとした口調で話しながら、アルガスがよどみない足取りで歩いて行く。ふと、舞は、周囲の風景に見覚えがあるのに気づいた。そうだ。来る時にも通った道だ。この先にはアナカルディアの裏口がある。門を通らずに街に出入りできる抜け道だ。この近くの廃屋でヴェガスタに変装を笑われたのは、昨日のことなのだ、と舞が感慨にふけっていると、アルガスが足を止めた。フィガスタだ、と囁かれて、舞はそっと前方を覗いた。フィガスタは抜け道をふさぐ、塀に見せかけた戸のかたわらにもたれていたが、ふたりに気づいて姿勢を直した。
「出掛けるのか、グウェリン」
平静な声でフィガスタは言った。昨夜アンヌ王妃をなじった声が耳によみがえった。舞は頭を下げた。フィガスタは舞に、何か確かめるようにしばらく視線を当てていたが、何も言わずに視線を外した。
「話の収集はもう無用だ。世話になったな。お前の集める話にはどうも華が足りなかったが、まあ、助かったよ。これを持って行け。代金の残りと、わずかだが謝礼だ。突然解雇するんで悪いしな」
わずかだが、と言う割に、ふくらんだ革袋は重そうな音を立ててアルガスの手に渡った。アルガスは何か言おうとしたが、フィガスタに睨まれて、結局言わずに、頭を下げて懐にしまった。フィガスタはひらひらと手を振った。
「気をつけろよ、なにかと物騒だからな」
「はい」
「俺は今夜いっぱいはここで見張りをしてなきゃなんねえんだ。重要な人間を見過ごさねえように。お前も道中気をつけててくれねえか。黒髪の華奢な、『娘っ子』――だとよ」
娘っ子。ヴェガスタがずっと、アンヌ王妃のことをそう呼んでいた。
それから昨夜、牢の前で、舞のことをそう呼んだ。吐き捨てるように。あれは演技だったのだと、今ではもう分かっているが、昨夜のヴェガスタを思い出すとまだ淋しくなる。
けれど、フィガスタは真っすぐ舞を見た。
「ヴェグの野郎が長であるうちに、まさか王妃から移るとは思わなかった。知ってるだろうが、草原の民は長が、ある特定の呼称で呼ぶ存在に、最大限の敬意を払う。ヴェグの場合は『娘っ子』だ。数日後には草原の民全体に、その新たな敬意の対象が口伝えに行き渡ってるはずだ。地下街にはもう充分広がってる。彼女がどこへ行っても、そこに草原の民がいれば、無条件で庇護を受けられると約束しよう。その娘っ子をもし見かけたら、そう伝えてくれねえか」
「わかりました」
アルガスがうなずき、舞はフィガスタを見上げた。何を言われているのか、よく分からなかった。まだ。
フィガスタは微笑んで、右手を上げた。人差し指と中指をそろえ、自分の額、左肩、右肩の順に軽く触れて、最後に左手の甲に触れ、その左手を、舞に差し出した。
「草原の民・フィガスタから、【最後の娘】……エスティエルティナ=ラ・マイ=ルファ・ルダへ。左手の握手を」
「え……と」
「えっとじゃねえだろうよ。ボケてんのか」
フィガスタは苦笑したが、そのまま舞の左手をつかみ、片膝を立ててひざまずいた。そして舞の左手の甲に唇をつけた。舞は仰天したが、腕を引っ込めるのは辛うじてこらえた。ひざまずいたままフィガスタは、舞を見上げて微笑んだ。
「道中気をつけてな」
「……う、ん。ありがとう」
「ヴェグから伝言だ。次に来るまでに、なんとか王妃を説得しておくとさ」
「うん。よろしく」
「よし、行け」
アルガスが戸を開いた。フィガスタが舞の手を放し、立ち上がった。そっと背を押されて、舞はアナカルディアから外へ出た。
戸が閉まる寸前、フィガスタが胸の前に左腕を引き寄せて、軽く膝を折ったのが見えた。まるで敬うようなしぐさだと、舞は思った。




