ベスタ(4)
馬をつなぎ終えてデクターがそちらへ向かうと、人垣の前進が止まっていた。それはつまり先頭の男が立ち止まったからだった。アルガスは人垣を迂回して、今は白衣の男の前に回っていた。行く手を阻むように。
「どうしたんだ、何があった?」
アルガスが訊ね、白衣の男――ガルテ、という名なのだろう――は、咳払いをした。
「……よお、久しぶりだな、ガス。生きてたようで、何よりじゃないか」
咳払いのお陰で、なんとか涙声を出さずに済んだらしかった。デクターは先ほどアルガスがやったように人垣を迂回してそちらへ向かった。こうしてる間にも人垣はどんどん増えていた。今では二十人近くにふくれあがっている。
「あれからどうしてた。元気――そうって感じじゃねえな。ちゃんと食ってんのか」
「どうしたんだ。何があった?」
先ほどと同じ言葉をアルガスが繰り返すと、ガルテは顔を歪めた。
「ガキにゃ関係ねえよ」
「先生」人垣の中のひとりがおずおずと声を上げた。「この娘は何者で?」
「娘――」
アルガスが瞳の藍を深めたが、ガルテがその肩に手を置いた。
「この小僧はあんたらには関係ない。俺の師の患者だったってだけだ。神殿の関係者じゃ絶対ねえし、身柄は保証するから、警戒しないでやってくれ」
「……ガルテ」
アルガスが問うように名を呼んだ。ガルテは微笑んで、ぽん、と、置いたままだった手でその細い肩を叩いた。
「何でもねえんだよ。なんでこんなところにいやがるんだ。オグルス先生はお元気か」
「……たぶん。最近お会いしてないけど」
「なんだ、不義理な奴だな。なあガス、邪魔をしないでくれ。俺ぁな、行かなきゃなんねえんだよ」
「どこに」
「ガキにゃ関係ねえ」
そう言って手を離し、ガルテは再び歩き出した。街壁の方へだ。デクターはおぼろげながらに、人垣の狼狽ぶりが、そしてアルガスの懸念が、わかり始めていた。
ガルテの年齢は二十代の終わりか、三十代の初めだ。医師か薬師の称号を得たのがいつにせよ、ここ二年以内ということはないだろう。二年より前に称号を得ていたなら、その腕を保証し、人の治療をするに足る腕を持つことの証明書を発行したのはティファ・ルダであるはずだ。
そうなら、左腕に、水の紋章を彫っているはずだ。
つまりガルテは【契約の民】だ。それがベスタの街壁、つまりマーセラ神殿の方へ歩いていこうとしている。――自殺行為だ。
「ガルテ! あっちには――」
アルガスが言いかけ、ガルテはそれを遮るように叫んだ。
「――ガキにゃ関係ねえって言ってるだろうが!」
「あんたは俺の恩人だ!」
「俺じゃねえ!」
「あんたの薬がなきゃ危なかったって先生が言って、」
「ガス」
ガルテは呻くように言った。
「……俺に恩義を感じてるんなら……止めねえでくれ。頼むから」
「先生っ、」
人垣の中から悲鳴が上がった。ガルテがまた歩き出したのだ。アルガスが手を挙げかけ、握りしめた。
「何があったんだ」
ガルテは答えなかった。アルガスを置き去りにして、そのままずかずかと歩いていく。人垣もそれに応じて前進して、アルガスとデクターを取り囲み、そのまま通り過ぎていった。ガルテと人垣の去った空間に、アルガスがぽつりと立っている。
「……馬、連れてくる」
デクターが言うと、アルガスは頷いた。
「お願いします」
そして身を翻して、人垣を追っていった。たぶん、と、走りながらデクターは考えていた。『人のことを心配している場合なのか』と指摘するべきなのだろう。でも言えないことはもうわかっていた。
――あのままだったら死んでいたかも知れないから、命の恩人というわけですね。
さっきアルガスはそう言った。ということはつまり、二年前のティファ・ルダで、アルガスは死にかけているのだ。ガルテの薬がなければ危なかったと、誰か高名な医師らしい人物が言ったのだそうだから――二年前に死にかけたアルガスを救ったうちのひとりがあのガルテなのだ。たぶん。
ならば、それを放っておけるわけがない。
――ということはつまり、あのガルテも、カーディス王子の『正体』について知っているのだろうか……?
不思議なことに、街壁と、そこに設えられた門がごく近づいてきても、人垣の人間は誰もガルテを腕ずくで引き留めようとはしなかった。ガルテは人相こそ浮浪者じみているものの、体格はせいぜい中肉中背といったところで、どう見ても腕自慢という感じではない。これほど人数がいて、前に回って防壁を作れば、ガルテが彼らを押しのけて進むことは出来ないはずなのに。『契約』を恐れているのだろうか。いや、そんな感じでもないのだ。人垣を形成する人々は、皆悲嘆に暮れている。でも、と、馬と一緒に歩きながら、デクターは考えた。
――ガルテを腕ずくで引き留められない理由があるみたいだ。
そう……まるで後ろめたいことがあるかのような。
まだ日が高く昇っているから、門は開いている。既に三十人ほどになった集団に、門番が気づかないはずもなく、近づくにつれてマーセラ神官兵の制服を着た男たちが数人出てきていた。アルガスは集団の最後尾を歩いていた。デクターは、門から見えづらい場所に馬をつなぎに一度行ってから、また集団を追いかけた。その時デクターは見た。アルガスが後ろ腰に結わえた棍棒の柄に、確かめるように触れたことに。
俺に恩義を感じているなら、邪魔をしないでくれ。
さっきガルテはそう言った。アルガスはだから、迷っている。きっと。
でももし、あの門番たちがガルテを捕らえようとしたら、アルガスはどうするのだろう。デクターはごくりと唾を飲み込み、足を速めた。匿ってくれて菓子をくれた売春婦をかついで逃げたのだから、以前自分の命を救った薬師が捕らえられそうになったら、神殿の門前で神官兵を相手に暴れるくらいのことは絶対にするだろう。【四ツ葉】なのだからバカにするなと、豪語したばかりだったが、実際、デクターはまだ【四ツ葉】としての力を使って誰か人間を傷つけたことはなかった。暑いときに風を起こすとか、乾いたときに水を降らせるとか、そういった使い方しかしたことがない。いざその段になったとき、ちゃんと自分が動けるのかどうか。まだ、自信がなかった。
「何用だ!」
門番が叫んだ。ガルテは構わずにずかずかと歩いていく。
門から数メートル、怒鳴らずに話が出来るくらいにまで近づいて、ようやくガルテは足を止めた。街道に仁王立ちになって、喚いた。
「俺はガルテって医師だ! ――今朝お前らが連れてったジャンって若造を返してもらいにベスタ神殿まで行く! そこを通してもらおう!」
「ガルテ――」
門番たちはひそひそと囁き交わした。その内ふたりがぱっと走り出した。たぶん神殿へ知らせに行ったのだろう。ガルテは構わずに再び歩きだした。と、ふたりの神官兵がガルテの行く手を阻むように槍を斜交いに突きだした。
「とまれ! 指示を待て!」
「待たなきゃどうする? 俺を殺すのか」
ガルテは止まらなかった。槍を押しのけるようにして先へ進もうとした。が、神官兵は槍を突き刺したりはせず、穂先を上に向けて、柄の部分でガルテを押し戻した。門脇の詰め所から応援がどんどん駆けつけて、ガルテの行く手を阻んだ。
「俺は【契約の民】だ!」
ガルテが怒鳴った。
「紋章を持ってる! 一年近くもの間、この近くの集落で匿われてきたんだ! とっとと連行しろ、火あぶりでも何でもすりゃいいじゃねえか! ――ジャンを、」
急にガルテの声音が変わった。声が湿り気を帯び、悲痛さを帯び、泣き叫ぶような切実な色を帯びた。




