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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
後日談 ラク・ルダ観光
218/251

ラク・ルダ観光(1)

 少女じみた外見の小さな男の子は、草むらの陰で、男が剣を振るのを毎日毎日食い入るように見つめていた。


 意外と、小柄な男だったそうだ。けれどその剣は豪快で鮮烈だった。剣を握ってはいけない、暴力に手を染めてはいけないと、祖父から口を酸っぱくして言われていたその子には、素振りとは言え、その剣はいったいどう映っていたのだろう。目を離すことができなかったと、十五年近く経ってから彼は言った。あまりに苛烈で、無理なところが全くなく、綺麗で獰猛で、吸い込まれそうな剣だったと。近づいちゃいけないと思いながらも、どうしても惹かれてたまらなかったのだろうと、思う。


 南方の、治安の悪い、『蛮賊』の地で、彼はその剣に出会った。


 どうしてヴィード=グウェリンが、アルガスを養子にしたのか。そして何より、剣を嫌っていた祖父が、それを許したのか。どちらも謎だ。アルガス自身、知らないことだったからだ。今となっては知るすべもない。


 でもたぶん、それは彼にとってはいいことだったのだと舞は思う。


 ――彼は、自分を出来損ないだと信じて育った。

 ――あれほどの才能をもちながら……


 王妃がヴィードについて語った言葉は、そのままアルガスの子供のころに、当てはめられる言葉だったからだ。



     *



 ラク・ルダは観光の国だ。


 かつてのルファ・ルダと同じく、一応は独立国家としての体裁を保っている。けれど、公用語はアナカルシス語だし、通貨も同じだし、普通の街のように、国境で通行証か戸籍を見せれば、たいていは通ることができる。街中が賑やかで活気にあふれ、イェルディアの繁華街よりもう少し洗練されている。ゴミを拾う係の人数が違うらしく、街はとても綺麗だ。大勢通る人たちの、半数近くが観光客だという。巡幸では何度も通ったが、限られた数カ所の地点を通るだけだったから、いざ町中に歩を進めて舞は気後れを感じた。地下街ほどでも、イェルディアほどでもないが、あまりに鮮やかな人の渦だ。


「あんたってさ、」


 セシリアが面白そうに言った。


「そう見えないのに、そーゆーとこはほんとお嬢様だな。流れ者と結婚したんだから、人込みくらいちゃんと歩けるようになんないでどうすんだよ」


 一応反論を試みた。


「ガスはもう流れ者じゃないよ」

「あーそーな。そーだっけ。でもあいつ、館に入るとすっごい居心地悪そうにしてるだろ? 飯も喉を通らないって感じだろ? せっかく最上階の部屋にしてやったのに、夜とかちゃんとイイことしてんの? くつろげないなら外に宿借りてやってもいいんだよ」


 なんてことを言うんだ。


「一応仮にもお姫様なんだから、そんなこと路上で言わないでよ……」

「あ、赤くなった。ははは」


 セシリアは機嫌良さそうに笑った。少なくとも祝福してくれてはいるようなのだが、こうもからかわれると少しげんなりする。


 今セシリアは男装に凝っている。召使いを装っている時とは、口調すら違うのだから大したものだ。きりりとした眉をした細身のセシリアは、召使いの制服よりも、兵士の制服の方が似合ってしまっている。意志の強さと強情さを表わすような褐色の真っすぐの髪は、今は高い位置で結われて、馬の尾のように彼女の背に流れ落ちている。可憐さよりも凛々しさの濃い彼女の美貌は、兵士の制服を着ると中性的な色合いを含んで、人目を引かずにはおかなかった。目が吸い寄せられる。ニーナやアイオリーナと同じ、血筋と生まれ育ちの放つ艶やかな存在感を確かに備えているのだが、彼女を見て『ラク・ルダのセシリア姫』とすぐに見抜ける存在はほんの一握りしかいない。ラク・ルダの住民たちも、彼らの羨望と誇りの対象であるセシリア姫が、実はこんな人であると知ったなら、いったいどんな顔をするだろう。


「まあでもさ、体も治って元気になって、好きな男と一緒になれて、ほんとに良かったな」


 セシリアは言葉を飾るということをしない人だ。今も彼女の声には心情が溢れて、舞は微笑んだ。


「ん。ご心配おかけしました」

「全くだよ」


 言いながらセシリアは大通りを横切って、右手の方へ舞をいざなった。彼女こそ正真正銘のお姫様のくせに、毎日毎日出歩いているから、人込みなんて全く苦にならないらしい。


「あんたが行方不明になってた頃のニーナ、見てられなかったよ。普段どおりに振る舞ってるのに痩せちゃって、無理しちゃって、可哀想で気の毒でさ……おまけに王様の兵に連れてかれちゃうし、本当に、もう。まあ、丸く収まったから言える話なんだけどさ。帰ってきてくれて、ニーナを助けてくれて、本当にありがとうね」


 そう言うセシリアの声には心情が溢れて、舞はなんだか胸が詰まった。ここにも胸を痛めてくれている人がいたのだ。なんてありがたいんだろう。アルガスの言った、“人との縁”というものは、ことあるごとに現れては舞の胸に染みる。


「……あたしは何にもしてないんだけどね。でも、危ないところで間に合って本当に良かった」

「あんたが何もしてないわけないだろ。あんたみたいなのは、そこにいて、何かを願うだけで、事態を正しい方向に動かしたりするんだから。だからあんたは元気で長生きしなきゃいけないんだよ。覚えておいて」


 思いがけず真面目な声に舞は黙った。だいぶ買いかぶられているような気がする。


「……そんな、」

「あんたが否定しようと謙遜しようと、事実がそうなんだからしょうがないよ。これから世界のへそとやらに行くんだろ? 楽しんでおいで。で、絶対帰ってくるんだよ。今度はニーナは行けないんだろ? あんまり長く放ったらかしたりしたら、今度はあたしが、あの子連れて世界一周にでも出かけちゃうからね。エルヴェントラの胃にこれ以上穴を開けたくなかったら、早く帰ってくること」


 舞は思わず微笑んだ。確かに、そんなことになったら大変だ。


「んであんたの夫はどこに行ったんだよ」


 道を左手へ折れるついでのように、セシリアは話を変えた。


「今朝一緒に素振りしてんのは見たけど? ふたりでいるときにすることが素振りって、色気がないにも程があるよなあんたら」

「……うるさいな」

「今日もお偉方への挨拶回りに引っ張り出されるって思って逃げたんじゃないだろうな。気の毒にな、流れ者だったのが急に【最後の娘】の夫になんかなるからさ、いろんな人にいろんなこと言われるだろうし、晩餐会だのなんだのに引っ張り出されなきゃなんないし」

「……お言葉ですけどセシリア姫、今回の滞在は非公式だから格式ばったことは一切しないでくれって、事前にお願いしたはずですけど?」


 舞は軽くセシリアを睨んだ。これは二日前にラク・ルダに到着してからずっと、言いたいと思っていたことでもあった。

 ラク・ルダに行くのにセシリアに連絡を取らないわけにはいかない(後でどんな目にあわされるかわからない)から、行くことだけは知らせた。でも宿は自分で取るつもりだったし、セシリアと『セシリア姫』には挨拶だけするつもりだったのだ。それが着いてみたら神殿の壮麗な馬車が待っているし、有無を言わせず神殿までつれて行かれるし、無理やり飾り立てられていろんな偉い人に挨拶させられて、晩餐会まで開催されて、次の日は朝からずっと大勢の神官の方々と一緒に馬車で観光地巡りをさせられた。危うく一番楽しみにしていた大瀑布の裏側にまで連れて行かれてしまうところだったのだ。何とか辞退できて本当に良かった。アルガスは良く耐えてくれたと思う。こういうのが厭だから、先に釘を刺しておいたつもりだったのに。


「まーいーじゃん? 【最後の娘】と結婚したんだから避けて通れない道だよ」

「さっきと言うことが違うし……離婚されたらどうしてくれるの?」

「あはは! そこが心配なんだ!」


 何がおかしいのか、セシリアはひとしきり笑った。あっけらかんとした楽しげな笑いに、道を行く人が振り返っても、彼女は全く意に介さない。


「……ていうかね、【最後の娘】じゃなくても、つまり身分なんかなくても、同盟の呼びかけ人で、アナカルシス王の即位に多大なる尽力をした人物なんだからね、あんたは。今、王の統治が順調で、みんながその恩恵を受けてるんだから、ああいう扱いを受けるのは当然だろ。そうしなくちゃラク・ルダの名折れになる。あの男だってそれくらい覚悟してたはずだよ」


 舞は眉をしかめた。


「そうかなあ……?」

「それにあの男だって戴冠でかなりの尽力をしたんだって? 父さんが言ってた。すんごい強いんだってな。一度手合わせを願いたいもんだ。あー俺もやっぱ行けば良かったな、戴冠式」


 ラカネアの大神官が戴冠式にセシリアをつれて行かなかった理由は良く分かる、と舞は思う。もしかしたらあの時既に疲労しきっていたはずのエルギンとエルヴェントラが、彼女をつれて来ないでくれと、泣きつくくらいはしたかも知れない。


「……だから昨日までの歓迎はあんたのためだけじゃないわけさ。何しろヴィード=グウェリンの養子なんだし。ルウェリン家が勘当してラク・ルダから追い出してくれちゃった『ろくでなし』の養子が、王の戴冠に尽力して褒賞をもらい、剣豪としての名をアナカルシス中に轟かせて、さらにルファ・ルダの【最後の娘】の夫になったんだ。そりゃあ慌てふためいてよしみを取り戻そうとするだろうよ」


 そう。ヴィード=グウェリンはラク・ルダの出身だ。


 でもあまりに素行が悪くて、実家のルウェリン家は彼を勘当した。ところがその後、ヴィードは第一将軍の右腕まで上り詰め、英雄と呼ばれるようになり、さらにその養子がさまざまな栄誉を手にした。今では、かつての勘当を取り消して、ぜひ親戚付き合いを復活させたいと、ルウェリン家を含めたラク・ルダの重鎮たちが思っても無理はない。

 アルガスはどう思っているだろう。つい最近まで、アルガスはラク・ルダに来ても、グウェリンの名を名乗らなかったと聞いている。ルウェリン家に、ろくでなしの養子が財産をせびりに来たと思われかねなかったからだそうだ。それが今更よしみを取り戻したいと言われても、片腹痛いだけではないだろうか。


「何かいろいろ、ややこしくて面倒だよねえ……」


 呻くと、全くだね、とセシリアは応じた。


「んでその夫はどこへ行ったのさ。逃げたの?」

「違うよ。以前お世話になった人に挨拶しに行ったんだ。すぐ済むから、先に大瀑布に行っててくれって」

「お世話になった人って」セシリアはニヤリとした。「女だったりして」

「うん、そうだよ」

「……そうなの!?」

「そうだよ? デニスっていう名前の、カーン家の小間使いさんなんだって。一緒に来るかって言われたんだけど、あたしが行くとまたなんか騒ぎになりそうだから遠慮したんだよ。カーン家の奥方様とは面識あるからね、万一見つかるとまた一日くらいつぶれちゃうし」

「なあんだ……つまんないの」

「何がつまんないかな」

「めでたく結ばれた後に、夫に昔の女の影! 一難去ってまた一難! わあ面白そう! って思ったのにー」

「やだよそんなどろどろなの……」

「カーン家っていえば、ああ、デクター=カーンの関係か。あの坊ちゃんも一緒に世界のへそとやらに行くんだよな? なんでここには一緒にこないかな」

「デクターは……」


 思えばデクターは、舞たちがラク・ルダでこういう歓迎を受けるのを、きっと予期していたのだろう。ビアンカにもさりげなく、先にイェルディアに行っていようと誘っていたから、今回の騒ぎにさらにクロウディアの名を付け加えないように配慮したのだろうという気がする。それはありがたかったが、でもそれならば一言忠告しておいてくれても良さそうなものだ。イェルディアで合流したら文句を言わなければ。


「……逃げ足の速い人なんだ」


 思わず言うとセシリアはけらけら笑った。


「まあしょうがないよねえ、あの坊ちゃんは、社交の場に出ることを自分の父上様と都市代表から止められてるからねえ」


 孵化した十六の時以来、デクターの身体は成長を止めた。ラク・ルダの重鎮であるカーン家としては、社交の場に彼を出すわけにはいかないのだろう。それも全く面倒な話だと、舞はなんだかうんざりした。世界のへそから戻ったら、本当に【最後の娘】を放棄して、社交の場になど出ないで済むような身分になった方がいいかもしれない。


 滝の轟音が近づいてきている。涼しい風も前方から吹いてきている。大瀑布が近いのだろう、と思ったとき、セシリアが言った。


「さ、覚悟はいいかい? ここ曲がると見えるよ――ほら!」


 とん、と背を押されて、視界が開けた。

 そして、圧倒された。


 雄大な景色だった。舞は思わず周囲を見もせずに人込みをすりぬけ、道を横切って、石造りの手すりに手をかけて身を乗り出した。下から涼しい風が吹き上げて、細かな水しぶきが顔に吹き付けたように感じた。まだ少し離れた場所に滝が見える。いや、それを滝と言っていいのか、判断がつきかねるような、それはまさしく瀑布だった。想像以上に幅が広い。湖が半分に割れて、奈落の底へ落ち続けているように思えた。水は後から後から、尽きることなく、臆することもなく、遙か下の滝壺へと吸い込まれるように落ちていく。見ているだけで一緒に落ちているような気分になる。舞たちのいる道の真下はうっそうとした森で、滝壺からあふれ出た水が、その森の向こうをどうどうとひしめき合いながら流れていくのが見える。圧倒されて、舞はしばらく動けなかった。どうして水が尽きないのだろうと考えた。こんなに大量の水が次から次へと動いているのに、どうしてなくなってしまわないのだろう。


 あれはナルデ河なのだ。呆然としたまま考えた。

 イェルディアから河をさかのぼってレイデスまで行ったとき、川面はおおむね静かでなめらかだった。

 あそこから少し上流に行けば、こんなに逆巻いて、轟音を立てて、よじり合って流れているなどと、想像も出来ないほどの別世界だった。


「どうだい?」


 セシリアが自慢げに言い、舞は呻いた。


「すごい……ね」

「もうちょっと気の利いた言葉が出ないかな。ま、いっか。内側が見たいんだよな? 俺もいつか見せたいなって思ってたんだ。ニーナにもその内見せてやりたいよな。ここまで来りゃ道もわかるよねって言いたいけど、あんたのことだから、念のために入り口まで連れてってやるからね」

「え? そこまでしか来ないの? 一緒に見ないの?」


 訊ねるとセシリアは、ちょっと呆れた顔をした。


「これ以上お邪魔するほど野暮じゃないってんだよ」


 もしかしてセシリアなりに、昨日までの状況に責任を感じていたのかも知れない、と思った。





 そこから数分歩いたが、その内、いくら自分でも迷いようのない様子になってきた。観光客たちがみんな同じ方へ行くし、呼び込みの声が引っ切りなしに客を誘っているからだ。セシリアもさすがに大丈夫だと思ったのだろう、懐を探って、舞の手のひらに平べったい木の板を二枚乗せた。


「裏側へは有料なんだよ。これ切符ね」

「え、ありがとう。いくら?」

「いらないよ、盤一枚くらいで恩に着せるほど落ちぶれちゃいないって。そりゃ俺が口利けばただで入れるけどさ、こんなとこで、お供が一人もいないのに、大騒ぎになんかしたくないだろ。――ああ、言っとくけどさ」


 セシリアはややまじめな顔になって舞を覗き込んだ。


「わかってるだろうけど、ルファルファの【最後の娘】だなんて、軽々しく名乗ったりするんじゃないよ」


 舞は呆れた。何をいまさら。


「……わかってるよ」

「あーその様子じゃ、ちゃんとはわかってないね。ラク・ルダは観光地だから、物見遊山の客が多いんだよ。噂はぱっと広まるし、【最後の娘】が夫とふたりだけで滝見に来てるなんて話になってみなよ、ラク・ルダ中の観光客があんたを見に詰め掛けるよ」


 思わず笑ってしまった。


「そんなばかな」

「ばかなじゃないよ。まじめな話。さっきも言ったけど、あんたが身分を隠してアナカルシス中の都市や団体を歩き回って同盟をつくって、王の戴冠を助けたって話は、伝説みたいになってるんだよ。おまけに魔物からアイオリーナ姫を取り返しただの、ウルクディアで危うく都市代表の息子なんかに嫁がされそうになっただの、銀狼の背に乗って【最初の娘】の火刑を救っただの、若くてなかなか可愛い美人だの、王の求婚を蹴ってあろうことか流れ者を選んだのって、口々に語り継がれて、みんなあんたを一目みたいもんだって噂しあってる。アルガス=グウェリンとの恋愛の話だって、いろんなところでいろいろおひれがついて語られて、今じゃ立派なお伽話の仲間入りって風情だ。ほらあんたを乗せて走った銀狼と混同されて、銀狼が人型を取ってるんだなんて言われ始めてんだよ」


「……嘘お」


「だから嘘じゃないってば。本当に暢気なんだから。確かにもう命の危険なんかないかもしれないけど、だからこそよけいにか。アルガス=グウェリンがいくら凄腕だって、物見遊山の観光客までばったばったと切り倒すわけにゃいかないだろ? 今日一日、誰かに名前聞かれたら、偽名使うくらいの気持ちでいなよ。大騒ぎにしてせっかくの休日をもみくちゃにされて過ごしたくないんならね。ここはラク・ルダなんだ。ルファ・ルダ、ティファ・ルダと相次いで滅ぼされて――ごめんよ、でも事実だ。次はここなんじゃないかって、前王の統治の間中、ずっと戦々恐々としてた国なんだよ。他の土地よりずっと、あんたやニーナや、エルギンをたたえる声は強いんだ。それを忘れちゃ駄目だよ」


 セシリアは沈黙した舞を見て、安心させるように笑った。


「でも幸か不幸かあんたはほんとに【最後の娘】らしくないし、旅装が良く似合ってるから、名乗りさえしなきゃ大丈夫だよ。楽しんでおいで、ね」

「ん……うん」


 舞はにっこりした。セシリアの言葉はまだぴんとこなかった。随分おおげさだという気がした。でも、そう、名乗る気なんか初めからなかったし、名乗らなければ大丈夫だというなら、それは本当に大丈夫だ。

 セシリアもにっこりした。


「良かったら、夕飯も外で食べといで。なんならどっかの宿に泊まっても構わないよ。帰って来てももちろんいいよ、門は夜半まで開けておくから。明日の朝、ラク・ルダ出る前に顔見せてくれりゃいいからさ。じゃあねー」


 言うことだけ言うとさっさと離れていってしまった。舞は切符を握り締めて、次々に中に飲み込まれて行く大勢の人の渦と、吐き出されて来る人の渦とを眺めた。そして、ほどなく、セシリアがわざわざ切符を用意しておいてくれた理由がわかった。入るのはそれほどの混雑ではないが、切符を買うのにしばらく並ばなければいけないようなのだ。


 それにしてもすごい人だ。

 でもこの人の渦も、新鮮で面白かった。


 【最後の娘】として観光地につれて行かれると、外の観光客は全員立ち入り禁止にされたり出入り制限されたりした、閑散としたところを巡ることになるので、普通の人に混じって普通の人として観光地に入るのは本当に初めての経験だ。酔いそうなほどの人の波にうっとりしていると、ふと、滝の裏側への入り口で、誰かを捜すように人々をのぞき込んでいる人物がいるのに気づいた。一目見て役人と分かる格好をしたふたり組は、背の高いひとりと背の低いひとりの組み合わせで、そのちぐはぐさに見覚えがある。ラク・ルダの役人で、昨日挨拶したばかりだ。


「げー」


 思わず呻いた。ここまでやるか。

 目をこらすと、その向こうに馬車が停められているのも見えた。ルウェリン家の紋章が見える。昨日舞が必死で大瀑布への案内を固辞したことを聞いて、今日はここでよしみを結ぼうと、待ち構えているらしい。確かに昨日までのもてなしの主催はラカネアの神殿だったから、ルウェリンが正面に出て来ることはできなかった(大神官が出来る限り遠ざけておいてくれたのだろう)。だからこの千載一遇の機会にと、腕をこまねいているのが見えるようだ。


 何だかもう、泣きたくなった。

 どうして放っておいてくれないんだろう。


 ここをのんびり見に来るのを、どんなに楽しみにしていたと思っているんだ。偉い人に案内されたりしたら、回りの観光客は遠ざけられてしまうし、買い食いなんかできないし、好きな場所で好きなだけ立ち止まるなんて不可能だ。おまけに今日は普段着だから、自分の場違いさにげんなりすることは目に見えている。それに今日までよそ行きの笑顔で緊張を続けるなんて絶対に嫌だ。


 でも逃げようにも、アルガスとの待ち合わせの場所はここだ。

 捜しに行ったりしたら、道に迷ってラク・ルダ中を歩き回って日が暮れることは目に見えている。


「あの」


 急に背後から声をかけられて、舞は文字どおり飛び上がった。見つかってしまった。蹴倒して逃げたい衝動に駆られつつ振り返って、


「……すみません」


 謝られて、目を瞬いた。小さな男の子がきらきら光る鳶色の目で自分を見上げていた。ニーナと同じ色だ、と思う。

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