夜明け(4)
■ニコル―王宮地下の穴近辺
土がむき出しの穴蔵の中で、夜も更けたこの時刻にせっせと働く人たちは、ニコルに、地下に住むという小人の話を思い起こさせた。夜っぴて黙々働く勤勉な小人の話。
そこにいるのはほとんどみんな、【契約の民】であるらしい。しかし紋章を持たない、どう見ても平服の兵士のような人たちも結構いた。みんな、エスメラルダの住民だった人らしい、と、ニコルは悟った。エルギン王の本当の近衛達の少なくない人数が、ここに割り振られているようだ。
彼らは茅や藁、小枝と言った燃えやすいものの他に、大きな丸太を何本も運び込んでいた。ガルテの話では、この地下は別に出口が掘られており、空気も食糧もその他諸々も、皆そこから運び込まれてくるそうだ。彼らは力を合わせて丸太を組み始めていた。【契約の民】たちが次から次へと運び込む焚き火(?)の材料を、取り囲むように、大がかりな骨組みを組み立てるつもりのようだ。
ニコルは緩やかな坂道を案内されていった。巨大な燃料の山とそれを囲む骨組みを左に見下ろしながら坂を下り、いつしか底に着いた。暗がりを少し進むと、身体の周りをすうすうと空気が抜けていくのに気づいた。
「風が通りますね」
言うとガルテが、嬉しそうに頷いた。
「ちゃんと計算して通気孔を広げてある。もともと、たぶん技師の出入り口のために掘られた穴があったんでな。今から行くが、そこは穴の一番低いところにあってな。そこから酸素を供給し、お前さんが今入ってきた扉を開けりゃ、煙の出口も出来る。穴の底で火を燃やしたらよ、ここはでっかい煙突みたいになるはずだ。よく燃えるぜえ」
「何燃やすんです?」
「いーものだよ」ガルテは満足そうに笑った。「ものすごく、いいものだ」
なんだろう。まさかニーナではない――はずだ。
ガルテは淀みなく歩いて、どうやら、物資が運び込まれてくる出入り口を目指しているらしい。光珠がそこここに置かれたり吊されたりしているが、辺りは暗くて現実味がない。歩くうち、ふたりは何度か、丸太を運び入れる兵士達とすれ違った。こんなにたくさんの丸太で櫓を組んで、その中で盛大な焚き火をする、と言うのが彼らの目標らしいが、あの櫓には何の意味があるのだろう。
ややして、ぴーいっ、と、鋭い口笛が鳴った。
それによって起こった出来事は劇的だった。即座に全ての光珠が消され、辺りは闇に包まれた。と、闇の中のそこここで、呻き声が聞こえ始めたのでニコルはギョッとした。さっきフレドリックに担ぎ込まれた時に聞いた、怨嗟の、呪いの、呻き声。ニコルは慌てて両手で口を押さえた。今まで元気満々で丸太や茅を運んでいたくせに、と思うと、そんなときではないのに笑いそうになる。ガルテや回りの人たちは嬉々として虐げられた人々の演技をしており、その声はずいぶん真に迫っていて、この生活を始めてからの月日を思わせる。
扉が開いた。それは、上へ向かって吸い込まれるように風が吹いたことでわかった。本当だ、と、まだ口を押さえながらニコルは思った。煙突、とガルテは言ったが、確かに似た構造になっているようだ。
しばしのやり取りの後、また扉が閉まる。新たに招き入れられたのが誰だかはわからないが、やはり【契約の民】なのだろうか。
充分な時間がたった後、また光珠が灯された。今にも死にそうな呻き声を上げていた兵士達が、また丸太を持ち上げて運び始める。ガルテはニコルを手招きした。
「行くぞ。朝までに櫓を組んじまわなくちゃ。悪いが手伝ってくれ」
ニコルは頷いて、そこで、手のひらの中の紙片の存在を思い出した。
光珠の明かりに透かしてみると、そこに書かれていたのはたったの二行。
“危ない目に遭ったらルーウェン=フレドリックを捜せ”
“もしくは【契約の民】の捕らえられている王宮地下の穴へ行け”
ニコルは思わず苦笑した。さっきフレドリックに圧された肺は、痛みこそないものの、じんじんする重みが残っている。
もう少し早くこの手紙を読むことが出来ていたら、あんなことをさせなくても良かったのに。
手紙を隠しにしまい、ニコルはガルテの後を付いていった。気分が高揚していて、疲れはちっとも感じなかった。
外に出ると、十数人の人間が、密やかに動き回っていた。誰かが足早にやって来て、何かヒソヒソと連絡を伝え、また戻っていく。そこに積まれた丸太や茅などの燃料は、まだ相当の量がある。
「ずいぶんたくさん入れるんですねえ」
ニコルは感心し、ガルテは頷いた。
「そりゃそうさ。生焼けになっちゃ困るし、途中で補給が出来ないからな。――なあ、今連行されてきたのは誰だって?」
ガルテはそこにいた兵士に声をかけた。今誰かから連絡を受けていたその兵士は、振り返り、声を潜めて囁いた。
「門番がな、勘違いをしたらしい。誰かの足音が聞こえたような気がしただけだと」
「なんだ。まあ、良かったよ、何でもなくてさ」
「万一にも見つかるわけにはいかないからな。――夜明けまであと数刻。早いところ組んでしまおう」
頼むぞ、と兵士はニコルにまで声をかけてきた。はい、と頷いて、ニコルはガルテと一緒に丸太に手を伸ばした。
ぞく。
急に寒気が走り、ニコルは顔を上げた。
「どした?」
ガルテが長閑な声をかけてくる。ニコルは鳥肌の立った二の腕をさすった。
なんだか、今。
視線を感じた――ような。
外だから、ここには光珠がひとつもなかった。万一にも人目に付くわけにはいかないからだろう。今日は雲が多く、月の光はほとんど見えない。だからニコルが辺りを見回しても、視線の主なんかわかるはずがなかった。周囲は静まり返っており、怪しい音も何も聞こえない。
「何でもない……です」
たぶん疲れて気が高ぶっているのだろう。ニコルはガルテと一緒に、丸太を持ち上げた。「【アスタ】で匿われていた頃を思い出すよ」ガルテが低い声で囁いた。「あそこで匿われていた【契約の民】はほとんどが医師や薬師だったんだが、いつもどんどん人が来て、いつも寝場所が足らないからな、みんなで小屋ばっかり建ててたんだ。いつでも大工で食べていけるって、皆で笑っていたもんさ」
「へえ……」
笑っていたのか、と、ニコルは思った。暴君によって殺されかけ、匿われる生活は、きっと想像も付かないほど過酷で、重苦しい日々だったはずだ。
でも、笑っていたのか。そうだろう、とニコルは思う。ビアンカとバーサも、【アスタ】で友情を育んだ。結構毎日楽しかったわ、とバーサは言っていた。そこに人がいる限り、日常があって、日常がある限り、笑いも生まれる。そう言うものなのだろう。
――明日になったら。
重い丸太を足を踏み締めて運びながら、ニコルは考えた。
――きっと何もかも、うまく行く。
そうすれば、日常はもっと広がるだろう。この国の隅々にまで、平和で穏やかな日常が、もう誰にも撓められず、詰まれることもなく、のびのびと広がっていくだろう。そのために働けることを、ニコルは嬉しいと思った。
ウルクディアで街兵見習いをやっていたころ、王が代われば平和になると思っていた。平和は与えられるもので、それは、王ひとりの素質によって、成し遂げられるものだと思っていた。
でも、今は違う。姫やニーナ、エルヴェントラといった人たちを知った。エルギン王についても、少しだけ、その人となりに触れた。
ああいう雲上の人々がどんなに頑張っても、平和は簡単には手に入らない。平穏な日々は、ただ口を開けて待っていればいつか与えられる、そういう類のものではないのだ。
「……ガルテさん」
自信を持ってよ、と、バーサが囁く。あなたがあそこで、やっぱり気のせいだなんて勝手に納得して、結論づけちゃっていたら、こんな生活、なかったかもしれないのよ。
そうだ。ニコルだって、明日には訪れるはずの平穏な幸せに、一役買ったのだ。あの戴冠式の日の朝、ケヴィンという男に気づかなかったら、エルギン王は死んでいたかも知れない。
「ごめんなさい、ガルテさん。やっぱり俺、気になるんです」
「へえ。何が?」
「さっき、嫌な感じがしたんです。何か、視線を感じたような気がしたんです。俺、捜しに行ってもいいですか。ただの気のせいかも知れなくて、丸太運んだ方が有意義なのかも知れないけど、でも」
「ああいいよ」
ガルテはあっさりそう言い、囁き声で別の兵を呼んだ。ニコルは返って驚いた。「え、え?」
「何か嫌な感じがしたんなら、納得するまで探した方がいいよ。それで何にも見つからなかったら、そりゃ万々歳ってもんじゃないか」
そう言ってガルテは、やって来た兵士に、そっち持ってくれ、と言った。ニコルはその兵に場所を代わり、ガルテに頭を下げる。
「ありがとう、ガルテさん」
「でも気をつけろよ。暗くて頭ぶつけたら来な、診てやっから」
そう言ってガルテは笑い、兵士と一緒に丸太を担いで歩いて行く。ニコルはそれを見送って、さて、と思った。
――自信を持ってよ、ニコル。
うん、とニコルはひとつ、頷いた。自信を持って、やるべきことをやって、バーサの前に胸を張って立って、自信を持って求婚するのだ。
「頑張るぞー」
ニコルは暗闇に向かって足を踏み出した。
少し歩いた。幾度も、丸太や燃料を担いだ人たちとすれ違った。アナカルディア兵――ずっとエスメラルダに住んでいた、幼いエルギン王子を助け、守り、共に苦楽を共にしてきた兵たちが、ここで嬉々として働いている。この人たちは、王の悪い噂だの暴君らしき振る舞いだのに、全く動じなかったのだ。
エルギン王は今どうしているのだろうと、ニコルは思った。
彼は“暴君”のフリをしている、それはもはや疑いない。しかしなんのためにそんなことをしているのだろう。そんなことをして、なんの利点があるのだろう。全くの推測に過ぎないが、王は誰からか脅迫されているのではないだろうか。
それにしても、辺りは本当に真っ暗で、何も見えない。
明かりを点けるわけにもいかない。少し目が慣れてきたとは言え、これじゃ“嫌な気配”の原因を探るなんて無理だ。引き返そうか――と思った時、ニコルの鋭い耳は、闇の中に潜む誰かの息づかいを聞いた。じゃりっ。誰かの足が踏み替えられる、かすかな音。ぞくぞくっと悪寒が走った。何思い上がってんだ俺、と思った。嫌な気配を感じてその誰かを見つけ出せたとしても、身を守る術を持たないニコルがひとりで立ち向かったって、口を封じられるだけなのでは。
――自信を持ってよ。
自信は持てるようになったけれど。
腕っ節にじゃない。
ニコルは後ずさった。さっきの兵を誰か呼んできた方がいい。
そう悟ったのは、ほんの少しだけ、遅かった。
「小賢しい小僧めが」
嗄れた老人の声が闇に響く。そして、
がつん。
目の前に、火花が散った。
――そして、視界が更に真っ暗になった。




