【四ツ葉】の邂逅
密やかに声をかけられて、ニーナは身じろぎをした。もがくようにして目を開いたのは、それが舞の声に聞こえたからだ。けれど、かすむ視界に見えたのは、やっぱり違う顔だった。優しい乳母やが死んでからずっと、ニーナと舞の世話をしてくれている、マーシャの心配そうな顔だった。
「ニーナ様。起きられますか。カーン様が、いらっしゃいましたよ」
「ああ……お通しして」
ニーナは呟いた。マーシャのたくましい腕が体を支えて、背中に大きな枕を居心地良く挟んでくれた。その間なされるがままになりながら、どうして舞の声が聞こえた気がしたんだろう、と考えた。
「今って……夜かしら」
「そうですよ。真夜中です。明日にしないかとずいぶん申し上げたんですが、早いほうがいいからと……」
「そうね。いいのよマーシャ、眠っていたわけじゃないんだから。美味しいお茶をお入れしてね。お連れの、ええと、ビアンカさん、だったかしら? あの方は?」
「ちゃんと寝室にご案内いたしましたよ。ご心配なく。今お呼びしますからね」
マーシャの動きはいつもゆっくりしている。今もゆっくりと扉に向かった。マーシャが扉を開くとすぐに、若い男性の姿が現れた。
「夜分に失礼します、【最初の娘】――エルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダ」
想像以上に、若い男だった。
背はそれほど高くなかった。これから伸びるのだろうと思わせる体型だった。顔立ちは整っていたが、ニーナは、その若々しい顔にはそぐわない暗い影を見て取った。
「どうぞ、お入りください。今マーシャがお茶を入れてくれますから」
「お構いなく」
デクター=カーンという名の若者は、荷物と外套を置いただけの姿だった。到着した直後に駆けつけてきたのだろう。それほど急がなくても、まだ余裕はあったのに、と思ったが、その心遣いは嬉しかった。
「カーンさん。貴方は――」
「どうぞ、デクターと呼んでください」
デクターは如才なく口を挟み、にっこりとした。ニーナも微笑む。
「貴方は、私の病を治す方法を、ご存じだということですね」
扉を叩く音と共に、マーシャが戻ってきた。最初にデクターに、その次ニーナに、温かな茶の入った器を給仕して、一礼して壁際に下がった。ニーナは先ほどの返事を待っていたが、デクターはマーシャを見て、真剣な口調で言った。
「申し訳ないが、ふたりきりにしていただけませんか」
「それは致しかねます。なにぶん、夜も遅いことですし」
「【最初の娘】に危害を加えるようなことは誓ってしません。できません。彼女の周りの風がそれを許すとは思えませんから」
「ですが――」
「マーシャ。お願い。用が出来たら呼ぶわ」
ニーナが口を挟むと、マーシャは非常に複雑な顔をした。自分がのけ者にされたことを憤るようなマーシャではないから、よほどにニーナの身を案じてくれているのだろう。ニーナは微笑む。
「大丈夫よ。デクターさんの言うとおり。私に危害を加えられる人間なんてこの世にいないわ」
「……承知致しました」
マーシャは渋々、必要以上の時間をかけて、扉に向かった。デクターは、黙って待っている。
永劫にも思えるような時をかけて、ようやくマーシャが外へ出る。デクターはそれまでじっと静止していたが、背後で扉が閉まるやいなや立ち上がった。そしてはめていた手袋を脱ぎ捨てた。見覚えのある、あまりにも身近な紋章が、燭台の明かりの中にこぼれ出た。
「僕は、【四ツ葉】です。エルカテルミナ」
「ニーナよ」
しげしげとその紋章を見ながらニーナは言い、自分の両手も上げて見せた。そこには、デクターのものとうり二つの、若草色の紋章がびっしりと刻まれている。デクターはうなずき、さらに上着を脱いだ。日に焼けていない、白々としたむき出しの二の腕にも同じ紋章。さらに肌着まで脱ぎ捨てると、上半身が露わになった。すんなりと細い体全体に、蔦が絡みついている。
ニーナは頷いた。ニーナの紋章とそっくり同じだった。
「私以外で、初めて見たわ」
「恐らくこの世に僕たちしかいないだろうね」
デクターはそう言い、奇妙に暗い目で、ニーナを眺めた。デクターの目には、無惨なほどにやせ細った、死にかけた娘の姿が見えているだろう。この値踏みするような視線の意味はなんだろう。ニーナはしばらく考えた。お前も脱げと言うことだろうか。まさか。
当然、違ったようだった。ややしてデクターは、暗い笑みを唇に刻んだ。
「僕は貴女を治しては上げられない。けれど、どうすればいいか教えてあげることは出来る」
デクターは呻くように言い、一歩前に出た。卓に体が当たって、茶器がか細い音を立てた。
「でもその前に。――警告を」
「警告……?」
「ニーナ。貴女は……本当に、生き延びたい? この先もずっと、生きていきたい? この紋章を背負ったままで――」
デクターは顔をしかめた。「僕には、勧められない」
ニーナは軽く頷いた。
「生きたいわ」
「即答だね」
「生きたいわ。ううん、生きるわ、絶対に。生き延びてみせる。あたしは絶対、絶対、舞を置いていったりしないわ」
「姫?」
「親友よ。【アスタ】で会った? 【最後の娘】。あたしの片割れ。あの子がこの世にいる限り、あたしは絶対逃げない」
「俺は今年、25歳になる」
デクターの口調ががらりと変わった。ニーナは、軽く目を見開いた。デクターはどう見ても年下に見えた。どうひいき目に見ても、17を超えているようには見えない。
「16の時に原因不明の病で死にかけた。今の貴女と同じ症状だった。体の中で誰かが、何かが、出せ、出せ、出せ、と暴れ回る発作、そうだろう? 医師が匙を投げ、もう余命幾ばくもないと言われた。その時、老婆が現れた」
「老婆――?」
「自分はもはや人間ではない、マヌエルという存在だと、名乗ったよ。愛されるもの、と言う意味なんだと。その老婆は有無を言わせず、俺の殻を割った。孵化、と彼女は言った。世界が俺を選んだんだと」
ニーナは口を挟まなかった。デクターは熱に浮かされたように話した。口調は静かだったが、むき出しの紋章がかすかに輝き出すほどに熱がこもっていた。
「貴女もだ、ニーナ。世界が、世界を統べる真の女王が、貴女を選んだ。子どもの頃に、その紋章を手に入れたときに、同じ症状だったそうだね? 当然だ。あなたは女王の愛し子だ。その時孵化を受け入れていれば何も問題はなかった。【四ツ葉】になどならずともすんだはず、今の病態もなかったはずだ。
けど無知な医師があなたに【四ツ葉】を刻んだ。殻が割れぬよう契約で縛った。だが所詮まがい物の紋章だ、女王の召喚をずっと抑え続けるほどの力などない。あなたが再び病に伏したのは当然のことなんだ。世界があなたを呼んでるんだよ。闇雲に引きずり出そうとしている。――殻を割らなきゃ死ぬよ。そう先のことじゃないようだね」
「割ればいいのね」
「自力じゃ無理だ。申し訳ないが、俺もやり方を知らない」
「割れば、治るのね」
「だが君は既に【四ツ葉】だ。この紋章がどこから伝わったものか、君は知ってるか? 銀狼だ。銀狼は魔力を解き放つ時、白銀の毛皮にこの模様を浮かび上がらせる。ティファ・ルダの誰か、愚か者がそれを盗んだ。普通の人間には、三つ以下の不完全な契約しか無理だ。だから銀狼は黙認している。だが気をつけろ、銀狼は、【四ツ葉】を決して許さない。見つかったら殺される。いくらあなたでも、銀狼に狙われては勝ち目はない」
「肝に銘じるわ」
「そして【四ツ葉】の契約をした後に、孵化を受け入れればどうなるか? その見本が俺だ。いつまでも成長期を終えないまま、周りの人間が少しずつ年を取るのをただ見続けるしかできない。声変わりも永遠に完了しない。ガスなんか、会った時には女の子かって思うほど華奢でちっぽけで可愛かったのに、今じゃ」
ニーナは黙って、デクターの激情が去るのを待った。
そして言った。
「よく、わかったわ」
「わかった?」
デクターは嗤った。ニーナは、その笑みの示す意味が分からないふりをして、笑みを返してやった。わかる訳がないといいたいのだろう。あなたは何もわかっていないと。確かにわかってはいないだろう。近い将来、この日の事を思い出して、悔やむ日が来るかもしれない。でもそれは後のことだ。
「思い出話をありがとう。そして警告も。優しいのね。同じ境遇の者を作れば、心が慰められる日もあるでしょうに」
「……優しい? 俺が? 随分親切なんだな。エルカテルミナ、あなたが病に倒れて一年ほどになる。うわさもずいぶん広がっている。俺が今まであなたの病を知らなかったとでも? 病を知って、孵化を想像しなかったとでも? 俺に孵化が来てるんだ、この世で一番魔力の強いあなたに来ないはずがない、そう思い至らなかったとでも? 本当にそう思うのか?」
「……ふふ」
ニーナは笑った。
「いいのよ。まだあたしが生きてる間に、来てくれたんだから」
「見捨てるつもりだったんだ! 俺は! あなたが既に【四ツ葉】だと知らなければ、孵化の存在を知らせるつもりなんかなかった! 正常な孵化なんかさせてたまるかって思ってた!」
「それはあなたの問題よ」
わざと冷たく突っぱねると、デクターは鼻白んだように黙った。ニーナはデクターを慰めたかった。仕方のないことだと言ってあげたかった。うわべだけの慰めでも役には立つだろう。でもニーナの体力はほとんど尽きかけていて、自分と舞のことだけで精一杯で、デクターを受け入れてあげる余地がなかった。
「あたしは、死なない。あなたのおかげよ。来てくれて、本当に、感謝するわ」
「……」
「あたしに選択の余地はないの。死ぬわけには、本当に、いかないのよ」
「……血筋は残したって、聞いたけどな」
デクターの指摘に、ニーナは笑った。
「エルカテルミナの責務なんてどうでもいいわ。あたしは、舞がここにいてくれる限り、死ねないのよ。ね。だって『自分にされたくないことは、人にもしたらいけない』んだもの」
「……?」
「舞はね。あの子はね。信じられる? あの子の故郷には、月がひとつしかないんですって」
デクターが瞬きをした。何を言われたのか分からない、という顔だった。当然だ。ニーナも未だに信じられない。
「それはどこなのかしら。誰にも分からない。舞にも、どうやって来たのかわからないそうよ。でもね、あたしには、わかるのよ。あなたも彼女に会ったらきっとわかるわ。あの子はきっかけさえあればいつでも故郷に帰れる。それがどんなきっかけなのかは、わからないんだけど。稲光の渦がそれなのかな、って思うこともあるけど――。不思議だわ。あの子には【一ツ葉】程度の素養しかないのに。マスタードラの剣の腕みたいに、マーシャの家事の腕みたいに、誰もがひとつは与えられるという天賦の才能、舞の場合はそれなのかもしれないわね。
でもそれを知ってるのはあたしだけ。そして今はあなたもか。あたしは絶対言わないわ。あの子がそれを知って、たとえ帰りたいと言っても、あたしは絶対許さない。帰したりするもんですか。あの子に恨まれたとしたって、あたしは絶対、絶対、あの子を手放さない」
「……」
デクターは黙って聞いている。ニーナは、微笑んだ。自分の、むきだしの手に描かれた若草色の紋章が、薄く光を放っていた。さっきのデクターのように。
「だから、あたしも死なない。当然よね? あの子に帰り道を示さないまま死ぬ訳にはいかないわ、それは最低限の礼儀というものよね? でもあたしは言う気はないの。だから――死なない」
「……随分ご執心なんだ。でもその子も、ずっとここに留めるとしても、あなたより先に死ぬよ。老いさらばえて。よぼよぼになるよ。あなたは永遠に若いままなのに」
「望むところだわ」
デクターは、ため息をついた。
そして、肌着を着た。さらに上着をつけて、手袋ははめないまま、ニーナに歩みよって来た。ニーナは、デクターの瞳を見た。さっきまでの暗い影は、消えはしないものの、少し薄れていた。
「僕にできるのは、応急処置だけだ。あなたを本当に救える人が見つかるまで、発作を抑えることだけだよ」
「充分よ」
「やったことはないから、うまく行くかはわからないけど……」
「大丈夫よ。あたしは死なないから。何度でも試して上手になって」
デクターは、微笑んだ。淋しげではあるが、本当の笑顔だった。
「じゃ、試すね」
「お願い」
デクターの左腕がニーナの心臓の上に伸ばされる。デクターの腕に絡み付いた紋章がほどけて、こちらに、伸びた。ニーナの心臓を、幾重にも包むように――
苦しさがほどけて行く。
心臓が温かくなる。
ニーナはほっとため息をつく。ああ、これで大丈夫、と若草色の光を見ながら考えた。あたしは、舞が戻って来るまで、ここで待っていられる。
あの子は今どうしているだろう。
どこかで震えたりしていないだろうか。
――お母様、どうか。
どうかあの子が、温かくて居心地のいい安全な場所で、おなかも一杯で幸せな気分で、ぬくぬく眠ってますように。
危険なこと、怖いこと、厭なこと、哀しいこと、苦しいこと、そのすべてから、遠ざかっていてくれますように――




