魔物(2)
アルガスが立ち止まった。目的の場所に着いたのか、扉を押し開いた。今までの通路よりなお暗い闇がふたりを包んだ。その闇の中でもアルガスはどこに何があるのか把握しているようで、闇を突っ切って長椅子にたどり着いた。そっと降ろされて、「今明かりを点ける」と囁かれて、温かな腕が離れて、急に寒くなる。
離れないでと、もう少しで言ってしまうところだった。
恐らく魔物の冷気にあてられた身には、生き物の温もりが一番効くのだ。魔物に詳しいそうなのに、アルガスにはそれがわからないのだろうか。闇の中に一人取り残されると、先程の寒気が再び押し寄せてくるようで、体もほとんど動かせない状態のままで、舞は泣き出しそうになった。他の誰でもいいからここにいたら、頼み込んで抱き締めてもらっただろう。それがデボラでもシンディでも、ヴェガスタでもフィガスタでも、ヒリエッタでも、まだ知らないカーディス王子でも、アンヌ王妃にさえ言えただろう。――アルガス以外の誰かだったなら!
と。
ふわりと、光がこぼれた。
アルガスが燭台に明かりを点けていた。舞は長椅子に身をもたせて、アルガスの上着に身を包んで、その柔らかな明かりを見た。目から光が差し込むと、それが寒気と体の強ばりを少し押しやるようだった。
「魔物に生気を吸われた身には、光が効くそうだ」
燭台をこちらに運んで来ながらアルガスが言った。
「又聞きなので自信はないが、効くか? 温かい飲み物は?」
――それよりお前がここに座れ。
言いたい気持ちをなんとか押し止どめて、舞はアルガスの上着から、そっと手を出して見た。時間はかかったが、なんとか動いた。指先からは血の気が失せて、ひどくひどく小さく見えた。
「ここには犬とか猫とかいないのかな」
なんでもいい。生きている温もりのある動物だったらなんでもいい。この際蛇でもいい。蜘蛛はいやだが。唐突な質問に、さらに燭台を運んで来ていたアルガスが不思議そうに言った。
「いやいないと思うが……なぜだ、急に」
「……なんでもない」
周囲に置かれた燭台のお陰で少しずつ動けるようになってきた。舞はゆっくりと体を起こした。こちこちに固まっていた体が少しずつほぐれ始めている。ぎしぎしと鳴る関節は錆びてしまった自転車のようだった。きいきいきゅうきゅうと悲鳴を上げる車輪に、お父さんが差してくれたオイルが、今は切実に欲しかった。
「動けるか。よかった」
アルガスが微笑む。その微笑みがやけに悔しい。礼を言わなければならないのは分かっていた。助けられた。本当に、危ないところだったのだ。でも言うべき言葉は舌の先で凍りついてしまったようで、頑固に出て来ようとしない。
「着替え、持ってるか?」
「……持ってる」
呻いて、舞は裂けた服を探って小さく縮めた背嚢を取り出した。親指大のそれを、アルガスが不思議そうに見る。そして何か思い出したように、自分も脚衣の隠しを探って、小さな小指くらいの長さの棒を取り出した。
「鞘だ。小さくなるのはこの宝剣だからだと思ったんだが」
返してよこした鞘を舞が手にすると、ほとんど何も考えないままに鞘は元の大きさを取り戻した。アルガスが面白そうな顔をした。抜き身のエスティエルティナと見比べる。
「便利だな」
「うん。あなたには無理だけど」
やや意地悪な口調になってしまって、舞は急激に落ち込んだ。何を尖っているのだあたしは、子供じゃあるまいし――
「そうなのか?」
エスティエルティナを鞘に戻しながら、アルガスが気にした様子もなく訊ねる。平然とした態度に救われると同時にさらに落ち込む。今度出てきた言葉は、少し慌てたような口調だった。
「や、その、素養がないって、言ってたから……」
「素養?」
「魔力、とか、最近は言われ出してる、のかな。【契約の民】になれるかどうかとか、そういう」
「ああ、そういう力で縮めているのか。それは確かに俺には無理だな。あ……すまない、着替えてくれ」
アルガスがくるりと後ろを向いた。舞は背嚢を元の大きさに戻して、中から着替えを取り出した。清潔な衣類はもうこの一揃いしか残っていない。まさか一晩で二回も着替えることになるなんて。
アルガスの上着を外し、裂けた衣類を身震いしながら脱いで丸めて仕舞い、アルベルトの触れた感触を遠くに押しやろうとしながら新しい服を着込む。動きづらいので時間はかかったが、なんとかやり遂げた。ホッとした。少しだけ気力が戻って来て、辺りを見回した。
「ここは、あなたの部屋?」
「そう」
狭く、窓ひとつなく、簡素な部屋だった。家具と来たら長椅子と寝台くらいしかない。寝ることだけを目的に作られた、部屋というよりはただの隙間だ。扉がひとつ。さっき入ってきたものだ。あの通路以外に、ここに入る方法はないのだろうか。それでは、あのくねくねした通路を知らなければ、この部屋の存在そのものを知らないということになる。
壁際にごたごたとさまざまなものが積み上げられていた。舞はそのさまざまなものの山を一瞥して、首をかしげた。一瞥しただけで、宝石箱、女物のドレスの箱、同じく女物の靴の箱が見て取れた。開封されてもいないようだ。あれは一体なんだろう。
訊ねたかったが、今はそれどころではない。代わりに別のことを訊ねた。
「カーディス王子は……?」
「部屋にいる。準備ができたら呼びに行くが、その前に――もういいか?」
「え、うん」
アルガスがこちらを見た。灰色の目が、心配そうな色を湛えていた。その目が舞の首筋を見て、痛ましげに細められた。さっきアルベルトが吸ったところだ。もう、血? は止まっているようだけれど、傷にでもなっているのだろうか。
アルガスはそれには触れずに、穏やかな口調で言った。
「変化があったら言ってくれ。魔物に生気を吸われるとどうなるのか、又聞きでしか知らなくて、確かなことが言えなくて申し訳ないんだが……動けるようになってきたら、短い間だが痙攣が起こるそうだ」
「けいれん……?」
「そう。吸われた生気を元に戻そうと全身が震える。寒い時に体が勝手に震えるのと同じ理屈だ。それが少々激しいらしいので」
「……」
ぴり。と指先が震えた。息を詰めて指を見た舞の上から、アルガスの温かな言葉が降ってくる。
「大丈夫。その時は辛いそうだが、すぐに収まる。悪いものじゃないんだ。それが起こればもう大丈夫、寒気が収まって暖かくなるし、すっかり元に戻ると聞いた」
アルガスのその言葉で、体が、そうそうそうだった、痙攣しないといけないんだった、と思い出したかのように――
それは唐突に始まった。びくん、と体が跳ねて、舞は思わず声を上げた。びくん、びくん、がく、がく、がくがくがくがく――唐突に始まった痙攣は唐突に速度を増して、舞は自分の体をなんとか収めようと、両腕で抱き締めようとしたが、それより先にアルガスが動いた。我慢してくれ、と囁かれて、両手を掴まれた。舞の両手を自分の首に回させて、彼は舞を抱き締めた。
――熱い……っ!
本能的に、舞はその熱さにすがりついた。がちん、と歯が鳴って、口に、謝罪の言葉と共に、手巾が押し込まれた。舞は目をつぶってその嵐のような一時をやり過ごした。痙攣と共に、アルガスの熱さと共に、体に温もりが戻ってくる。強ばりがほどけて、アルベルトの悪意と冷気を押しやり、麻痺していた感覚が戻ってくる。世界が色を取り戻していく。それは蕾が綻んで、花が花弁を開くような変化だった。
永劫にも感じたその時間は、しかしほんの短い間だったようだ。痙攣の最後の震えが収まると、全身が疲れていた。けれどそれは、先程までの重苦しさとは違って、快い疲れだった。口から手巾が取り払われても、舞はまだ自分を包む温もりから身を離すことがどうしてもできなかった。睡魔が襲ってくる。力が抜けて、動けなくなる。急にぐったりした舞に、アルガスが少し慌てた。
「どうした」
「ごめん」
「大丈夫か、」
「……眠い」
「え? おい、ちょっと、待――」
意識はそこで途絶えた。今自分がどういう体勢であるのか、気にする余裕もなく、舞は眠った。深く深く。
*
くくくくく、と、不思議な音がする。
誰かが笑いを必死でかみ殺しているような音だ。
意識が少し浮上して、舞は自分を包む快い温かさに気づいた。すっぽりとその温かさに包まれて、今までにないほどいい気持ちだった。
「何がおかしいんですか」
低い声が訊ねる。むすっとした響きだ。くくくくく、とおかしな呻きを上げる声が途切れ、ややして、笑みをたっぷり含んだ聞き馴れない声が言った。
「いやー、めったに見られない光景だなと思って楽しませてもらっているんです」
「……楽しいですか」
「ええとっても。その体勢、つらいでしょう」
「いや……背中が少々痛い程度で」
「そうですか? つらいのは背中だけですか」
「何が言いたいんですこのバカ王子」
「わあその悪態も久しぶりだなあ。随分待たされるから様子を見にきたらここでにっちもさっちも行かない状態になってるとは……くくくくく。いやいや。我が親愛なる友人が進退窮まっているのを見て楽しんでいるだけですから、こちらのことはおかまいなく」
誰と誰が話しているのだろう。随分気安い相手同士のようだ。
まだ体が重く、痺れるような眠気が残っていたが、知らない人がいる以上寝こけているわけにもいかないようだ。温もりに未練を残しつつも、舞は身じろぎをする。目を開けると視界にはもやがかかっていた。瞬きをすると、今までもたれていた暖かな感触が動いて、舞の体を支えた。
「おはようございます。気分はどうですか」
にこやかな声に、舞は反射的におはようございます、と返してから、
視界が急に焦点を結んだ。アンヌ王妃によく似た若い男が目の前に座ってにこにこと愛想をふりまいていた。舞は瞬きをし、そしてつい先ほどまでもたれていた、温かな存在に視線を移して、
「……わああっ!?」
「大丈夫そうだな。よかった」
アルガスがほっとしたように言う。若い男のにこにこ笑顔にやや揶揄するような色が混じる。舞は混乱していたが、とりあえず長椅子の上できちんと座り直して、乱れた髪に手をやった。
「……ええと?」
「ご無事で何よりでした、【最後の娘】」
若い男はどこまでもにこにこしている。アルガスが強ばった体をほぐすように伸びをする。ええと、ええと、ええと。舞はしばらく考えてから、思い至った。
「カーディス王子、で、いらっしゃいますか」
「はい。そしてあなたは【最後の娘】。そうですね? 本当に、ご無事で何よりでした。私の住み処であなたを危険にさらすなど、兄上に会わせる顔がありません。
ああ、遅くなりましたが――我が家へようこそ、いらっしゃいました。何のおもてなしもできなくてすみません。ここには気の利かない剣バカしかおりませんで、温かな飲み物さえまだご用意できないていたらくで」
「失礼しました」
アルガスが苦笑混じりに言って、立ち上がって、向かったのは、扉とは反対の方角だった。すぐに着いた壁の一部を押すと、ごろり、と壁が回る。アルガスが部屋を出て行く。それを見送ってから、カーディスは座った椅子の上で姿勢を崩した。足を持ち上げてあぐらをかくような態勢になり、屈託なく笑う。
「ああ肩が凝る。僕はどうも改まった場というのが苦手で。ムーサには愛想を尽かされてるんですよ、公の場で僕が見せるふるまいがてんでなってない、少しは兄上を見習えばいいのにってね。昔はよく叱られたが、今じゃ諦めてくれたのか、だいたい放置されていまして。お陰でガスに部屋を用意できるようになったんで、ありがたいことなんですが」
「はあ……」
「それにしても、危ないところだったようですね。僕の友人が、間に合って、本当に良かったです。エスティエルティナ――まどろっこしいな。姫マイって、呼んでもいいですか?」
「ああ、はい、どうぞ」
「ありがとう。僕のことも好きに呼んでください。カーディス、って呼び捨てのが嬉しいけど、なんならカーくんでもディスくんでも。ガスはバカ王子って呼びますが」
「……ずいぶんですね」
「彼は僕の友人なので」
カーディスは相変わらずにこにこしている。バカ王子と呼ばれるのがそんなに嬉しいのだろうか、と舞は首を傾げたくなる。
「彼には僕の目と耳の役目をしてもらっているんです。ムーサを通さずに世界を見たいと思ってね。彼には随分苦労をかけています。何しろ僕には自由になる小遣いもほとんど無いありさまで。現物支給なら何とかなるんですけどね、ああそうだ姫、彼のような旅をする人には何をあげるのが一番いいんでしょうね? ほら見てください、あの品物たちの不憫なありさまを。僕はどうも選び方が下手のようで、いらないなら売り払えばいいのに、それもなんだか気が引けるらしくて、こうして意味もなく部屋に積まれているってわけで。売り払って少しでも足しにしてくれればいいのにな。唯一喜んだのが今履いてる靴です」
「靴」
「そう。何しろあの彼が笑ったんですよ」
「え……笑わないんですかいつも」
「まあたいていはあの通り仏頂面で。それがあの靴見た時には笑ったんです。ええもうこおんな顔で。……でもいつも靴あげるってのも芸がないかなと思って。何あげたら喜びますかね」
それで女物のドレスや靴や宝石が、無造作に積み上げられているわけだ。舞はまだ呆然とした気分が残っていたが、カーディスの笑顔につられて首をひねった。
「うーん……干し肉とか練り粉とかなら、日持ちするしいくらあっても困らないと思いますけど……」
「すばらしい!」
カーディスは、にか、と明けっ広げな笑顔を見せた。
「いやあ嬉しいなあ、僕は本当にそういう知識がなくって。ガスに聞いても別にいらないって言われるばっかりで、他に相談できる人もいなかったんで、やあありがとうありがとう姫。そうか練り粉か、なるほどー。他には?」
「水漏れしない革袋とか、丈夫な背嚢とか、手袋とか外套とか、丈夫で作りが良くて、悪目立ちしないものなら喜ぶと思います、けど」
「あああ、そうかあ思いつかなかったなあ。ちょっと待ってください、書いておかなくちゃ」
いそいそと懐から墨を塗られた木片を取り出して、尖った鉄筆で何やら書き付けている。舞は思わず口元を緩めた。カーディス王子がこんな人だなんて、今まで想像したこともなかった。
否そもそも、カーディス王子の人となりについて、想像を巡らせたことがなかった。『アンヌ王妃の唯一の息子』で『マーセラ神殿の大神官』で『ムーサと王のいいなり』で『傀儡』で『アンヌ王妃の足かせ』で、それ以上の存在だなんて想像すらしなかった。
カーディス王子は舞よりひとつ年下のはずだ。
すぐそばにムーサに貼りつかれた状態で、どうやってアルガスを見つけ出したのだろう。
そしてどうやって、今まで、『取るに足りない存在』の仮面を、かぶり続けてきたのだろう。誰にも、実の母にさえそう思わせるのは、すごく大変なことだったのではないだろうか。




