魔物(3)
アルガスが戻ってきたとき、二人はすっかり和んでいた。湯気の立つ器を載せた盆を長椅子に置きながら、彼は言った。
「楽しそうですね」
少し嬉しそうに見える。カーディスはにんまりとして、笑顔で舞に首を傾げて見せた。
「そうなんですすっかり仲良くなっちゃって。ねー姫」
「え、え」
「あれお茶菓子はどうしたんですか気が利かないなこの剣バカ」
「こんな夜中にどうしろってんですかこのバカ王子」
「ね? ほら見てくださいこの仏頂面。真顔で悪態つくもんで僕の繊細な心臓は毎回ずたずたです」
「昨日アイオリーナ姫から差し入れられた菓子があったでしょう」
アルガスの指摘にカーディスはふくれっ面をした。
「残ってるわけないでしょう? 僕の宝石が僕のために作ってくれた愛しい茶菓子の数々ですよ? とっくに美味しくいただきましたよ」
「独り占めですか。あの数を」
「当たり前でしょう。なんでガスと仲良く分け合わなきゃならないんです。僕は自分に正直に生きる人なんです。アイオリーナの手作りの品を他の男に食べさせるほど心が広くないんです。……でも申し訳ないです姫、こんな事なら残しておけば良かったな。アイオリーナと会ったことありますか? あるわけないか。本当に可憐な人で、数々の宝石で慎重に造り上げられた芸術品のような人なんです彼女は」
「そうなんですか。アイオリーナ姫って、第一将軍の」
「そうです」
カーディスは器を手にして舞に勧めた。
舞は熱いお茶に息を吹きかけ、その後、ゆっくりと口に含んだ。そして目を見開いた。フィガスタの言葉は正しかった。それは、本当にただのお茶なのかと疑うような味だった。
「おいしい……」
「それはよかった」
答えたアルガスは、いくぶん安堵したように見える。カーディスがニヤリとした。
「ここの地下水を使えばどんな人でも美味しくいれられるんですけどね」
「そんなことはありません。俺は三回のうち二回は飲めたもんじゃない茶をいれられる」
「わあ器用ですね。さすがただ者じゃありません」
「……ふふ」
舞は思わず笑った。お茶は熱くて本当に『泣くほどうまい』味だったし、寒気もすっかり去ったし、カーディスとアルガスの言い合いが本当に親しげで。ふたりが驚いたように舞を見たので、舞は口を押さえた。
「あ……ごめんなさい」
「なんで謝るんです。よかった、やっと笑いましたね」
カーディスはにこにこして、自分も茶を飲んだ。アルガスも微笑んでいた。舞はうつむき、再び茶を飲んだ。そんなにへこたれて見えていたのだろうか。情けない。
「お疲れでしょう」
「……いえ」
「本題に入ります。マーセラ神殿の大神官は、ルファルファの娘たちと、エルギン王子の手を取る用意があります」
「……はい」
舞はカーディスを見つめ、
「歓迎、します。ありがとう」
うなずいた。カーディスは真剣なまなざしで舞を覗き込む。
「でも今すぐではない。もう少し時間が必要です。ムーサをどうにかしなければならないし。でも兄上が兵を挙げる時が来たら、神官兵は加勢します。必ずそれまでには掌握します。信じてください。どうか」
「はい」
「僕は手紙も出しにくい状況ですから、連絡を取るのが難しい。だから、ガスを……アルガス=グウェリンをお連れください。彼は僕の計画をいくつか知っています。僕の行動を読みやすいでしょうし、いざと言う時にお役に立てるでしょう」
「……」
舞は目を伏せて、再びうなずいた。
「はい」
「よかった。エスメラルダへお帰りになる際の護衛にもなりますしね」
「護衛……」
舞はアルガスを睨んだ。アルガスは頭を下げた。カーディスは興味深そうにふたりを見たが、横道に逸れることはしなかった。声を改める。
「母を、許してもらえますか。姫」
舞はしばらく考えた。
それで、頭の芯が、うずき始めていたことに気づいた。熟睡して少しは元気が出たとは言え、起きてしばらく経つうちに、また疲労が忍びよって来ていた。気づくとうずきはさらに存在を主張し始めたが、今は考えなければならなかった。
慎重に口を開いた。
「許す、と、いうようなものではない気がします」
「そう……ですか」
アンヌの豹変は舞の心を刺した。思い返すとやはり苦しくなるが、時間が経って、少し見えて来たことがある。
だって豹変する直前に、彼女は確かに、悲しい顔をしたのだ。
「……あの方の手は必要です」
「僕がついても?」
「第二王位継承者が、第一王位継承者に、王位を認めてくださるなら……そう……いいえ。でもやはり、王妃にもこちらに来ていただきたい。エルギンは……」
舞はため息をつく。エルギンの抱えている事情を、ここで口にしてもいいものかどうか。
悩んだ末に、首を振った。
「……私が申し上げることではないので、今は言いません。けれどエルギンにはあの方が必要です。どうしても」
「まだ、母を誘うことを、諦めないでくださいますか」
「ええ」
舞の答えに、カーディスは微笑んだ。嬉しそうに。
「そううかがって、安心しました」
「でも難しい。戦争をただ避ければいい、と言うだけではないんですね。王妃の望みは、いったい何だろう……」
カーディスはしばらく考えていた。アルガスがなぜか身じろぎをした。そして口を開こうとしたが、それより前にカーディスが言った。
「ひとつずつでも、母の懸念を取り除いて行くしかありませんね。今は。ひとつお訊ねしたいのですが、」
「はい?」
「ビアンカ姫は、ティファ・ルダの血筋として起つと、約束されたのですか」
アルガスがため息をついた。舞は、目を見開いた。
――どうして?
「いえ……ビアンカは。魔物に警告を受けました。だから」
「それはあなたもだ」
アルガスが言った。舞は、アルガスに目を向けた。灰色の目に、わずかに後ろめたそうな色がある。なにかおかしい、という気がした。でも頭のうずきがいよいよ強まり、よく考えられなかった。舞は額に手を当てた。
「ビアンカよりは……」
「あなたは既に【最後の娘】の責を担った。ティファ・ルダまで背負うことはない」
「……でも必要だ。ビアンカには身を守る術がないんだもの。でもあたしには、エスティエルティナがついて……え?」
カーディスが立ち上がって、舞は、目を開けた。王子は、目を見開いていた。驚愕しているのだと舞は気づいて、こちらも驚いた。
「……え?」
「あなたは……!」
カーディスは立ちすくんでいた。舞を見、アルガスを見、すべてを悟った顔をした。一瞬だけアルガスを睨んだが、すぐに舞に視線を戻して、
ひざまずいた。
舞は瞬きをした。さっきのひっかかりは、これだったのだ。
どうして、と思った。
――知らなかったのか。まさか。
「ティファ・ルダの最後のひとり……あなたが、そうだったのですか。マイラ=アルテナ姫」
懐かしい名を呼ばれ、舞はたじろぐ。ティファ・ルダで、戸籍に載せるためにと、ローラが考えてくれた名前だった。
カーディスの顔に、哀しげな皺が刻まれた。驚愕はすぐに失せ、次に表れたのは、悲哀と謝罪の色だった。
「許してください……!」
「え……なぜ……」
舞はアルガスを見た。アルガスは目を伏せた。疑問が渦巻いた。どうして。どうして。どうして、知らなかったのだろう? アルガスはカーディスを主だと言ったのに。アルガスは初めから知っていたのに。こんな大切なことを、どうして。
「このバカが僕に黙っていたのは僕の問題です。あなたが気に病むことじゃない。どうか」
カーディスはひざまずいたまま、一瞬だけ、左手を伸ばそうとした。けれどすぐにその手は戻された。強く、強く、血の気を失うほどに強く、握り締められた。
「許してください……僕の父が。いえ。許せることではないでしょう。でも、僕は。僕の、僕の中に流れる罪人の血を、永遠に忘れない。誓います。これまでも、この先もずっと、僕は償う。どんなことをしてでも」
舞は、呆然と、カーディスの血を吐くような謝罪を聞いた。
――全然似てない、のに。
どうしてエルギンと、同じことを言うのだろう。
「……あの……」
「どうか」
「あなたのせいじゃないでしょう……?」
「……」
「エルギンと、同じことを言いますね」
カーディスが顔を歪めた。舞は長椅子を降り、カーディスの前に膝をつき、先程伸ばされようとした、カーディスの左手に触れた。
「私は、あなたの父親を、決して許しません。……赦せません。それは、認めていただかなくては」
「当然です」
「でも私が憎むのは、王と、クレイン=アルベルト、それからあの夜王の回りにいた一握りの者たちだけ。それ以外の人に憎しみなどありません。ましてあなたは父親の行いを糺すために私達の手を取ってくださるんでしょう?」
カーディスが目を伏せた。そして舞の手を握り返した。ややして上げた顔は、悲壮ではあったが、わずかに微笑んでいた。
「手が冷たい。生気を吸われたのだから、さぞお疲れでしょう。出来るだけゆっくり休んでください。ここなら安全です。僕の名誉にかけてお守りします」
「……はい」
「あの扉の向こうの通路を知っているのは、生きてる人間では僕とガスだけです。こっちの扉、壁のように見えますが扉があってね、このむこうは僕の居室です。この扉も僕とガスしか知りません。ひとりの方がゆっくり休めるでしょう? だからひとりにしますけど、扉の前にこのバカがいますから、大丈夫です」
「……」
舞はアルガスに目を向けた。混乱はまだ残っていたが、問いただすには疲れ過ぎていた。はい、とうなずくと、カーディスがニヤリとした。
「こっぴどく油を搾ってやります。でも姫、気になさらないでいいですよ。こいつが僕よりあなたを優先するのは、当然のことです。ヴィード=グウェリンの養子なんですから」
――ヴィード=グウェリン?
「お休みなさい」
カーディスがにっこりと微笑んで、アルガスを睨んで急き立てた。アルガスは一言も弁解しないまま、ひとつ頭を下げて出て行った。ふたりの姿が消えると、舞はぼんやりと、今言われたことを反芻した。
――ヴィード=グウェリン。
聞いたことのない名前だ。
牢でクレインが言っていた。あなたは養父にそっくりだ……最期になってもうろたえなかった……あのいまいましい男と、そっくりだ、と。
――養父と同じ絶望を味わうといい。
それは一体どんなものだというのだろう。舞を連れて行くことが、養父と、そしてアルガスの、『絶望』になるというのだろうか。
初めからだった。アルガスは得体が知れなく、舞のことを初めから知っていた。【最後の娘】であること、そして【魔物の娘】であることを。それはヴィード=グウェリンという男の養子だから、なのだろうか。もういないらしい男の。でも舞はその男のことも知らない。
理性は、そんなわけのわからない存在を近づけるのは危険だ、と執拗に舞に言い続ける。
けれど感情の方は。舞は顔をしかめた。初めからなのだ――本当に初めから。ウルクディアの、クレイン=アルベルトの屋敷で、寝たふりをしている自分を覗き込んだあの気配、まだ顔も知らなかったあの時から、アルガスの好意を感じていた。好意、そう、好意なのだ。疑うこともできないくらい純粋な好意、それは例えば親が子に向けるような、兄が妹に向けるような、そういう類いのものに思えた。アルガスが自分に危害を加える存在ではないことは、オーレリアに言われるまでもなく、舞が一番よく分かっていた。
理由さえ分かれば、こんな思いをしなくて済むのに。
またあの傷ついた目を見るのが怖くて、問いただそうという気になれない。今は。
でもまさかその好意が、主と呼んだカーディス王子よりも舞の方を優先するほどのものだなんて。
「ああもう……わけがわからない……」
舞はよろよろと立ち上がった。回りに並べられた燭台を、ひとつを残して吹き消した。残ったひとつ――やけに重たい――を持ち上げて、部屋の隅にある寝台に向かう。
寝具は最近風に当てられたらしく、ふんわりとしていた。くるまると太陽の香り、そしてかすかにアルガスの匂いがした。舞は顔をしかめて、最後の燭台を吹き消した。
窓ひとつないすき間のようなアルガスの部屋に、闇が落ちる。
けれどここは、あの牢とは全く違った。暖かくて、居心地がよかった。
枕に頭を乗せるとすぐに、健やかな眠りが訪れた。
*
「――申し訳ありません」
アルガスが言ったので、カーディスは振り返った。長身の友人は、となりへ続く入り口のある壁の前で頭をたれていた。責める気はなかった。カーディスはアルガスの主であるつもりはなかった、アルガスが金も渡さない自分のために働いてくれているのは主に好意によるものだと認識していたし、それならばヴィード=グウェリンの息子として、彼女の方を優先するのは本当に当然のことだった。
それに、いつまでも黙っているつもりだってなかっただろう。たぶんビアンカ姫に頼むのか、それとも自分で起つつもりなのか、聞いてからにしようと思ったのだろう。彼女がクレインに襲われなければ、そして気絶するみたいに眠ってしまわなければ、その時間はちゃんとあったはずだ。
それなのにアルガスが謝罪したので、カーディスは我慢できなくなった。この友人を凹ます機会などそうあることではない。
「七年ですよね。七年も、ずっと、捜してたんですよね。生きてて本当に、よかったですね」
「……」
アルガスはため息をついた。
「彼女の生存を知ったのは三年前です」
「三年前……ああ、そういえばそのころエスメラルダに行ったんでしたっけ。じゃあそのとき会ったんですか」
「いえ。遠目に見ただけです。必死で斜面を駆け降りていました。彼女が俺に気づく余裕はなかったと思います。追いかけようかと思ったんですが……その後をすごい勢いであの、エスティエルティナが……宝剣が追いかけて行ったので」
「宝剣が? 追いかけた? どうやって?」
「文字どおり、浮いて、こう……空を滑って」
アルガスの手つきを見て、カーディスは想像した。
「……怖いなあ」
「かなり。それで【最後の娘】に選ばれたんだと知りました。……エスメラルダには一月近く滞在しましたが、その間には戻ってきませんでした。逃げるのに必死だったんだと思います。結局、無理だったようですが」
「ふうん。じゃあ三年間も、黙ってたんですね」
「申し訳ありません」
「悪いと思ってないくせに。いつも言ってましたもんね、彼女を捜すのは私事だからって、僕に手伝わせてもくれなかったですもんね。見つかったからって、そりゃ僕に報告する義務なんかないですよねえ」
アルガスは困ったようにため息をついた。
違うのだと、カーディスだってわかっていた。ティファ・ルダの生き残りはエリオット王を、カーディスの父を、憎んでいるはずだ。普通に考えれば息子であるカーディスのことだって憎むだろう。事実先程までカーディスはそう思っていた。
自分の『敵』にあたる存在を捜し回っていることを、アルガスがずっと後ろめたく思っていたことは知っていた。
だから、本当に、責めるつもりなどなかったのに。
「――せめて、話し合いが始まる前に、話しておくべきでした」
このボケは。
カーディスは足を床に叩きつけたくなる衝動をこらえた。
「そういうこと言ってんじゃないですよ! なんでわかんないかなこのボケは!」
「……すみません」
「七年ですよ? そんな長い間ずっとずっとずーっと気にかけてた子が、ようやく近くに来たというのに、それを僕にからかわせてくれないなんて、随分ひどいじゃないですか!」
アルガスが瞬きをした。
「からか……」
「その仏頂面がどう変わるのか見るのを楽しみにしてたのに。それにしても驚いた。あんなに綺麗な子だなんて想像してもいませんでした。まったく友達がいがない。僕が萎縮するとでも思いましたか? 僕はね、ずっと、その子に会いたかったんです。謝りたいっていうのもあったけど、友人が七年も気にかけてる子に会いたいと思うのは当然じゃないですか!」
「申し訳ない……しかしからかうつもりだったとは思いませんでした」
「まあ許してやりますよ」
カーディスは居室を突っ切り、寝台から毛布を一枚取り上げた。アルガスのところへ戻り、無造作に放って渡してから、再度くるりと背を向けた。窓から見える景色はまだ暗い。長い一夜ではあったが、それでも夜が明けるには、もう少し時間がありそうだ。
「あんな綺麗になった七年の相手に、あんなふうにすがりつかれて眠られて。それでも吹っ飛ばなかった、あなたのけなげな理性に免じて」
「人を何だと思ってるんです……」
アルガスが呻く。カーディスはさっさと燭を吹き消して、寝台にもぐりこんだ。明日からまた忙しくなる。少しでも休んでおかなければならなかった。




