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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十七章 夜明け
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夜明け(5)

   ■ビアンカ―隠し部屋→地下牢



 明け方、もう一度目を覚ましたビアンカは、少し身体が軽いのに気づいた。

 たぶん、熱が引いたのだ。

 お腹も重くなかった。少し離れた場所にある長椅子にミネアが寝ているのが見えた。恐らく、寝返りを打ったミネアがビアンカの寝ている寝台からずり落ち、マーシャがあそこに寝かせたのだろう。すうすうと、健康的な寝息を立てているのが聞こえてくる。そうっと身体を起こした。覚悟していたほどの痛みは襲ってこなかった。肩が外れていたのではなくて、外れかけていただけではないかとビアンカは楽観した。炎症が治まって、痛みが引いたのかも知れない。

 寝台に座ったビアンカの正面に、細い明かりが見えている。朝日が射しているのだろう。扉の隙間から差し込んで、今だけは、扉の輪郭を浮かび上がらせているのだ。


「……寝てなよ」


 しゃがれた声が囁き、デクターが起きていたことを知る。ビアンカは首を振り、囁いた。


「寝てなんかいられないわ。朝日が昇ったんでしょう」

「肩は?」

「平気、もう痛みも取れたみたい。デクター、あたし、やっぱり、このままここで大人しく寝ているなんて無理だわ」

「だろうね」


 しょうがないな、という口調でデクターが言う。ビアンカはひとつ、頷いた。身体がむずむずして、今にも走り出してしまいそうで、どう考えてもここでこのまま正午まで隠れているなんて無理だ。ニーナがどうしているのか、心配でたまらない。オーレリアは任せろと言ったけれど。


「……もちろん、みんなに任せるわ。あたしに何か出来るなんて、大それたことを考えているわけじゃないの。だけど、見てなくちゃいけないと思うの……。【アスタ】が終わった時、あたし、見ることさえ出来なかったわ。だから、お願い。見るだけ。見るだけよ。全部終わったら、ウルスラにお願いして、治してもらうし。お願い、見るだけだから、見逃して」

「見逃すわけないだろ」


 デクターは呆れたように言った。

 光籠の覆いが外され、仄かな明かりが溢れ出た。その光を背に、デクターがこちらにやって来る。


「僕も一緒に行くよ。何かあったら隠すことだけは出来るから」

「でも、」

「でもじゃない。それが最大限の譲歩だ。――マーシャ、起きてください。移動するから」


 ビアンカがあわあわしているうちに、デクターはさっさとマーシャを起こしてしまった。ビアンカは気後れを感じた。マーシャは昨夜ビアンカの看病をしてくれて、ほとんど眠っていないのではないだろうか。

 しかしどのみち、マーシャは起きていたらしい。わかりました、と返す声にも眠気が感じられない。


「マーシャ――」

「マーシャとミネアと君を守っておくのが僕の役割だからね」


 デクターはそう言いながら、そうっとミネアを抱き上げた。そのまま移動を始めたので、ビアンカは慌てて後を追う。肩がじんじんするが、昨日ほどの痛みではない。


「でもデクター、デボラは?」

「あの人は大丈夫だよ。王妃宮の中自在に歩いても絶対に見つからないんだ。今はちょうどエルヴェントラのところに行ってるはずだし」


 マーシャがやって来た。「肩はいかがですか」優しい口調で訊ねられ、ビアンカは思わず頭を下げる。


「ごめんなさい、マーシャ、あたしの我が儘に付き合わせて」

「いえいえ、いいえ、ビアンカ様。体調さえ戻られたのなら、こちらからお願いしたいと思っていたところなんです」


 そう言いながらマーシャは、ビアンカの肩にそっと触れた。ビアンカが身じろぎをしないのを見、マーシャは微笑む。


「無理をさせて申し訳ありませんが……ニーナ様のご様子を、遠目からでも結構ですから、見ていて差し上げて欲しいんです。頑張っておられるはずですからね。あの方は、こんなことでへこたれるような方じゃありませんが、それでも、ひとりで立ち向かえることには限度があるというものでしょう。姫様もいらっしゃらないこの折りに、貴方様が、ニーナ様を放っておけないと言ってくだすって。……ありがとうございます。あたしが自分で行きたいほどです。でも、デクターの負担を余り増やすのは気の毒でしょう」


 デクターは扉の向こうを伺っていたが、こちらを振り返って言った。


「まずはデリクのところに行こう。そろそろエルヴェントラの周囲に集まり始めているはずだ。そこでマーシャとミネアの安全をお願いすれば、君は自由に動ける」

「デクター、」

「お供しますよ、お姫様」デクターは芝居がかった調子で言って、微笑んだ。「無鉄砲なお姫様の護衛役が務められるなんて、流れ者冥利に尽きるってものだからね」




 改めて見直すと、その部屋は、ひとつの大きな部屋に沿うように作られた、隠し部屋のようだった。

 さっき朝日がその輪郭を浮かび上がらせていた扉の他に、細い隠し道に続く扉もあった。そこをくぐると、細い階段が下に延びている。


「あそこはガスが長年使ってた部屋なんだってさ」


 ミネアを抱き上げたまま慎重に階段を下りていきながら、デクターが囁いてきた。「え」ビアンカは驚いた。「そうなの?」

「あの部屋の隣はカーディス王子の居室だった。ガスは王子のために情報を持って来ていただろ。その時に滞在してた部屋なんだって。こないだ姫も来たはずだよ」

「ああ……ここが」


 そう言えば姫がそんな話をしていた。ビアンカは納得した。そうか、アルガスの部屋だったのか。

 今頃姫とアルガスは、一体どうしているのだろう。そう考えながら、ビアンカは、デクターの後に続いて細い階段を下りていった。




 その通路が尽きたとき、ここは王妃宮の一階だ、と、デクターは説明した。ここから地下牢はすぐそばだ、とも。

 辺りはすっかり朝だった。王妃宮はこれから待ち受ける騒動を前に、静かに蹲って力を貯めているように思えた。日の光を見ると、もはや夜明けとは言えない時刻のようだった。朝二番の鐘が鳴るかどうか、というところではないだろうか。

 廊下を少し移動する間も、誰にも会わなかった。ビアンカの肩は移動につれて少しずつ重くなりしびれが強くなっていったが、ちっとも苦にならなかった。ミネアを抱っこしたデクターと、ビアンカと、マーシャは、静まり返った廊下を、地下牢に向かって歩いて行く。


 歩く内に、肩はまた、痺れ始めていた。じんじん疼く痛みが、少しずつ強くなっている。

 悟られたら、また寝台へ戻されてしまうだろう。ビアンカは努めて平静を装った。こんな時に寝ているわけにはいかない。なにより、デクターを動けるようにしてあげたい。デクターだって、事態を自分の目で見ておきたいはずだ。ビアンカの護衛という理由があれば、デクターがニーナの傍に近づけることになる。


 胸が痛かった。デクターを好きだと自覚してからずっと。

 だってデクターは、年を取らない。

 このままではきっと、ビアンカだけ年を取るのだ。巡幸に同行した八ヶ月ほどの間に、ビアンカの背はまた少し伸びていた。さっき気づいたけれど、今はもう、ビアンカの方がデクターより背が高い。デクターの手のひらと足はとても大きくて、これから背がどんどん伸びるだろうと予想させる兆候が身体のそこかしこに見えているのに、デクターの体格は変わらない。八ヶ月経っても、ぜんぜん。


 助けてもらったとき、デクターが、ビアンカを抱き締めてくれなかったのが哀しかった。

 デクターはそうしたかったはずだ――うぬぼれのようだけれど、あの必死さを見てしまった今では、そうじゃないと思い込む方が難しい。あの時それを堪えたのはなぜか。ビアンカがケガをしていたから? まだそんな間柄ではないから? それとも――


 違う寿命を生きる、存在だから?




 地下牢に続く階段が見えて来たときだった。

 後ろから、性急な足音が近づいてきた。

 デクターはそちらを振り返り、ビアンカとマーシャを自分の後ろに隠した。が、その張り詰めた背中が急に緩んだ。やって来た人物を見て、デクターは声を上げる。


「フレドリックさん。おはようございます」


 ビアンカはデクターの後ろからその人を見て、思わず声を上げた。エスメラルダにアイオリーナを護衛してきた黒衣の騎士、ルーウェン=フレドリックだった。

 今彼はアナカルディア兵の制服に身を包んでいた。流れ者のような旅装よりもずっと、こちらの方がしっくり似合う。フレドリックは険しい顔をして歩いてきていたが、デクターの挨拶に頷きを返し、ビアンカを見て表情を緩めた。


「ビアンカ=クロウディア姫。――おケガをなさったと伺っていましたが。起き出して、よろしいのですか」


 ビアンカはちょっとどぎまぎした。こんな風に扱われるのはどうにも居心地が悪いけれど、フレドリックはもともと貴族だからなのか、物腰がとても自然で、丁重な身振りをされるとちょっと心が浮き立ってしまう。「はい」ビアンカは出来るだけ丁重に答えた。「こんな大変なときに、ひとりだけ眠っているのが、どうにも、居心地が悪くて」


「カーンの傍から離れないよう、どうぞくれぐれもご注意ください。――カーン」フレドリックは居住まいを正した。「ムーサを見なかったか」


「ムーサ?」


 その名を聞いて、ビアンカはちょっとゾッとした。デクターがミネアを抱え直した。「ムーサが? ――いないんですか」


「そろそろ備えた方が良かろうと思い、一番の鐘の頃に部屋へ行ったのだが。地下牢へは?」

「今から行くところです」

「そうか。失礼」


 フレドリックは丁重にビアンカに頭を下げ、前を通り過ぎて地下牢の前に行った。

 デクターが、いつでも“ずらせる”よう体勢を整えたのを見定めてから、彼は扉を開いた。中を一瞥し、デクターに頷いて見せ、先に中に入る。

 デクターが中に続いて入り、ビアンカもその扉をくぐった。むさ苦しい匂いが鼻を突いた。中には、エルヴェントラと、エルヴェントラの補佐役やルファルファ神官兵の士官たちがぎっしり詰め込まれていた。彼らはビアンカを見ると驚きの声を上げ、無精髭の色濃くなったエルヴェントラが鉄格子を握った。「ビアンカ――ミネア、マーシャも。いったい、」


「エルヴェントラ。ムーサが来ませんでしたか」


 フレドリックが訊ね、牢内が一瞬で静まり返った。「来ていない」エルヴェントラが囁いた。「ムーサが――いないのですか」


「もう一度見てまいります。【アスタ】の用心棒にも警告をお願いします」


 フレドリックは無駄口を利かず、即座に踵を返した。ビアンカは急に、足が震え始めたのに気づいた。デクターに助けられてからずっと、全てのことがうまく進んでいると思っていたのに。


「待ってください。ニコルはどうしました」


 エルヴェントラが訊ね、扉を開けていたフレドリックは、振り返って微笑んだ。


「例の場所に入れましたから、今頃は事情を全部聞いて、正午に備えているでしょう。――大丈夫です、ビアンカ姫」フレドリックの笑顔は強くて優しかった。「正午を楽しみにお待ちください。――失礼」


 扉が閉まる。ビアンカはエルヴェントラを振り返る。鉄格子の中に座り込んでいた彼は、ビアンカを見て笑顔を見せた。これまた、強くて優しい笑顔だった。


「昨夜、ニコルが現れた。無事だった。姫とグウェリンも、こちらに戻ると言っていたそうだ」


 だから大丈夫だと、エルヴェントラが言ってくれているのがわかる。大丈夫、今日の正午には、全てうまく行くからと。

 そうだといい。ビアンカは冷たい石造りの床に座り込んだ。じんじん痺れる肩を少しでも休ませようと、両手を膝の上に乗せる。


 姫が帰ってくる前に。ここに戻ってくる前に。あの人が“大好きな人たちと楽しいことを思う存分やる”ための下準備を、全て、整えておいてあげなければ。

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