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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
間話4 分身
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分身

 示し合わせておいた時間に鈴を振る。ちりりん、美しい音色が闇に響く。

 フレデリカはわくわくしていた。“贈り物をついにお持ちしますよ”とあの男は言ったのだ。




 ことの起こりは、数日前。王座の下の定位置に蹲っていたフレデリカのところに、久しぶりに彼が戻ってきた。クレイン=アルベルトという名を持つ魔物、フレデリカの片割れは、普段は金の髪と緑の瞳を持った美しい人間の若者に姿を変えている。その見目麗しい姿で彼はフレデリカの前に跪き、うっとりするような笑みを見せた。


「愛しき我が片割れ、ただいま戻りました。ご機嫌はいかがですか」


 フレデリカはクレインの姿を見るやいなや拗ねた。そもそもこんなに長い間、クレインに放っておかれたのが不本意だった。フレデリカはクレインの片割れであり主であり目的であり、崇拝され尊重されてしかるべき“左”である。それをこんなに長い間、王座の下に放ったらかしておいて、“ご機嫌はいかがですか”とは何事だ。


 クレインはフレデリカが拗ねて答えないのを見て美しい眉を下げた。


「……そんなしかめっ面は貴女の美しい容に似合いませんよ。できる限り急いで帰ってきたのに」


 だから譲歩せよというのか。フレデリカはますます機嫌を損ねてそっぽを向いた。そもそもフレデリカは、クレインが片時でも自分の傍を離れるのが赦せないのである。だって、本来ならクレインが出かける必要などないからだ。フレデリカにもクレインにも、分身を作って意のままに動かす能力が備わっている。その恩恵を生かせばいいのに。


 十年前に王妃アンヌと彼女率いる衛兵たちに襲撃されたフレデリカは、本体を殺されてしまった。十年かけてようやく傷を癒やし毒を補給し意識を満ち渡らせられるようになってきたが、それでも全盛期ほどの力はない。

 しかし、フレデリカは勤勉だ。王妃アンヌへの警戒は怠らない。この十年の間に、せっせと王に働きかけ、アンヌへの不信感を植え付け、傍から排除し、アンヌを孤立させ、護衛を取り上げた。草原の民であるヴェガスタとフィガスタというその護衛は遙か遠くのイェルディアへ赴かせ、同盟の会合を襲撃させるという危険な仕事に就かせた。あの護衛はどうも油断ならないから、なけなしの毒と力を使って分身を作り、フィガスタと一緒に船に乗せることまでした。


 儂はこんなに働いているのに、と、恨みがましい気持ちになる。クレインは元気で、フレデリカよりずっと力があるのに、分身を作りもしない。フレデリカを放り出し、フレデリカの仇敵であるアンヌに自らの無力さを思い知らせることもせず。ああ、歯がゆい。そう、歯がゆいのだ。クレインはフレデリカの片割れであり恋人であり保護者であり隷しもべである。まず真っ先にフレデリカを尊重してしかるべきなのに、分身を作ってくれれば全てがうまく収まるのに。蔑ろにされていると言う気持ちで、胸の奥がじりじりと灼ける。


 クレインは人間の姿のままそっとフレデリカの毛皮を撫でた。優しい感触に官能が沸き立ち更に苛立つ。人間の指先で撫でられることはフレデリカのお気に入りで、だからこそそんなことでご機嫌を取られるのが悔しい。


『触るでない』


 この箱庭の中に入っている“左”はフレデリカだけだ。

 しかし“右”の代わりはいくらでもいる。こんな男、いつでも捨ててやれるのだ。だからちょっと、懲らしめてやるつもりだった。ご機嫌を取らせて、ちやほやさせて、傅かせるくらいいいだろう。クレインはフレデリカの拒絶にもめげずにせっせと毛皮を撫で、耳元で甘い言葉を囁いた。少しずつフレデリカの機嫌が上向いてきた。後もう少し撫でさせたら勘弁してやろうか――そう思い始めた頃、クレインが囁いた。


「以前、おっしゃったことがあるでしょう――どこからともなく現れた“流れ星”の存在について」


 フレデリカはきっと頭をもたげてクレインを睨んだ。

 今クレインは必死でフレデリカのご機嫌を取ってしかるべき刻なのに、今なぜその話題を持ち出したのだろうか。“流れ星”。なんて憎らしい名だろう。フレデリカが王妃アンヌに敗れ本体を喪ったとき、そのきっかけとなった存在だ。


 十年前、アナカルシス大陸の上空を、流れ星が飛んだ。

 現エスメラルダ(当時はルファ・ルダと呼ばれていた)の上空に現れ、空を斜めに飛んだ流れ星は、抱き合うふたりの子供の姿で複数の人間に目撃された。刻を同じくして、ルファ・ルダ近辺に不思議な人間が現れた。少女がふたり――ムーサの証言を加味すれば、そこに少年のような若者のような、とにかく男性も含まれる。こちらは合計で三名だ。


 遠く離れたアナカルシス王宮にいたフレデリカでさえ感じたほど、その存在は異質だった。あってはならない異端。正でも負でもない存在。フレデリカは流れ星を排除しようと分身を動かし彼女たちを追った。その追撃を躱した少女ふたりはついに王宮に現れ、アンヌに手を貸し、フレデリカの本体を滅ぼすに至ったのだ。王を操り暴君に育て、人々を虐げさせ怨嗟の声をこの地に行き渡らせ、アシュヴィティアの崇高な王国をこの地に建設する――フレデリカの進めてきた至高の計画を頓挫させた痛恨事として、十年前の出来事はフレデリカの胸に刻まれている。その元凶が“流れ星”だ。


 少女ふたり(と若者がひとり?)は、その後ルファ・ルダから消えたのだという。忽然と姿を消したと聞いている。その行方が気になってはいたものの、今までそれを追求する暇がなかった。それゆえに、“流れ星”の存在は、フレデリカの胸に今も楔のように刺さったままだ。


 クレインは穏やかに微笑んで、フレデリカの耳元で囁いた。


「ウルクディアで、面白い娘に会ったのです。――正でも負でもない、周囲から際立つほどに異質な存在。我ら魔物の胸の奥底をざわめかせる異端の娘」


 フレデリカは瞬きをした。クレインの発言の意図を、意味を、計りかねていた。

 じわじわと理解が進む。それを促すように、クレインの優しい声が闇に響く。


「以前から、少しおかしいと思っていたのです。十年前に王宮に現れたふたりの娘――それからエスメラルダで我が先達を斃した若者。それは本当に、我らの胸をざわめかせた“流れ星”そのものだったのでしょうか?」

『え――?』

「エスメラルダを守る力はあまりに強く、私は未だにあの中には入り込めていません。しかし十年かけて、ようやく少し、当時の状況がつかめてきました。“流れ星は抱き合うふたりの子供の姿でエスメラルダ上空に現れ、空を斜めに横切って雪山の向こうに消えた。”複数の人間がそう証言しています――が、同時期にエスメラルダに現れた“不思議な人間”は三名です。数が合わない。それに我々が今まで“流れ星”だと思っていた少女ふたりは、年の頃は当時、十代後半くらい。ひとりはとても小柄だったそうですが、それにしても“子供”と表現するには少し年が行きすぎているのではないでしょうか。

 更に彼らは、酷いケガをたちどころに治した、風を使い炎を操り魔物を斃した、などという点で“不思議な力を持っていた”と称されます。確かに不思議ですね。人間としては――という但し書きがつきますが」

『どういう、意味?』

「フレデリカ。貴女にとって“流れ星”は異端だった。その理由を、良く、考えてみてください。怪我や病気を治す、風を使い光を使う、そういう能力は“不思議”ですか?」

『あっ』


 フレデリカは不機嫌も拗ねた気持ちも忘れて思わず座り直した。

 今、フレデリカの本体は、大きめの猫に似ている。虎ほど大きいわけではないが、猫に間違われるほど小さくもない。その漆黒の身体を起こして、フレデリカはクレインをまっすぐに見た。


『そう言われてみれば――正にとっての光が儂にとっての闇。闇を操り怪我を治し風や水を従えることは、儂にもできるな』

「そう。思い出してみていただけませんか。貴女はふたりの少女と対峙した。そのとき、胸がざわつくほどの異端さを感じましたか?」


 繰り返して訊ねられるまでもない。記憶の底に、あの時会った、少女ふたりの像が甦った。ひとりは平凡な娘だった。亜麻色の髪が長く、二本のお下げにしていた。大人しそうな気弱そうな顔立ちだった。もうひとりは小柄で、とても綺麗な娘だった。

 あのふたりのどちらからも、“流れ星”がこの世に現れたときほどの異端さは感じられなかった。


『……あのふたりは、それから若者も――“流れ星”とは関係なかった、と?』

「そのふたりの娘を隠れ蓑にし、本物の“異端”が貴女の目を逃れ、この世界のどこかに隠れたのだとしたら? ……先日、ウルクディアで――それからその後、【アスタ】で、私はある娘に会いました。エスティエルティナに守られていましたから、少々気づくのが遅れましたが……胸がざわつくほどの異端でした。私は確信しました。“流れ星”はこの娘だったのだと。まだ若い娘でしたよ。十年前には、正に子供だったでしょうね」

『どこに! 今どこに!? 抱き合うふたりの子供……ふたり、いたの、か!?』

「いえ、ひとりでしたが……この話、お気に召しましたか?」

『むろんじゃ!』


 フレデリカは勢いづいて叫んだ。ずっと胸に楔のように刺さっていた“流れ星”の消息が、つかめるだなんて。

 これから流れ星を狩り立て、追い詰め、この爪で八つ裂きにしてやれるだなんて!


「彼女は近々この辺りを通るはずです。罠を張りましょう。お楽しみに、我が主よ――貴女の前に“流れ星”を、引きずり出してお目にかけましょう」


 そう言ってクレインは、そっとフレデリカに口づけをした。


「その暁には――ついに、私をつがいにしてくださいますね?」

『ふふふ、もちろんじゃ』


 そろそろいいかと思っていた。身体もだいぶ大きくなったし、力も戻って来ている。




 そして、今夜だ。

 珍しく興奮した様子でクレイン=アルベルトが駆け込んできた。王妃宮に彼女が現れた、と、息せき切って言うや、彼は跪いてフレデリカに鈴を握らせた。


「真夜中ちょうどに鈴を鳴らしてください。王に会わせればきっと、面白いことになります。お楽しみに、フレデリカ。“流れ星”のもうひとつの居場所を吐かせたら、後は煮るなり焼くなりお好きなように。貴女への贈り物をついにお持ちいたしますよ」


 わくわく。フレデリカは王座の下で鈴を握りしめ、真夜中の鐘が鳴るのを今か今かと待っている。十年前の鬱憤をようやく晴らすことができる。聞けば“流れ星”はティファ・ルダの生き残りだという。王への恨みは深いだろう。その恨みと憎しみを浴びて、王はますます美味しくなっていく。“贈り物”とクレインは言った。ああ、なんて素敵な贈り物だろう。クレインは理想の“右”だ。有能で誠実で無慈悲で。


 王も王座に座って、クレインの戻りを待っているはずだ。真夜中まであと、少し。

 そして。

 待ちに待った真夜中の鐘が鳴った瞬間、フレデリカは鈴を振った。ちりりん、澄んだ音色が闇に響く。闇の中で空間が引き裂かれ、そこにクレインの姿が――


『……あと一歩のところでありながら……』


 呪詛が聞こえて、フレデリカは戸惑った。

 クレインの声だ。悔しさの滴るような、クレインの口から出るだなんて想像したこともないような、声。


『覚えておきなさい……わたしは絶対にその娘を……』


 姿も違った。普段どおりの美しい人間の若者ではなく、巨大な毛むくじゃらの、魔物本来の姿だった。

 空間がかき消え、きゅん、という音を立ててあちらへの井出入口がかき消えた。クレイン=アルベルトは傷ついて、喘いでいた。醜い獣の姿で、普段の余裕を喪っていた。

 傷ついた獣が、ゆっくりとこちらを振り返った。


 悄然と頭を垂れる。許しを請うような、惨めな姿。


『……申し訳……』

『失敗したのか』


 自然と、彼女の声は冷たく、尖った。冷たい怒りに支配されて、彼女は言い放った。


『そなたともあろうものが、一体どうしたのじゃ。娘を――流れ星を。エスティエルティナに守られた【最後の娘】、ティファ・ルダの生き残り、王への調味料となり我が楔そのものを、目の前に連れてくると申したではないか!』

『申し訳』クレインは深々と頭を下げた。『……ございません。地下牢で……あともう少し、だったのですが……ヴィードの息子が。ヴィード=グウェリンの息子が、なぜか、なぜか、エスティエルティナを……』

『言い訳はいらぬ』


 憤然と言い放ち、フレデリカは怒りに任せてクレインの鼻面を前足で打った。

 ばしっ、小気味いい音がして、クレインが床に倒れた。その惨めな姿を見下ろして、フレデリカは言いつのる。


『贈り物を届けると申したであろう! 待っておったのに! 儂をこの境遇に突き落とした元凶、流れ星の片割れを――儂の憂いを断つのはそなたの役目であろうが! それを! 期待させおって、それを――!』


 衝動に突き動かされるようにフレデリカはクレインを足蹴にした。打擲し噛みついた。クレインの首の後ろ、急所に、細く穿たれた傷口を見つけ、それに前足の爪をかけて更に引き裂いてやった。クレインは黙ってじっと、フレデリカの折檻が終わるのを待っていた。その恭順の姿にますます苛立ちが募る。


『今から王妃宮へ行ってきやれ! 今夜の内に儂が前に引きずってこぬか! 約束を破りおって、そなたのような右にっ、この世で儂がつがいとなる価値などないわ!!』



 嵐のようなひとときが去り、荒れ狂うほどの怒りと悔しさが、フレデリカから失せるときが来た。

 その時地面に横たわっていたのは、ボロぞうきんのようになったクレインの獣の姿だった。巨躯は打ち拉がれ、まるで死体のようだった。フレデリカはため息をついた。期待が踏みにじられた悔しさと切なさで、思わず呟く。


『……分身を作っておれば良かったのじゃ』


 ぴくりとクレインの肩が動いた。フレデリカはもう一度、ふうっとため息をついた。


『儂がいつも言っておったはずじゃ。分身を作れば良かった。今夜も流れ星の拉致をその分身に任せておれば――』

『分身は……使わぬ方が良いのです』


 クレインが呟き、フレデリカはまたかっとなった。『まだ言うか!』


『それについて……譲るつもりはありません。自らを分割するとその分本体が弱まります。分身と意思疎通ができればまた話は違いましょうが、いかに分身とは言え別の個体になってしまえば、遠く離れた分身と意思を伝え合うことなどできません。……そうなら……分身は……本体を弱めるだけの愚策』

『その体たらくで、まだ言い張るか! 今夜分身が行っておれば、そなたがそこまで疲弊することはなかったはずじゃ!』

『分身はいけません』クレインは繰り返した。『これからも……使うつもりはありません……』

『愚かな……!』

『愚か』


 くっ。

 クレインが嗤った。


 フレデリカは愕然とした。クレインが、嘲ったのだ。

 誰を。


 ――儂を、か?


『貴女は何もご存じない。今夜……王妃宮に“流れ星”を連れて入ったのは』

『……?』

『ヴェガスタとフィガスタです。貴女の分身が、イェルディアで、レギニータ号で、見張っていたはずの』

『……まさか。ヴェガスタとフィガスタが――』

『貴女の分身が』クレインは蔑むように言った。『ついていたのに。その分身から危険を知らされることも、その行方を知ることも叶わぬのに……分身を……生み出す利点が、どこにあるというのでしょうか……』


 クレインが身体を起こし、ずるり、と引きずるようにして動き出した。フレデリカは慌てて声をかける。


『どこへ行くのじゃ』

『傷を癒やしに』


 冷たい軽蔑と蔑みの声を残し、クレインはずるりずるりと去って行く。フレデリカは焦った。フレデリカがクレインを棄てるのはいい――“右”の代わりはいくらでもいる――しかしクレインがフレデリカを棄てるのは赦せない。


『儂が治す。戻って来やれ』

『……結構です。あの娘が聖地へ帰る前に……なんとか……追いついて、捕まえなければ……』


 そう呟くのを聞いて、フレデリカは少しホッとした。

 クレインは“流れ星”を諦める気はないらしい。それはもちろん、フレデリカの宿敵であり胸に刺さる楔そのものである“仇”を、フレデリカのために排除しようと考えているからだ。そう、考えることにした。



 しばらくして。

 クレインの去った闇の中で、フレデリカは考えた。

 “流れ星”はふたりいたはずだ。エスティエルティナに守られた“流れ星”をクレインが追うのなら――もうひとりの行方は、儂が捜そう。そう思った。

 フレデリカは勤勉だった。これまでも、これからも。

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