会合と海賊(1)
オーレリアと別れて、三日が過ぎた。
舞はレギニータ号の、船縁に腰をかけて、凪いだ海を見ていた。船はゆっくりと上下して、日はぽかぽかと体を温めてくれている。いい気持ちだ。寝てしまいそうだ。舞は瞼に光を当てようと、上を向いて目を閉じる。
バルバロッサとマーティンのところにたどり着くと、いつも眠たくなる。今まで感じなかった疲れが、体の奥からじわじわ出てくるような気がする。
二人は結構過保護なたちで、水夫達と総出で舞とニーナを甘やかすのが常だった。ごろごろしていても叱られたことなどないし、どこを覗き込んでも快く相手をしてもらえた。水夫達の後にくっついて仕事を見て、教えてもらって、手伝ったりして、冗談を言って笑って、おいしい食事を精一杯食べて、ゆらゆら揺れる寝台で朝まで眠る。寝る前にはいつも満ち足りている。そういう毎日が、ここにはいつでもある。いつ行っても快く迎えてもらえるという、安心感があった。
ニーナが元気だった時は、ここに来るのが心底楽しみだった。
今でも、ここに来ると舞は少し太る、気がする。食べ過ぎてと言うよりは、安心して。
レギニータ号はバルバロッサの船だ。とても大きな、まるでお城のような船だから、目を閉じると揺れは殆ど感じない。潮の香り。木の香り、お日様の香り。ニーナと一緒にこの甲板を駆け回ったのは、ついこないだのことなのに……
ちりん。
鈴の音が響いて、舞は目を開けた。
舞の座っている船縁の、かなり離れた場所に、猫が飛び乗ったのが見えた。
真っ黒な猫だ。マーティンの話では、ひと月ほど前に拾ったのだという。
マーティンはとても情に厚く、困っている人を見捨てられないたちだ。この船の水夫たちも困窮しているところを拾われたものが多い。きっとあの猫もそうやって拾われたのだろう。鼠を捕りますからね、と、猫の参入をマーティンはそう説明したが、たぶん裏路地で雨に打たれたりしていたのだろう、と舞は思う。
かなり離れているのでよく見えないが、猫は船縁で、丹念に体を舐めている、らしい。とても賢い猫なんです、とも、マーティンは言っていた。賢くて黒くて小さな生き物の姿に舞はシルヴィアを思い出し、猫から目を逸らした。
じくじくと胸が痛む。あの子は無事でいるだろうか。
ビアンカに頼んできたから、きっと大丈夫、の、はずだ。――でも。
本当に、“大丈夫”と、言えるだろうか。
あの美しい頭部を閉じ込めたリルア石を思い出して、胃の腑が重くなった。
どうしてあんな可憐な存在が、そんな苦しみを科せられなければならなかったのだろう。どうしてそんな理不尽なことが赦されるのだろう。
そしてそれが他ならぬ自分のせいなのだと思うことが何より辛い。
ティファ・ルダが滅ぼされて七年。その七年の間にどれほどの人々が殺され、どれほどの人々が苦しんだだろう。ウルクディアで、舞を投げ縄と投網で捕らえようとしたあの男の人も、愛娘を喪った。【契約の民】たちは住む家を追われ、捕らえられ火あぶりにされ、黒髪の娘たちはただ黒い髪を持っているというだけで青空の下を歩けない。
何度自制しようとしても、あの男のことを思い出すだけでどす黒い感情が胸に戻る。あの男は舞のことを【魔物の娘】と呼ぶが、言い得て妙だと舞は思う。
――あの男のことを思い出すだけで、あたしはいつでも魔物になれる気がする。
あの時、もう少し力があったら。もう少しだけ素早くて、もう少しだけ体が大きかったら。
あの時あたしが殺していれば。
あの夜、あの男を、――し損じさえしていなければ。
シルヴィアの指摘はほぼ的を射ている。王が狂っていったのは舞にはどうしようもなかったことだが、七年前から今に至るまであの男が未だ野放しになり、大勢の人々を苦しめ続けているのは。
――お前のせいだ。
心臓が痛い。
息ができない。
――あなたのせいだ。
シルヴィアが殺されたのも。ロギオンが処刑されてビアンカが傷ついたのも。
全部。
――あたしがあの男を、殺しそこなった、せいだ。
「姫」
優しい声がした。舞は我に返り、そこが、あの暗い紅い森の中ではなく、安全で穏やかなレギニータ号の上だということを思い出した。
いつの間にかマーティンが近くにいた。
「――日向ぼっこですか。ニーナも」
優しい声が、胸に染み入る。そこに満ちている自責と憎しみの渦を、押しのける。
「ニーナもきっと、今頃、日向ぼっこでもしているでしょうね」
舞は呼吸を取り戻した。胸の重しが少しずれて、光と空気が届くようになった気がした。呼吸を整えて、振り返ると、マーティンがじっと舞を見ていた。舞の視線を受け止めて、彼は微笑む。
それでいいんだよ、というように。
ここにいて大丈夫だよ、というように。
「日向ぼっこ……してるかな」
答えるとマーティンは目尻を下げて笑みを深めた。
「マーシャがついてるんですから、そりゃそうですとも。風の当たらない日だまりで、きっとぬくぬくしていますよ」
舞も微笑んだ。そうだろう。マーシャはニーナの体調を見極めて、負担にならない程度に日に当たらせてくれる。風を避けて、きちんと包んで。マーシャがついているのだから、きっとそうしていてくれる。
――ぬくぬくといい気持ちで、あたしを待っていて……くれる。
「いらっしゃい。吊り床を準備しましたから」
マーティンが言い、舞は頷いた。舞にとって“ニーナ”という名は道導のような役割を果たす、ということを、マーティンは良く知っていてくれる。ニーナは強くて明るくて、いつでも舞の道を照らしてくれる。例え病に伏していても。ニーナが生きていてくれさえすれば、この憎しみも、荒れ狂う嵐のような憎悪も、きっと飼い慣らすことができる。
強ばった体をほぐし、もう一度呼吸を整えて、舞は船縁から飛び降りる。
「嬉しい。ありがとう」
マーティンは相好を崩した。
「船縁で居眠りすると危ないですからね。いつかのように」
「やだなもう、大昔のことなのに」
舞は唇を尖らせて見せ、マーティンは笑った。あの時は本当に肝が冷えましたよと言いながら、舞が吊り床によじ登るのを助けてくれた。上掛けを渡してくれ、彼は微笑んだ。
「今夜は眠れませんから、今のうちに休んでおくんですよ」
「はーい。……あったか」
上掛けは柔らかくふかふかで、お日様の匂いがする。くるまって目を閉じると、マーティンの太いが繊細な指が髪に触れた。そっとかき回して、離れていく。
「……マーティン?」
「なんです、姫」
「エスメラルダから、手紙は?」
「ありませんよ。何かあったら知らせるでしょう。だから大丈夫」
便りが届かないのはむしろ良いことなのだと、マーティンは事あるごとに言ってくれる。舞もその平然とした口調が聞きたいために、事あるごとにそれを訊ねる。そして二人は同時に思う。私のもう一人の愛娘は、あたしの大事な親友は、まだ生きながらえているに違いないのだ、と。
あの優しい子が、あたしたちを、私たちを、置いて行ったりするはずがない。
「お腹がすいたら呼ぶんですよ」
マーティンの声は低くて、紛れも無い男のものだ。外見もなかなか厳つい。大男でがさつで赤髪で大音声で豪快なバルバロッサよりも、細身ですらりとして茶色の髪のマーティンの方が、実は人相としては悪い。目は吊り上がっているし、背も高くて、威圧感があり、なかなか凶悪な顔をしている。
それでもマーティンには、優しい口調と、まるでお母さんみたいな――小言を含めた――暖かな言葉が良く似合うのだ。
舞が答えなかったので、もう寝たのかと思ったらしく、マーティンはそっと離れて行った。ゆるやかな潮の音が再び耳に届いた。眠りを誘う柔らかな音と、ぬくぬくと体を暖めてくれる小春日和の日差し。憎悪の渦も遠のいて、体のこわばりがほどけても、心の中の不安は消えない。
――もう冬になる。
どんなに急いでも、ここからエスメラルダまで、ひと月近くかかる。ひと月後はもうとっくに冬だ。まだニーナを治せる彫師を、見つけだしてもいないのに。
本当なら、同盟も会合も、責任も役割も総て放り出して、彫師を探しに行きたかった。もしニーナが死んでしまったらと思うと、いても立ってもいられなかった。
でも、そうするわけにはいかない。
今夜の会合次第だが、どう転んでも舞は、【最後の娘】として、アナカルディアへ行くことになるだろう。アンヌ王妃か、ラインスターク将軍か、マーセラ神殿か、どれかせめてひとつでもこちら側に引き入れる必要がある。あの禍々しい王のいるアナカルディアへ行って、そして命を落とすことになっても、それだけはやり遂げなくてはならない。
それが、舞の仕事だからだ。
【最初の娘】の歩く道を平らかにし、整えて、障害を排除する。それが舞の、古来連綿と続く【最後の娘】の役目だ。今この時に、その仕事を放り出すことは出来なかった。エルギンが王になれなかったら、ルファルファの勢力は今度こそ完膚なきまでに滅ぼされるだろう。【最初の娘】であるニーナが宿敵マーセラに奪われたら、どんな仕打ちを受けることか、想像したくもない。
――大丈夫……ニーナは死なない。
自分に言い聞かせて、上かけを頭から被る。
――ニーナを治せなかった医師の言うことなんか、当てにならない。
あの優しいニーナが、冬を越せるかどうかなんて。そんなの、嘘に決まってる。
ほんのちょっと前まで、あんなに元気だったのだ。絶対大丈夫に決まってる。大丈夫。大丈夫。大丈夫……
ふと。
まどろみから醒めた。
いつもの癖で、舞は目を閉じたまま、辺りの気配を探った。不安が胸を締め付けた。バルバロッサの船では、舞はいつも寝穢くなる。誰かに起こされずに起きることなんてめったにない。それなのに。
――誰かが見てる……
この船に乗る水夫達なら、舞が目を覚ますことはないだろう。では誰だ?
舞を乗せてからずっと、この船は港から少し離れた沖に停泊している。見張りがいつも、知らない小船が近づかないかと見張っているはずだ。不審者が乗り込むには、夜陰に乗じてこっそり船をつけるか泳いでくるしかないが、昨夜の内に入り込んだのだろうか。でもあのマーティンが、そんな存在を見過ごすだろうか。
舞は上かけを被っていた。渾身の寝たふりを続けながら、首元にかけた小さな剣を意識した。もし近づいてきたら、そして舞を害しようとしたら、どう動けばいいか頭の中でおさらいをした。マスタードラならいい心掛けだと褒めてくれるだろうが、オーレリアには、だからあんたの動きは予測がつき易いのよと叱られるかもしれない。
けれどその気配は、そっと離れて行った。マストをぐるりと回り、船室の方へ向かう。
充分待って、舞は上かけを外して吊り床から降りた。
そして追跡を開始した。アルガスに出会った、あの時みたいだと思いながら。
今夜に備えて、水夫達のほとんどは船を降りていた。いろいろと準備もあるし、お客たちを運ぶために港で待機していなければならないからだ。残っているのは船長のマーティンの他は、見張りを入れてもほんの数人だけのはずだ。手薄になったことを知って行動を始めたのだろうか、一体何をするつもりなのだろう。
今夜の会合だけは、絶対に邪魔されるわけにはいかない。アナカルシスの今後を左右する重大な会議だ。
【アスタ】では後手に回ったが、ここは舞の家だ。踏み荒らされてたまるものか。
胸を締め付けられるような感覚を覚えながら物陰から窺うと、男の姿がよく見えた。マーティンに負けないくらい、背の高い人だった。右手には手袋をしている。舞は目を瞬いた。【契約の民】だろうか。それなら別に、警戒する事なんてないのだろうか。新入りの水夫に過ぎないのだろうか、ただ寝ている舞を起こさないように、足音を忍ばせてくれただけだったのだろうか。
しかし。
物陰に隠れた舞には気づかずに、男が柱を回った。船室に向かう階段をとんとんと降りて行く。舞は目をこらしてその顔を見た。三十代の半ばといったところだろうか。目が細く、目尻が垂れていて、とても温和な表情をしている。髪は黒い。伸びた後ろ髪をひとまとめにしてくくっていて、日に焼けていて、いかにも水夫という格好だが、顔立ちがわずかに――違う。
――草原の民だ。
舞は記憶を探った。以前ニーナから、黒い髪の毛を託された。その時に列挙されたその人の特徴――長身の、右手に手袋の、黒髪で目尻の下がった温和そうな顔の、優男で、『イーシャットよりちょっと年上』の草原の民。ニーナの挙げた特徴にことごとくぴたりと合致する男が、今この時期に、バルバロッサの船に乗っている。
こんな偶然の一致が有り得るだろうか。
有り得るだろうか。
有り得るかもしれないが。
こん、と背後で足音が鳴った。マーティンだ。舞は振り返り、とりあえず唇に指を当ててから、囁いた。
「今の誰?」
「今のとは?」
「草原の民みたいな顔立ちの、長身で目尻が下がって、右手に手袋」
「ああ、フィディですね。二月ほど前に船に入れたんです。【アスタ】にも行ったが、どうも隠れるのが性に合わないとかでね。船なら出港してしまえば【契約の民】だということも隠さずに済むから、是非にと乞われまして。水夫は初体験だとかで、お荷物だとは思ったんですが、まあ情にほだされたというか。よく働くし風を操れるんで、今は掘り出し物だったと思っていますが」
「……そう」
ふた月。
舞は記憶を探った。【アスタ】で――もうひと月近くも前だ――デリクとアルガスが話していた。
――今回のお供はヴェグじゃなかったんだよ。ヴェグもフィグも急用で出払ってるとかで、護衛は新米らしかったからな――
「何か?」
マーティンが低い声で問う。舞は顔を上げ、マーティンの顔を見た。
「まだ挨拶してないんだよね。フィディ、って言ったっけ。挨拶しに行きたいの」
「いいですよ。だが、私が先です」
マーティンがずい、と前に出る。舞は素直に譲った。相手が本物の水夫なら、船長に紹介してもらった方がいいに決まっている。それにこの船の責任者はマーティンだ。彼の選んだ男がもし、アンヌ王妃の護衛である草原の民・フィガスタであるなら、マーティンは自分の手でその始末をつけたいだろう。いや、本当に始末されたら困るのだが。
――でも本当にフィガスタだとしたら……一体何をしにここへ?
何だか、胸がざわざわする。




