黒髪の娘(2)
*
「――ったく、俺を誰だと思ってる? 獣医じゃないんだ、わかるわけなかろうが。蹴られたっつっても触った感じ、変にへこんでるとこもないしな、病気かなんかだろ。もしくは飢え死にか」
「飢え死に」
「だいたいお前、正気か? 鴉だぞ、害鳥だぞ? 血相変えて薬師に駆け込むから何かと思えば鴉を診ろだと? こんなけったいな娘は初めてだよ、って――何だそんなもったいない、鴉にやるくらいなら俺が、」
「飲んで」
静かな声はどうやらこちらに向けられたもののようだった。同時に嘴が開けられて、ぬるい、濃い、甘い甘いものが流れ込んでくる。シルヴィアは目を開けた。ごくり、と喉が鳴った。ごくり、ごくり、ごくり、そして彼女は翼を広げた。
「かあ――ッ」
「わ」
驚いた声がして、嘴に添えられた手が外れた。濃い甘い飲み物の供給が断たれて彼女は叫ぶ。
「かああッ」
「あ、ごめん。待って」
「かあ――っっ!!」
「落ち着け鴉。もったいない、こぼすな。俺様の城が汚れるじゃないか」
シルヴィアは我に返った。飲み物が腹を満たして、ちょっと人心地ついたからかもしれない。
目の前に、こちらに向けて口を開けた革袋が見えた。袋には今も彼女の嘴が差し込まれ、中の甘くておいしい飲み物――ミルクだ――が口の中に入って来ている。溢れそうになって嘴を引くと、袋が戻された。その袋を持つのは細い、不思議な色合いの腕で、その先には、
長く艶やかな、真っすぐな黒髪が垂れ下がっていて。
黒い髪をした少女は、彼女を覗き込んで微笑んだ。
「よかった、気が付いたね。ガルテさん、やっぱりお腹が空いてたみたいです。すごいな、よく分かりましたね」
「嫌みか、おい」
ガルテと呼ばれた男は、少女の向かいに座っていた。
よれよれの白い上かけを着た、人相の悪い三十がらみの男だ。
「あてずっぽ言っただけじゃねえか。ほら、さっさと出てってくれ。俺は忙しいんだ。飢え死に寸前の鴉をわざわざ薬師のとこまで診せにくるような、暇人じゃないんだよ」
そっちこそ嫌みかとは、しかし少女は言わなかった。にっこりと笑う。
「いえ、今日はあなたに会いに来たんです」
「ほう、そりゃどうも。薬の注文か? ありがたい。何を作る、病気の薬か、それとも惚れ薬か? 人を仮死状態にする薬が今のオススメだ。ちょうど材料もあるしな。死にたての鴉の嘴はよく効くんだ」
言ってガルテはこちらを顎で指した。ミルクの余韻に浸っていたシルヴィアは、その鋭い眼差しにびくりと身を震わせた。我に返る。ミルクに酔ったようになっていたが、ちょっと、待って。
状況を把握しなければならない。
シルヴィアは辺りを見回した。どうやらここは家の中だった。シルヴィアの住んでいた屋敷とは比ぶべくもない、粗末で荒れ果てた建物だが、少なくとも屋根と壁がある。さっきまでのうらぶれた路地ではないようだ。クレイン=アルベルトに蹴られたのは夢では無かったようだが、蹴られた衝撃と空腹で気絶したシルヴィアを、この少女が拾って。
薬師に駆け込んだ、と。
こういうことらしいのだが。
――どうして?
自分で言うのも何だが、シルヴィアは今は鴉だ。薬師の言葉ではないが、害鳥である。それが蹴られたのを目撃し、動かないからと慌てて薬師に駆け込むなんて、一体どういう子なのだろう?
シルヴィアは少女を見上げた。綺麗な少女だ、と昨日までの癖で評価した。どこか外国から来たのだろうか、この辺りの人々とは顔立ちが違うが、その不思議な雰囲気も手伝ってか、はっきりと美人だと思う。年齢はシルヴィアと同じくらいか、ちょっと下に思われた。
見つめていると少女がこちらを見た。黒い瞳が面白そうに燦めいた。不思議な色をした指先が、そっとシルヴィアの首筋を撫でた。優しい感触。いい気持ち。
「もっとミルク、いる?」
「かあ」
思わず返事をすると、黒い瞳がさらに笑みを含んだ。革袋を広げてくれる。シルヴィアはそっとそこに嘴を差し込む。甘い、濃い、芳醇な液体が喉に流れ込んでくる。
泣き出したかった。
泣き出したいほど、美味しかった。
革袋を支える少女の手は、不思議な色をしていた。卵の黄身をふんだんに使った、上等な、クリームのような色合いだ。
少女はしばらくシルヴィアを見ていたが、ややして、ガルテに視線を移した。
そして、ちょっと驚いた顔をした。シルヴィアも驚いた。ガルテが、少女に抱かれたシルヴィアを、殺しかねないような目付きで睨んでいたからだ。
――どうして私を睨むのかしら……
こんな目で睨まれた記憶はついぞない。シルヴィアは身をすくめた。さっきの冗談(?)と言い、なんだか憎まれてる気がする。なぜだろう。鴉は害鳥だとシルヴィアも思うが、それにしてもこの睨み方は異常だ。
「もしかして」
少女が言った。笑みを含んだ声だった。
「お腹すいてたり、しますか」
「悪いかよ」
ガルテはそっぽを向いた。ややして口から漏れたのは、ふてくされたような声だった。
「ああすいてるよ、悪いかよ。こっちはもう三日もろくなもんを食ってない。ああ腹が減った。死にそうだ。死ぬ前に街に出て路地裏で誰かに蹴られれば、どっかの酔狂な娘がミルクをくれるかも知れねえな」
「や、わざわざ蹴られに行かなくても今あげますけど」
「はん。そいつはご親切に。どんな下心があるんだかな」
「もちろん下心はありますが――」
「やっぱりな。鴉は無償で助けても、人間は下心なしには助けないってか。世知辛い世の中だねえ。世も末だよ本当に」
少女はとうとう、くすくす笑い出していた。ガルテに睨まれて慌てて真面目な顔をしようとしたが、抑え切れずに喉がくつくつ鳴っている。そうしながらも背負っていた背嚢を下ろして、中から植物の皮に包まれたいくつかの塊を取り出した。
「ええとお湯沸かしてもいいでしょうか。薯の干したのがあるのでこれをちょっと――あ」
「むがっ」
「……ま、待ってください、これチーズね、今切りますから」
「もがっ」
「……お湯、もらえません、か。薯は……もうないけど、干し肉があるので、少し時間をもらえればシチューとか」
「んがっ」
「あ、練り粉、まだ練ってな」
「ふがっ」
練り粉用のさらさらした粉が盛大に舞い上がるのを見て、少女はついに声を上げて笑い出した。シルヴィアも笑いたい気分だった。ガルテは今これを口の中に入れなければ数瞬後にも自分は死ぬのだと言いたげな切実さで、少女が背嚢から取りだした食べ物をそのまま口に詰め込んでいる。干し肉の包み紙をはがしもせず。なるほどこれほど飢えていれば、一人でミルクを飲んだシルヴィアを殺しそうな目で睨んだのもうなずける。
少女は笑いながら大きなクィナの実をガルテに手渡した。固い皮に覆われているので、さすがのガルテも皮を剥かなければ食べられない。ガルテがクィナと格闘している間に、少女は残った粉を器に入れ、新たに取り出した革袋から水を注いでかき混ぜた。ガルテがお湯を――水すらも出す余裕がないので、自分のを使う気になったのだろう。
さらさらの粉は少女の手によって食べやすいもちもちした形態に固められていく。
「はい、どうぞ」
「……」
半分ほど食べたクィナをとりあえず脇に置き、ガルテは練り粉に手を伸ばした。ようやく人心地ついたのか、少し落ち着いたようだった。その気持ちはすごくよくわかるわ、とシルヴィアはガルテの無精髭に、心の中だけで話しかけた。飢えるって本当に辛いことだ。今まで全然知らなかった。
それにしても薬師というのは儲からないのだろうか。
「で?」
練り粉をもにもにと食べながら、ガルテが少々恥ずかしそうに言った。
「下心とやらを聞こうか。今なら毒薬だって作ってやるぞ。もちろん料金はいただくが」
「――いえ、薬を頼みに来たのでは、ないんです」
「なんだ」
ガルテは肩を落とした。よほど金に困っているらしい。
「じゃあ今度薬が必要になったら俺を思い出してくれよな。俺は自分で言うのも何だが腕はいいんだ。そうだお前その格好、旅してるんだろ。塗り薬買わないか。今ならこの貝に、ほれこのとおりこんもり盛って、お値段たったの盤ひとつ。うわあお買い得。これはいい薬なんだぞ、切り傷擦り傷何でもござれだ。旅には必需品だろ? これがたったの盤ひとつなんて大盤振る舞いだな俺――」
「じゃあひとつ」
「買うのかよ!」
自分で売り込んでおいてガルテはつっこんだ。少女が本当に革袋から盤を取り出すのを見て、慌てたように腰を浮かせる。
「あ、あの、ホントに買うのか? あの、もうちょっと高い――調合が必要な薬もいつでも作れるからな? な?」
「いえそれは結構。ちょうど塗り薬を切らしていたので……しみないですよね、これ」
「ああ大丈夫。俺様は本当に腕がいいんだからな。な」
薬がひとつ売れたのがよっぽど嬉しかったのか、このカモを逃してはいけないと思ったのか、ガルテは一生懸命売り込んでいる。少女はにっこりして、今買ったばかりの薬を背嚢に押し込んだ。
「下心を話してもいいでしょうか」
「だが俺は薬以外には何の役にも立たない男なんだよ」
少女は冗談には反応しなかった。いつしか、楽しそうだった笑みが消えていた。ガルテがまだ何か冗談口を叩くのを聞き流し、上着の隠しを探り、なにか引っ張り出した物がある。シルヴィアが覗き込むと、それは、
「『枯葉』――」
ガルテが言った。そうだ。それはどこにでもありそうな、一枚の、枯葉だった。
しかしガルテの反応は顕著だった。
「お、――お前も、か?」
「いえ、残念ながらあたしは違います。でもあなたがそうだと噂で聞きました。『枯葉』でありながら、この街に住んで、薬師として生活している人がいると」
「……」
「『枯葉』であるなら、腕のいい薬師なのに困窮しているのもうなずけます。あまり大っぴらに宣伝もできませんしね」
「……」
「お願いです、ガルテさん」
少女は身を乗り出した。
「誤解しないでください。あなたを捕らえに来たのではないんです。決してあなたを売ったりしません。お願いです、教えていただけませんか。あなたを……『枯葉』にしたのは誰ですか。その人に会いたいんです、あたしは、彫師を探しています」
「ば――お前」
ばん、と机に手を当てた。身を乗り出した様子は、少女に噛み付きかねなく思えた。
「何を言ってるんだ。彫師がこんなところに残ってるわけねえだろう。ここがどこだかわかってんのか、王のお膝元だぞ? 探してるってことだけでもな、万一街長の耳にでも入ってみろよ、火あぶりだぞ」
「その方はまだ、生きていますか」
少女も必死だった。見上げると、少女は今にも泣き出しそうに思えた。さっきまでの愉しそうな様子が嘘のようだ。お願い、と少女が叫んでいるのが聞こえたような気がした、お願い、お願い、お願い、お願いお願いお願い――
「教えて――ください」
「悪いが」
ガルテはそう言い、両手を上げた。食い入るように少女に見られて、ため息をつく。
「あのな。言っとくが、俺は『枯葉』じゃねえ。だが『枯葉』の友人はいる。その友人の彫師はな、もうとっくに死んでる」
「七年前――」
「そう、七年前。ティファ・ルダの虐殺の時にだ」
「……」
「お……いや友人がな、『枯葉』になったのは十年も昔だ。まだティファ・ルダも残っていたし、『契約』を交わすのだって違法でも何でもなかった頃だ」
少女が肩を落とした。シルヴィアには、事情はさっぱり分からなかったけれど、少女の中で荒れ狂う渦が見える気がした。絶望か、それに近いものが、少女の胸を染めて行く。今までも存在していた黒々とした深い淵が、さらにその口を広げて、少女を飲み込みそうになっている、そんな情景が浮かぶ。
ガルテを恨みたくなった。あんなにたくさん食べたくせに。
「よほどの事情があるんだな」
ガルテはため息をついた。椅子に腰掛けて、俯いた少女を覗き込む。
「『契約』をしたいのか? それで彫師を探してるのか?」
「……あたしの、」
少女の声はかすれてはいなかった。弱々しくもなく、静かで、落ち着いていた。
「友達が、『四ツ葉』なんです」
「『四ツ葉』あ!?」
「しかたなかった、んだ、そうです。子供のころ原因不明の病で死にかけて、それを救う唯一の手段が、『契約』を交わすことだったと。それしかなかったんだと。そのころは既にティファ・ルダもなくて、違法だったけど、命を助けるのに――仕方なくて」
「……で?」
「今……あのときと同じ症状で、死にかけています」
少女は指を組んだ。泣いてもいいのに、とシルヴィアは思った。淡々と語る少女があまりに悲しそうで、抱き締めてあげたいと思った。
「彫師ならどうにかしてくれるんじゃないかと……思うんです」
「彫った彫師は」
「亡くなりました。高齢だったので」
「そっか――だが既に『四ツ葉』なんだろ。四つもの契約に耐えられる者がこの世にいたとはな、それが既に驚きだが。彫師にだってどうしようもないんじゃないのか、これ以上。腕も、足も埋まってる。背中や腹にでも彫るつもりか」
「いえ既に……背も、お腹も」
「埋まってんのか?」
「はい。残るところは顔しか」
「何なんだ、それ」
ガルテは冗談かと探るように少女を見た。
「そんな契約に人間が耐えられるとは思えない。何者なんだ? 人間か?」
「あたしの大事な友達です」
少女はガルテを睨んだ。シルヴィアも睨んだ。なんのことだかさっぱり分からないが、ガルテの言い方はひどいと思った。ガルテは少女の反応を予期していたと言うように受け止めて頷く。
「そうか。俺が思うに、お前の友人がその契約を背負って何年経つのか知らねえが、その契約の重さに――ああ、だから彫師を探してんのか。腕のいい彫師なら、契約を引っぺがすことだって出来るっていうしな。だが契約の前にも死にかかってんだろう。その命を契約でつないだって事だろう。だったらもう、どうしようも――」
ガルテは口をつぐんだ。少女がまた、俯いたからだ。シルヴィアはまだガルテを睨んでいたが、ガルテはシルヴィアには気も止めなかった。だからガルテは顔を歪めた。少女が俯いたから、誰にも見られていないと油断したように、人相の悪い顔に悲しげな陰が兆した。
「どうにもならねえかも知れねえって、覚悟の上で、彫師を探してんのか」
「どうにもならないかどうかは、見つけてみないとわからない」
俯いたままでも少女の声からは力が失せていなかった。シルヴィアは少女の指先にそっと頬を寄せた。少しでも、その血の気の失せた指先を温めてあげたくて。
「そっか――ふん、『四ツ葉』とはね。そんな契約に耐えられるかもしれねえ人間、か。おい、名前はなんてんだ」
「私?」
少女が顔を上げた時には、ガルテの不精髭の生えた顔には、再び嫌々話に付き合ってやっているというような表情が戻っていた。
「そう。――いや、本名はいい。知りたくねえ。偽名を教えろ」
何だそれは。シルヴィアは驚いたが、少女は答えた。
「そうだな……エルティナ、はどうでしょう」
「そうか。じゃあエルティナ、これから【アスタ】へ行ってみな」
ガルテは懐を探って、ひとつの宝石を取り出した。少女の手に渡されたそれを、シルヴィアは思わずまじまじと見つめてしまった。それは透明で、一見すると水晶に見えたが、中に一輪の花が閉じこめられていた。紫色の可憐な花だ。アスタ、と呼ばれる花。
「どうせこの先行くつもりだったんだろうがな。一石二鳥というやつだ。その石を持って行けば、いろいろと話が早いだろうよ。そこで、デクター=カーンか、アルガス=グウェリン。どちらかの男を捜すんだ」
少女は石をまじまじと見つめていたが、ややして、顔を上げた。
「その人たちも、【契約の民】なんでしょうか」
「アルガスは違う。だがデクターは、そう……そうだな、おそらく『三ツ葉』だ。勘だがな。『二ツ葉』以下ってことはねえはずだ」
「『三ツ葉』がまだ、生きて……?」
「【アスタ】は【契約の民】を匿ってる。まさか期待はしないだろうな? デクターが友人を救える手だてを持っているなんて思わないだろうな? デクターの彫師ももう死んでるはずだからな。だが、そうだな、『三ツ葉』なら恐らく、契約の重圧ってもんも良く知ってるだろうよ」
「どうも……ありがとう、ございます」
少女は立ち上がった。左手に【アスタ】の石を握りしめて胸に当てた。膝を折ろうとした寸前に、ガルテが止めた。
「やめてくれ。礼なんかいらない」
「でも……」
「俺がただの親切心だけで【アスタ】の鍵を渡すと思うのか? 遅かれ早かれ、あんたの手にそれは渡るはずだった。礼なんか言われる筋合いはねえ」
「……」
「それより気をつけろよ」
ガルテは少女の隣を見た。そこに置いてあるつば広の帽子を一瞥する。
「ちゃんと帽子を被ってくるくらいの分別はあったようだがな、【アスタ】で匿われているのはもはや『契約の民』だけじゃねえ。あんたみたいな娘も対象だ。全く世も末だよ」
「噂には……聞いていましたが」
少女はわきに置いていた帽子を取り上げた。
「まさかこの街まで……?」
「そのまさかさ。王はいよいよ気が狂ってきやがった」
ガルテは少女が帽子をかぶり、髪を隠すのを見ながら、いまいましげに言った。
「気をつけろよ。【アスタ】の鍵を持ったまま捕まったりしてほしくないからな。【アスタ】まで行けば安心だ。あそこにはここ近辺の街から逃げ出した黒髪の娘が大勢いる。エルギン王子に早く跡を継いでほしいと、一日千秋の思いで待ちながら、二度とは戻らぬ若い時間を隠れて浪費してるんだ。その様子もよく見て置いて欲しいもんだ」
――黒髪の、娘が。
――大っぴらに外を歩けない状況に、なっている。
シルヴィアは胸の奥がじわじわと痛むのを感じながら、その話を聞いていた。そうだったのか……そうだったのか、私が殺されたのは、そのせいだったのか。
絹のようだと褒められた、あの自慢の黒髪のためだったのか――
「夜まで潜んでいた方がいいんだが、日が暮れると門が閉まるしな」
「ええ」
「よし、それでいい。髪どころか顔も見えない。窮屈だろうが、誰かに話しかけられても帽子を取ったりするんじゃねえぞ。この街の人間も信用しない方がいい、悲しいことだがな、お前が捕まれば、この街の娘が一人助かるんだ。一時的には、だけどな」
「肝に銘じます」
「えげつない話だぜ。娘を返せとねじ込んだ親はな、『代わりを連れてくれば返す』と言われるんだとよ」
もう生きちゃいねえだろうに、よくも言えるもんだ。
ガルテの言葉に胸が痛んだ。もう生きちゃいない。そうだ。もう生きてはいない。あんな目に遭ったのは、自分だけだと思っていた。でもそうじゃなかったのだ。自分は、大勢のうちの一人に過ぎなかったのだ、たださしたる理由もなく、ただ黒髪の若い娘というだけで――
「王を諌める人はもう、いないのでしょうか」
帽子を目深に被った少女が言った。ガルテは腕を組んだ。
「いるさ。第一将軍は高潔なお方だ」
不意打ちだった。
――おじ様……ッ!
「つっ」
少女がかすかな声をあげたが、シルヴィアはほとんど気に止めなかった。おじ様、おじ様、愛しい愛しいヒルヴェリンおじ様。名前を聞いただけで心臓が踊り始める。高潔なお方、そうでしょうとも、おじ様がいる限り、王の暴虐を諌めてくださる。
はず……
……なのに。
私は殺されてしまった。
おじ様の手も、届かなかった――
「……ヒルヴェリン=ラインスターク将軍は、この事態にまだ気づいておられない……?」
少女が言う声で現実に引き戻される。ガルテは、首を振った。
「いや、知ってるさ。先日までは頻繁に王を非公式に訪問してた。諌めてくれてるんだろうって、もっぱらの噂だった」
「でも、違った?」
「……わからん。二日と明けずしていた訪問が、ここ三日、途絶えてるな。なぜかまではここじゃ聞こえてこない。【アスタ】へ行けば、もうちっと詳しい話が聞こえるかもな」
――もう少し、おじ様の話を聞かせて。
そう思ったが、話はそこで終わってしまった。少女は荷物をまとめて、背嚢を背負った。深々と頭を下げる。
「お世話になりました」
「たいしたことじゃねえよ」
「薬師のガルテは気難しい。金を渡さねば動かぬ男だ。腕はいいが冷たくて、自分の得にならないことには指一本動かさない」
「なんだ、それ」
「聞いて来たあなたの噂です。噂とは全然違って、安心しました」
少女は悪戯っぽく言って、ガルテに微笑みかける。そして、机の上にいるシルヴィアに、手を伸ばした。
「あなたはどうする? 一緒に来る?」
「何言ってんだお前、鴉に言葉でたずねる奴があるかよ」
ガルテはそう言ったが、シルヴィアは――
信じられなかった。
でも、嬉しかった。
また誰かに優しい言葉をかけてもらえるなんて。
思わず少女の手に重ねるように、翼を出してしまった。ガルテが口をぱかりと開け、少女が微笑む。とん、とん、と卓の上を軽く蹴って少女の手の上に飛び乗ると、少女が肩の上に乗せてくれた。
「あたしが嫌になるまでは、一緒においで」
「かあ」
「あたしは――エルティナ、ね。今のところ。あなたの名前は?」
「答えるわけないだろ……?」
ガルテがつぶやいた。少女に言ったというよりは、鴉に確認したようだった。シルヴィアはどうしても、悪戯心を抑えられなかった。ガルテを見て、片目をつぶって見せる。
「……ひっ」
「じゃ、行こっか」
「いや、待てお前、それやめた方がいいぞ。魔物かなんかじゃねえのか」
「魔物じゃないですよ」
「魔物を知ってるような口ぶりじゃねえか」
「………………や、知らないですけど」
「その間はなんだよお前……」
「でもこの子は魔物じゃないです。だって」
「だって?」
「あったかいし……可愛いから」
「どうかしてるんじゃないのか……」
呆れるガルテに手を振って、少女――今のところエルティナは、肩にシルヴィアを乗せたまま、薬師の住居を後にした。