アンヌ王妃(4)
けれどヴェガスタの上着に包まれて歩いたのはそれほど長い距離ではなかった。ヴェガスタは一番近い小部屋に舞を引っ張り込んで、そこにいた若い娘に悲鳴を上げさせた。
「おいおい俺だよシンディ。幽霊でもねえ。いや元気そうで何よりだが。頼むよデボラ、このお嬢ちゃんを黙らせてくれ」
「お黙りシンディ」
イルジットのようなはきはきした口調が若い娘をぴたりと黙らせ、デボラという名らしい年かさの女性はヴェガスタと舞の前で仁王立ちになった。動きやすそうな平靴と簡素な黒い靴下を履いた、骨張った足だけが見えている。
「おやおや護衛隊長どの、ようやくのお帰りかい。どこぞの海で溺れ死んだとばかり思っていたが。先を越されなきゃあたしだって悲鳴を上げてたよ、あんたの凶悪な顔を二度と見ないで済んだとばかり、せいせいしていたのにさ」
「デボラ。デボラ頼むよ。開いてる小部屋を教えてくれ。俺のいい女が窒息するじゃねえか」
「ふん。東階段上がりきった客間が開いてるよ」
「そこにいたんだ。だがお楽しみの真っ最中にお嬢様が闖入しやがって」
「おやおや護衛するべきお方を放っぽらかしてようやく帰ったかと思えば真っ先にお楽しみかい!」
「ヴェガスタ、でも、ヒリエッタ様のお部屋は違う場所よ。アンヌ様の寝室の西側、一番眺めのいい部屋にじんど……いえ」
「そうかい、じゃあ間違えたんだろ。とにかくシンディ、どこでもいい、この子が息をつける場所を捜してくれ。頼む。窒息寸前だ」
デボラがふん、と言った。
「とにかく奥に入りな。ったくお食事後のお茶を入れなきゃならなくて大忙しだってのに」
「ありがてえ」
ぶつぶつ言うデボラと興味津々らしいシンディを置いて、ヴェガスタは舞をさらに奥に連れて行った。扉を開く音がし、背後で閉まる音がして、急に上着から解放された。ここは狭くて暗いが、空気はとにかく清浄だ。
「すまねえな、とっさのことでよ」
「いえ、助かった」
露骨にならない程度に酸素を貪りつつ、舞は言った。ヒリエッタに見つかったら、なかなか面倒なことになるところだった。それにしても、と舞は少々意地悪な気分で考えた。『汚らわしい』とはよく言えたものだ。
ここはどうやら使用人たちが休憩する場所らしい。ごみごみして狭かったが、居心地は悪くなかった。ヴェガスタは手近な椅子に舞を座らせ、
「デボラとシンディなら心配ねえ。俺はちょいとフィグを捜してくる。お嬢様と鉢合わせしたら絞め殺しかねないからな。ここで待っててくれ」
返事をする間もなく、あっという間に出て行ってしまった。舞は久しぶりにひとりきりになったが、しかし孤独を楽しむ暇もなかった。すぐに扉が開かれて、デボラらしき女性が顔を出したのだ。
「ちょいとお前さん。長旅だったんだろう」
口調から感じるよりも結構若く、細身の、はきはきとした女性だった。気おされるように舞は頷いた。
「あ……え、はい」
「アナカルディアで湯を使える場所があったとは思えないし、ちょっと待っといで。浴室につれてくわけには行かないけど、すぐにお湯が沸くからね。着替えはあるのかい? 全く男どもと来たらそういうところにはちっとも気が利かないからね。おおやだ、ヴェガスタの臭いったら! あ、あんたは臭わないけどさ。まだね。良かったら客用の衣装を貸すけど……ずいぶん小柄だねあんた。合うのがあるかな」
「あ、いえ。いえ。持ってます。その……王妃にお会いするのにふさわしいかどうかは自信ないけど」
「あらやだ、あてこすってるわけじゃないんだよ。あの方はあんまり気にしないからね。でも体を綺麗にするのが嫌いな若い娘がいるはずないからね。シンディ、早くおし」
デボラはどうやら、舞が誰なのか、どういう目的で来たのか、うすうす察しているようだ。出がけにヴェガスタが耳打ちしていったのかも知れない。すぐに熱い湯の張られた大きな平たい器が運び込まれ、清潔な拭布も山と積まれた。とろりとなめらかな、いい匂いのするせっけんもたっぷりあった。舞は心底感謝して、熱い湯で体中を拭って、せっけんで顔を洗った。新しい下着の上下を身につけるや否やデボラとシンディが現れて、有無を言わさず髪まで洗われた。途中で現れたフィガスタは這々の体で逃げ出す羽目になった。どうしてもっと早くここに連れてこないんだいこのろくでなし、という罵声を背中に浴びて。
「手厳しいんですねえ……」
わしわしわしと髪を拭かれながら舞は言い、デボラはふんと鼻を鳴らし、シンディはにっこりして目配せをした。シンディは本当に若く、舞とあまり変わらない年頃のように見えた。枯れ葉のような色の髪をした、ほっそりした大人しそうな娘だった。
「ほんとに行き届かなくてすまないね。召使いはもうあたしらしか残ってなくてさ」
「本当に」と口数の少ないシンディが言った。「本来なら浴室でぴかぴかに磨き上げて差し上げなきゃならないんでしょうに。おいたわしいわ、こんな」
「シンディ、余計なことを言うんじゃないよ」
「でもデボラ、これでようやく」
「シンディ!」
デボラの叱声にシンディは黙った。けれど、その大人しそうな瞳が雄弁に内心を語っていた。
どうやら歓迎されているらしい。
「もうお二人しか残っていない、ということですが……」
聞いてみると、意外にデボラは答えた。
「ヒリエッタ様がおいでになる限り、どうしてもこの子にはいてもらわなきゃならなくてね。まあでもあまり不便はないよ。従僕も料理人も給仕もいるし。アンヌ様は気難しい主人じゃないからね。シンディ、櫛」
「はい」
ある程度乾いたと見るやデボラは櫛で、舞の髪を丁寧にときはじめた。舞は黙ってされるままになりながら、今得た情報について考えた。王妃宮が閑散としているわけがこれでわかった。
アンヌ王妃は、大勢いたはずの使用人に暇を出している。
それは、いざというときに身動きしやすいように、ということではないのだろうか。
【アスタ】が滅びても、同盟がさらにアンヌに手をさしのべてくると見極めて、そしてその手を取るためにだと、考えても、期待しても、いいのだろうか。
気になっていた旅塵もすっかり清められた。髪もきれいに整えられた。デボラはお茶も出せないことを残念がったが、アンヌ王妃を待たせるわけにはいかない。丁重に礼を述べた舞を、デボラはしげしげと見て、
「まあその髪と顔ならどこに出しても汚れを指摘される恐れはないね」
だいぶ遠回しに太鼓判を押した。シンディがにっこりと微笑んでくれ、舞はひどく暖かな気分でアンヌ王妃の執務室に通された。ここへくるまでさしたる困難もなかったこと、アンヌ王妃の召使いたちにあたたかく迎えられたこと、そして王もクレインもいないということ、そのすべてが、これから始まる王妃との会合の行く末を示す、吉兆のように思われた。
その時は。
*
アンヌ王妃は【アスタ】での簡素なドレスとあまり変わらない質素な服装で舞を迎えた。舞を見た瞬間、彼女は目を見開いた。【アスタ】で会ったことを覚えていたのだろう。すぐに、その美しい優しい顔が、哀しげな笑みで彩られた。
「あなた……だったのね。【アスタ】では、お世話になったわ。ビアンカが」
「いえ、こちらこそ、ビアンカには本当にお世話になったんです」
ビアンカと言う名に触発されて、シルヴィアの黒々とした瞳が脳裏をよぎった。アンヌは目を伏せる。
「まさかあの夜にあんなことになろうとは……」
「ええ。驚きました」
舞とアンヌの目が合った。マーセラ神官兵たちはあまりに手回しが良かった。あれほどの軍勢だ、一日やそこらで手配できたはずがない。それに普段はアナカルディアにいるはずのムーサが、あの時期にだけリヴェルを偶然訪れるなどありえない。ムーサはだいぶ前から、【アスタ】がエルギンの手を取ることを、知っていたに違いない。
間諜がいるのだ。どこかに。
アンヌ王妃は舞の目から目を離し、そして立ち上がった。広々とした、けれど居心地のいい執務室を速足で横切って舞の前に立ち、舞の手を握った。背の高い王妃は身をかがめるようにして舞を覗き込み、微笑んだ。
「ヴェグとフィグを助けてくださって、本当にありがとう。お礼を申し上げるわ」
「いえ、助けられたのはこちらの方です」
「そうかしら。あの二人との旅路、さぞ難儀をされたのじゃなくて? どうぞ、座って。今デボラがお茶をいれてくれるわ」
王妃に手を取られたまま舞は座り心地のいい長椅子に腰をかけた。フィガスタは執務机のかたわらに控え、ヴェガスタは入り口付近に陣取っている。他には誰もいない。もし間諜がいるのがここだとしても、フィガスタとヴェガスタがいれば立ち聞きされる心配もないだろう。
舞はアンヌ王妃の軽やかなおしゃべりに相づちを打ちながら、デボラとシンディがお茶を出して給仕し、出て行くのを待った。王妃の優しいもてなしのお陰で、なんだかとても居心地がよかった。ロギオンのいたずらっぽい声が耳によみがえった。
――あなたと気が合われると思いますよ。さぞかし、ね。
本当だ。ロギオンは正しかった。
シンディが舞の横を通りざま、親しみのこもった視線を投げていった。それに勇気づけられて、舞は切り出した。
「本日ここへ参りましたのは」
「……」
王妃が、お茶にのばしかけた手を止めた。
「あなたを、ご招待するためです。私は、」
「お茶をどうぞ」
王妃は舞の目を見ないままそう言い、器を取り上げて一口飲んだ。
それが、舞が最初に感じた齟齬だった。
かすかな不安が胸に忍び込んだが、舞は言葉を継いだ。
「……イェルディアへ。あなたのご実家のある街に、バルバロッサ=ガイェラという大商人がいます。そこで行われる晩餐会に、ぜひ、あなたをご招待したいと、託かってまいりました」
「……」
王妃は、沈黙した。
舞の視界の隅で、フィガスタが片方の眉を上げたのが見えた。舞は身じろぎをこらえた。おかしい、と、フィガスタも、思ったのが分かったからだ。
ヴェガスタの表情はここからは見えない。
「ご招待を受けたいのは山々なのだけれど」
ややして、アンヌ王妃は呟いた。
「……今王都を離れるのは、難しいわ」
――断る気だ。
唐突に舞は悟った。フィガスタも姿勢を正したのが見えた。まさか断られることがあろうとは。考慮はしていたが、万に一つの可能性だと思っていた。ヴェガスタは身じろぎもしなかった。けれど、深い深いため息を漏らしたのが、聞こえた。
アンヌ王妃は舞にというよりは、ヴェガスタのため息の方へ、弁解するように呟いた。
「ごめんなさい。せっかく来てくださったのに。さぞつらい思いをなさったでしょうに。ふだんは大勢のお供を引き連れて動かれる方でしょうに、わたくしのために――それでも、本当に申し訳ないのだけれど」
「お母様から、お手紙も預かっています」
囁くと、アンヌは硬直した。舞は背嚢に手をいれて、背に縫い込んであったその羊皮紙を取り出し、差し出した。
それでも。
この手紙はきっと何の役にも立たないだろうと、差し出した瞬間に悟っていた。
「……」
アンヌ王妃は黙って受け取り、中を開いて見ようともせず、机の上にそっと置いた。なみなみと水の入った器を扱うような、慎重な手つきだった。それから舞を見た。その目にあったのは、先程までよりもはっきりとした拒絶だった。
「母に、会われましたのね」
「ええ。お読みにならないのですか」
「ふふ」
アンヌ王妃は嗤った。
「中身はわかっているもの」
「……そうですか」
「母をどう思われまして?」
王妃の目が舞を射貫く。唇は微笑んでいたが、目はちっとも笑っていなかった。
これは試験だ、と舞は悟った。
下手な答えをしたら彼女は二度と、舞に心を開くまい。
緊張したが、答えるしかない。正直に。
「……正しい。方だと」
アンヌ王妃は瞬いた。そして、微笑んだ。舞は彼女の試験のようなものに、合格したことに気づいた。
「ええ。母は正しい人ですわ。自分が正しいということを知り抜いている。生まれつき知っているのね、きっと。正しい道が、はっきりと見えているのよ。
けれどわたくしは、母のように断定してしまうことはできない」
「断定……ですか」
「この期に及んで戦争を避けられると思うことがまず、甘い、と、申し上げませんでしたか。母は」
舞は頷いた。アンヌ王妃の声はアスタ元侯爵夫人によく似ていて、冷たい潮風に吹かれながら聞いたアスタの毒舌が、まざまざとよみがえるようだった。
「わたくしは諦められない。戦争は本当に避けられないものかしら。流す血が少なければ少ないほどいい、と思うのは愚かなことかしら。
母親というものは、本当に不思議なものだわ。子供は無条件で自分に従うものだと思う。よちよち歩きのころからちっとも変わっていないと思い込んでいる。わたくしが、自分の頭で考えることができるということを、わかってはいても信じてはいない」
アンヌ王妃は暗い瞳で舞を見ながら呪詛のように囁き続けた。
「こちらの道が、正しいと言われても。わたくしにそう思えない限り、従うわけにはいかないわ」
「戦争は……回避できると思います。貴女が、私達の手を取ってくださるなら」
「無理だわ」
「いいえ。貴女がこちらに来てくだされば、ラインスターク将軍へも、マーセラ神殿へも、働きかけることが可能になります。ラインスターク将軍も、よもやアンヌ様を相手に兵を挙げはしないでしょう。今のまま、アイオリーナ姫を守ったまま、傍観していていただけます」
「……そうね。でもマーセラ神殿は? 無理よ。かの神は世界を統べる真の女王に成り代わることで勢力を強めて来た」
「確かにルファルファの声は届きません。でもティファの声なら。学問の神ティファの受けた仕打ちを糺すという大義があれば」
王妃が舞を睨んだ。
「ビアンカを巻き込むつもり? あの子があの朝【アスタ】で――」
「……いえ」
舞は一瞬だけ、目を閉じた。
そして開いた。
しょうがない。言わなければならない。最後の切り札を出してでも、王妃をこちらへ、招かなければならない。
「ビアンカの名を出さずとも、ティファ・ルダの生き残りが、います」
「どこに――」
言いかけて、アンヌ王妃は息を飲んだ。黒い目が、まじまじと舞を見た。フィガスタの強い視線を感じたが、舞は王妃から目をそらさなかった。彼女の目に、確かに、同情の、共感の、そして謝罪の色が宿った。
それなのに。
沈黙が場を支配する中、ヴェガスタが再び、重いため息をつくのが聞こえた。そして彼は静かに扉を開いて出て行った。どこへ行ったのか、疑問が兆したが、王妃は一瞥も向けなかった。舞は目を伏せる。白状するのは、いつも辛い。
「【アスタ】が滅びた以上、名乗り出るしかありません。ティファ・ルダ陥落の夜に何があったか、名高い神の聖地に王が何をしたのか、全て見ています――だから」
「いいえ」
アンヌ王妃の声は、冷たかった。
舞は目の前で、彼女が、憎悪と軽蔑の仮面を被るのを見た。
「ティファ・ルダの生き残り。【魔物の娘】か。よくもおめおめと、生きていられたものね」
冷たい声が、心臓に突き刺さるような気がした。王妃は立ち上がり、命じた。
「フィガスタ、この者を捕らえなさい」
フィガスタの呻くような返事が聞こえる。「――なぜ」
「今日のところはもう遅いから、地下牢で構わないわ。明朝陛下へ使いを出し、戻られ次第引き渡しましょう。わたくしもこれで肩の荷が下りるというものよ。無辜の娘がこれ以上捕らえられることはなくなるのだから」
「……」フィガスタが、彼女に歩み寄った。「なぜだ」
「なぜ? 当然でしょう、わたくしは王妃よ。治安を乱すものをそのままにしておけて?」
舞は王妃の豹変が、未だに信じられなかった。身構えることもできず、王妃の声が無防備な体に次々と突き刺さるようだった。
フィガスタが、低い声で、言った。
「信じられねえ。俺にあんたを見限らせる気か?」
「あなたとヴェグの面目をつぶすのは申し訳ないとは思うわ。けれどこの娘を見過ごすわけにはいかない。聞き分けなさい」
「冗談だろう。ここへこの娘が、ひとりで、やって来たのはなぜだと思う。ティファ・ルダの生き残りならなおさら、ここへどんな思いで来たと思う? その勇気と献身に報いる、それがアナカルシス王妃の仕打ちか!」
「この娘は罪人よ。王が黒髪の娘を集めるのは――」
「正気か、あんたともあろうものが!」
「フィガスタ」アンヌは冷酷な声で言った。「わたくしに逆らうのね?」
フィガスタが、呼吸を整えた。
けれど吐き出す前に、扉が開いた。
「すまねえな、俺達もその娘がまさか【魔物の娘】だとは知らねえで、あんたの前にのこのこ連れてきちまって」
ヴェガスタは言いながら、のしのしと入って来た。口調はいつもどおり、のんびりとしていたが、舞を見下ろす視線は冷たかった。立て、と言われて、舞はのろのろと立った。どうしてだろう、と、麻痺したような頭のどこかで考えた。どうして、どこで、間違えたんだろう、と。
「牢の用意をして来たぜ。居心地がいいとは言えねえだろうが、ま、構わねえよな。あそこにいるのも長いことじゃねえだろうし」
「ヴェグ、正気か」
フィガスタの声に、ヴェガスタは笑った。
「はは、正気に決まってら。お前にこそ問いたいねえ。本気で王妃に楯突く気か、こんなちっぽけな娘のためによ」
「ヴェグ――」
「行くぞ。……悪いがあんたも一緒に来てくれ。王妃をお連れする場じゃねえことは分かってるが、フィグのバカの疑いは解いておきてえからな」
王妃は黙ってうなずき、先に戸口へ向かった。舞は立ったまま、動くことができなかったが、ヴェガスタが舞の背を押した。その手つきは存外優しく、手のひらはひどく温かかった。
ヴェガスタと舞が目の前を通り過ぎたとき、うつむいていた舞は、フィガスタの手が一瞬こちらに伸ばされそうになったのを見た。けれどヴェガスタが舞の肩に手を回したので、その手はそのまま下ろされた。
「フィグ、手間をかけさせるんじゃねえよ。一緒に来い。なんならお前が王妃を裏切る必要のないようにしてやってもいいんだ。王は【魔物の娘】の生死は気にしねえだろう?」
フィガスタが舌打ちをした。
舞は目を閉じた。
どうしてこうなってしまったのか、本当によくわからない。
廊下にはひとけがなかった。デボラもシンディも、事情を知っているのかどうなのか、どこかに控えて出てこようとはしなかった。ヴェガスタは先ほど来た、東側の階段を目指した。背後、少し離れた場所で薄く扉が開いて、誰かが覗いたのがわかった。たぶんヒリエッタだろう。ヴェガスタも気づいたはずだが、今度は舞を隠そうとはしなかった。
薄暗い階段を、ヴェガスタと舞が先頭に立ち、アンヌ王妃がやや遅れて続き、だいぶ遅れてフィガスタが、ふてくされたようについてくる。
二階にもひとけがない。一階に降り立つとどこかの部屋で動き回る人の気配をいくつか感じたが、誰も姿を見せなかった。地下へ続く階段へ踏み込むと、一番下に置かれた光を放つ籠が、地下の暗さを際立たせていた。地下牢から吹き出す冷気が、舞の体にまとわりついた。
「フィグ、お前はここで待ってろ。わかってるな、動くんじゃねえぞ。この――娘っ子を、かっさらわれて隠し通路に逃げ込まれちゃかなわねえからな」
フィガスタが足を止めた。何かに驚いたように。
ヴェガスタは舞を先に立たせた。すぐ後ろをぴったりついてくるのを感じて、舞はこんな時だというのに苦笑したくなった。心配しなくても、舞にはあの隠し通路の入り口はわからない。どこを見ても同じに見える。右側にあったのか、それとも左側だったのかすら、もうわからないというのに。
少し行くと重い鉄の扉があって、それを開くとその先が地下牢だった。ヴェガスタはアンヌ王妃に、すまねえがそこの扉が閉まらねえように押さえててくれねえかと頼んで、言われたとおりにアンヌが押さえる扉から届くわずかな光を頼りに、左側の牢へ舞を導いた。薄明かりに鉄格子が濡れたように光った。ヴェガスタはそっと鉄格子に切られた扉を開いて、優しい声で言った。
「入りな」
舞は言われたとおりに牢の中へ足を踏み入れた。牢に入ったのは初めてだった。ここのところずっと誰も入っていない、と言ったフィガスタの言葉は正しかった。血や汗や排泄物や食べ残しの醸す臭気が残っていたが、それは本当にごくわずかだった。
「明日の朝になったら迎えに来るぜ」
ヴェガスタは低い声で言い、大きな音を立てて鉄格子を閉めた。
がちゃり、と不必要に大きな錠がかかった。
そしてヴェガスタは振り返りもせずに、四角い薄明かりの方へ歩み去った。アンヌ王妃が扉を放し、礼を言ってヴェガスタが通り抜け、
「明日の朝までフィグと俺はあんたのそばを離れねえ方がいいだろうな――」
囁く声と二組の足音が密やかに遠ざかる。
それを遮るように、ゆっくりと、鉄の扉が閉まる。
そして舞は、漆黒の闇の中にひとり、取り残された。
しばらく立ったままでいた。そのうち自分が立っていると言うことに唐突に気づいて、闇の中で後ずさった。牢はかなり狭く、先ほどの薄明かりで見た限りでは、ただの四角い空洞のようだった。三方を石壁に囲まれて、一方は鉄格子だ。当然の事ながら、逃げ場はどこにもない。背がすぐに石壁に触れ、舞は壁に沿って、ずるずると座り込んだ。
疲れた。
何だかもう、心底へとへとだった。
気がつくと、牢の寒気はとっくに舞の体を冷やしきっていた。がくがく震えるほどの寒さではないのだが、この雰囲気が、そして先ほどの王妃とヴェガスタの豹変が、舞の気力を根こそぎ奪っていったようだった。いくつかの会話の断片が脳に浮かんだが、よく考えることも出来なかった。舞は壁によりかかり、出来るだけ小さく体を丸めた。このまま眠ったら、凍死できるかも知れないとふと思った。凍死の方が、王に殺されるよりもまだマシだ。
そう思って、舞は、ニーナのことを思った。
今考えたことを知ったなら、ニーナは、きっと怒るだろう。
医師に見放されても。冬を越せるかどうか、と言われても。やせ細って、一日に何度か発作に襲われて、体を起こすことも出来なくなって、食事も、排泄すらもままならなくなって――それでもニーナの瞳は強かった。絶対に諦めないと何度も言った。事実ニーナは諦めない。絶対に。そんなニーナが今の舞を見たら、本気で罵倒するに違いない。何やってるのよこのおバカ、あたしが諦めないのに、舞が諦めてどうするのよ!
それでも舞は心底疲れていた。ニーナの声を思っても、今は虚しかった。
どれくらい時間が経っただろう。
扉が、軋む音がして、目が覚めた。
うずくまった体勢のまま、自分がまどろんでいたことに気づいた。辺りはいよいよ寒く、眠ったことで余計に、その寒さを増した気がした。体中が強ばっていて、寝入る前よりもさらに気力が削がれていた。目を覚ましたことを心底悔やんだ。
顔をわずかに上げると、明かりがかすかに見えた。あの重そうな鉄の扉が開いている。
誰か長身の人影が、するりと中に入り込んで、扉を元通りに閉めた。闇が、戻ってくる。
誰が来たんだろう。疑問は湧いたが、答えを想像する気力もなかった。期待を持つことすら億劫だった。こつり、こつり、と音が鳴る。真っ暗な中を、誰かは手探りをする様子もなく、ゆっくりと歩いてくる。
そして、舞は気づいた。
人の気配が、なかった。
足音はこつりこつりと響くのに、誰かがそこにいる、という気配が全くしない。密やかな息づかいは聞こえるが、体温が感じられない。一体誰だ。――いや。
一体、何だ、これは。
「おや……今日はあの忌々しい守りがついていませんね」
優しい声が闇に響いた。全身が凍りついた。どうして、と思った。どうしてここにいるのだ。
それは、クレイン=アルベルトの声だった。




