黒髪の娘(4)
*
エルティナに追いついたのは、あろう事か屋根の上だった。帽子が大きくて飛びづらく、シルヴィアはよたよたと少女の近くに落っこちた。傾斜の緩やかな屋根の上を走っていたエルティナは、シルヴィアを見て方向を変え、まっすぐにこちらに走ってくると、
「ありがとう!」
帽子ごとシルヴィアをすくい上げた。さっきみたいに肩に乗せ、
「持ってきてくれたんだね。本当にありがとう。まだ一緒に来てくれるの? でも危ないから、先に門に行っていた方がいいよ。たぶんあっち――だと思う、たぶん」
言いつつ帽子をかぶる。足はよどみなく動いてとん、と屋根を蹴る。細い路地を挟んだ隣の建物へ飛びながら、長い黒髪を帽子の中へたくし込む。器用だ、とシルヴィアは感心した。先に行く気にはならなかった。エルティナから離れるのは厭だった。エルティナはちらりとこちらを見た。
「さっきつけてきてた人とは別に、兵士も来てたみたいだ。何だか、あたしがガルテさんに会いに入ったのを知って、続々詰めかけてきてたって感じだね。ガルテさんが呼んだんじゃなければ――」
『あの人、そんなことしそうになかったわ』
「うん、あたしもそう思う。てことは【アスタ】の案内人だってばれてて目をつけられてるってことかな。知らないんだろうから危険だね、誰かが警告しないと」
でも戻るわけにはいかなさそうだな、と口の中だけで呟いたのが聞こえたとき、真下の路地で、駆けつけてきていたらしき軍服の男が大声を上げた。
「いた! いたぞ!」
エルティナは構わず大きな建物の二階に張り出した露台に飛び移った。さっき猫科の獣みたいだと思ったが、その想像通りのしなやかな動きだった。シルヴィアは体まで爪が届かないようにと気をつけて服に引っかけて、出来るだけ空気の抵抗を減らすように体を丸めた。それでもエルティナが動きにくいのではないかと気になった――背負っている背嚢は、随分中身が減ってるはずだから、そこに潜り込ませてもらった方がいいかもしれない。頭上を飛んでいては格好の目印になるばかりだし、シルヴィアが足かせになってどんな不都合が起こるかわからない。
と迷う内にも露台が尽きた。その先に飛び移れそうな建物はなく、開けた道路の上に向こうから回り込んで来たらしき兵士たちの姿が見えている。エルティナを見て呼子をさらに吹き鳴らし、周囲に神経を逆なでする甲高い音が鳴り響いた。このままでは人数が増えるばかりだし、引き返した方が良いのでは、と思うが彼女は全く足をゆるめる気配を見せず、否それどころかさらに加速し、
「止まれ、止まらんと」
「抵抗すると――うわ」
「がフっ」
シルヴィアは嘴をあけた。ゆっくりと視界が落ちていく。二階から飛び降りたエルティナの下にはのけぞった若い兵士の顔があり、彼女の足が彼の額の辺りに乗っていて、足に押されるように彼はゆっくりと仰向けに――
「ごめん」
兵士の後頭部が地面に激突する。ひどく痛そうな音に混じって、エルティナのすまなそうな声が聞こえた。
とん、と地面に降り立ったエルティナは、まだ呆然としている兵士達の間をすり抜けて石畳を走り始めた。シルヴィアはようやく嘴を閉じた。私にも、と思った。
――私にもこんな動きができたら、王から逃げられただろうか。
しかし、そこからが問題だった。
屋根伝いに移動したせいで、どうやら迷ってしまったらしい。ウルクディアはそれほど広くはないが、一歩大通りから逸れるとひどく入り組んでいるようだ。先ほど目印にした張り紙の前でエルティナは足を止めた。石壁に貼られた古びた広告はずいぶん昔に流行った劇団の上映を知らせるもので、主役の皮肉げな笑みを見るのは本日これで三度めだ。
エルティナはため息をついた。表情に焦燥の色はないが、困った顔はしている。
「参ったな。迷っちゃったよ」
彼女はじめついた壁に背を預け、足元に舞い降りたシルヴィアを見た。
「あなたもこの町は初めて?」
いや初めてじゃないんだけど、こんな裏路地に入ったことがないものだから。
反射的に答えそうになったが思い止どまった。伝わるわけがない。しわがれた鴉の鳴き声しか出せないのだから。
「うーんどうしよう、また屋根に上がるべきかなあ」
シルヴィアの沈黙をどう解釈したのか、エルティナはあっさりそう言って、壁から背を離した。今来たばかりの方向から兵士達がやってくる足音が聞こえる。彼女は初めて眉根を寄せ、前方の丁字路を睨んだ。
「おかしいなー。さっき右に行って、次は左に行って、それなのにどうして同じ場所に戻ってくるんだと思う?」
『それは本当に不思議だけど、今は悩んでる場合じゃないと思う』
「うん、ごもっとも」
『そんなに落ち着いてる場合でもないと思う……』
――あ、れ?
シルヴィアはエルティナを見上げた。
――あれ、今……
今。
言葉が通じた、ような。
「ホントだね。ここでじっとしてても意味がないし。頑張ります、っと」
エルティナはため息混じりにそういって、おいで、と手を伸ばした。羽ばたいて肩に乗りながら、ドキドキ鳴り渡る心臓の音を聞いた。今、通じた。絶対通じた。一体どうして? さっきまでは通じなかったのに。
エルティナが丁字路に三度入り込む。納得が行かないのか、ここを右に行ってー、とぶつぶつ呟いている。
「ここを右に行ってー、さっきもここ来たよね、でここを曲がってー、……あ、れ?」
角を曲がったとたん、先ほどまではなかったように思う小径が正面に出現した。小径の向こうは見えないが、明るい光が差してきている。シルヴィアは思わず叫んだ。
『違うところに出た!』
「えーなんで? さっきと同じ道に入ったはずなのに、おっかしーなもう、こんなんだからイーシャットにバカにされるんだよ」
ぶつぶつ文句を言っているエルティナの肩から降りて、先にその小路に入り込んで行く。兵士が待ち構えていないか確かめるためだ。
水音が聞こえる。
視界が開ける。
そこは小さな噴水のある、こぢんまりした広場だった。
兵士は待ちかまえてはいなかったようだ、そう確認して、シルヴィアはぞっとして首をすくめた。エルティナの足音が広場に響くと同時に、広場を取り囲むごみごみした雑居宿や家々の窓に、人が一斉に顔を出したからだ。
エルティナも気づいて足をゆるめた。広場に出ている人は誰もいないのに、人の気配は満ちていた。水音が響くほかは何の音もしない――みんな黙って二人を見ていた。一階の窓ばかりでなく、二階の窓にも人の顔、顔、顔。いろんな顔があった。年老いた顔、若い顔、悲しそうな顔、情けなさそうな顔、おじさん、こども、女性――エルティナが帽子の陰から覗くと、見られた人々は目をそらす。誰も広場に出てこようとはしなかった。どころか誰も、黙りこくってただ見ていた。エルティナがどうなるのかを見るつもりなのだろう。苦しそうな顔をしている人もいる。謝り倒しそうな表情もある。エルティナがなぜ追われているのかみんな知っていた。エルティナの身に避けられず降りかかる運命を、せめて見守ろうとでもしているかのような沈黙。
シルヴィアは羽を震わせた。この人達は、日がな一日ずっと、窓辺で耳を澄ましているのだろうか。先程から何度か鳴り響いた鳴子を聞いて、被害者がこの広場に駆け込んでくるのを待ちかまえていたのだろうか。ただその末路を、せめて見守るためだけに。
この街の人々は、そんな毎日を送っているのだろうか――?
エルティナが動いた。と思う間もなく上から何か重いものが降ってきた。エルティナに抱きかかえられて地面に転がるのと、今までいた場所に大きな布が落ちたのとは同時だった。エルティナはシルヴィアを抱えたまま跳ね起き、シルヴィアを肩に乗せざまさらに飛び退った。続いて縄が飛んできたからだ。
その時になってようやくシルヴィアは気づいた。布だと思ったのは、大きな網だった。縁にいくつも重りをつけられた大きな、魚を捕るための投網だ。
そして今飛んできたのは馬でも捕まえるような投げ縄だ――
「くそ……ッ!」
縄を投げた男が舌打ちと共に窓から飛び降りた。血走った目で、ぼさぼさの無精髭で、しわ深い顔、落ちくぼんだ目、ろくに睡眠も取っていないのだろうと思われるような憔悴した男は、ただ目だけをぎらぎらと光らせて縄を構え直した。
「逃がしゃしねえ……」
低い低い、墓場の下から響いてきそうな声が聞こえた。
「逃がしゃしねえぞ……!」
広場を取り囲む家々の窓から覗く人々は、男に加勢するでもなく、エルティナを助けようとするでもなく、ただ見続けている。嗚咽が聞こえた。エルティナのすぐ頭上で、誰か女の声が響いた。涙にまみれた、血の滲むような声だった。
「もうよしておくれよローグ、その子を捕まえたってステラは戻って来やしないよ!」
「うるせえええええっ!」
ローグと呼ばれた男が吠えた。シルヴィアの頭の中で、ガルテの声が再び聞こえた。
――娘を返せとねじ込んだ親はな、『代わりを連れてくれば返す』と言われるんだとよ……
エルティナは目を伏せた。シルヴィアも男に黙礼をした。ステラという少女が一体どうなったのか、シルヴィアは知っていた。知りすぎるほどに。男を責める気にはなれなかった、投網や投げ縄という滑稽な手段が、男の切実さを表しているような気がして。
「ごめんなさい」
静かなエルティナの声が響いた。激昂した男が掴みかかろうとするのを避けて、彼女は噴水の向こうに見えている小径に向けて走り出した。男が何かわめいている、先ほどの女性の泣き声も聞こえる、噴水の水音も、人々の嗚咽も、エルティナを追いかけてきた兵士たちの足音や声も――にわかに騒然となったその広場に、それでもエルティナの小さな謝罪の声は広場に落ちて、いつまでもいつまでも余韻を響かせているように思われた。