チビで貧相な年増の話(中)
「なあんだ、あいつがべた惚れだって言うからどんな別嬪かと思や、チビで貧相な年増じゃねえか」
正面の男はつぶやいた。デボラは黙って男を見返した。男の言葉に異存はなかったからだ。
「ようデボラさんよ、」
「誰だいそりゃ?」
男の言葉を遮って、デボラは首をかしげて見せた。
「あたしゃジェインっていうんだけど」
「おおそうかい、人違いかな。そりゃすまねえ」男はニヤリと嗤った。「じゃあジェインさんよ。あんたルードって男を知ってんな?」
「知らないね」
「言うと思ったぜ。安心しな、別にあんたを人質にしてあいつをどうこうしようってわけじゃねえのさ。ただよ、あいつがちょいとへまをしてね、ケガしたんで今日は帰れねえって言付かってきたんだよ」
「誰のことかわかんないけど、そりゃお気の毒様。でもあたしにゃ関係無いんだよ、ほんとに。そこ通しておくれ」
「顔色も変えねえとは、ルードも気の毒な奴だよなあ……え? デボラさんよ。いやジェインさんだっけか。とにかくよ、薬だの金だの着替えだのが必要だから、家から持ってきてくれねえかって言われてんだよ。な? そう警戒しねえでくれ。俺らは仲間なんだ。あいつが痛え思いして待ってんだからよ、早くしてやりてえんだよ」
「……だからさあ」デボラはため息をついた。「あたしゃジェインなんだよ。一人暮らしなんだ。デボラだのルードだのって、聞いたこともない。はやいとこ帰って夕ごはんが食べたいんでね、ちゃんとデボラを捜しておくれよ」
「……こいつぁ本物だ」男は顔をしかめた。「本当に大切にされてやがるなあ。おい、もういいから捕まえちまいな。あんたが悪いんだぜ、デボラさんよ。あんたに危害を加える気はなかったのに」
こいつは本物だと、デボラも思った。
こいつらは本気で、ルードをどうにかしようとしているらしい。
ルードと一緒に住むようになって、デボラはルードから、いろいろな注意を受けていた。くれぐれも用心してくれと言われていた。でも実際のところ、今までは、そんな注意も忘れかけるほど平穏極まりない生活だった。それほどに、ルードの評判が高かったからだ。『【最後の娘】の十二人』のひとりであるということは実際伊達ではなかった。ルードを敵に回すということは、誰にとってもかなりの不利益を覚悟しなければならないということだ。【最後の娘】はアルガス=グウェリンと結婚して、ちょくちょく地下街やアナカルディアに遊びに来るし、夫であるアルガス=グウェリンは戸籍をもらったとは言えいまだに流れ者の間にも顔が広い。万一ルードをどうにかできてしまったら、評判のいい流れ者の大多数を敵に回した上、下手をすれば女神の白き腕の中から追放される事態も起こり得る。
でもこいつらは、その不利益を覚悟している。
デボラも覚悟を決めた。走りだした。持っていた籐籠を正面の男に投げ付けたが、男はそれを難無く避けて手を伸ばしてきた。その手にあった小刀がきらめき、デボラは左手に持っていた包みでそれを避けようとした。けれどためらった。包みに入っているものを思い出したからだ。鱒が駄目になってしまう。
ぱっと鮮血が散ったが、痛みは感じなかった。包みが切られて中身が舞ってぬめった光を放ち、男は虚を突かれたようだ。「なん……魚あっ?」間抜けな声を後ろで聞いた。デボラは必死で走った。鱒の切り身が石畳に落ちたのをそのままにして。すぐに路地を抜けて、人の波に飛び込んで、デボラは声を限りに叫んだ。
「助けて――誰かあ――っ!!」
「ちっ」
舌打ちが背後で聞こえた。デボラは驚いて見つめてくる人たちを避けて走りながら再び叫んだ。
「ならず者だよ! 人殺し! 助けて、誰か!」
「どうした!」
前方で若い声が聞こえた。ちょうど見回りの近衛たちがやってきていた。デボラはすぐに見慣れた制服のひとりに支えられた。暖かな大きな手がデボラの肩を包んだ。
「あ……デボラ? どうした、大丈夫か」
「ごろつきに……絡まれたんだよ」
デボラは歯を食いしばって呼吸を整えようとした。心臓が激しく波打っていてどうしてもおさまりそうもない。七人もの近衛が今の路地に駆け込んで行く。怒号や足音、鳴子が聞こえた。捕まえてくれるだろうか。
ひとりだけ残った近衛が心配そうに言った。
「ケガしてるじゃないか」
「かすり傷だよ、こんなの」
デボラはなんとか心と体を鎮めて、ふう、とため息をついた。
「ああ怖かった。金目のものを出せとか言われてさ、さすがのあたしも気が動転しちまったよ。通りかかってくれてありがと」
よく見ると顔見知りの近衛だった。彼は首を振った。手巾を出して、デボラの傷を手際よく縛ってくれながら、
「王宮の召使いだって知ってて襲ってきたのか?」
「違う違う。誰でもよかったんじゃないかい? デボラ様の逃げ足を知らないで、間抜けな奴らだよね。……ありがと、もう大丈夫。血で駄目にしちゃうだろうから、今度新しいの返すよ」
言いながらデボラは、恐る恐る今の路地を覗いた。路地はひとけがなく、がらんとしており、籐籠が道の真ん中に投げ出されているのが見えた。
その向こうで、ひときわ大きな怒号が上がった。
ぴりぴりぴり、と鳴子が鳴った。かたわらの若いのを見上げると、彼は微笑んだ。
「ちゃんと捕まえたみたいだな」
「そうかい。……よかった」
全身から力が抜けた。近衛が捕まえてくれたなら、奴らはルードをこれ以上どうにかすることはできないだろう。
「デボラ、近衛の詰め所で治療を」
近衛が言ってくるのを、デボラはぱたぱた手を振って躱した。左手の傷は結構深かったようで、ずきりと痛んだが、努めて平気なふりをした。
「いい、いい。かすり傷だって、ほんとに。家で洗って唾でもつけとく。……あーあ」
散らばった鱒の切り身は砂ぼこりにまみれていた。奇跡的に踏まれはしなかったようだが、拾い上げるのもなんだか情けなかった。デボラは近衛を振り返って、苦笑した。
「せっかく買ったのに……災難だねえ、我ながら」
「洗えばまだ食えそうだけど」
近衛が言うが、デボラは籐籠を拾うために身をかがめて知らんぷりをした。小銭入れや手巾や細々したものを拾い集めて、その時初めて、自分がまだ鱒の切り身を包んでいた竹の皮の残骸を握り締めていたことに気づいた。
ぱっと手を放して、竹の皮を落とした。代わりに籐籠を持ち上げて、近衛を見て笑って見せた。
「いらないよ、砂にまみれちまったもん。帰って料理すんのも億劫だしね。今日はパンだけで済ませるさ。悪いけど捨てといてくれるかい?」
「うまそうなのにな」
「しょうがないさ。今度お給金いただいたら改めて買うよ。……それじゃね、ほんとにありがと。今度お礼するよ」
言ってデボラはさっさと歩いた。却ってせいせいした、と思った。ルードは戻っていないだろうし、だとしたら、鱒の切り身なんてあったってしょうがない。
先程の出来事が、いまさらのようにデボラの全身を締め付けた。
危ないところだった、と思った。
ルードが帰って来ないかもしれないと、幾度も思ったことがある。他の、もっとかわいくて気立てのいい別嬪のところに住むのじゃないかと、ルードが出かけるたびにそれが頭をかすめた。……でも。
帰って来ない理由には、もうひとつあったのだ。出先で大ケガをしたり、死んだりして、ルードの意志とは裏腹に、帰って来られなくなってしまうこと。
そのことに、初めて気づいた。
「あああ、あたしは、ほんとに救いようがないよ……」
気づくと家についていた。暗くて寒々しい家だった。人の気配は全くなくて、やはりルードは帰っていなかった。他の女のところに行ってくれるならばまだいいのだと、食卓の椅子に座り込みながら考えた。死んでしまうよりはまだ、ずっといいのだ。
座ったまま食卓の上に上半身を投げ出して、頬で木の肌を感じながら、考えた。
――チビで貧相な年増じゃねえか。
「全くねえ……」
デボラは苦笑した。
「ほんとにこんな女の、どこがよかったんだろう、あいつは」




