火刑(5)
ミハイルも、だいぶ波瀾万丈な日々を過ごしていたらしい。町民の服装に身をやつし、顔も髪も汚れ尽くしているし、何より今はイーシャットによって、その背に剣を突きつけられている最中だ。
ニーナは、この一連の出来事にミハイルが――恐らくはエリカ側の存在として――関わっていたらしいのを知った。
ちょっとだけ、衝撃だった。
でも、ほんのちょっぴりだけだった。
「エルギン、もう大丈夫よ。下ろして」
「そう? では、お手をどうぞ」
エルギンはニーナを下ろし、その腕に掴まらせてくれた。ニーナはありがたく、その確かさにすがりつく。まだ足元がゆらゆらしていて、一人で立つのは心もとない。
この場に、ミハイルの味方は一人もいないようだった。ミハイルは拘束されてはいなかったものの、地面に座り込んだ状態だった。イーシャットは濃い眉を少し下げて、ミハイルの背に剣を突きつけている。ミハイルの表情は窺えなかった。哀しみも悔しさも、その整った顔からは読み取れなかった。彼は黙ったまま、静かにエルギンとニーナを見ていた。
エルギンが、訊ねた。
「イーシャット。お前がニーナの傍に近づけたということは、黒幕はアバルキナじゃなかった、という、ことなのか」
「いえ、やっぱりアバルキナが主犯でしたね」イーシャットは穏やかな口調で言った。「他の国もだいぶ関わっていますが」
「そうか」
「ただ――遠目にマスタードラが中に入ってるのが見えましたし、アバルキナも、エリカが人魚だと思ってたから嫌でも協力せざるを得なかった、ってこともわかってきましたしね。エルギン様やエリオット前王が脅迫されたとおり、国中の水に人魚の呪いをかけると言われたら、そりゃあ従うしかないでしょう。
それにこの人、結構面白い人なんですよ。どうするか見てみてもいいかなと思いました」
「情報が完全に筒抜けだったみたいですね」ミハイルも穏やかな口調で言った。「諜報担当の筆頭補佐官、という肩書きは、やっぱり伊達じゃなかった。僕がどこでヘマをしたのか、教えてもらってもいいでしょうか」
「あんたは別にヘマなんざしませんでしたよ。初めっからアバルキナが怪しいと思っていたんで」
イーシャットはこともなげに言う。偽の近衛たちを始末し終えたマスタードラがのっそりやって来たので、ミハイルに剣を突きつける役割を変わってもらい、イーシャットはやれやれ、と言うようにため息をついた。
「王宮が崩れる直前、エリカが異国風の服を着ていた。――あれがどこから出てきたのかが、ずっと不思議でしてね。ティファ・ルダの財宝の中にああいうものがあったのか、と思って、ベスタの地下神殿に行ってみたんですが、あそこには、妙にはっきりした色の付いた革のおかしな背嚢がひとつと、それから、子供の服だけがありました。エリカが着ていたような大きさの服はひとつもなかった。よく考えりゃ当たり前なんです。十年前、姫は九歳だった。エリカだって九歳だった。成長したエリカの体格に合う服を、九歳だった姫たちが持ってたはずがないんですから。風変わりな意匠のワンピースと複雑な編み込みの上着――アナカルシス近辺であんな変なもの作らせたら噂にならないわけがない。女たちの反応を見りゃ、あの衣類はかなり人気が出そうだってわかる。なのに利にさとい商人たちが似たものを作らせないわけもない。不審な死に方をした名のある職人もいなかった。色々調べましたが、エリカはあれを作らせるのに、たぶん外国を使ったのだろう、と思いました。その過程で、町中に根も葉もないエルギン様の噂が流れ出してるのにも気づいた。こりゃ乗っ取りだな、とピンときまして」
「そこでピンとこないで欲しいな」ミハイルは困ったように笑う。「その段階でピンと来られちゃ、お手上げですよ」
「それでまあ、その噂に便乗することにしたんです。マスタードラにはケガしたふりして引っ込んでてもらいました。こいつがエルギン様の傍にいちゃ、計画なんて初めから終わりまでぜーんぶダダ漏れになっちまいますからね」
「スヴェンはどこ行ったの?」
オーレリアが訊ね、イーシャットは意地悪く笑った。
「あいつはカーディス様が連れてってくれました。頭が硬いですからね、連れてってもらえて、助かりましたよ」
「エルギン=アナカルシス国王陛下。僕はあなたが羨ましい」
ミハイルが言い、エルギンは、うん、と言ってしゃがみ込んだ。ミハイルと視線を合わせて、言う。
「そうだろうね。僕もそう思うよ、僕みたいに恵まれた王は、この世にそうはいないだろうって」
「イーシャットとあなたは、どうやって連絡を取り合ってたんです。僕だって手放しで彼を信じたわけじゃありません。イーシャットがこのふた月近く、誰かに手紙を出すところも、誰かから何かを受け取るところも一度もなかった。ニコルに何か渡したような気もしたけど、あれはほんの昨夜のことだし。……良かったらそこも教えてください。あなた方は今まで、どうやって意思疎通してたんでしょう?」
「意思疎通なんてしてないよ。彼は僕の命令で動いていたわけじゃないから。ただ、こっちの状況を出来るだけ知らせるようにしてただけだよ。火刑のビラをばらまくとかで」
「俺は諜報担当なんでね。ずっと昔から、今のやり方でやって来ただけです」
「今頃、イェルディア湾に、キファサの軍船団が到着していると思います。全艦、大砲を搭載して。アナカルシスの玄関を、急襲するはず。――なんですけど」
ミハイルは相変わらず穏やかな声で言う。
彼は困ったように笑った。
「……そちらの方にも周到に手を打ってある。そう言う顔をしていらっしゃいますね」
「今回、僕はほとんど何もしてないんだ」
そう言って、エルギンはニッコリ笑った。
「エリカを出来るだけ僕の傍に引きつけておくってことと、できるだけ暴君らしく振舞うってことくらい。大変なことはほとんど皆が代わりにやってくれたんだ。デクター=カーンが夜中に僕をこっそり訪ねてきてくれるまで、みんなの状況もほとんどわからないくらいだった」
「なのに――」
「人魚の脅迫は、統治者にとっては兇悪だね、アバルキナの王子」
エルギンは優しい声で言った。
「あの魔物はどうやら、人魚に育てられたらしいね。だから人魚のような話し方をし、人魚らしく振る舞うのも上手かった。人魚だと信じ込まされ、国中の真水に呪いをかけると言われたら、王にとっては全国民を人質に取られたも同然だものね。僕の父も初めはそれで、魔物に取り込まれたらしいし、アバルキナは海の中に浮かぶ島国だそうだから――あなたの境遇には同情するよ」
「寛大なお言葉ですね」
「でもアバルキナは僕の国を侮った。色々と原因はあるけれど、今回のことは全てそこに起因すると僕は思う。即位直後の僕と、その回りの人間さえどうにかすれば、この国を乗っ取れると簡単に考えたんだろうけど――僕はこの国の王だけど、僕ひとりをどうにかしただけで揺らぐほど、この国は脆くないんだ。僕は本当に大勢の人たちに支えてもらって、なんとか王様やらせてもらってるんだよ。僕ひとり暴君になろうとしたって、到底無理ってくらいに」
エルギンの周囲を固める兵たちは顔を見合わせ、照れ臭そうに笑い合う。イーシャットも笑った。
「イェルディアには随分前からカーディス様とアイオリーナ姫が行っておられますからね。今頃は、綺麗さっぱり片がついてる頃じゃないですか――」




