デクター=カーン
昼食時。
小川のほとりで、悄然と水浴びをしている烏の姿を見つけて、ビアンカは足を速めた。やっぱりここにいた。いつも気になってはいたのだ。今までなかなか時間が取れなくて、放っておかざるを得なかっただけで。
「やっほーシルヴィア。お昼持って来たよ」
水浴びが一段落したのを見て、ビアンカは声をかけた。振り返ったシルヴィアは、一瞬、ひどくやつれて見えた。もちろん烏なので、ビアンカの想像だけれど。
「おいしーもの持って来たよ。いやーごめんねー、今まで人任せにしちゃってさ。でもこれからは三食あたしが持って来たげるからね。日がくれて目が見えなくなる前に、ちゃんと小屋に戻るんだよ?」
矢継ぎ早に声をかけると、シルヴィアはようやく川から上がってきた。羽を振って水滴を飛ばす姿も勢いがなく、しょんぼりしている。ビアンカは大判の布巾を広げてそのうえに昼食を用意しながら、にこにこと話し続ける。
「水浴びしてたの? 毎日するんだ。あたしよりずっと綺麗好きだね」
まあそりゃそうか、と続けるのは止した。何しろ相手はあのシルヴィア姫だ。今のところこの国で一番の美貌を誇っている――いた、人物である。本来なら毎日薔薇のお風呂でぴかぴかに磨き上げられていたのだろうに、と思うとこっちまでしょんぼりしそうになって、ビアンカはさらに明るい声を出した。
「さ、食べよ食べよー。お腹すいた。シルヴィアは?」
『すいた……』
返事もしょんぼりしている。ビアンカはにこっとした。
「そりゃいいことよ。健康だってことよ」
『どうして空くのかしら……』
「え?」
『ううん。それよりビアンカ、友達と食べないの? ここんとこずっと忙しくしてたじゃない』
少し口数が増えて来た。ビアンカは注意深くシルヴィアを見ながら、態度だけは軽く肩をすくめる。
「それも一段落。ま、あれからもう三日だし、さすがに落ち着くでしょうよ。いやさーもーあたしもさすがに嫌気がさして来ちゃったの。あたしが元大貴族の令嬢って知られちゃったらもーみんなよそよそしくなっちゃって。血筋がなんだってのよね、ついさっきまでため口で遠慮なくののしり合ってた仲だってのに、居心地悪いったら。も少し頑張ればみんな元に戻るかなって気もするんだけど、なんか疲れちゃって逃げて来たーあはー」
『そうなの。大変だったのね』
「いや別にい? 態度変わんない人もいるしね、イルジットとかデリクとか。ヒリエッタがいなくなっただけでも天国みたいなもんよ」
ヒリエッタ=ディスタはアンヌ王妃の帰還に合わせて【アスタ】を出ていた。どうせどこにいても危険なら、アンヌ様の近くが一番安全ですわ、とかなんとか言っていた。その理屈はわかるような、わからないような。肝が座っているのかいないのか、判断するのが難しい。それなら初めからアンヌ王妃の王妃宮にいろバカ、と言いたい。
ふたりはそれからしばらく、黙って食事を詰め込んだ。ビアンカはシルヴィアの食べっぷりをみて安堵した。食欲はあるらしい。
勢いが落ち着いたころを見計らって、
「エルティナが出掛けてもう三日になるね」
水を向けてみると、シルヴィアはとたんに硬直した。続いて、羽がしょんぼりと垂れる。
「どうしてるかなあの子。本名聞いたでしょ? 姫、って名前なんて、変なの。親につけられた名だからしょうがないけど、そりゃ偽名も使うよね」
『……うん』
「喧嘩でもした?」
訊ねてみると、シルヴィアは、一瞬ギクリとしたようだが、
ややして首を振った。
『違うの。私が……私が、私が、ひどいことを言ったの。ううん、言うつもりなんかなかったの。でも、でもね、あの』
「うん」
『あの……最初から話すわね。エルティナがウルクディアで私を見つけたの。不思議だったの。エルティナは最初から、私が、ただの烏じゃなくて、人間が中に入ってるって、わかってたみたいだったわ』
「へえ? そうなんだ」
『あ……エルティナだけじゃないわ、そういえば。あの……アルガスさん? あの人も最初、私を烏だと思わなかったみたいだったわ。どうしてなのかしら……』
「ごめんね、あたしはホントに烏だと思ってた」
『あ、ううん。いいの。それが当然だわ。アルベルト様だって……』
言いかけてシルヴィアはぶるりと震えた。そして何かを振り払うように首を振る。
『ごめんなさい、私、なんだかめちゃくちゃな話してるわよね。ええと。初めはね、言葉を話すことができなかったの。エルティナには通じることもあったんだけど……ウルクディアを出て、【アスタ】に入る前に、エルティナがこの石、ええと、リルア石、というらしいんだけど。これをくれたの。そうしたら、他の人にも話が通じるようになった。でも、うまく制御ができなくて』
「制御?」
『余計なことまで伝わってしまうの』
シルヴィアは翼で顔を覆うようにした。
『言うつもりなんかなかったの。でもあの、ほら、その……王が言っていたでしょう? ティファ・ルダの生き残りの子が出頭するまで……』
ああ、と、ビアンカはようやくふに落ちた。
エルティナは、ティファ・ルダの生き残りだ。本人がそう言ったのだから、間違いない。ということはもちろん、【魔物の娘】ということになる。少々でも見る目のある人ならば、【魔物の娘】が出頭しようとするまいと、王の残虐さは変わらなかったと分かっている。でもシルヴィアは被害者だ。自分が殺されてしまった後で、目の前にいる子が【魔物の娘】だと知ったなら――
『言うつもりなんかなかったの。本当に。だってあの子のせいじゃないわ。あの子が出て行って、王がやめたとは思えないもの。それなら王を止めるために働いてくれる方が、どれだけありがたいか、わかっているの。
それなのに私は考えてしまった。そして――伝わってしまったの……あの子を傷つけてしまった。きっと怒ってるわ。会わせる顔がないわ……』
シルヴィアはそこまで言うと、大きく肩を震わせた。
ビアンカはそっと手を伸ばして、シルヴィアの体を抱き上げた。【アスタ】終焉の夜に、シルヴィアが言ってくれたことを思い返した。涙には心を洗う力がある。本当にそうだ、とビアンカはあの夜、身をもって知ったのだ。
『泣きたいの』
同じことを考えていたのだろう。シルヴィアが呻いた。
『でも涙が出ない。烏にはきっとちゃんとした涙腺がないんだわ……』
――泣くことすら許されないのか、この人には。
ビアンカはしばらくシルヴィアを抱いて、背中をそっと撫でていた。シルヴィアは黙ってされるがままになっていた。二人の間に、悲しい沈黙が落ちる。
ややして、ビアンカは言った。
「あなたは悪くないよ」
『悪いわ』
「悪くないよ。考えただけだもん」
『伝わっちゃったわ』
「それは不可抗力。それはリルア石のせい。あなたは悪くない」
『……でも……』
「この世であなただけは、エルティナを責めてもしょうがない人だってあたしは思うよ。でもあなたは責めなかった。なんていい人なの? 本当に、優しい人だね」
『そんなこと……ないわ。だって考えた』
「たとえば人を殺したいと思うだけで悪いなら、あたしなんかなんべんヒリエッタを絞め殺したかわかんないわ」
わざと明るく言うと、シルヴィアは沈黙した。いいよ、とビアンカは思った。いくらでも反論してあげるから安心して、自分を責める言葉を、全部吐き出してしまうといい。
『言っちゃいけないって、わかっていたのに』
「言ったわけじゃない。伝わっちゃっただけ」
『浅ましいことだわ。わかっていたのに、だだをこねたのよ』
「当然よ。それが浅ましいってことなら、この世に浅ましくない人なんかひとりもいないわ」
『私はエルティナが好きなの』
「うん」
『傷つけたくなんかなかったの……』
「うん。わかるよ。あたしもそうだった。シルヴィア、あの夜あたしはロギオンに、本当は違うことを思ってた。罵ってやりたかった。殴りつけてもやりたかった。嘘つき、って、思ってた。あたしがリルア石を持っていたら、きっとロギオンを傷つけた」
『……』
「それにね、シルヴィア。エルティナはきっと、あなたを怒ったりしてない」
『……そう……かしら……』
「怒ったりするような子じゃないもん。きっと大丈夫。あのね、【アスタ】が落ち着いたらすぐ、エスメラルダに行ってって言われてるんだ、あたし。エスメラルダなら安全だから、アンヌ様の用意した行く先を断ってでも、エスメラルダにきっと行ってね、って。でね、シルヴィアのことも頼まれてるんだよ。だからあなたも、一緒にエスメラルダに行っていいってことじゃないの」
シルヴィアは顔を上げた。震える声が、嘴からこぼれた。
『だって……』
「大丈夫。大丈夫。あなたは悪くない。エルティナだって悪くない。だから大丈夫、きっかけがあれば、エスメラルダで会えばきっと、また仲良くなれるよ」
『そう……かしら……?』
「そうだよ」
ビアンカは微笑んで見せた。シルヴィアはうつむいたが、すぐにまた、顔を上げた。
『傷つけてしまっても、また元どおりになれるものかしら』
「なれるよ。だって傷ついたのはお互い様だもの」
ビアンカの言葉に、シルヴィアは、おずおずながら頷いた。ビアンカはふと気づいた。シルヴィアが微笑もうとした、ということに。
その時だ。
出し抜けに、背後から、声が聞こえた。
「わあ……綺麗な人だなあ」
ビアンカはぱっと振り返った。【アスタ】の中心部に続くなだらかな斜面を、若い男がひとり降りてくる。まだ旅装のままで、重そうな背嚢を背負っている。おそらく今着いたばかりなのだろう。若い男と言うよりもまだ少年のような風情の男は、ビアンカを見て微笑んだ。
「やあビアンカ、【アスタ】の女王。久しぶりだね」
「デクター」
『……デクター、さん?』
シルヴィアに視線を移して、デクターはさらに微笑む。
「本当に綺麗な人だな。こんな綺麗な人見たことない。ビアンカ、君には見えるの?」
綺麗な人、というのは、シルヴィアのことなのだろう。ビアンカは驚いた。この鴉が、デクターには、綺麗な人間に見えるのだろうか。
「見えないわ。鴉に見える。デクターには見えるの、この子が」
「うん。漆黒の夜にも似た黒い髪、ほころびかけた薔薇のつぼみのような唇、瞳は宝石のようで、眉の形は流星の尾のよう。鼻は少々低いけど、その低さがまた麗しい、って、これは歌に言うシルヴィア姫の美貌だけどさ、まさにその通りだ」
ビアンカは隣にたどり着いたデクターをつくづくと見た。
相変わらず服をびっちり着込んで、手袋まではめているので、剥き出しなのは首から上しかない。見た感じ、ビアンカと同じくらいの年齢に思える。一年前初めて見たときと全く変わらないその顔は整ってはいるが、時折ひどく暗い陰が落ちる。
一年前に初めて見たときと全く変わらないその顔。
ビアンカはいつも思う。
――成長期の若者にあるまじき事ではないだろうか。
「あれ?」
デクターは言って、ビアンカに微笑んだ。
「ビアンカ、僕のことを好きなフリはもうやめたのかい」
フリ、と来ましたか。ビアンカは苦笑した。
「うん。もう聞いたでしょう、ロギオンのこと。【アスタ】はもう終わり。だから恋愛ごっこも、もうおしまい。申し訳ないとは思っていたの、デクター。ずっとあなたを利用してたわ」
「いや、構わないよ。貴女には誰か、ガスとかジェリオとかボルディオとかと言った花形以外の男が必要だったんだろうし、僕には貴女の庇護を受けられるのは正直ありがたかったんだから。貴女は本当に【アスタ】の女王だった」
デクターは言いつつ、ふたりのそばに座り込んだ。どさり、と背嚢を下ろして、
「それで、こちらはシルヴィア姫? 初めまして、僕はデクター=カーン。地図描いて旅してる流れ者です」
『初め……まして……』
「どうして僕が貴女を知っているかというと、僕には貴女が人間に見え、そして以前、シルヴィア姫の肖像画を拝見したことがあるからです。でも本当に綺麗な人なんだなあ、肖像画見たときには幾らなんでも美化しすぎだろうと思ったけど僕が甘かった。肖像画の何倍も綺麗だ」
デクターは流れるように喋り続け、ビアンカは少々驚いていた。デクターという人と、今までこんな風に話したことはなかった。声変わりを終えたばかりのような声は一年前からずっと変わらず、かすかにかすれている。
「でも気をつけて。リルア石をそんな風に無造作につけていたら周りに悪影響が出るよ」
『え……?』
シルヴィアはデクターの指さした胸元を、翼で抑えるようにした。デクターが頷く。
「思うに鴉の体で人間と話をするためにつけてるんだろうけど」
「なんでわかるの?」
ビアンカは思わず口を挟んだ。デクターがニヤリとする。
「僕はこう見えても【契約の民】だからね」
「いやどう見ても【契約の民】だけどね」
「そして彫師でもある。だからリルア石の扱いはお手の物ってわけさ。ねえシルヴィア姫、もしそのリルア石を僕に貸してくれるなら、少しだけ貴女の役に立ってあげられると思うよ。特別にただでやってあげる。そうしないと……ビアンカはまあ大丈夫そうだけど、僕が安心して貴女に近づけないからね」
『さっきあなたは、周囲に悪影響、っておっしゃったわ。私、何か……?』
「ああ敬語はやめてくれないかな。僕ばっかりため口で育ちが悪いのがばれるじゃないか。ええとね、シルヴィア姫、人間の精神というのは鴉ごときのちっぽけな脳で抑えられるほど卑小なものじゃないんだ。貴女は今小さな小さな箱の中に無理矢理収まってる状態だ。漏れ出た意識が周囲に散らばっている。リルア石がそれを助長してるから、誰か敏感な人がそばにいたら、直接貴女の意識が触れてしまう。感じたこと、考えたことを全て、その誰かに流し込んでしまう恐れがあるんだ。逆もまたしかり、だけどね」
「それって……」
さっき聞いたばかりの出来事じゃないか。ビアンカはシルヴィアと目を見交わした。
とたんに、つっ、と、デクターが声をあげる。
「この子誰? 綺麗な子だけど顔立ちがこの辺の人とはちょっと違うね。ねえシルヴィア姫、僕には覗きの趣味は無いんだ。あなたのそばにいるとさっきからいろんなものが見え過ぎて頭痛がする。とりあえずそのリルア石を外すだけでも」
『あ、あ。お願いするわ』
シルヴィアが首を延べ、デクターはその首から革紐をそっと外した。ふう、と息をつく。
「ああ、これでまだマシだ」
「デクター……あたしには全然聞こえないのよ、その、シルヴィアの」
「ああいいんだいいんだビアンカ。あなたはしっかりと自分の足で立っているってことさ。あなたはその頭と麗しの唇で、【アスタ】中の女の子たちをまとめ上げて指揮して、【アスタ】の和を保つなんて離れ業ができる人なんだ。そういう人に、僕みたいな力はいらないってだけだよ」
デクターは流れるように話し続けながら、手袋を外して、シルヴィアから受け取ったリルア石を弄り始めていた。初めて見たその両手は、びっしりと若草色のツタのような模様に彩られている。シルヴィアが何か言った。ビアンカには、嗄れた鴉の鳴き声にしか聞こえなかったが、デクターはあっさり答えた。
「ええ、そうですよ」
またシルヴィアが何か言った。デクターが眉を上げた。
「へえ、誰から?」
「あの……」
口を挟むとデクターが、リルア石から目を離さないままで、苦笑した。
「ああごめんね、ビアンカ。いまシルヴィア姫は僕に、『あなたは彫師なのですよね』と聞いたので、僕はそうですよ、と言った。続けて『三ツ葉だとも聞きました』と聞かれたところさ。で、誰から? へえ、ガルテから? ガルテが僕のことをそう思っていたとは知らなかった」
「あたしもそう思ってたわ」
ビアンカはデクターの指先に見とれながら呟いた。デクターが、うなずく。
「ま、常識で考えればそうだろうね。でもハズレ。僕は【四ツ葉】ですよ、お嬢様方」
一瞬の、間があった。
デクターの指の中で、リルア石は若草色に輝き出していた。しかも今にも溶け出しそうにとろみを帯びている。デクターは二人の反応を楽しむように沈黙した後、
「こう見えても僕は気管支が弱くてね。子どものころ呼吸困難で死ぬ寸前まで行ったんだ。ティファ・ルダの医師に診せたところ、まあこの魔力の強さなら、【四ツ葉】に耐えられるだろうと言われてさ。命を契約で繋いだ。【四ツ葉】の契約というのはただ単純に四つ彫るってものじゃなくて……手も腕も肩も胸も、首から上以外は全身刺青だらけ。綺麗だけどやっぱり普通の人に見られるとひかれるからね、手袋しててもなんとか言い訳できる秋が来るまで、実家で息をひそめてるのさ」
デクターの手の中で、リルア石が伸びた。
細い細い若草色の糸が、手品のように生み出されて行く。
シルヴィアが、何か言った。デクターは、今作ったばかりの糸を、シルヴィアの首にかけた。
『……くなってからも、その、一度病にかかりませんでしたか』
唐突にシルヴィアの声が聞こえ始めた。その声は今まで以上に明瞭に聞こえ、ほとんど人間の声と変わらないように思えた。デクターはシルヴィアの首にかけたリルア石の両端を繋いでから手を放し、聞き返した。
「大きくなってからも?」
『そう。原因不明の。医師に治せない――』
「……」
デクターは残りのリルア石を手の中に握り込んだ。ここに来てから初めて、デクターから余裕が消えた。ビアンカが『恋の相手』にデクターを選んだ唯一の理由である、時折彼に射す暗い陰が、再びデクターの横顔に宿った。
声音までも、ガラリと変わる。
「……どうして、それを」
『あの……私の友人が……友人の友人が、やっぱり【四ツ葉】だというの。それで、今、誰にも治せない原因不明の、病で、死にかけているの。友人は、一縷の望みを繋いで彫師を捜してる。あの、あなたも同じ病にかかったのなら』
デクターは、沈黙した。
シルヴィアも押し黙った。自分が訊ねたことが、デクターを苦しめたのだろうかと、恐れるように。ビアンカもデクターを見つめた。こんなデクターは、初めて見た。彼は何か、自分の中の大きなものを押え付けるように眉をしかめていた。
ややして、低い、声が漏れる。
「その【四ツ葉】は……どこにいる」
『エスメラルダ、というところに』
おずおずと答えたシルヴィアに、デクターは、
嗤った。
「はっ。ああ。やっぱりそうか、【四ツ葉】になれそうな人間なんて他にはそうそういないからな。病に倒れて一年、そんなに長い間耐えたのか。やっぱりただ者じゃないな。そりゃそうだよな、本来なら俺なんかよりずっと先に来てたはずだ。だが既に【四ツ葉】だって――?」
「デクター?」
「四ツ葉になったのはいつだ。【最初の娘】ともあろう者が、どうして。誰も警告しなかったのか」
「デクター、落ち着いて。シルヴィアが脅えてるわ」
ビアンカの声に、
デクターは、我に返ったようだった。黒い黒い瞳は異様な光を湛えたままだったが、しばし口ごもるようにして、呻いた。
「……これは、失礼。ちょっと取り乱した」
『子供の頃だって聞いているわ』
脅えたように身を縮めていたシルヴィアは、しかし引き下がらなかった。細い若草色の紐を首にかけた鴉は、デクターのひざにすがりつくようにした。
『私も、詳しくは知らないの。エルティナ……友人から少し聞いただけ。でも【四ツ葉】になったのは子供のころだって。その時も、今と同じ、原因不明の病で死にかけていたんだって。その命を契約で繋いだ、って聞いたわ。
でも今、また同じ症状で――』
「それは当たり前だ。彼女に必要なのは契約じゃない。子供のころとは恐れ入ったな。さすが【最初の娘】、偉大なる我らが全ての母は、俺より先に彼女を呼んでたってわけだ。
……ごめん、シルヴィア姫、あなたは全く悪くないのに八つ当たりをして」
――八つ当たり……?
ビアンカは黙ってデクターを見守った。暗い暗い陰を宿した、同年代の若者の横顔を。
――偉大なる我らが全ての母。
それは誰のことだろう。偉大なる、と言いながら、
――どうして呪詛のように呻くのだろう。
『あなたは今は元気ね。教えて、どうやって助かったの? 私の友人が必死でその方法を捜している。教えてあげたいの。助かる方法を知っているなら』
「知っている。でもお……僕には無理なんだ、残念ながら。でも彼女を助けられる人間がどこかにはいることは確かだし、その人が見つかるまで、命を延ばしてあげることは、できると思う。でも……出来ないかもしれないから、あなたの友人には、命を延ばせるってことは、秘密にしておいてくれないかな」
『……』シルヴィアはデクターをしばし見つめた。『いいわ。わかった。どうやったら助けられるの?』
「それは本人に直接言うよ。僕は……ねえビアンカ?」
こちらを向いたデクターの顔からは、既に、あの陰は失せていた。人懐っこい少年のような仮面を再び被って、デクターは言う。
「ガスから手紙をもらってね。あなたは多分エスメラルダに向かうはずだって聞いたけど?」
「……うん」
「護衛が必要だそうだね。炎をもつ護衛が。何でもあちらでは彫師も捜しているらしいし、僕がそれを勤めちゃいけないかな。あなたについて行けば、【最初の娘】にも近づきやすいだろうし」
「……」
ビアンカはデクターを見つめる。
あたしは今まで何を見て来たんだろう、と、打ちのめされるような気分だった。
人を見る目には自信がある? 冗談じゃない。あたしは何も見ていなかった。
デクターにはお笑いぐさだっただろう。この人が同年代だなんてもはや思えなかった。あんなに毎度見つめていたのに。陰の存在に、気づいてはいたけれど。俺、と言った。本当はあんな言葉遣いをする人だったということすら、知らなかった――
「いいわよ、デクター」
ビアンカは微笑む。ゆっくりと。
「あたしエルティナから紹介状までもらっているの。すごいでしょう。あ、そうそう、行く時はガルテも一緒よ。彼は学問所に興味があるんだって。出掛ける寸前のエルティナにどっさり薬を渡して頼み込んで、あたしを護って行くって条件付きで、紹介状書いてもらってた」
「へえ、そうなんだ。紹介状があるとは心強いな。僕のことはあなたの口からちゃんと説明してくれよ」
デクターは、付き合ってくれるらしい。あたしのことなんか放って、すぐさまエスメラルダに向かっても、歓迎されるだろうに。
シルヴィアは、と視線をやると、彼女は。
うろうろしていた。
ビアンカは微笑んだ。エルティナの親友が病に伏しているというくだりは聞いていなかったが、シルヴィアは知っていて。デクターが手掛かりを持っていると知ったなら、そりゃうろうろもするだろう。ビアンカはシルヴィアの背をちょんとつついた。
「行って、見つけて、それで教えてあげれば? 仲直りのきっかけにもなるし、一石二鳥ー」
『え。え、でも』
「せっかく翼があるんだもん。飛んで行きなよ」
『え、え、でもでも』
「問題はどこへ行ったかなのよね。行き先は聞かなかったんだよな。シルヴィアは聞いた?」
『き、き、聞いてない』
「エルティナって、【最後の娘】のことなんだろ?」
デクターが口を挟んだ。二人は同時に彼を見た。
「知ってるの?」
「まあ……【最初の娘】の親友とくればそりゃ常識的に考えればね。ええと【アスタ】が幕を閉じたろ、てことは……彼女はエスメラルダに帰る前に、アンヌ王妃に会うはずだ」
二人は同時に口を開けた。
『え、で、でも』
「アンヌ様とエルティナなら、ここで一度会っているわよ。特に重要な話はしてなかったと思うけど」
「【アスタ】がこうなった以上、一度同盟の意向を固める必要があるだろうからね。ええと同盟の本拠地はイェルディアだから……アンヌ王妃は今、アナカルディアに向かってるんだろう? 【最後の娘】は今は必死でイェルディアに向かってる頃だろうけど、ここからならいっそ、アナカルディアに先回りした方がいいと思うよ。地図見る?」
デクターは、背嚢を探ってよれよれの地図を取り出した。ビアンカはようやく口を閉じた。
「……詳しいのねえ、デクター」
「これくらい知らなきゃ流れ者なんてやってられないよ、と言いたいところだけどさ。うちの伯父が実はラク・ルダの都市代表なんだよね、ははは」
「都市代表の甥……デクターって実は、お坊ちゃま?」
「当然でしょ。ラク・ルダの豪商の息子ですよ。いい年した息子を夏中匿ったり、そもそも死にかけた五歳の息子をその辺の医師じゃなくティファ・ルダまで診せに行くような親だよ?」
いい年した、って、いくつだ。
聞きたかったが、訊ねる前にシルヴィアが言った。
『あのう……ごめんなさい、私、地図見るの初めてで……』
「おっと! こりゃ失敬。うわあ新鮮だなあ、貴族のお嬢様って感じがするなあ。ね、ここが【アスタ】。で、ここが麓の村、リヴェル。ここからこの道をこう辿って、ここで太い街道に乗ると、あとはもうひたすら南下するだけ。ずっと行って、ほらここがアナカルディア」
『……』
シルヴィアはつくづくと、つくづくと、地図を見た。
そして肩を落とした。
『自信ないわ……』
「大丈夫。ほぼ一本道」
『うう……ここをずっとこう、行けばいいのよね……結構遠いのね』
「大丈夫。時間はたっぷりあるんだ。貴女には翼があるし、エルティナの移動距離の方がはるかに長い。同盟の会合は今日からえーと、二十と二日後。その夜のうちにアナカルディアへ出発しても、二週間はかかる。だからまる一月くらい迷ってもなんとかなる。南を目指せばいいんだ。お昼頃に太陽がある方だよ。どんな方向音痴でも迷いっこない」
ビアンカは、シルヴィアのあまりに不安げな様子に、思わず口を出した。
「あの、シルヴィア? もし不安だったら、あたしたちと一緒にエスメラルダに行こうよ。で待ってれば絶対帰ってくるんだし」
『……』
シルヴィアは、迷ったようだった。
けれど、きっぱりと首を振った。
『ううん。迎えに行くわ。謝るのはきっと、早い方がいいし。たとえエルティナが怒っていても、デクターさんの情報があれば話がしやすいし』
「そうよ!」ビアンカは思わず叫んだ。「そうそうそうよ、それで恩を売って感謝させて、こないだのことなんかなし崩しにうやむやにしちゃえばいいのよ!」
「うわあお」
『そうねビアンカ! 私、頑張るわ!』
「……うわあお」
苦笑するデクターに、ビアンカはニヤリと笑みを投げた。
「何か言いたいことがおありかしら?」
「いえ全く。にしてもアナカルディアかあ……ガスに会うかな。会うよな、きっと。いよいよ再会か、ひひひ」
ひひひ?
「シルヴィア姫、ガスに会ったらさ、アナカルディア名物の草餅を一箱買ってくるよう伝えといて。もちろん金は払うからって。あ、面識ある? ガスと」
『ええ、あるけれど……会うかしら?』
「会うだろうね。【最後の娘】のそばにきっといるよ」
デクターは、にんまりした。何やら意味ありげな様子だ。ビアンカは、三日前に聞いてしまった、エルティナとアルガスの会話を思い出した。興味深く身を乗り出しながらも、訊ねずにはいられなかった。
「シルヴィア、アルガスにそんなこと頼める? なんだか怒られそうだわ」
『そうよねえ』
「え、そう? ああ……あいつ仏頂面だからね、いつも。でも見かけだけだから、大丈夫」
デクターは、言って、ますます笑みを深めた。
「いよいよかあ……楽しみだなあ……」
つぶやいた声は、ごくごく低く、ほとんど聞き取れないほどだった。何が楽しみなんだろう、とビアンカは思った。しかしシルヴィアが羽ばたいたので、訊ねることは出来なかった。
「もう行くの、シルヴィア?」
『ええ。善は急げ、と言うし。お日様が沈んだら飛べなくなるし、方角も分からないし。ビアンカ、どうもありがとう。エスメラルダで会いましょうね。私頑張るわ』
「うん、頑張って。大丈夫、きっと全部うまく行くよ」
『ええ』
「あ、待って待って。そこまで送りますよシルヴィア姫。ビアンカ、本当に申し訳ないんだけど、先へ行って、デリクに僕が着いたって知らせておいてくれないかな?」
ビアンカは、瞬きをした。
あまりにあからさまに、邪魔者扱いされたからだ。
ビアンカはデクターを見、それからシルヴィアを見た。さっきまでのビアンカなら、多分怒っていただろう。でも、デクターの『正体』をわずかなりとも目にした後では、闇雲に怒りをぶつけてここに止まることは出来なかった。いいわよ、と言うと、デクターが驚いたような、そして安堵した表情を浮かべた。ビアンカは微笑んで見せる。
「じゃね、シルヴィア。気をつけて。エスメラルダで会いましょ」
『え……あ……うん……』
シルヴィアに最後に手を振って、ビアンカはきびすを返した。
デクターの視線を背中に感じながらも、ビアンカは振り返らずに、足早に斜面を登った。
ビアンカの姿が消えると、デクターはシルヴィアを見た。その幼さの残る顔に、再びあの陰が兆して、シルヴィアは息を詰めた。
「シルヴィア姫」
デクターの声は低く、硬い。
「言おうか言うまいか迷ったんだけど……でもやっぱり言っておいた方がいいと思うんだ。俺は、知りたかったから。
貴女は――」
小さな声は風に吹かれて、シルヴィアにだけその意味を伝える。声が消えた後もシルヴィアはしばらく立ちすくんでデクターを見上げていたが、ややして、うなずいた。
『……わかっていたわ。なんとなくだけれど。だから少しでも早くって、思ったんだもの。
教えてくれてありがとう、デクター=カーン』
「……いや。道中気をつけて」
『ありがとう。ビアンカをよろしくね』
言葉を残して、シルヴィアは羽ばたいた。その小さな背中が、【アスタ】を覆う森の梢に消えるまで見送ってから、デクターは呻いた。
「分かって、たんだ……強いな……」
握り締めていた手を開くと、シルヴィアから預かったままだったリルア石の残りが現れる。若草色の光も失せ、元どおり堅く半透明になったその石を見つめて、デクターは続けた。
「でも俺には、貴女が羨ましいよ、シルヴィア姫――」




