会合と海賊(2)
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くねくねと曲がる階段を一番下まで降りるとそこは、荷物置き場になっている。かつてこの船が貿易船として活躍していた頃は、ここにも積み荷が満載されていたはずだが、今はあまり使われていない。古い樽や破れた帆布、使われなくなった綱といったがらくたが雑然と放り込まれているだけだ。
人の立ち入らない埃臭いその場所で、燭台をひとつだけ灯して、フィディという水夫は辺りを点検しているようだった。帳面を繰りながら、がらくたをひとつひとつのぞき込んでいる。もしマーティンがここにいなかったなら、マーティンか上級の水夫に指示されて、がらくたを片付けに来たが、まずその下準備としてがらくたの数を数えているのだ、と、説明されずとも推測してしまうような行動だった。堂々としていて、後ろ暗いことなど何もしていないように見える。
マーティンと舞は逆にこそこそと気配を消して、その様子を窺っていた。入り口は、今二人がいるここしかない。樽の陰に隠れて、向こうの気配を探る。マーティンが先にいるので、舞のところからは男の頭しか見えない。
ことり、ことり、と歩き回る音がしている。
ややして、男がこちらを見た。いや、入り口を窺ったのだろう。誰もいないのを確認してから、奥へ向き直った。
そして屈み込んだ。
舞のところからはすっかり何も見えなくなってしまって、舞はもどかしさに震えそうになった。マーティンが食い入るように見ている男の指先を、見たくて堪らなかった。しかしマーティンを押しのけるわけにもいかず、仕方なくその横顔を見ていると、次第に、表情が険しくなっていく。そして舞はおかしな匂いに気づいた。つん、と鼻を突く異臭が漂い始めている。
油だ。
そして。
「姫、感謝します」
囁いて、マーティンは立ち上がった。
「フィディ! そこで何をしている!」
刹那――
ぶわ、と風が舞い上がった。フィディは手袋を外していたのだろう、マーティンの声に応じて突風が倉庫の中を吹き荒れた。立ち上がっていたマーティンは風に煽られてたたらを踏んだ。その隙に舞は頭を突き出した。フィディの目の前に、大きな樽がある。それだけがやけに新しい。中身は匂いですぐにわかった。油だ。樽の蓋を開けたフィディは、そこにたっぷりと付け込んであった綱を取り出して、がらくたの間に広げて潜ませようとしていた。
もし火がついたら、ここはあっと言う間に火の海になるだろう。
舞はぞっとした。今夜の会合の真っ最中に、足元に火がついたら――恐慌状態になる。しかも今夜の客たちは全員が各地の神殿や都市の代表格の人ばかりだ。ひとりでも失われたら、同盟自体が崩壊しかねないと言うのに、全員が乗っている状態でそんなことになったりしたら。
フィディが出口を目指して走って来る。舞には気づいていないようだ。舞は刻を計って、フィディが目の前を駆け抜ける寸前に足を突き出した。フィディは堪らずつんのめったが、器用に受け身を取ってくるりと回って跳ね起きた。そこへ、マーティンが怒鳴った。
「フィディ、貴様――!」
彼は答えず飛び退った。右手の紋章が若草色の光を放っている。抜刀して向かっていこうとしていたマーティンに彼が右腕を突き出すと、マーティンの動きが止まった。風が密度を増して彼を押さえつけたのだろう。舞には見えないが、感覚でわかった。
「申し訳ない、船長」
初めて聞くフィディの声は高めで、上ずっていた。
「俺は、」
「草原の民・フィガスタ」
舞は立ち上がった。マーティンが目を剥き、なんとか舞を押し止どめようとしたが、風に押さえ込まれて彼は体を動かすことが出来ないようだった。フィディがこちらを睨んだ。その目にあるのは恐怖と狼狽と、そして怒りだった。
「俺はそんな名じゃねえ」
「エルカテルミナ=ラ・ニーナ=エスメラルダの名を覚えてる? 十年前、捕らえたあなたの命を見逃した人だ、覚えてないとは言わせない。――マーティンを放せ!」
「俺は――」
フィディは一瞬迷った。
しかしマーティンが窒息しかかっているのに気づいて、思わずというように風を解いた。マーティンが呼吸を取り戻し、荒い息を吐きながら膝をつく。舞はフィディから目を離さなかった。
「フィガスタ」
呼ぶと彼の顔が歪んだ。「俺は――」
「ニーナに命を救われたこと、覚えているよね? あなたは十年前、ニーナに命を助けられた。そして誓った。
『……草原のフィガスタはあんたを裏切らない。ここで汚名を雪ぐ機会を与えてもらえるなら、生涯、恩を忘れないと誓う。どんな理由でも、何を置いても、あんたのために力を尽くす』と、言ったはず」
「ああ覚えてるさ。……それがなんだ」
フィディ――フィガスタは一瞬迷った。
そして嗤った。
「覚えてる。だからなんだ。あんたは【最初の娘】じゃねえ」
「あたしはエスティエルティナ=ラ・マイ=エスメラルダ。ニーナの“剣”で、今は代理人も兼ねてる。あなたの髪も預かってる」
「代理人だと?」
「ニーナは病を得て、自分じゃ動けない。だからあたしに髪を託した」
フィガスタはまた迷った。舞はその瞳に、逡巡と恐怖とが揺らぐのを見た。
「草原の民は誇り高いと聞いてる。ここで何をしていたか、誰の差し金なのか知らないけど、十年前の約定を今――」
「見逃してくれ」
小さな声で彼は言った。
階段の上の方をちらりと見て、フィガスタは囁いた。
「頼む」
マーティンが吼えた。「――見逃せるわけないだろう! お前は今ここで、」
「船長、申し訳ねえ。俺を見逃せとは言わねえ。俺をこれから捕らえて火あぶりにでも、簀巻きにして海に放り込むのでも、好きにしてくれて構わねえ。だが頼む。十年前の約定を今ここで持ち出すのだけは勘弁してくれ」
舞は思わずマーティンと顔を見合わせた。
「十年前に賭けたのは俺の命だけだった。――頼むから、ここでも、俺の命だけで勘弁してくれ」
舞は一歩、フィガスタに近づいた。
「アンヌ王妃の差し金なの?」
「……そんなわけないだろ。この船で、見慣れないものを見たか。小さい、生き物」
フィガスタはまた階段の方をちらりと見た。
「あんたが以前来たときにはいなかったはずのものだ」
「……猫、とか?」
訊ねるとフィガスタの黒い黒い瞳が舞に移った。
「甲板にいたか」
ぞっとした。
「ハンモックに乗る前はいた。その後は見てない」
「あんたがこの船に乗ってから今日で三日だったな。その間にそいつは、あんたに可愛がられに来たか」
「来てない」
フィガスタは頷いた。
「さすがはルファルファの【最後の娘】。朗報だ。そいつはあんたに近づけない」
「どういうこと。あの猫が何?」
「俺は言えない」
黒い瞳は舞を見据えたまま揺らがなかった。その瞳が何か雄弁に語りかけていた。察してくれ。頼むから察してくれ。
「……俺は言えないんだ」
フィガスタの瞳はとても雄弁だ。さっきの声が耳の中で響いている。朗報だ。そいつはあんたに近づけない。さすがは【最後の娘】――
既に真相を語ったも同様だ、と思う。
「アンヌ王妃は――あなたがここにいることを、ご存じないの?」
「俺だってこんな仕事やりたくなかったさ。だがどうすりゃよかったんだ? おっしゃるとおり、俺は【契約の民】だ。今まで王妃の護衛だからと黙認されてきた。だが」
「断ったら火あぶりにされるところだった、ってこと?」
言いながら、違う、と自分で思った。
俺の命だけで勘弁してくれ、とさっき言ったじゃないか。
「……」
フィガスタは長々とため息をついた。それから顔を伏せる。
「なあ頼むよ。俺は言えない。裏切れない。近々、草原で祭りがあるんだ」
「草原。あなたの故郷の」
「そうさ。国中から民が集まって自慢の馬を競わせあう、年に一度の盛大な祭りだ。草原の民が殆ど皆草原に集まる。……なあ頼むよ。俺は言えないんだ」
脅されている、ということだ。舞は迷い、フィガスタの目の前に膝をついた。マーティンは慌てたが、止めようとはしなかった。
草原の民が大勢集まる祭りを王の兵に襲撃されたら。【契約の民】を大勢抱えたティファ・ルダが、一夜で壊滅したあの夜を思い出す。草原の民にも甚大な被害が出るだろう。
ならばニーナの約定を楯にこの人に裏切りを迫るのは、あまりに酷だ。
「フィガスタ。泳ぎは得意?」
囁くとフィガスタは目を見開いた。
「曲がりなりにも二ヶ月、この鬼船長の下で水夫やってんだぜ」
「ニーナの約定の代償に二つだけ教えて。時間と、数」
言いながら舞は手首に仕込んだ短刀を外してフィガスタに握らせた。
「ちょっと痛くて苦しい目に遭わせるけどそれくらいは我慢して」
「姫」
マーティンが今度は制止の声を上げた。舞はマーティンを見上げた。
「マーティン、この人は誇り高い草原の民だ。十年前の約定を“見逃してくれ”と言うのだって大変な屈辱だったはず。祭りには、殆どの民が集まるんでしょう? 草原の民にだって、戦えない女の人も、小さな子供たちも、たくさんいるはずだよ」
「ですが!」
「お願い、マーティン」
フィガスタは渡された小刀を手の中でひっくり返していたが、マーティンと同じように声を上げた。
「おい――俺を信用すんのか」
「もちろん。あなたは血と左手の約定に縛られた草原の民だ。そして」
「……」
「目を見れば、わかる。気がする」
「おめでたい嬢ちゃんだ」
フィガスタが、憎まれ口を叩いた。
マーティンは舞を見ている。まるで睨むような鋭い視線。けれど舞の目を見て、軽く息を吐いた。
「しょうがないですね」
「マーティン、ありがとう」
「どういたしまして。〈二人娘〉の意思を遂行することは生きとし生けるもの総ての義務ですから」
「おい、船長――」
「フィディ……フィガスタか。覚悟を決めるんだな。この方は剣に選ばれそれを背負った女神の愛し子だ。白い指先から雷を落とされる前に諦めろ」
そしてマーティンは呼子を取り出し高らかに吹き鳴らした。フィガスタが飛び退り、吐き捨てた。
「どうなってんだ、あんたら……夜半過ぎ、南南東、二百だ。――くそったれが!」
「姫、下がりなさい!」
鋭い斬撃が飛んだ。躱して、舞は倉庫に走り込んだ。辺りを見回し、麻袋を見つけ、持ち出そうとし、重さに舌打ちをした。小さく縮めて、手の中に握りしめて走る。
今のほんの数瞬に、騒動は甲板に移っていた。マーティンの呼子によって集まった水夫たちは既に状況を把握して、フィガスタを追い立てている。怒号と足音、剣戟と呼子。舞はその騒動の中、目を眇めて黒い影を捜した。
洋上の太陽は既に赤く染まりかけ、そこここに影が落ちている。どこにいるのだろう。
風の音が鳴った。悲鳴が上がり、舞はそちらに走った。
舳先に追い詰められたフィガスタの、右手の甲が輝いている。風が渦巻き、吹き飛ばされた水夫が甲板に倒れている。マーティンが冷たい声で言った。
「無駄な抵抗はやめろ。船の上で水夫相手に、陸の人間に何ができると思う」
「うるせえ」
フィガスタは体に巻き付いた縄を外していた。ぜいぜいと荒い息を吐いている。頬と肩から血を流している。どこかでキリキリと弓を引き絞る音がして、舞は急いで麻袋を取り出した。撃たれたら困る。
元の大きさに戻す軽い音にフィガスタがびくりとした。
「マーティン、これ」
「ありがとうございます」
マーティンは片手で軽々と持ち上げた。フィガスタが風を起こしたが、ずしりと重い麻袋は空気の塊ではどうすることもできなかった。広がった麻袋はフィガスタの上に抱きつくように覆い被さり、待ち構えた水夫たちが次々に飛びかかった。
ちくり。
胸の真ん中が痛んで、舞は驚いた。
熱い。
首元から服の中を見ると、何かが赤く輝いている。エスティエルティナだった。鞘の隙間から鮮烈に輝く赤い光が見えている。さっと視界の隅を黒い影が走った。それは前マストを一直線に登っていく――
「蛇だ」
闇そのものの色をした蛇がするするとマストを登っていく。登った先にいるのは、さっき弓を構えたらしい水夫だった。「ダヴィ!」舞は叫んだ。呼ばれた水夫、ダヴィが、驚いたようにこちらを見た。
「危ない! 蛇が!」
蛇が飛んだ。ダヴィは手にした矢でそれを叩き落とした。蛇は落ち、その途中でくるりと身を換えた。笠のような姿になって落下の勢いを殺し、猫になって甲板に着地。そのまま闇に紛れて見えなくなった。
「なんだ……今の……」
ダヴィが茫然と呟いている。
その時、背後で声が上がった。麻袋ごと縄でぐるぐる巻きにされていたフィガスタが、今の騒動の隙に甲板の手すりを乗り越えて海に落ちるところだった。舞は唇を噛んだ。フィガスタに握らせた小刀は、ちゃんとそのまま持っていられただろうか。縄を切る間、彼の息はちゃんと保つだろうか。
彼が裏切ったことを、あの黒い何かに、勘づかれてはいないだろうか。




