火刑(8)
ミハイル=ヴラドレン=アバルキナが敵側だったことは、ビアンカにも少なからぬ衝撃だった。
が、それ以上に、エルギンの笑顔だのイーシャットの照れくさそうな凱歌だのマスタードラの元気満々な様子だのの方がよっぽど嬉しくて、ミハイルのことであまり胸を痛めている暇もなかった。
エリカという名だった(?)魔物が燃え、かき消すように消えるのが見えた。逃げたのかと一瞬思ったが、平服の兵たちが嬉しそうにどよめきを上げる。どうやら計画どおりだったらしい。
ニーナも無事のようだった。
ニーナの傍に、オーレリアもいた。魔物を初めに襲った炎は、彼女のものだったのだろう。アナカルディア兵の制服に身を包んでいるが、彼女は今も女性に見えた。化粧っ気がないが、艶やかな微笑みと麗しい顔立ちは紛れもなく彼女のものだ。すっぴんでもあんなに綺麗なのか。化粧なんかしなくてもいいのに。
彼女も幸せそうに笑っていて、ビアンカはようやく、ホッとした。全てがうまくいったのだ。
「デクター……エルギンとその仲間たちとの橋渡しは、あなたが務めていたの?」
訊ねるとデクターは、「その仲間たちって」と笑った。
「まあ……最近はね。幽霊の噂、聞かなかった?」
「聞いたわ。入れ替わり立ち替わり、色んな幽霊が現れるって」
「その中に、エリオット前王そっくりの幽霊が出るって話もあっただろ」
ビアンカは微笑んだ。
「確かにあったわ。前王にそっくりの、身体があちこち腐った、おどろおどろしい幽霊だって」
そういうと周囲の流れ者たちまで噴き出した。デクターも、珍しいことに、あっけらかんとした笑い声を響かせた。
「噂って尾ひれがつくもんだね。僕が変な能力に目覚めてからというもの、まず真っ先にしたのが、王のところに忍び込むことだったんだ。だって何がどうなっているのかさっぱりわからなかったもんだからね。あの人を問いただすのが一番手っ取り早い、って思ったんだ。
エリカと名乗ってたあの魔物はほとんどいつもずっと、王かニーナのところにいたんだ。で、彼女がニーナのところに行った隙に忍び込んだ。夜中に、枕元にぼーっと立ってやった。よく悲鳴上げなかったよ、あの人やっぱり結構根性あるよな」
また笑い声が上がり、ビアンカも声を立てて笑った。エルギンの心臓が被った打撃を考えると、笑い事じゃない、といわれそうだけれど。
その笑い声で、エルギンとニーナがビアンカたちに気づいた。
「……ビアンカ!」
ニーナが声を上げる。エルギンが足早にこちらに駆けてくる。マスタードラはミハイルを見張っていたし、イーシャットはエルギンと共にこちらに向かってきていて、オーレリアは本物の近衛に声をかけられて何か答えている。ニーナもこちらに来ようとして、まだ少し体調不良が残るのか、それとも、ずっと食べられなかったせいだろうか。少しよろめいて、エルギンより一歩遅れた。
その、ほんの、ごく僅かな、刹那の空隙に。
王宮地下の穴から、炎がほとばしり出た。
猛り狂い燃え盛る炎が更なる犠牲を求めて飛び出したように見えた。鐘と魔物を燃やし尽くしてもなお、食い足りないというように。
「ニーナ!」
ビアンカは悲鳴を上げた。炎がニーナに抱きついた。長い栗色の髪が、純白のドレスが、細い華奢なニーナの身体が、紅蓮の炎にまとわりつかれる。
エルギンが振り返り、炎の中のニーナに手を伸ばした。だが炎は飛び退いてその手を避けた。
ビアンカは目を疑った。明らかに、意思のある動きだった。
違う、と、一瞬遅れて悟った。それは炎じゃなかった。
炎に取り巻かれ、焼け尽くし、焦げ尽くし、それでも原型をまだとどめている、
――人間だったのだ。
「ニーナ!」
エルギンが叫ぶ。「なんだあれ――」イーシャットが絶句する。マスタードラが剣を片手に走ってくる。ミハイルが腰を浮かせ流れ者たちが剣を抜いて走り、デクターが水を呼んだ。
少し離れた場所から吹き上がった水がニーナとその誰かの上になだれ落ち、炎を押さえつける。炎が消し止められ、続いて水がふたりを解放したが、ニーナに抱きついた小柄な人影はニーナを放さなかった。“逃がしはせぬ”嗄れた声が囁いた。地底から響くような、暗くうつろに響く声。
“逃がしはせぬ――”
怨嗟の声。呪いの声。その人影は、呪いそのものが形を取って現れたかのように見えた。黒焦げになった、墨と灰の塊なのに、なぜだか動いている。あれは一体何なのだ。小さな矮躯は、ほとんど燃えかすのようで、なのに動いているのが異様で、不吉で。見るだけで身の毛がよだつような異様さだ。その不吉なものがニーナを捕らえている。
“この世にもはや安寧などいらぬ。世界の花は儂のものだ!”
そう叫んで、異形は、ニーナを抱えて跳んだ。
王宮地下にぽかりと空いた、真っ赤に燃え盛る、灼熱の海の中に。
*
グリーンリの背の上で、舞はほとんどずっと、身を伏せたままでいた。
極上の毛皮は舞の身体を柔らかく受け止め、またアルガスが舞の上に身を伏せるようにしてくれているので、高速移動による体温低下もほとんど生じなかった。その移動の間中、舞はほとんど朦朧としていた。落ちずに済んだのも、アルガスが支えてくれていたからだろう。
銀狼の背に揺られてどれくらい時間が過ぎたのか、もはやわからなくなっていた。途中で何度か止まって食事と休憩をごく僅かに取ったけれど、それを何度繰り返したのかもわからない。アルガスの忍耐力はどれほど強いのだろうと、夢うつつに考えていた。これほど長い間ひと言も話さず、黙ってじっと耐え、その上で人を気遣い手助けをするだなんて、舞には到底できそうもない。
どこまで負担をかけるのだろう。
隣に並んで立てたらと祈っていたのに、実際には負ぶさってばかりだ。
舞が彼にしてあげられるものはなんだろう。そんなものがあるなんて思えない。
音も聞こえない。何も見えない。グリーンリの毛皮にしがみつくことも、自分の身体を支えることさえ出来ない。舞に出来たことは、ただ命を保つことと、ニーナの無事を祈ることだけだった。
肩に今までとは少し違う振動を感じて、舞は我に返った。
吹きすぎていく景色の先に、真っ赤な海がちらりと見えた。舞は瞬きをした。
マグマだ。
地底が燃えている。
大地に割れ目が出来ている。そこから、地底を流れるマグマの川が覗いている、そんな風に見えた。アナカルシスにあんな場所があったなんて知らなかった。グリーンリはまっしぐらにそこをめがけて走って行く。
「ニーナ……!」
悲鳴が足元で聞こえた。ビアンカの声だ。舞はもう一度瞬きをし、ごく僅かに頭をもたげた。今、灼熱の海は真下にあった。グリーンリがためらいなくその割れ目に身を躍らせたのだ。正面に、ニーナが見える。ニーナに絡みつく何かがけたたましく喚いている。ごうごうと地響きのような音と共に炎が燃えている。吹き上がる熱気。舞は目を疑った。ニーナに絡みついているのは消し炭のように燃え尽くした人間だ。動いて、意思があるのが、信じられない。
――いったい、何が。
火刑が行われるということも信じられなかった。でも実際には、もっと信じられないことが起こっている。
炎から突き出した燃える丸太を踏み台に、グリーンリがニーナの身体の下に飛び込んだ。アルガスが右腕を伸ばしてニーナをつかまえた。異形が、口汚い罵り声を上げる。
“おのれ、どこまでも邪魔をするか……!”
アルガスは左腕で異形を引きはがそうとするが、異形はめちゃくちゃに暴れもがいて逆にアルガスにしがみついた。かっと口を開いたそれがアルガスの左肩に食らいつく。舞は左手でグリーンリの毛皮をしっかりと握り、右手でニーナを抱き寄せた。アルガスが手放してしまった剣を、危ういところでニーナが掴まえる。
炎の中をグリーンリが跳んだ。異形とニーナという新たな荷でさえ彼は意にも介さなかった。まるで自らの体重さえないかのような身軽さで、ひとつ跳び、もうひとつ跳び――そしてグリーンリは硬く冷たい地面に降り立った。ニーナもろとも舞は地面に転がり落ちる。
「ガス!!」
振り返って舞は、悲鳴を上げた。
無理な体勢でニーナを受け止めそのまま異形に噛みつかれたアルガスは、未だにそれを引き剥がすことが出来ずにいた。傷口を食い破り、異形はそこにしっかりとしがみついていた。まるで傷口から身体の中に潜り込もうとでもしているかのように。
そこはエルギンと彼を取り囲む平服の男たちのすぐそばだった。イーシャットがいる。ビアンカも、デクターも、流れ者たちもすぐそばにいた。真っ先に駆けつけたのはマスタードラだった。マスタードラはアルガスの肩にしがみつき食らいついている異形に手をかけた。が、その手に握られ引きはがされようとした異形は、燃えかすのようにぼろりと崩れた。まるで蜥蜴がしっぽを切るように、掴まれたところがぼろぼろ崩れ、その他の部分はしっかりとアルガスに食いついている。アルガスは苦痛に顔を歪めている。その間にも異形はじわじわと傷口をねぶり広げている。
引きはがそうにも、手がかりがない。
なのに異形の方は着実に、アルガスを蝕んでいく。
兵たちがきびきびと動き始めていた。エルギンが矢継ぎ早に指示を出しているのがどこか遠くで聞こえていた。ウルスラの所在を探して要請を――エルヴェントラに素養の強い神官兵の派遣を――周囲のその騒ぎにも、舞は全く反応することが出来なかった。ビアンカが傍にいて、何か言っているような気がするけれど、反応できない。
どうすればいいの。
どうすれば。
「あなたにそんな権利はないの」
ニーナが言った。
彼女はグウェリンの剣を抱えたまま、立ち上がっていた。ニーナはこの別離の間、驚くほど痩せていたが、今はまるで光り輝いてでもいるかのようだった。あちこち焦げかけたその美しい髪が緩やかにうねり、翻った。まるで内面から吹き上がる力の沸騰が、彼女の髪とドレスをはためかせてでもいるかのよう。
「その人を、放しなさい」
彼女は確かにニーナだったが、今、その中にいる別の人格が見えるようだった。
神々しく、威丈高で、気品がある、気高い存在――それは確かにニーナなのに、まるで人間に見えなかった。一段高みに昇ったかのような、崇高さを感じさせる。
「出て行きなさい。あなたはもう、この世に遺る権利はない。その人を返して。傷つけるのはやめて。生きとし生けるもの全てがわたくしの愛し子。それを汚し苦しめ傷つける権利など、あなたにはない!」
“おお……”
異形は苦しげな声を上げた。ニーナの視線を浴びた場所から、少しずつ、灰が崩れていく。
しかし異形は嗤った。ひゅうー、ひいー、と、どこかから喘鳴を漏らしながら。
“神の娘よ。貴女の威光は儂には効かぬ。身を焼き焦がすほどの憎しみを知らぬ貴女には、儂を排除することは出来ぬ!”




