オーレリア・カレン・マクニス(8)
*
次の日の朝、イェルディアについた。
門が開いたときには二人とも腹ぺこだった。せっかく街に入るのだから、美味しいものを食べようと、今朝はまだ何も口にしていない。夜0中移動してきたし、酒も入っていないし、門が開くのが待ちきれなかった。門番も長旅してきた事が丸わかりのあたしたちに同情してくれたのか、いつもより少し早めに門を開けてくれた。門番にたっぷり色目を投げてから、あたしたちは意気揚々と街に入った。いや投げたのはあたしだけだ。エルティナは帽子の下に髪と顔を隠している。いくらイェルディアでも、黒髪の娘が大手を振って歩けない場所には変わりない。
イェルディアはやはり、豊かだった。今じゃ、首都アナカルディアよりも繁栄しているかも知れない。夜明け前に漁に出かけた漁師たちが戻ってくる時間でもあり、道の両脇には朝食を売る屋台がずらりと並び、道はごみごみと混雑していた。美味しそうな匂い、潮の匂い、人々の喧噪がごった返す街は、森をずっと駆け抜けてきた目に眩しかった。あああ、森の中の空気なんかよりあたしにはこっちが合っている。猥雑で極彩色で、生きてるという感じがする。
「エルティナ、朝食食べましょ食べましょ。待ち合わせ場所はどこなの?」
「港。灯台下、砂時計前」
「あらいいところね。じゃあそこの近くで買おっか。美味しい魚の揚げ物出す店があんのよ」
「あ、あたしも好き。付け合わせの薯つぶしたのが、魚の脂吸って」
「そうそうそ。なかなかわかってるじゃないの。行こ行こ」
浮かれながらも、あたしは周囲に気を配っていた。家に帰るまでが護衛の仕事だ。目的地目前で失敗したりしたら、今までの三週間の苦労が水の泡。
十数分後、あたしたちは首尾良く魚の揚げ物を手に入れて、湯気を立てながらほくほくするそれを食べていた。味は相変わらず最高だった。白身魚に味付きの衣をつけて油でじゅわっと揚げたものを一口大に切って、つぶした薯と一緒にはふはふと食べると、何だかもう。幸せだ。幸せだ。幸せだ。
「あんたさ、この街詳しそうね」
海を見ながら黙ってほくほく食べているエルティナに訊ねると、エルティナは帽子の下で頷いた。
「うん。ここは拠点だからね」
「拠点……ああそっか、【最初の娘】の巡幸か」
「うん」
【最初の娘】は世界のほころびを正すのが仕事だ。毎年春にエスメラルダを出て、アナカルシス中を経巡りながら、そこここに生じるほころびを正して回る。これを巡幸と言う。
エリオット王がルファルファの信仰を禁じるまで、春から初秋にかけて行われる巡幸が途絶えたことは一度もなかった。ルファ・ルダが滅ぼされた時に一度途絶えたが、現【最初の娘】が五つになるや否や再開された。そして病に倒れる昨年まで、大っぴらにではないものの、各地に点在するかつての神殿跡――ここイェルディアもそのひとつだ――をひそかに巡る旅は続けられていた。
【最後の娘】が起ったのはつい最近のことだが、この娘はそれ以前から、巡幸に同行していたのだろう。
「巡幸か。かつてはどの町も、もろ手を上げて【最初の娘】を迎えたものよ。あたしまだ小娘だったけど、覚えてるわ、煌びやかなあのお姿。現【最初の娘】はあんなふうな、華やかな巡幸を行えなくて、おいたわしいわね」
「ん……ニーナは昔の巡幸を知らないから平気だって言ってた。あたしは他の人から昔の話を聞くと、ニーナにもそんな風に、華やかな巡幸をさせてあげたいなって思うけど……」
「王を退位させればできるわよ、また」
言ってから、あたしは思い出した。
ニーナ。エルカテルミナ=ラ・ニーナ=ルファ・ルダ、現【最初の娘】は、現在、死の床についている、という噂を。
「ん……」
エルティナは黙った。あたしも黙った。ほくほくした魚と薯は、どこまでも美味しい。
しばらくその味を堪能してから、あたしは再び口を開いた。
「いろいろ大変よね、あんたもさ」
もうすぐ最後。この子とこんなにお喋りするのは、もうすぐおしまいだ。
そう思うからか、あたしは最近いつも口が軽い。
「気になってたのよ。あんた十九の娘にしちゃ喋らなさすぎよ。気づいたらあたしばっかり喋ってるじゃないの。もっとお喋りしなさいよ」
「人の話聞いてるのが好きなの」
「あのね。女の方が長生きするのってなぜか知ってる? 女は喋るからよ。喋っていろいろ発散してるのよ。だから長生きできるの。アルガスなんか絶対早死にするわよ」
「近所のお爺さんで、とっても寡黙で九十歳って人を知ってるけど」
「うるさいわね、平均の話をしてんのよあたしは」
エルティナはくすくす笑った。
「はい、すみません」
「よろしい。……もっと喋っていいのよあんたも。聞いてくれる人、いないの?」
「大丈夫」
エルティナは振り仰いだ。
「親友がいる。その子が全部聞いてくれる。だから平気、大丈夫」
帽子の陰で、エルティナの目が、微笑んだ。でもあたしは、騙されなかった。
彼女が何か押し隠して微笑んだのが、あたしにはわかった。ねんねのくせにあたしを騙そうったって百年早い。
親友。そう、その親友は、きっと全部聞いてくれるのだろう。この子のことを大事に思って、全部許して、大丈夫だよと言ってくれるのだろう。だからこの子は一人でも、頑張れたりするのだろう。
――でも、その子がニーナだったなら。
【最初の娘】は不治の病に冒されている。余命幾ばくもない、ともっぱらの噂だ。
――ニーナが死んだら、この子はどうするのだろう。
闇医療の網のことを、話してあげようかとよっぽど思った。この国は広い。どこかには、ニーナを治せる医者がいるのではないだろうか。
【契約の民】が迫害されるようになってから、かつて腕のいい医者だった人々は全て身を隠さなければならなくなった。一人前になった医者は、ほとんど全て水と契約するのが慣例だったからだ。
そういう医者のほとんどは【アスタ】や、エルギン王子の治めるエスメラルダに住んでいるが、少数の医者はまだ国中に散らばっている。協力者たちに匿われ、密かに病人の治療をし、弟子を育てて新たな医師を養成している。そう言う人たちを繋ぐ地下組織が、存在しているのをあたしは知っている。王も黙認している。【契約の民】は危険でも、医者は必要だ。絶対に。
……でも、言うのはやめた。何しろこの子はルファルファ神の神子の片割れだ。そして病気なのはもう一人の神子だ。滅ぼされたとはいえルファルファ神の信仰はまだまだ根強く、国中に協力者がいる。闇医療の網も知っているはずだし、それだけの力を持っても治せない病なら、きっともう誰にも治せない。
病、なのだろうか。本当に。
願いに応じた試練を与えるとされる闇の女神が、彼女を連れて行こうとしているのではないだろうか。
「あんた、食事、それだけじゃ足りないんじゃない?」
言うのをやめた代わりに、そんな他愛のないことを言った。
「もっと何か、買ってきてあげよっか」
「ん……」
「何にする? ここ港町だから珍しい食べ物たくさんあるよね、魚を揚げてさ、甘酸っぱいたれにじゅって漬けて、野菜たっぷり入れてね、それをたれごと蒸したお米にかけるの。こないだ食べたんだけど、美味しかったあ」
「うわ美味しそう。じゃあそれそれ」
「よう、マ……ニーナじゃねえか! え、本当にニーナか? 早かったなあ!」
野太い声がして、あたしたちは同時に振り返った。
大柄の、赤髪の男が、人をかき分けて足早に歩いてくる。彼は立ち上がったエルティナににっこりと笑いかけ、
そしてあたしを見た。
見た。
見た!
「きゃあんバルバロッサあ~!」
「おおおおおおオルリウス! 何やってやがるこんなところで!?」
「やあねえ本名で呼ばないでよお、ううん会いたかった会いたかった会いたかったわあ~! 元気そうねえ、相変わらずいいお・と・こ♪」
「寄るな!」
悲鳴じみた声にも構わず腕にぎゅっとしがみついてやると、ぞわぞわぞわとむき出しの二の腕に鳥肌が立って、あまりのいい反応にあたしは思わず叫んだ。
「ああ、いい! やっぱいいわあ男って、この反応がたまんない――」
腕が勝手に動いてさわさわとバルバロッサの胸板を撫でる。バルバロッサが悲鳴を上げた。
「ににに、ニーナ! ニーナ!? お前なんだってこんな男と一緒にいたんだ!」
エルティナは目を丸くしてあたしたちを見ている。片目をつぶってやると、エルティナは我に返ったようだった。
「え、……知り合い、二人とも?」
「昔恋仲だったのよ」
「えええー!」
「信じるなー! こいつの言うことは一から十まで嘘っぱちだ!」
「そうですよ、ニーナ」
静かな声が後ろから投げられ、あたしは歓声を上げて振り返った。
「やっぱいたわねマーティン! あああんたも相変わらずいい男ねえー!」
「それはどうも。貴女も相変わらずですね、この色魔」
バルバロッサがあたしの腕をふりほどき、あたしはその反動を利用してマーティンに抱きつこうとした。しかし視界が暗転した。マーティンが、手にした上着をあたしの頭にかぶせたのだ。
「わ! 何よ!」
「ニーナ、無事か!?」
暗闇の向こうでバルバロッサがエルティナに駆け寄ったらしい。ニーナ、と呼んでいるのはここで使っている偽名なのだろうか。親友の名前を借りているのねえ、と思ったとき、続けるのが聞こえた。
「お前、もしかして、二通目の手紙で書いてた護衛ってこいつのことじゃないだろうな!?」
「うん、そう。リヴェルからずっと護衛してくれてたの」
「なんてこった! おいオルリウス、貴様俺の娘に変なこと吹き込んだりしてねえだろうな――?」
「してないわよ!」
上着をはねのけて抗議したが、バルバロッサもマーティンも、エルティナを挟むようにしてこちらをじろじろと胡散臭げに見ている。あたしは憤然と言った。
「言ってるでしょ、あたし女には興味ないのよ! 女にはこの世で一番安全な護衛なんだからね! って……娘?」
全然似てない。髪の色も肌の色も目の色も違う。解説してくれるのを待ったが、バルバロッサはこっちを無視してエルティナに言い聞かせている。
「ニーナ、こいつに何か吹き込まれたか? 言っておくが、いいか、ニーナ、こいつは見かけこそ女だが」
「うん、知ってる」
「そうか。いいかニーナ、こいつは色魔だ。色ボケだ。才能は人一倍持ってるくせにそのほとんどを男あさりに浪費してやがる歩く性欲……いや、とにかく」
「ニーナ、貴女のような娘はあんなど腐れ外道に近づいてはなりません。一緒にいるだけで悪いものがうつります」
「ずいぶんじゃないのよ……」
あたしは文句を言いながら、それでもはあはあしつつ二人の隙を探った。久しぶりに会ったバルバロッサもマーティンも、ああなんていい男なんだろう。涎が出そうだ。でも、やはりというか、なんというか。この二人が揃ってあたしを警戒している状態で、突撃していくのは危険だった。今までいろいろしていることでもあるし、そろそろ一刀両断されかねない。
エルティナが、不思議そうに訊ねてくる。
「オーレリア……アルガスのことが好きなんじゃなかったの?」
「そうよ」
あたしは胸を張った。
「男ならあたし誰でも好きよ。全ての男があたしの恋人。世の男はすべからくあたしのために存在するのよ!」
「うわあ最低だあ」
「うふふ、エルティナ、貴女にもいつかわかる日が」
「来ねえ! オルリウス、用は済んだろう! とっとと消えねえか!」
「んもうバルバロッサったら、つれないんだからあ」
「オルリウス。それ以上この子に近づいてご覧なさい。殺しますよ」
「んもうマーティン相変わらず怖いわねえ。でもそんなところも好・き♥」
エルティナが、口元に手を当てた。
あたしは再びウィンクをした。エルティナは真面目な顔をしようとした。でも無理だった。抑えきれない笑いが、喉から漏れている。
「いやマ……ニーナ、笑い事じゃないんだ」
「そうです。あいつがここを去るまで貴女を連れて行けません。あいつにねぐらを知られたせいで崩壊した組織がいくつあることか。【アスタ】で聞きませんでしたか? どんな人間でも受け入れることを目的で創られたあの場所に、立ち入りを禁じられた唯一の存在ですよ。もはや人間以外と言っても過言ではありません」
「くくく……くくくくく……」
「もういいわよエル……ニーナ? 我慢しないで笑っちゃえば?」
「……うぅ、」
そしてエルティナは笑い出した。鳩の町の宿で聞いた、底抜けにおかしそうな、盛大な笑い声だった。顔を真っ赤にして、バルバロッサにすがりつくようにして、笑い転げている。
「いやニーナ……お前笑うけどさ……あいつ本当に危険なんだぞ? まあお前には安全だったんだろうが」
「オルリウス。今すぐここを去れば許してあげますよ。ちゃんと護衛してくれたようですからね」
二人の態度がやや軟化した。エルティナが笑ったおかげで、あたしが本当にいい護衛だったということがわかったためだろう。あたしは逆らわずに、じゃあね、と言って、くるりと踵を返した。疲れていたし、あたしが消えるまであの子が休めないんじゃ、これはもう去るしかないじゃないか。
「おや意外に素直ですね……」
「ま、待って」
まだ顔を真っ赤にしたエルティナが、追いかけてきた。後ろで二人が狼狽の声を上げたが、エルティナはすぐにあたしに追いついた。
「オーレリア。宿はあるの? 二人のところには呼べないみたいだけど、あたしが借りてる宿があるんだ。お風呂もついてる。狭いけど」
「あらありがと。でも遠慮しとくわ。あたしにだっていろいろ予定があるのよ」
「そう……でも」
「あのね。あたしもう報酬もらい済みなの。言ったでしょ? あんたが庇護者の元にたどり着いたら、あたしの仕事はそこでおしまい。バルバロッサに任せれば安心だしね」
「……」
エルティナが黙って、
そして頷いた。道中で流れ者の生態について話しておいたことを思い出したのだろう。その頭を帽子越しに撫でて(バルバロッサとマーティンが色めき立ったが無視した)、あたしは再度、ウィンクして見せた。
「元気でね、エルティナ。がんばんなさいよ」
「うん……貴女も、オーレリア。ありがとう。あのね、あたし、【アスタ】でいろいろあって、正直ちょっと落ち込んでたから。あなたが一緒にいてくれて、嬉しかった」
――おやまあ。
エルティナは微笑んだ。
「さよなら、オーレリア=カレン=マクニス」
「うん。まあ、また機会があったら会うかもね。その時までにはいろいろ磨いて……そだ、あんたさ、わかってると思うけど」
「え?」
「あたしが酔ってあんたの布団に潜り込んだことは絶対、誰にも、内緒よ――?」
充分声をひそめたつもりだったのに。
マーティンの、地獄耳を、忘れていた。
「ニーナ、下がりなさい」
抜刀したマーティンは、壮絶な顔をしている。バルバロッサが娘、と言ったが、どうやらマーティンにとっても同じような存在であるらしい。あたしは笑ってエルティナに最後のウィンクを残し、身を翻して走り出した。街は騒がしく、煩雑で、あたしの姿をすぐに隠してくれる。背後の怒号を置き去りにしてあたしは下町に潜り込む。ここはあたしの居場所だ。
バルバロッサと、マーティン。
あの二人なら、きっと彼女を護ってくれる。
エルティナの最大の武器は、きっとそこなのかもしれない、と下町の喧噪を渡り歩きながらあたしは考える。聞き上手で人懐っこくて、女嫌いのはずのあたしの懐にまでするりと入り込んでしまった。不思議に、応援したくなる子だ。バルバロッサが娘とまで思っていることが嬉しい。マーティンが本気で怒ったのが嬉しい。あの子はきっと大丈夫だ。みんながきっと護ってくれる。
アルガスに手紙を書こう、とあたしは思った。
彼はアナカルディアに向かうと言っていた。裏の通信網を使って、長い手紙を書こう。あの子は大丈夫だとあたしが思ったことも書いて、安心させてやろう。そう思った。
そしてあたしもアナカルディアに行こう。彼にたっぷり売った恩を回収しなければ。楽な仕事だったことは出来るだけ隠して、剣に炎を入れてあげたことを出来るだけ恩着せがましく書いて、そして――うふふ。えへへ。
潮風が頭上を吹いていく。何だかとても、幸せな気分だった。




