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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
間話1 オーレリア=カレン=マクニス
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オーレリア・カレン・マクニス(2)


   *


 極楽だった。


 あたしは湯船で精一杯手足を伸ばして、お湯を堪能した。三回は洗った自慢の髪は、ようやく元の輝きに近いまでになった。爪の汚れはまだ取れない。まあこれを頑張ってとっても、再びあの行程を進むとあっては、あまり意味がないような気がするので気にしないでおこう。そうしよう。


 お腹もいっぱいになって、お風呂にも入った。後は清潔な敷布と睡眠だ。でも娘がいつここを発つかわからないから、先に食糧を買っておくべきだろうか。狭い浴場の中で、しばらく考える。うん、やはりそれがいい気がした。【アスタ】を出たときには初秋だったが、アナカルシスはやはり広かった。あの速度でこの日数進んでもまだ、マス・ルダにも着かないのだから。


「この状態でまた森に入られたら、冗談じゃなく飢え死にだわね。もう冬が近いし、木の実もいつまで採れるかわかんないし……」


 呟いて立ち上がった。今までのあたしなら不平をたらたら垂らしたに違いない、大浴場とは名ばかりの小さな小さな風呂だったが、今では出るのが名残惜しいほどに感じられる。でもこれ以上浸かってのぼせたらバカだし、未練をたっぷり残しつつもあたしは浴場を後にした。明日の朝にでもまた入ろう。


 

 部屋に戻って隣を窺うが、娘はまだ戻っていないようだった。ここに部屋を取ったのは確かなのだから、少々出かけても大丈夫だろう。あたしはお風呂で磨いて取り戻した美貌を、森の中では何の役にも立たなかった化粧道具でもってさらに丁寧に飾り立てて、宿の主人にたっぷり色目を使って娘が発ったら教えてくれるように頼み込んでから、食糧や馬やもろもろを買い出しに出かけた。何だか割に合わない仕事のような気がしてきた。現金もらえたわけじゃないし。あんな速度で進んだら馬が疲弊して当然だ。娘は既に馬を取り替えてきたらしく、厩舎には見覚えのない馬が入っている。娘には馬をいたわる余裕もないようだった。まあ自分の身もいたわっていないのだから当たり前かも知れないが。


 可哀想に、これからどんな目に遭うかも知らないで。

 あたしは馬に流し目を送ってから外に出た。雄かな、この馬。



 さて買い物を済ませて戻ってきても娘はまだ部屋に戻っていない。宿の主人の話では、朝の内に一度出かけて戻ってからは、ずっと宿にいるはずだと言う。食事も取ったようだし寝てもいないようだから、さてはお風呂だろうか。あれでも一応は女の子だもの、そうに決まっている、と考えて、あたしは風呂場に出かけることにした。風呂じゃなかったらはっ倒す。もし汚いまま寝たりしていたら、首根っこつかんで風呂に放り込む。



 大浴場付属の脱衣所の、扉を開けるとそこにいた。

 真っ赤な顔をして座り込んでいた。


 てっきりお風呂に入っていると思っていたので、あたしは不覚にもビックリしてしまった。わあ、とか声も上げてしまった。娘がわずかに顔を上げたので、座り込んでいたのに驚いたのだという風を装って、親切なフリして声をかけてみる。


「ど、どうしたの。大丈夫?」


 娘は服は着ていた。入浴は済ませたようで、汚れはどこにも見あたらない。風呂から上がって服を着てから座り込んだと言うことは、急に具合でも悪くなったのかと思っていると、娘がかすれた声で言った。


「水……」


 そう言えば顔が真っ赤っかだ。


「まさかのぼせたのあんた。バカね」


 よく見れば指先どころか手のひらまでもがしわしわだ。


「や……もう……久しぶりだったんで……つい……」

「でも服はちゃんと着たんだ。器用ね」

「…………………………水ぅ……」


 とても恨めしげに言われたので、ちょっと溜飲が下がった。街を三つも素通りしやがったことは、これで許してやろうかな、と言う寛大な気持ちになる。


 拭布を濡らして額に当て、服をはだけさせて胸元に当て、ついでに脇の下にも挟んでやる。そして水を入れた器を口元にあてがってもあげた。ああなんて親切なあたし。娘は黙ってされるがままになっている。この娘がもし男だったらこのまま襲ってるところだ。


 娘は水を飲み終えると、ため息をついて、呟いた。


「このご恩は忘れません……」

「あんたね、のぼせたときに服着ちゃ駄目よ。裸のまんま冷たすぎない水を浴びるか、今みたいに布を濡らして当てて、充分休んでから動かないと駄目。そんなことも知らずに……でもここのお風呂そんな熱かったっけ。何時間入ってたのあんた」

「…………お昼ご飯食べて」

「もう夕ご飯の時間だけどね」

「久しぶりだったんで……つい……」


 バカだ。

 あたしは心底そう思った。と言うことは、あたしが昼食食べて長時間お風呂入って身支度をして出かけてたっぷり買い物をして帰ってくるまでずっと、入っていたというわけだ。そりゃのぼせるわ。バカだわこの子。あたしが王の手先だったらどうなっていたことだろう。


 そして少々慌てた。娘がずるずると、凭れていた壁に沿って倒れようとしたからだ。


「ちょっとあんた」

「寝れば治りますから……」

「部屋で寝なさいよ」

「もういいですここで……」


 いいわけないだろ。

 と思う間にもすうすうと寝息を立て始めている。ぐっしょり濡れた拭布を脇の下にそれぞれはさみ、胸元と額にも乗せて、服をはだけた状態で。


 布の間から、不思議な色をした肌が覗いていた。白くはない。強いて言えば黄色い、というのか。腕や首は日焼けして濃くなっていたが、胸元はたぶん、この娘本来の色なのだろう。卵の白身をよくよくふんわりと泡立てたメレンゲに、少しだけ黄身を混ぜたみたいな、きめが細かくてひどく美味しそうな色をしている。冷やしたのが効いたのか赤みも少し引いてきて、今はほんのりピンク色になっているのだ。


 女に興味ないどころかむしろ憎悪しているあたしでも、ちょっと味見をしてみたくなる。

 あの好色そうな宿屋の主人が掃除に来たらどうするつもりか。

 仕方なく、拭布を取って脱衣所に戻して、服を元どおりきちんと留めてやってから、あたしは娘を抱き上げて部屋に運んだ。馬鹿な、と思うほど軽かった。



 さて、夜だ。

 自室でちびちびと炎酒を飲みながら、これからのことについて考えている。娘の目的地がマス・ルダならまだいいけれど、イェルディアまで行くつもりだったら、今のままの方法は採れない。いや採れないわけではないが、採りたくない。採ってたまるか。


 さてそれでは、どういう方法があるだろう。

 お風呂で恩を売ったから、話の接ぎ穂は出来ているわけだ。覚えていればの話だが。そこから何とか丸め込んで同行に持ち込む手段はないものだろうか。あたしはふさふさと枕に垂れた亜麻色の髪をじっと見た。これが黒かったら少しは役に立ったのに。


 ――黒髪で買い物も大変だろうからあたしが代わりに。


 却下だ。うさん臭いにも程がある。


 ――あの子が魔物に襲われればねえ。助けて恩を売ってなし崩しに。


 却下だ。護衛の意味が全然ない。

 どうしよう。うーん。うーん。うーん。


 ――だいたい女の護衛ってのがそもそも気に入らなかったのよね。


 炎酒が効いてきて、何だか愚痴っぽい気分になってきた。


 ――あの娘が男だったなら、どんなに楽しかっただろう。


 二週間近くも森の中で禁欲生活を送ったのだ。酔いも手伝って、何だかもう、いてもたってもいられない。これは危険な兆候だ。やだわあたしったら、今は仕事中だっていうのに。


 楽しいことを考えよう。そう、この依頼を無事に果たした暁に、あの子に会うときのことを妄想しよう。あの子はあたしに感謝しているはずだ。今までけんもほろろだった自分の応対を反省するかも知れない。謝ってきたらあたしは優しく微笑んで、いいのよ気にしないで、あたしは気にしてないわ、なんて大人の応対を見せて。あの子は感動するかも知れない。あたしの心の広さに感銘を受けて、笑顔のひとつも見せるかも知れない。そうしたらあたしは遠回しに、でも本当に大変だったわなんて言いながら、さりげなく、さりげなく、食事に誘ってみたりして。応じればこっちのものだ。あの時から、二度と同じ場所で食事をしてくれなくなったが、今度のことでまたあの絶好の機会をつかむことが出来るかも知れない。何しろあの時失敗したのはあたしの生涯の痛恨事だったのだ(まあ失敗していなかったら今頃生きていないかも知れない)。そしたら後は。うふふ。えへへ。


 ――あたしにしか頼めない、ってあの子は言ったわ。


 ふと楽しい妄想から我に返ってあたしは呟いた。


 ――そりゃそうかも知れないわ。


 あんな無防備な娘は珍しい。森の中での進みっぷりはなかなか堂に入ったものだったが、街に入ってからの無防備さはどうしたことだ。思うにあの子は自分の限界を少し過大評価している節がある。あんな小さな華奢な体で、二週間もあの強行軍を続けたのだから、お風呂に入って気が抜けたら、そりゃぶっ倒れるなと言う方が無理な話だ。


 あの子があたしを護衛に選んだ理由はとてもよくわかる気がした。

 普通の男が護衛についたら別の意味でとても危険だ。


「ちゃんと寝てんのかな……あの娘」


 何だか不安になってくる。寝台の上で、体を起こした。そうだ。酔っぱらいを演じて部屋間違っちゃった~なんて言って乱入してみよう。自慢じゃないが酔っぱらいのフリは結構得意だ。そしてちょっと話でもして仲良くなって、出るときに知らんぷりで一緒について行けばいいじゃないか。……あれ。なんかこの論理展開、ちょっとおかしい?


 考え直してみても、今の思考に瑕瑾が見あたらなかったので、満足して寝台からすべり降りた。そうと決まったら善は急げだ。服装を整えて、鏡を見て顔を直して、それから、


「酔っぱらいのフリするならもうちょっと酒臭い方がいいかもね……」


 呟いた。何しろ感覚の鋭い娘だ。一眠りして体力を取り戻したら、結構油断のならない相手に戻るだろうし。


「もう一口だけ飲もうかな……」


 炎酒って美味しいのよね。くぴ、と小さな器を飲み干して、さらにとくとくと注いだ。二週間ぶりの炎酒は本当に、五臓六腑に染み渡る美味しさだった。名前の割に口当たりがいい。するりと喉に滑り込む。その後胃を起点にじわじわ広がる酔いの感覚が、何とも言えず好きなのだ。

 美味しいわ。くぴ、ともう一つ飲み干して。

 もうちょっとかな。くぴ、ともう一つ飲み干して。

 これでやめておこう。くぴ、とさらにもう一つ。

 あら何だか止まらない。くぴ、と






 娘の部屋にたどり着いたときには、べろんべろんになっていた。

 思うに人間、頑張りすぎは禁物だ。野宿が悪いとは言わないが、せめて一週間で止めておくべきだ。たがが外れたときの反動が恐ろしい。娘は風呂に浸かりすぎてぶっ倒れ、あたしは炎酒を飲み過ぎて前後不覚の有様だ。娘がバカならあたしは間抜けだ。間抜けがバカを護衛しているという今の状態、王に殺される日は近いかも知れない。

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