エピローグ(1)
四日後。
ガルテから来客を許可されたその日、一番にやって来たのは、ニコルとルーウェン=フレドリックだった。
ニーナとエルギンに既に謝罪をしているはずなのに、ふたりとも、ひどく消沈している様子だった。フレドリックは舞の前に片膝を着いて、舞が止める間もなく深々と頭を下げた。
「【最後の娘】。――こたびは大変申し訳ございませんでした。ご助力に、また私の不手際により危険にさらされたエルカテルミナを助けていただきましたことに、心より感謝を申し上げます」
「ごめんなさい、姫。ムーサを止められなくて」
ニコルまでが深々と頭をさげ、舞は呆れた。ニーナから既に聞いてはいたけれど、どうしてこの人たちは、そんなに自分を責めるのだろう。
「あの……ふたりとも。あのね。あれが本当にムーサだったのかどうかなんて、わからないでしょう」
そう言って身動きをしただけで、「姫様」マーシャの穏やかな声が釘を刺した。はい、と大人しく答えて、舞は姿勢を元に戻す。
マーシャはゆっくりとした動きでお茶を運んできながら、フレドリックを窘めた。
「おやめください、フレドリック様。姫様は出立のその日まで寝台からおりてはならないと、ガルテから厳命されているんですよ。あなたがそんなことをされては、姫様がゆっくりお休みになれないじゃありませんか」
さあさあ立って立って座って座って、と、マーシャは有無を言わせぬ動きでフレドリックとニコルに椅子を勧めて座らせた。舞の寝台と彼らの座る椅子の間には細長い机が置いてあり、マーシャはそこにてきぱきと茶を並べる。こういうときのマーシャには、逆らっても無駄だ、と言う断固たる気配があって、フレドリックも素直に従っていた。
フレドリックは今はラインディア兵の制服を着ていた。流れ者になるのを辞め、アイオリーナの補佐を勤めてくれるらしい。フレドリックがついていれば、彼女の軍は安泰だろう。舞はふたりにお茶を勧め、自分もひと口飲んだ。美味しい。
「あれはムーサじゃなかったと思うんです」舞は気をつけて言葉を選んだ。「何て言うか……もちろんムーサでもあったと思うんですけど、でも、ムーサだけじゃなかった。王宮の中に残っていた、妄執の塊というか、執念の何かというか……魔物の残滓もあっただろうし、他にもたくさん混じっていたような気がする。だって燃えかすが動いてたんだもの、それってもう、幽霊みたいなものだよね? それを止められなかったなんて、あなたたちが気に病むことじゃない」
「炎の中に駆け込んだとき、何か目的があったのかなって思ったんです」ニコルはまだしょぼんとしている。「でも止められなくて――」
「どうやって止めればいいの? そんなの誰にも無理だよ、ニコル。それを追いかけてあなたが巻き添えになって焼け死んだりしたら、そっちの方がずっと嫌なんだけど。困るんだけど。バーサにもモリーにも顔向けが出来ないんだけど」
「……そうなんですけど」
「それにしても、また会えて良かった、ニコル。今さらだけど、捜しに来てくれてありがとう。あの後どうしていたの?」
舞は話を変えた。もう一度勧めて、ようやくふたりが茶に手を付けた。舞ももう一口飲んだ。アナカルディアの地下水でマーシャが入れた茶なのだから、それはもう、極上、と言っていい美味しさだ。味覚の麻痺した今も感じられるほどに。
ニコルがぽつぽつと語る話を聞く。人魚の回廊を駆け抜けて何とか地上に出た後も、ニコルは本当に大変だったのだ。イーシャットに会い、ミハイルに会い、ビアンカのために王宮に戻り、エルヴェントラに会い――聞くうちに、またこうしてニコルに会えたのは奇跡ではないかと思えてくる。本当に、ムーサのことを気に病む必要などないのに。無事でいてくれたということだけで、充分すぎるほどなのに。
話がガルテに会った時のことにうつり、舞は、火刑の裏で働いていた大勢の人たちのことを考えた。ガルテを初めとした【契約の民】たちと、町民のフリをしてアナカルディアの町に潜んでいた、エルギンの兵たちと。それを支えた大勢の人たちと、アナカルディア兵の中に入り込んで彼らを欺き、連絡役を務めていた、フレドリックのような人たちと。流れ者たちも関わっていた。地下街の元締めの指示のもと、大勢の流れ者が町に潜んでいた。また全国に散らばって、情報を集めたりもしてくれていたらしい。それをまとめていたのはフレドリックと、リーンベルクという人だった。こうして聞くと、フレドリックの苦労は並大抵ではなかったはずだ。本当に、と、また舞は思った。ムーサのことなんか、もう、気にしないでくれればいいのに。
ニコルの話を聞き終え、みんな、本当に大変だったのだと舞は思う。人との縁は、エルギンやニーナの周りでも、複雑に絡み合って彼らを支えていたのだ。フェリスタも、一瞬も、エルギンを疑わなかった。キファサが色々と弄した策など、付け入る隙もなかったほどに。
「……フレドリックさん。あの、リーンベルクという人の話を聞かせていただけますか」
ずっと気になっていたことを訊ねると、フレドリックは器から口を離して、微笑んだ。
「前王の近衛だったと聞いています。前王が道を踏み外した頃に不興を買い、故郷へ帰っていたとか。イーシャットと以前、交流があったようで。“黒い猫”を狩るから協力しないかと持ちかけたところ、喜んで乗ってくれたそうです。――あの方のお陰でとても助かりました。人生の先達として尊敬できる、高潔な方です」
“黒い猫”。リーンベルクはきっと、前王の周りをうろつく魔物の影に、気づいていたのだろう。
本当に前王は彼に不興を抱いたのだろうか、と、舞はぼんやり考えた。
彼の身を案じた前王が、巻き添えにしないために、故郷へ帰したのではないだろうか――。
ふたりはあまり長居せず、お茶を飲み終えると帰って行った。舞はまた寝台に積まれたクッションに身をもたせかけ、マーシャが運んできてくれた軽食を一口食べた。舞が今量が食べられないと知ったマーシャは、一日の食事を細かく分けて舞に摂らせることにしたのだ。それも舞の好物ばかり、食欲が湧くように工夫して、あの手この手で食べさせてくれる。今度の薄切りパンにはキュウリとごく薄切りのハムとまろやかなチーズがのっていて、一口で終わってしまうのが惜しいと思うほど美味しかった。
それを食べ終える頃、エルギンとイーシャット、それからマスタードラがやって来た。
彼らが入ってくると、その小さな居心地の良い部屋は一気に賑やかになった。イーシャットは舞を見て、その濃い眉をちょっと下げた。マスタードラはいつもどおり、窮屈そうに背を丸めて椅子に座る。
エルギンはまず真っ先に頭を下げた。
「姫、申し訳なかった。ごめん」
舞は呆れた。どうして誰も彼も、舞に謝ろうとするのだろう。
「エルギン、頭下げるのやめて。どうして謝るの?」
今度はマーシャに窘められないよう気をつけて、言う。エルギンは頭を上げて、困ったように笑った。
「君の留守中にニーナを危険な目に遭わせて。ニーナだけじゃない。君の大切な人たちをひどい目に遭わせて、申し訳なかった。それに、やっぱり君の力を借りてしまって……自分が不甲斐ないよ。ニーナを助けてくれて、本当にありがとう」
「うん、どういたしまして。危ないところで間に合って、本当に良かった。というか、あたしは何もしてないんだけどね。……それに、エルギンが自分を不甲斐ないと思う理由も、謝罪してもらう必要もないよ。大変だったって、全部聞いたもの。だからもう、謝らないで」
立ち寄った集落で囁かれていたエルギンの悪い噂を、舞も聞いた。国民のかなりの数の人たちが、その噂を、今も信じているだろうことは疑いなかった。
けれど真実ではないのだから、エルギンが善政を敷き堂々としていれば、すぐに払拭されていくはずた。それにイーシャットがついているから、きっと大丈夫だ。イーシャットは口が上手く、酒場や食堂に入り込んで、噂を流すのもお手の物だ。その気になれば吟遊詩人にだってなれるのだ、この人は。歌も巧いし楽器だって弾ける。ミハイルという王子様も、イーシャットの口のうまさにすっかり騙されたと聞く。マスタードラが兵をまとめれば、危ないことなど起こりようもないことだし。
「それでね、エルギン。……前王の、ことなんだけど」
囁くと、エルギンが、息を詰めた。
こうしてみると、王宮の中で会ったあの人に、エルギンはもうあまり似ていなかった。面影があると言うだけの、全く別の顔立ちだった。それをしみじみと見ながら、舞は言った。
「エルギンがね、戴冠を急いだことを後悔してて、前王の名誉を、回復するって、噂を聞いて。それはもちろん、方便だったんだろうけど……ムーサや、あの王の近衛たちを信じさせるための……でも、ちょっとだけ、信憑性があるなって思ったの。だってあの人も、結局は、魔物に脅迫を受けていたと言うことなんでしょう。だから、もし、もし、エルギンがそうしたいなら……」
「君がどういう答えを望んでいるのかはわからないけど」そう言ってエルギンは、哀しそうに笑った。「僕はこれからあの人を、利用させてもらうつもりだ。薄情だと、自分で思うけれど」
「……」舞は息をついた。「そう……」
「どんな事情があったって、非道を行った事実は変わらないからね。あの人の下で殺された人間の数を数えたら目眩がするほどだ。どんな理由であれ、それは変わらない事実だ。僕はあの人の行なった統治とは正反対の道を行くつもりだし、その道を歩きやすくするために、前の王とは違うと言うことを、ことあるごとに喧伝させてもらう。……親不孝だとは、思うけど。カーディスとも話し合って、決めたことだ」
「うん。それで、いいと思う。多分あの人は、自分の名前がどう語り継がれようと、もう、あまり気にしていないと思うから」
エルギンが舞をじっと見ている。涙がにじみそうになって、舞は咳払いをした。
悼んでいるわけじゃない。あの人の行なった非道を、赦せるとも思えない。舞の中の憎しみは引きちぎられてしまったが、だからといって、あの苦しみをなかったことにして水に流してあげることなんてできるはずがない。
でも、事実は変わらない。さっきエルギンが言ったとおり。非道を行なった事実が変わらないのと同じように、あの人の最期の行ないも、また事実だ。
それを伝えられるのは、舞しかいない。
「……だからあたしも、事実を、伝えておくね。カーディスにも伝えて欲しい。あの杭を抜いたのは、あの人なんだ。それは、王の、仕事だからと」
イーシャットがひゅっと息を吸った。マスタードラは全く動かなかった。マーシャも部屋の隅に控えたまま身じろぎもしなかった。
エルギンはまじまじと舞を見ていた。目を見開いている。瞳がこぼれ落ちそうなほど。
「……そうなの?」
「うん、そう。あたしひとりでは、あの杭は抜けなかった……」
だから、と、舞は思う。――だから。
そうして、その先を思い浮かべられないことに気づく。
だから、なんだろう。どうして欲しいのだろう。この事実をエルギンに伝えて、舞は、エルギンがどうすることを望んでいるのだろう。
自分でもよくわからなかった。けれど。
「……そうか」
エルギンが顔をくしゃくしゃにしてそう言ったとき、舞は、それで充分だと、思った。
エリオットという名だったあの人の。暴君だったあの人の。
アンヌ王妃の愛したあの人の。エルギンとカーディスの父親であった、あの人の。
最期の行いを、その息子に、伝えた。その事実だけで、充分だ。
「話してくれて、ありがとう」
「うん。……どう、いたしまして」
「ごめん、長居はしちゃ駄目だと言われてるんだ。だからもう行くね。姫、出立まで、出来るだけゆっくり休んでくれよ。君には恩返しをいっぱいしなきゃいけないんだから、早いところ元気になってもらわないと」
エルギンはそう言って、立ち上がった。忙しいのだろうと舞は思った。舞はここでこうして、日がな一日のんびりと過ごさせてもらっているが、エルギンはそうはいかないだろう。イーシャットもこれからまた国中を飛び回りに行くのだろう。マスタードラも、近衛をまとめたり残党を捕らえたりと忙しいはずだ。
その忙しい間を縫って、舞に会いに来てくれたのか。
話せて良かった、と思う。
「来てくれてありがとう。あんまり無理しないでね?」
「うん。……姫、ひとつ確認しておきたいんだけど」エルギンはそう言って、にっこり笑った。「僕の指輪は、いらないってことでいいんだよね?」
「あっ」
舞は声を上げ、――真っ赤になった。
そうだ。そうだった。事態の変遷が目まぐるしすぎてすっかり頭のどこかに吹っ飛んでいたが、そういえば、指輪を渡されていたのだった。しかも、その指輪をヴェガスタに託して今自分が持っていないという状況だ。顔中の血が沸騰するかと思った。出来ればその話はまた今度、と、言いたかった。けれど、これ以上、先送りにするわけにはいかない。
「……うん。ご、ごめんなさい……」
エルギンは目を細めて、微笑んだ。
「うん、いいよ。わかっていたから。大丈夫、僕は心の広い男だから、腹いせに君の思い人を追い出したり食事に毒を混ぜたりなんて、絶対にしないからね」
「思い――」
相手が誰だかももうすっかりわかっているような言い方で、舞は絶句するしかない。と、マーシャがやって来て、穏やかに、エルギンに釘を刺した。
「面会はこれで終わりですよ、エルギン様。姫様の心臓が止まったらどうするんです」
「ごめんごめん、失礼いたしました。それじゃあ姫、お大事に」
エルギンが部屋を出て行く。イーシャットが後に続きながら、「ラシェルダが会いたがってたぜ」と声をかけていった。「トマスがもれなくついてくるから、身体が治るまで辞めとくって言ってたけど」
「うん……」
「お大事に」
イーシャットが部屋を出る。マスタードラが最後に出て行きながら、振り返って、言った。
「幸せになればそれでいいよ」
「……え?」
「幸せになれば」マスタードラは木訥な口調で繰り返した。「それでいいよ。全部」
「……う、ん」
マスタードラが何を思ってそんなことを言ったのか、舞にはわからなかった。
けれどその言葉は、すとんと舞の心に落ちた。幸せになればそれでいい。確かにそうだと、思わせてくれる言葉だった。




