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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第四章(後半) 魔物
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魔物(1)

「おや……今日はあの忌々しい守りがついていませんね」


 クレイン=アルベルトの声は相変わらず優しかった。足音も聞こえる。アルベルトの手に掴まれて、鉄格子が乾いた音を立てる。大きな錠も揺れて、がちりと言った。それなのに、気配が感じられない。


 舞は闇の中で首元を掴み、そこにいつもの感触がないことに戦慄した。そうだ、ヴェガスタに預けてきてしまった。


 ――オーレリアに、絶対に肌から放しちゃ駄目って、言われていたのに。


「苦しい戦いを強いられると覚悟してきましたが、これは拍子抜けだ」


 闇は揶揄するように囁いた。舞には暗すぎて何も見えないのに、クレインには見えるのだろう。ファーナと同じ、魔物の目だから。


「久しぶりですね、流れ星。【魔物の娘】。ティファ・ルダの生き残り。愛しい愛しい我が娘よ。あの忌ま忌ましい守りが今はないということは、あなたを護っていたのはやはりあの鴉だったのでしょうか」

「クレイン=アルベルト……」


 声が震えた。自分を叱咤しようとしたが、どうにも巧く行かなかった。


 舞はこわばった体を動かして、奥へとずらそうとした。冷えきった体はとっさには立てなかった。鉄格子の向こうから、周囲よりもさらに冷たい冷気が吹き付けた。鉄格子が鳴って、クレインが覗き込んだのが分かった。多分微笑んでいるのだろう――悪意の滴る、あの冷酷な微笑みを、浮かべているのだろう。


「【アスタ】で貴女を手に出来なかったことをどんなに悔しく思ったか」

「……」

「夜にも一度……その後もビアンカ姫でおびき寄せて、貴女を手にするつもりだった。しかし忌々しい守りがついていましたから、手を出せなかったのです。ウルクディアで貴女に会ったときにも驚いたが、まさかあそこまで強い守りだったとは思いも寄らなかった。どんなに悔しかったか、わかりますか? 目の前に追い求めた者がいるのに、手をこまねいていなければならない、気持ちが、わかりますか? あの忌々しいシルヴィア姫は死んでもやはり気高かった。【アスタ】で追い払うまで、貴女を護っていたのですね」


 ――追い払、った……?


「愛しい愛しい、我が娘よ――」


 アルベルトの声が近づいた。舞は立ち上がった。アルベルトは鉄格子を擦り抜けたのだ。冷たい禍々しい存在が近づいてくる。舞は移動して、出来るだけ隅に逃げたが、それはあまりにも儚い抵抗だった。全き闇の中では、人間の目には何も見えない。魔物であるアルベルトは押し潰すような闇を意に介する様子もなく、やすやすと舞に追いついた。闇よりなお濃いものが、舞の前に立ちふさがった。



 アルベルトは舞の髪を一房とり、恭しげに唇をつけた。


「貴女は最高の調味料だ。貴女が生きていてくれて、わたしがどんなに嬉しかったか、貴女にわかりますか。貴女さえ手に入ればわたしの目的は達せられる」


 手が、伸ばされる。


 反射的に振り回した舞の両手を、アルベルトはあっさりと掴んだ。その手のあまりの冷たさに身がすくんだ。強い力で引き上げられて、舞はほとんど宙に浮いた。足で蹴ろうとしたがアルベルトは気にかける様子もなく、片手で舞の両手をとらえて壁に押しつけた。そして下を向いた舞の頭に唇をつけた。優しい、柔らかな感触なのに、全身に鳥肌が立った。

 あいた方のアルベルトの手が、顎にかかる。


「まだ時間がある。少し楽しんでも良さそうですね」

「な、」

「連れて行った先で暴れられても困りますし」

「放せ……っ」


 冷たい手が襟首にかかり、舞の身を包む服を、やけにあっけなく引き裂いた。むき出しになった肌に、直に冷気が吹き付けた。ちりちりと肌が粟立った。舞は悲鳴を飲み込んだ。アルベルトが、舞の首筋に、その唇をつけたのだ。


 ぬるり、とした感触が首筋を這った。脳裏が真っ白になった。あまりのおぞましさに脳が感覚を拒否した。足が勝手に動いてアルベルトの腹を蹴りつけた。


「!」


 両腕が自由になり、支えを失って床に倒れ込んだ。逃げようとしたが、その肩を、アルベルトがつかむ。


「油断のならない娘ですね」


 蹴りがまともに入ったのに、アルベルトは平然としている。


「ビアンカ姫のようにはいかないようだ。主の前に引き出す前に、少し弱めた方が良さそうですね」

「……!」


 両肩を掴まれて無理矢理立たされた。裂けた服が動いて再び肌が露わになった。舞は心底いぶかしんでいた。どうしてこんなに寒いのだろう。アルベルトから強烈な寒気が流れ込んでくる。まるで真冬のように――舞の全身を凍りつかせようとでも、するかのように。


 首筋に再び唇が当たる。強く吸い上げられて息が詰まる。そして。

 アルベルトは、舞の首筋に歯を立てた。


 鋭い痛みと共に強ばっていた体から力が抜けて、舞は愕然とした。力が、吸い取られた。感情も理性も必死で抗おうとしているのに、体は既に舞のものではないかのように動かせない。すぐに足から力が抜けて、立っていられなくなった。舞の肩を掴んで壁に押し付けた状態で、アルベルトが言った。


「やはり貴女自身は、それほど美味しくないですね」

「なに……を」

「まだ動けますか? 加減が難しいんですよ。吸いすぎると殺してしまうし……おっ、と」


 アルベルトが手を放し、舞は倒れ込みそうになった。わきの下に腕が差し込まれ、きつく抱きしめられた。舞は震えた。全身が氷に閉じこめられたようだった。アルベルトが舞の髪に顔を埋め、耳元で囁いた。


「鳥肌が立っていますね。寒いですか」

「……っ」


 アルベルトの、手が。

 裂けた服の中に潜り込んで、這い回った。背を、脇腹を、腹を、冷たい冷たい指先が撫でる。氷と言うよりは、寒気そのものが実体を得て肌に触れているようだった。触れられたところから凍りつきそうなのに、肌は痛くはなく、おぞましい感触を余すところなく脳に伝えた。腹を這い昇った手が胸に届いた。下着の中に入り込んでふくらみを包み、舞は悲鳴を上げた。でも声は出なかった。うめき声すら漏れなかった。先ほど吸われたところからじわじわとまだ何か漏れだしていて、そこだけがやけに熱かった。と、その温かいものをアルベルトが舐めた。含み笑いが聞こえる。


 ――嫌だ、


 先ほどは諦めてしまおうかと思ったけれど、でも、


 ――嫌だ、嫌だ……嫌だ、


 こんな奴にこんなところで殺されてしまうのは絶対に嫌だ、


 ――ニーナが待ってる。絶対待っててくれる。絶対、絶対、絶対、


「さ……わる……な……っ!」

「おや。まだ声が出ますか。なるほどさすがは――」


 アルベルトの言葉が、途切れた。

 きつく抱きしめられた状態だったから、どす、というその感触を、舞は自分の身に突き刺さったかのように感じた。舞を抱きしめていたアルベルトの腕から力が抜け、次いで、


「あああああああああ――ッ!」


 絶叫が、耳朶を打った。

 アルベルトの体もろとも倒れ込んだ。さっきはあれほど冷たかった牢屋のじめついた床が、今は温かくすら感じられる。倒れ込んだまま体を動かせない舞の前で、うずくまったアルベルトが再び悲鳴を上げつつのけぞった。そして背後を振り返ったので、アルベルトの首もと、肩胛骨の間辺りに、小さなまばゆく輝くものが、つき立っているのが見えた。

 ――エスティエルティナ!


「貴様は……ッ!」


 アルベルトが吼える。牢の外に、いつの間にか燭台の明かりが在った。それは床に置かれて、牢の鍵を開けようとしている誰かの脚を照らしている。がちゃがちゃと焦ったような錠の音、今までも聞こえていたはずの騒音が今さら舞の耳を打った。誰だろう。何とか体を動かそうとしながら舞は思った。誰だろう――誰が来たのだろう、こんなところへ――


 でも、答えはわかっているような気がした。なぜだか。


 アルベルトがエスティエルティナを引き抜き、床にたたきつけた。ちん、と軽やかな音を立てて宝剣が舞の目の前に落ちた。元に戻さなければと思った。元の大きさに戻さなければ、エスティエルティナはその持てる力全てを発揮することが出来ない。オーレリアに入れてもらった炎を今こそ使わなければならない。彼には素養がないのだ、エスティエルティナを元の大きさに戻すことが出来ない、


「アルガス=グウェリン……!」


 アルベルトがゆらりと立ち上がった。牢の鍵がようやく開いた。アルベルトが立ち上がったので、開いた鉄格子の向こうにいるアルガスの姿が見えた。床に置かれた燭台が背の高いアルガスをさらに長身に見せている。瞳が藍色に輝いているのまでよく見える。

 その瞳が舞をとらえ、心配そうに瞬いた。


「大丈夫か……立てるか?」

「あなたは……貴様は養父にそっくりだ……」


 アルベルトが呼吸を整えながら呻いた。言ううちにアルベルトが体勢を立て直していくのが感じられた。荒い呼吸も徐々に収まり、姿勢も伸び、存在全体がエスティエルティナによって与えられた傷を修復していくのが手に取るようにわかった。


「強情で……融通が利かず……愚かで……揺るがない。最期まで、あの期に及んで命乞いも、狼狽も恨みも憎悪すらも見せなかった、あの忌々しい男とね、そっくりですよ、本当に」


 舞は、どうしてアルガスが動かないのかに、気づいた。

 アルベルトが、舞のすぐ前に陣取って、腕組みをして、冷笑を浮かべているからだ。


「そこで見ておいでなさい、アルガス=グウェリン。養父と同じ絶望を味わうといい。この娘はいただいていきますよ」


 ――勝手なことを。

 誰がこんな奴に。


 怒りが胸に渦巻いた。けれど指一本動かせない今の状態では、抗うことなど無理だ。それが悔しい。自分の意志を無視されるというのはひどくひどく腹立たしい。


 それでさらに思い出した。アルガスには、勝手に護衛をつけられた。舞の意志を無視して。勝手に。警戒されるだろうからと、こっそり身を隠すよう指示までして。オーレリアに出会えたことには、感謝してもいいかなと、最近思うようになっていたけれど、でも。


 ――ひとりじゃ何も出来ない弱い存在だと、思われてるってことだ。

 そう悟ったときの怒りは、まだまだ良く覚えている。


 冗談じゃない。そんな評価を甘んじて受けるわけにはいかない。冗談じゃない。アルベルトなぞにいいようにされてたまるものか。体が動かせないなんて嘘だ。手を伸ばせばすぐ触れる場所にエスティエルティナが在るのに。


 動け。動け、動け、動け、


「うご、け……っ!」


 エスティエルティナは、舞の指が触れるとすぐに元の大きさを取り戻した。

 刀身が燃え立った。アルベルトが狼狽の声を上げて下がった。舞は力を振り絞ってエスティエルティナを滑らせ、そこへアルガスが走り込んできた。エスティエルティナは人の手に渡ってよりいっそう明るく燃え立った。アルベルトが目を覆うようにしながらさらに後ろに下がり、アルガスが斬りかかった。


 ウルクディアで見たときよりも易々と、エスティエルティナはアルベルトの体に食い込んだ。

 まるでチーズでも切り分けるかのようにアルベルトの体が裂ける。悲鳴を上げてアルベルトはくずおれた。追撃するかに見えたが、しかしアルガスは足を止めた。咆哮と共に、アルベルトの体が、膨大な圧力を放ったからだ。


 それは暴風のようにアルガスの体を押し戻し、その向こうで、むくりとアルベルトの体が蠢いた。いつしか人の姿が消えて、漆黒の、むくむくとした、毛むくじゃらの何かがそこに在った。見る内にそれは嵩を増し、ざわざわ、もこもこと脹らんで、脹らんで、脹らんで。


 服が裂け、布切れとなって落ちた。

 ――ファーナ!


『アルガス=グウェリン……刹那とはいえ私に、この私に、この姿を取らせたことを……必ず後悔させてやりますよ……』


 声も変化していた。目の前に、ファーナにそっくりな存在が在った。大きくてむくむくと毛むくじゃらで、声は直接脳に響いてくるようで、泣きたいほどに懐かしい――けれどファーナとは違った。あまりにも。


 体勢を立て直したアルガスが、エスティエルティナを構える。たぶん彼には小さ過ぎ、そして軽すぎるのだろう。しかし宝剣は炎そのもののように燃え立っていて、アルベルトは言葉とは裏腹に少しずつ後ずさりをしていた。アルガスが脚を踏み出すと、さらに下がった。悔しげな意思が伝わる。


『おお……我が娘を目の前にしておきながら……あと一歩のところでありながら……』


 毛むくじゃらの巨大な生き物は、来たときと同じように鉄格子をすり抜けた。鉄格子の向こうから、滴るような悪意が流れ込んだ。


『覚えておきなさい……わたしは絶対にその娘を……』


 ふと。

 アルベルトの姿が消えた。


 舞は、そしてアルガスも、目を瞬いた。忽然と、アルベルトが消えた。冷気が去り、もはや気配はどこにもなく、静かな夜の気配が戻ってきていた。アルガスはまだエスティエルティナを構えたままいったん鉄格子の外へ出た。アルベルトが消えた辺りを仔細に調べた後、


「……消えた」


 呟くと共に、エスティエルティナの輝きも消えた。

 脅威は去ったと言うことだろうか。


 アルガスは足早に戻ってくると、舞の前で足を止め、屈み込んだ。燭台は彼の背後で赤々と燃えていて、顔が見えない。何か言いたかったが、声が全然出なかった。指一本すら、動かせなかった。凍るような寒気は去ったが、それでもひどく寒かった。


「……大丈夫か」


 低い、耳に快い声が聞こえる。その声が、不思議と、凍りついた体に直接染み通っていくように思われた。アルガスは躊躇うように手を伸ばし、そして気づいたように上着を脱いだ。その上着を舞に掛け、


「ちょっと我慢してくれ」


 上着でくるみ込むようにして、舞を抱き上げた。

 ――熱い。

 アルベルトの後だからだろうか、アルガスはまるで燃えるように熱かった。舞を抱き、抜き身のエスティエルティナも持って、彼は慎重な足取りで歩き出した。燭台の明かりが遠ざかり、鉄の扉を押し開けると、あの光る籠がふたりを迎えた。その弱い明かりの、なんと清浄なことか。


「……まさかこの城に入り込めるとは、思わなかった」


 静かにアルガスが言った。アルベルトのことだろう。そうだ。舞も驚いた。


 アンヌ王妃の居城にまで、易々と入り込める存在なのかと。

 そして王がいないのに、どうしてアナカルディアにいたのだろう。

 そして、どうして、牢からかき消すように立ち去ることができたのだろう。


「間に合って良かった」


 呟く声は、心底からの安堵を含んでいる。

 どうしてここにいるのかと、訊ねたかった。声さえ出せれば、訊ねているのに。まだ全身から力が抜けていて、ひどく重たくて、寒くて寒くて、情けない気分でいっぱいだ。


 アルガスは少しの間黙っていたが、舞が声を出せないのに気づいたのだろう。ややして、説明を始めた。ありがたいことに。


「ヴェガスタがあなたを迎えに行くようにと、合鍵と宝剣を俺に預けていったんだ。あなたを一時的に投獄しなければならない羽目になりそうだからと。フィガスタとヴェガスタが疑われないように、時間を空けてくれと言われたので、今まで待っていた。でももっと早く来るべきだった。申し訳ない」


 ――ヴェガスタ、が。

 舞はため息をついた。

 そういえば一度出て行った。牢の準備をして来た、と言っていたが――

 あんな演技のできる人だとは、思わなかった。情けない。


「もともと、俺の主があなたに会いたいと前々から言っていたので」


 アルガスはくねくね曲がる通路を通って、今は階段を上っていた。通常使われる通路ではない。王妃宮に作られた隠し道のひとつなのだろう。舞にはもう、ここがどこだかわからないのだが、アルガスは迷う様子もなく確かな足取りで舞を運んでいく。


「今日、あなたがアンヌ王妃に会いに来たと知ったから、アンヌ王妃との会合が終わったらこちらにも来てくれるよう頼もうと思っていた。そこへヴェグが来て」


 主、とは。誰のことなのだろう。

 フィガスタじゃないことは確かだ。では。この状況では、答えはひとつしかない。


「カーディス王子……?」


 アルガスの温もりによってだろうか、ようやく声を出すことができた。舞の声に、アルガスは微笑んだようだった。


「よかった。全く眼中にないわけじゃなかったようだ」

「あるじ……」

「王子にはムーサの息のかかっていない目と耳がどうしても必要だったんだ」

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