人魚(4)
人魚たちが逃げ去り、辺りはまた、居心地の良さを取り戻していた。
舞はため息をついた。事態は少し前進したと言えるが、改善したとはとうてい言えない。
「人魚はエスティエルティナが煩くてたまらないんです」
と、ニコルが言った。舞は驚いた。
「うるさい?」
「はい。でも、今はとにかく行きましょう。早いところここを出ないと」
そう言ってニコルは先に立って歩き出す。舞はアルガスと顔を見合わせ、急いでその後を追った。
「ねえ、ニコル?」
「はい?」
「出口、わかるの?」
「はい。こっちです」
答える声にも歩く様子にも全く澱みがない。この子は本当にニコルだろうかと舞はまた思った。そうする内にもニコルは堂々とした足取りで岩礁を回っていく。
「ねえ、ニコル」
声をかけたときに波が来て、ふわりと、身体が浮いた。
抜き身のエスティエルティナは、水の抵抗を受けやすく持ちづらかった。切っ先も刃もとても鋭いから、周囲に当たらないように気をつけなければならない。また相変わらず舞の身体には浮力が働いていて、ことあるごとに波に揺られて浮き上がりそうになる。ああもう、と思わず毒づくと、アルガスが舞の左手を掴まえた。心臓がまた飛び跳ねた。
重しになってもらえるのはありがたいことなのだけれど、そのたびにこんなにどきどきしていては身が保たない。その上、情けなかった。自分ひとりの姿勢さえ保つことができないなんて。思わずため息をこぼした舞を振り返って、ニコルが笑った。舞はつい、睨んでしまう。
「……何かおかしい?」
「おかしいんじゃなくて、面白いだけです」
「なんですって!?」
「あ、八つ当たりだ。もーほんと面白い」
「何が!?」
「姫のそう言うところを見るのは初めてなので、新鮮だなって思って。姫は今までずっと、目的に向かって走っていたでしょ。回りの人はそんな姫に引っ張られていたんです。姫がどんどん先に行くから――大きな石とかとげとげの藪とかも一生懸命乗り越えて先に進もうとするから、回りの流れ者とかは姫が傷だらけになるのを放っておけなくて、その石をどける手伝いをしたり、藪を切り開いたりして、姫が進むのを助けていたんです。……でも今の姫は、途方にくれてる」
「……」
「どこにでも行けるから、どこに行ってもいいから、却って困って、どうすればいいかわからなくなってる。回りに見とれたりよそ見したりして、ふわふわ浮いちゃってるのを、アルガスが掴まえてあげてこっちだよって教えてあげてるんだなって思ったら、なんかめっちゃ面白くってですね」
「……あなた本当にニコル?」
そう言うとニコルは、舞をじっと見た。
そして、微笑んだ。何もかもわかっていると言うように。
「迷ってもいいんじゃないですか。姫は人間なんですから」
「ねえニコル、さっき何があったの? 回りを見てくるって行ったとき」
「別に何もありませんでしたよ」
「じゃあどうして道がわかるの?」
目の前を、魚の群れが横切っていった。
色とりどりの小さな魚たちは、まるで蝶のように可憐だった。あちらこちらに色彩豊かな海藻が群れをなして生えている。人魚たちは遠くでこちらを窺っているのだろうが、近づいてくる様子はなかった。美しい風景の中を、ニコルは慣れ親しんだ道だとでも言うように歩いて行く。
「ただなんとなくわかるんです」
「ニコル、こっちを見て」
アルガスに手を放してもらい、ニコルが振り返った瞬間に、左手で、“敬意”を示す印を描いた。
それを見て、ニコルは微笑む。
「俺にまでそんな気を使ってくれなくてもいいんですよ」
知識だと、舞は思った。
さっきまでのニコルと今のニコルが違うところ。それはたぶん、知識だ。
今までのニコルは、神殿の作法など何も知らなかったはずだ。エルカテルミナやエスティエルティナが幼い頃からたたき込まれる礼儀作法など見たこともなかった、はずだ。
しかし今のニコルには、舞が描いた印がどんな意味を持つのかわかっている。
「大丈夫、心配しないでください。俺がおかしくなったわけじゃない。人魚に乗っ取られているとか、そう言うわけでもないんです。ただわかる。出口がどこにあるのかわかるし、人魚たちがどうすればその、こっちに同情してくれるとか、どういう風に声をかければ喜ぶかとか、そう言うことがわかるだけです」
「そう……なの」
「はい。あ、そうだ。出口に着く前に、確認しておかなければならないですね」
そう言ってニコルは立ち止まった。
紫の花のような海藻の一群れが、咲き乱れている場所だった。
ニコルは真剣な面持ちで振り返ると、舞に訊ねた。
「姫は、あちらに帰らなくて良いんですか?」
「あちら――」
舞の故郷のことだろう。あのウェルダという人魚は、用が済んだらあちらに帰す、と、言っていた。つまりあちらに還る手段は、あると言うことなのだろう。
「あちらに帰りたいなら……連れてってあげることはできますよ」
この子は本当にニコルだろうかと、舞はまた思った。
そんな知識までもが、今のニコルにはあるというのだろうか。
これは絶対におかしい。普通の人間なら知り得ない知識までもが、ニコルの頭の中にある。舞は少し考えた。さっき、“その辺”を見に行ったニコルは、人魚に会ったのではないだろうか。ウェルダとスウェラの仲間じゃない人魚に――
ウェルダは舞を囮にして銀狼を捕まえると言った。そのために舞の礼儀を封じ声も封じて何も言えないようにした。あの振る舞いは人魚にあるまじき、無礼で身勝手な行動だった。
ランダールの話や伝承で伝えられたことが、正しいのだとしたら。ウェルダの振る舞いを良しとしない人魚も、存在するはずだ。
「俺の中の知識がどこから来ているのかはちょっとわかりません」
舞の考えを見透かしたように、ニコルが言った。
「でも、間違っていないことだけは確かです。さっき姫が倒れていた場所、魔物がたくさんきた場所があったでしょう。あそこを通って行けば、姫の故郷に帰れるみたいです。でも、ひとつだけ。あちらに帰ったら、こちらに戻る手段はありません」
「そう……」
「だから、聞いておかなきゃいけないと思って。どちらに行きたいのか。……あちらはとても、いいところみたいですし……歪みの被害も毒もない、安定した楽園、だったんですね。あちらに帰すのがあなたのためだとさっきの人魚は言いましたが、俺は今、それがもっともな意見だと知っています」
舞は人魚から見ても異質な存在だった。昨日打ちのめされたその事実は、やっぱりまだ重い。
九歳までいたあの場所が、人魚やニコルの言うような“楽園”と呼ばれるほど良い場所だったかどうかは、あまり覚えていないけれど。本来属するべき場所を棄てることで、どういう波紋が生じるのか、わからないのは怖い。舞を、異物だと。異物は排除すべきだと。それが女神の意に沿うことだと、そう考える人もいる。――けれど。
シルヴィアの祈りと、ファーナの願い。ふたりに励まされて、舞は微笑んだ。
「でも……あたしは、やっぱり、こっちにいたい」
「じゃあ、ニーナのところに帰るんで、いいですね?」
「うん、いつかはそうしたい。……だけど……」
迷っている、と、ニコルはさっき、そう言った。
そうだ、迷っているのだと、舞は思った。その時初めて、はっきりわかった。舞には目的がない。王を交代させることに奔走していたときには、こんな迷いはなかった――他に選択肢などなかったし、王をあのままにしておくわけにはいかないと、重々わかっていたから。
でも今は、違う。この寄る辺ない気持ちはきっとそのせいだ。
ニーナのところへ帰りたい、みんなと一緒に住めるようになりたい、という、希望はあるけれど、そのために奮励することが善いことなのかどうか。その判断が、できないのだ。自分の希望のためだけに動いて良いのかが、わからない。
ニコルは舞が話し出すのを、黙ってじっと待っている。アルガスもずっと、無言だった。そなたの身体に魔法をかけた、だから喋るなと、ウェルダが言った。だから喋らないのだと思うと、申し訳なくて、居たたまれなくて。
「……だ、けど。あちらに帰ったら、その、死んでしまうわけでしょう……二日しか保たないと、人魚が言っていたし。それが、それが、……ガスの……」
「アルガスの体力を分けてもらえば、それが延びる」
「そ、そう。でもそれじゃあ、ガスまで……」
「嫌ですか?」
ニコルがアルガスに聞き、アルガスは首を振った。ですよね、とニコルは言う。
「嫌じゃないって言ってますよ。嫌だったらとっくに話してるんじゃないでしょうか。この魔法は、アルガスの意思で解くことができるんです。だったら、問題ないじゃないですか」
「あるでしょ!?」
「またどっかに行っちゃった姫をひたすら捜すより、ずっといいですよ」
ねー、とニコルが言い、アルガスが頷いた。舞は言葉に詰まった。何を言っていいか、わからない。
「ひとりじゃどうにもならないことって、あるじゃないですか。で、困ってる人がいたら助けたいですし、うまく行ってほしいって、願うのも人情じゃないですか。俺の希望を言わせてもらえれば、俺は姫に、帰ってきて欲しいです。ニーナを喜ばせてあげて欲しい。ニーナはね、すっごく姫を心配していて……巡幸って大変なんですね、今まで全然知らなかったんですけど……色んな責任を全部果たしながら、ひたすら、貴女が帰るのを祈ってるんです。帰ったらどんなに喜ぶだろうって思ったら、その、姫が嫌がっていたとしても引きずって行きたいと思うほどです」
「……」
「でも姫は、嫌がってない。ニーナにまた会いたいって、思ってくれてる。俺はそれが嬉しいです。だってニーナの希望も姫の希望も、どっちも叶えられるわけですからね。それなら、どんな手を使ってでも、帰って欲しいと思います。アルガスはそれを手伝う。今までと全然変わらないでしょ。俺もできる限りのことをしますよ。姫がどうやったらこっちでまた生きていけるようになるのか――その辺りはその、知識がなくて、わからないんですけど、でも。オーレリアさんや学者さんとかが総出で、その知識を探してるんだそうですから、今頃はいい方法が見つかっているかも。
なのに姫がね、アルガスや俺に迷惑かけるのが嫌だから、とかいうわけわかんない理由でうじうじ悩んで、遠慮して――またどっかに行っちゃうとか、そういうことになったら、そっちのがずっと嫌なんですよ」
辺りは、静かだった。
しゃらしゃらこぽこぽという水の音が聞こえているのに、全然煩くない。
その音を聞きながら、舞は、考えていた。自分は何を迷っているのだろう。心の中にあるこの気後れは一体何だろう。
さっき、スウェラに魔法をかけられる前、アルガスが言った言葉を思い出す。『どの道を選んでもいいから――』彼はその先、何を言おうとしたのだろう。あの眼差しの中には、何があったのだろう。
「方法、……あるのかな」
「ありますよ」
ニコルは断言した。舞はまた絶句した。ニコルは頷いて、励ますように微笑んだ。
「俺の中の知識には、その内容まではないんです。さっき人魚が言っていたでしょ、“そうしない方がいい”って。だから俺の中にも、その知識が浮かんでこないんだと思うんです。……でも、あることは確かですよ。それはわかります。エルヴェントラもオーレリアさんも、本気でその方法を捜してる。あの人たちが、いつまでも、その方法に辿り着かないわけないでしょ」
「そう……だね」
あなたがこの地で得たもの、その一番大きなものは、人との縁だと、アルガスは言った。確かにそうだと、今、初めて思った。
舞が帰ったかも知れないと思いながら、半年も捜してくれる人たちがいる。半年もの間、あるかどうかもわからない方法を、探し続けてくれている人たちもいる。幸せを祈ってくれた人も、ずっと待ち続けていた婚姻の儀式でさえ、舞が帰るまで待つと言ってくれた人も。
それなら。
舞は俯いた。アルガスは今もまだ、舞の左手を掴まえてくれている。水の中だというのにその手のひらはとても温かい。
“ちゃんと言えよ”
出し抜けにヴェガスタの声が耳元で言った。心臓が、ずきん、と痛んだ。ちゃんと言えよ――
もう一度会えたら。
恥も外聞もなく。
相手の都合など、気にせずに。
その時唐突に――舞は、自分の気後れの正体に気づいた。
「……ガス」
顔を上げる。アルガスの瞳の色はまだ藍色だ。うん、と、頷いてくれたのが見える。舞は目を閉じ、深呼吸をした。怖い。怖い。本当に怖い。――でも。
お荷物になりたかったわけじゃない。道連れにしたかったわけじゃない。できるだけ好意を持ってもらえれば、と思っているところだったのに、逆に負担をかけるなんて哀しい。
でも今、実際にそうなってしまっていて、あの優しい人たちのところへ帰るのに、この状況は好都合――と言うか、必要不可欠と言える。じたばたしても状況は変わらない。だったら、アルガスの親切心だけに依存して、成り行きに任せたまま、この状況の上にあぐらをかいたままではいたくない。
幸せにと祈ってくれたシルヴィアの声が、そっと背中を押してくれる。
――あなたとアイオリーナが幸せでいてくれること、それが私の望みなの。それを、忘れないで。
忘れたりしない。
だから、信じる。
「庇護を宣言してくれた、それはまだ変わらないって、さっき、言ってくれたから――お、願い、します。あたしに、力を貸して欲しい」
うん、と、またアルガスが頷いた。ニコルが苦笑したのが見え、舞は少したじろいだ。やっぱり図々しい頼みなのかも知れない、けれど。
でも、言うより他に、方法はない。
「人魚のかけた魔法を、このまま利用させて。ガスに負担をかけるのは、申し訳ないけど……でも、お願い。ニーナや皆の傍で、生きていけるような方法を、手に入れるまで。力を貸して」
うん、と、アルガスが頷く。ニコルがぶはっと噴き出した。
「だから初めからそれでいこうってずっと言ってるじゃないですか!」
「うっ、うるさいな! そう都合良くいかないの、心の問題なの!」
思わず喚くとアルガスが微笑み、舞はまたずきんと心臓が痛むのを感じた。どうしよう、と思った。心臓ってこんなに負荷をかけても大丈夫なものなのだろうか。煙を噴いて動かなくなったらどうしよう。




