オーレリア・カレン・マクニス(5)
王宮には魔物が棲んでいる。
有名な話だ。
今、この国を治めている王はエリオット=アナカルシスと呼ばれる男だ。統治はもう二十年になる。初めのうちは名君だった。前王がようやく崩御し、若きエリオットが戴冠したとき、国民は万雷の拍手を彼に浴びせた。彼は公平で、聡明で、親切だった。前王が布いた圧政を立て続けになくして類い希なる善政を敷き、若い英邁な王の下でアナカルシスは栄えた。
でも彼は、いつしか、王宮に棲む魔物に負けた――人々はそう語る。前王がそうだったように、慈しんだ民を、自ら虐げるようになったと。アナカルシスの王は王冠を戴くと次第に狂うのだと。それがアナカルシス王のさだめなのだと。
誰かが王宮を崩して、アナカルシス王家の統治を終わらせるまで――その連鎖は続くのだ、と。
*
通信舎は町の、中央にある。
小さな寂れた町だが、エルティナがどうしてもここに立ち寄らなければならなかった理由はひとえに、この通信舎があるためだろう。おそらく旅の間中ずっとしたためていた手紙は全て、昨日の内にここから出されたはずだ。
この国にはもともと、アナカルディア、イェルディア、ウルクディア、ラク=ルダ、ラインディアと言った、この国に点在する主要な町を繋ぐ鳩の通信網がある。この町は最近その通信網にこっそり加わった町のひとつ。闇医療網の発達と共に、王家へ対抗する人々が密かに整備した裏の通信網だ。
朝食後に一寝入りしたから、二日酔いは本当に良くなっていた。エルティナと別れる時には、是非あの胃薬の残りを分けてもらおう。あれさえあればどんな痛飲も怖くない。
お風呂にも入ったし、お天気はいいし、お腹もいっぱいだし、あたしはのんびり日向ぼっこしながらエルティナが出てくるのを待っている。
魔物の影などどこにもない、うららかな午前だった。
魔物、と言ってもアナカルシス王をいつの間にか狂わせていく、得体の知れない何か漠然とした概念、のことではない。実際に、この世には魔物が生息している。普通に生きていたら遭遇することは殆どないし、眠らない子供を脅したりする以外で語られることも滅多にないが、少なくとも存在することは、あたしもよく知っている。まだ見たことはないけれど。
それは黒い姿をしている、そうだ。毛むくじゃらの、とても大きな獣。高度な知能を持ち、寿命はなく、何百年でも何千年でも生きると言われ、その体躯は成長を止めず、長い年月を経る内に小山ほどにも大きくなるとか。体内に毒を持ち、それを撒き散らして周囲を汚染する、害悪そのもののような存在だ。それが王と近しい場所にいて、黒髪の娘たちを集め、実際にエルティナに関心を示した――らしい。アルガスの話では、エルティナを狙っている魔物はそれほどの大きさではなく、人型を取っていた、ということだった。
つまり姿を自在に変えられると言うことになる。どんな人間にもなれるのだろうか。
【契約】を既に持ち、【三ツ葉】にでもなれる素養があると言われたあたしなら、近づいてきたらそれとわかるはずだが、普通の人には無理だろう。暗澹たる気持ちになった。アナカルシスの王宮には、実際に魔物が棲んでいたのか。それが王を狂わせ、黒髪の娘たちを殺すという非道を行わせているのか。
だれか、“王宮を崩してアナカルシス王家の統治を終わらせて”。
誰でもいいから。お願いだから、早くして。
そう思わないではいられなかった。エルティナがひとりであんな強行軍を繰り返して走っているのは、王を退位させ、エルギン王子に王位を委譲させるためだ。様々な都市を訪れ、大勢の人を説得して。エルティナだけじゃない、他にも大勢の人々が他の総てをなげうつ程に努力して、その暁にやっとエルギン王子が戴冠しても。十数年でまた狂うのなら、その努力に、何の意味があるだろう。
王宮を崩してアナカルシス王家の統治を終わらせる――伝承にはその一文が繰り返し出てくる。不自然な程に繰り返される一文だが、どう考えても比喩以上の意味などありそうもない。“王宮を崩す”ことなど不可能だろうし、魔物には寿命もない。銀狼が今現在も魔物を排除していない、と言うことは、この世にはもう銀狼はいないのかもしれない――そうならば、魔物による王の狂乱を止める手立てなど存在しない、と言うことに、ならないだろうか。
その重要性の割に、通信舎の外観はひどく見窄らしかった。人通りもまばらで、とてもここが裏の通信網の拠点だとは思えない。飛んでくる鳩も運び込まれる鳩も、町から少し離れた場所にやってくるので、ここは手紙をやりとりする窓口だけになっているせいもあるかもしれない。
エルティナはなかなか出てこない。待っていた手紙が来たのだろう。空振りだった午前中はすぐに出てきたからだ。
ああ~あ、とあたしはため息をついた。またあの強行軍が始まるのだ。出る前にもう一度お風呂に入ってもいいだろうか。
と……
その気配に気づいた。
魔物、ではなかった。魔物とは正の気配を持たないものだ。それにアルガスはああ言ったが、魔物が本当に彼女のことをつけ狙っているかどうかは、少々怪しいものだとあたしは先ほどから思い始めていた。先ほどから――二日酔いが良くなって、普段の感覚が戻ってきてからだ。彼女に魔物が近づけるかどうかは疑問だ。何か、とても強いものが、彼女を守っている。そんな気がする。
ではこの気配は、王の配下の者だろうか。
あれほど注意していたのに、彼女に気づいたのだろうか、王が。いやしかし、それも疑問だと思えた。エルティナも言っていたが、【最後の娘】は噂の割にまだ顔を知られていない。あたしだってアルガスから聞かなければ、あんな華奢で小柄な娘がそうだなんて思いもしなかっただろう。【最後の娘】はあのルファルファ神の神子、〈二人娘〉の片割れだ。自ら馬を駆ってたった一人で獣道を這いずるような立場じゃない。
では、この気配は――?
あたしは荷物を地べたに置き、腰に下げた剣の柄に手をかけた。人数は多くない。四人、くらいだろうか。王ならもっと大勢派遣してきそうなものだ。では物盗りの類だろうか? 人買いとか? 白昼堂々? でもエルティナはなかなか整った顔をしているし、あたしだって見た目は――あ。
あたしは物陰に潜んでこちらを窺う人の姿をちらりと見、
――まずい。
「オーレリア=カレン=マグッ!?」
飛び出して怒鳴ろうとした人間に一瞬で詰め寄りその顔に蹴りを入れた。あたしの素早さに対応できなかったその人は鼻血を出しながら仰向けに倒れた。あら可哀想。結構美人になったのにね。
「貴様……ッ!」
両脇から剣を抜いた男が二人斬りかかるのをするすると避け、右側の背後に回って背中を踏み抜き、左の男が剣を構えた肘に手刀を入れてかくんと折って、ゆるんだ手から刀を奪ってやった。全くもうどうしてこんな時にこんな奴に遭わなければならないのか。まだ諦めていなかったのか。周りの三人は雇い入れた用心棒だろうか、
「オーレリア?」
振り返るとエルティナが出てきている。全くもうどいつもこいつもどうしてこんな時に出てくるのか。あたしは剣を奪った男の胸を蹴りつけると、最後の一人が斬りかかってくるのを避けてエルティナの方へ駆け戻った。荷物を拾い上げてついでにエルティナも抱え上げる。
「逃げるわよ」
「え――やちょっと自分で走れます自分で」
「口答えしないの!」
ぐずぐずされてあいつたちが起きあがってきてはたまらない。あたしは大急ぎでそこから逃げ出した。
宿の支払いを済ませると、エルティナをせき立てて厩舎に行った。新しい、元気満々な馬が二頭、あたしたちを待っている。
「手紙は来たのね? もう発てるのね? ここも安全じゃないわよ」
言い聞かせるように言うと、エルティナは頷いた。真剣な顔に、あたしはちょっと安堵した。
どうやらさっきの男たちの狙いは自分だと、思わせることが出来たらしい。
「オーレリア、ケガはないですか」
「当たり前でしょ、あたしを誰だと思ってんのよ」
馬に乗ったあたしが見下ろすと、エルティナは微笑んだ。
「頼もしいですね」
「言ったでしょ、あたし腕はいいのよ」
「よろしくお願いします」
「待って」
あたしはエルティナの帽子を直してやった。黒髪がすっぽり隠れるように調節してやる。
「いいわよ」
「ありがとう。じゃ――」
エルティナも馬に乗り、先に立って歩かせ始める。あたしはついて行こうとして、声をかけた。
「どこ行くのよ」
「え」
「マス=ルダ方面にいくならこっちの出口から出た方が早いわ」
振り返ったエルティナは強ばった顔をしていた。
町の出口がひとつしかない、と思っていたのだろうと、あたしは思った。まさか本気で逆方向に行こうとしていたなんて思いも寄らなかった。けれど帽子の下のエルティナが非常に情けない顔をしていたので、気づいてしまった。馬鹿正直な子だ。えーそっちにも出口があるんですかーなんて驚いてみせれば騙されてあげたのに。
「も、もしかして」
「……言わないでください」
「ええー!? なに、本気!? 本気で反対に行こうとしたの、バカじゃないのあんた!」
「言わないでって言ってるのにー!」
「いいえ言うわよ、言わせてもらうわ、方向音痴の小娘が一人旅してんじゃないわよばーかばーか!」
「ちゃんと目印つけといたもん! ちょっと行ったら気づいたもん!」
「その体たらくで護衛拒むなんておこがましいわよ! あああ~あたしがついててあげてホント良かったわね、感謝しなさいよ~」
「……」
あ、拗ねた。
本当に恨めしげな目をされたので、あたしは吹き出した。エルティナがさらに悔しそうな顔をする。
「そこまで言っといてその上笑いますか!?」
「まあしょうがないわよ、うん。初めての町だしねえ」
「そしてさらに同情!?」
「ここまで一本道でホント良かったわねあんた。もしかして街道じゃなくて森の道使ったのは一本道だからだったりして。街道だったら迷って迷っていつの間にかアナカルディア行ってたかもね、一本道なら出だしさえ間違えなければ大丈夫だもんね。リヴェルでやけに人に話聞いてると思ったら道聞いてたんだ、あははー」
つくづくと。
エルティナは、つくづくとため息をついた。
そして黙って馬を進めた。あたしはニヤニヤしながら後を追った。あー楽しい。あー快感。人を虐めるのってどうしてこんなに楽しいんだろう。
目的地に着くまでどれくらいあるか知らないが、しばらく楽しめそうだった。
とはいえ。
あたしを見つけたあの女は、諦める気はないようだった。
あたしたちが宿に寄っている間に先回りして、当然のごとく出口で待っていた。あたしは馬を進ませてエルティナの前に出た。あの女が余計なことを口走る前に蹴り倒さなければ。
「止まれ!」
鼻に詰め物をした可哀想な女が不明瞭な声で怒鳴った。
「そこへ行くのは――きゃああ!?」
「エルティナ、先へ行きなさい!」
女へ殺到しながらあたしは怒鳴った。
「こいつら野党よ、構ってる暇はないわ! 森で待ってて!」
「誰が野党――えいもう!」
女の直前で馬を乗り捨てざま、勢いを殺さず女に斬りかかった。がいん、と剣が噛み合い女がよろめく。剣の向こうで歯を食いしばる女の顔をあたしは懐かしく眺めた。久しぶりだ。ずいぶん長いこと会っていない。
言われたとおり、エルティナが先へ行く。うん、なかなか素直でいいじゃないの。その小さな背中を見送って、消えるのを待ってから、あたしはようやく――微笑んだ。
「久しぶりねえオリヴァー」
「よ、よくも、よくもよくもよくも!」
オリヴァーがめちゃくちゃに剣を振るう。周囲を囲む三人も、エルティナを追わずにあたしを取り囲む。町の人々が怯えたように逃げ去る中、あたしは婉然と微笑んで見せた。
「もう二日酔いも治ったからね、四人程度でどうにか出来るあたしじゃなくてよ」
まあオリヴァー以外の三人は、男だし、敵に回すにはもったいないかなとも思ったのだけれど。
全員折りたたんで道ばたに放り捨て、エルティナの後を追うまでには、それから十分もあれば充分だった。剣を抜かなくてもいいくらいだった。
何度も言うけれど、あたしは腕はいいのだ。あたしを良く知る者には、よく『無駄に腕がいい』と陰口をたたかれるくらいに。




