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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十四章 人魚
182/251

人魚(2)


    *



 まるで夢を見ているみたいに、現実味がなかった。

 びっくりするほど眠い。ずっと身体の中に溜まっていた疲れが、この水の中にゆらゆらと溶け出していくようで、とても心地よくて、目を開けていられなかった。ニコルが周囲を見に行ってしまったので、沈黙が落ちた。とても優しい沈黙だった。


 夢ならば、醒めないで欲しい。

 ずっとこのまま、微睡んでいられたらいいのに。


 と。

 

 指先に、何かが触れた。目を開けるとアルガスの顔が少し下にあった。波に揺られて、舞の身体が浮き上がりそうになったのを、止めてくれたらしかった。さっきここへ沈んできたときにも思ったが、どうやら舞の身体にだけ、浮力が働くらしい。それは身体の中に“負”があるからなのだろうか。さっき襲いかかろうとした魔物たちは、この水の中に沈むことができなかった。


 やはり自分は、アルガスやニコルとは、別の体質を持っている。

 その事実が、昨夜はあれほど絶望的な断絶に思えたのに。どうしてだろう。今は、それほどの障害だとは思えなかった。もう二度と会えないかもしれないと思ったのに、アルガスが今、目の前にいる。その幸運に比べたら、体質が少々違うくらい、些細な問題だという気がする。


「眠いなら、眠ったらいい」


 優しい声が、そう言った。


「掴まえておくから、大丈夫だ」

「……うん」


 眠る前は、空っぽだった。仇を見失い、それどころか、よく似た男に感謝されて。ずっと抱えてきた憎しみを無理矢理手放させられて。隅々にまで根を張っていた大きな感情を喪って、ずたずたに引きちぎられた心の残骸が、かろうじて胸の中に残っているだけだった。


 でもこの水の中は、とても居心地が良くて。たゆたう柔らかな波に揺られているうちに、じわじわと、胸に何かが満ちてくる。どす黒く醜い感情が占めていた場所に、柔らかくて穏やかで、すがすがしい何かが育っていく。哀しくないのに、涙が出た。止めどなく溢れる涙はすぐに水に溶けていく。周囲に音が満ちている。色が、光が、溢れている。優しい光。鮮やかな色彩。豊かな音。


 舞は目を閉じた。

 ずっと忘れていた音色が、身体の中に滲みてくる。爪や髪の先まで、満たされていくような気がする。 





 長い時間が経ったような気がした。実際には、ほんの数分だったのかも知れないけれど。

 舞は目を開けた。少し眠ったらしく、頭がすっきりしていた。ここがあんまり居心地が良すぎるからか、あまり緊迫感がないが、実際今は非常事態である。水の中で息ができ、水圧に押し潰される様子もない。と言うことはつまり、ここは。


「ここ、人魚の住処――だよね」


 声を上げると、アルガスがこちらを見た。舞の手を握ったまま、やはり彼も、周囲を見回していたようだった。「そうだな」アルガスの声は、以前と変わらず、低くて穏やかで、耳に快い。胸がずきんと痛んだ。半年経ったという――舞にとってはたったのひと晩なのに。舞には全然実感がないが、確かに、アルガスの外見は少し変わっているようだ。背が少し伸びている。痩せて、精悍さが増している。ずきんと、また胸が痛んだ。アルガスを見る度に胸が疼く、その痛みさえ、新鮮な気がする。


 水の中は美しかった。驚く程の色彩に溢れていた。いちいち辺りに目を奪われる。舞は深呼吸をした。とにかく今は、状況を把握して、今後の対策を練らなければならない。周囲に見とれている場合ではない。


 理由がよくわからないが、舞たちを、ここに呼んだのは人魚らしい。魔物に喰われる寸前で水に沈んだのだから、助けてもらえたと思うのが妥当だろう。しかし、理由がわからない。それから、未だにここに招待主が現れないのも解せなかった。少し離れたところに、ニコルの背嚢が見えている。そちらへ行こうとして水をかいた時、ふわりと身体が浮いた。


 この浮力は厄介だ。アルガスの足はしっかりと水底に着いているのに、舞の足はふわふわ浮いて、気を抜くと浮かび上がってしまいそうになる。この奥まった岩礁の間では緩やかな波しか来ないけれど、もし大きな波が来たら、舞だけ押し流されてしまうに違いない。


「掴まるといい」さっきと同じ口調でアルガスが言った。「ニコルの様子を見に行こう。人魚と接触しているかも知れない」

「……お手数、おかけします」


 意を決して舞はアルガスの差し出した左腕に掴まった。ずっと握りしめていたエスティエルティナを小さく縮めて、いつもどおり首にかける。ファーナの角が革紐についている。それを舞は握りしめた。


 ――お前は俺の愛し子だ。いつか必ず、幸せになれ。


 ファーナはあれから、どうなったのだろう。半年経ったという――王宮は崩れたはずだが、それから、どうなったのだろう。眠って少しすっきりしたからか、さっきは浮かばなかった疑問がぷつぷつと浮かび始めた。王はどうなったのだろう。王妃は。ヴェガスタは。ニーナとビアンカとアイオリーナとカーディスと、エルギンは。マスタードラは、イーシャットは、エルヴェントラは――ありとあらゆる知り合いの名前が脳裏に浮かぶ。舞はそれを振り払おうとした。今は、事態の把握を優先すべきだ。


 と。

 アルガスが、立ち止まった。

 彼が左腕を引いたので、舞の身体は引っ張られてアルガスの傍に寄った。アルガスの瞳は、非常事態のためかずっと藍色だったが、その藍が、少し、濃くなったような気がした。舞はどきんとした。アルガスの右手が動いて、舞の顔の前に漂う髪をそっと退けた。指先が頬をかすめて、心臓が飛び跳ねる。

 いつもどおり穏やかな声が、訊ねた。


「ひとつ聞いておきたい。――これからどうしたい?」

「え……?」

「ニーナはあなたを捜している。あなたと、それから、こちらで生きていけるようになる方策をも。だがその方策はまだ見つかっていない。今の段階で、あちらに帰ったら、あなたの身体に良くない。その事実は、まだ変わっていない」

「……うん」

「半年前は、あなたが健やかに生きていける場所は、王宮の傍と、それから、あなたの故郷しかないのだと思っていた。今は王宮はもうないが――しかし、今、選択肢が増えた。あのくすんだ草原と、それからここでも、どうやら苦しくなさそうだ」

「……ここでも?」

 

 舞は驚いた。舞はもはや、ニーナやアルガスや、他の大勢の優しい人たちのいる場所に帰ることしか、考えていなかったからだ。アルガスは自分の考えをまとめようとするかのように、ゆっくりとした口調で考えながら言った。


「あのくすんだ草原は勧めない。あのおびただしい数の魔物がいつ襲い来るかわからない場所では、まともに生きていくなど無理だろう。だから、選択肢は三つだ。人魚に頼ってここで生きるか、故郷へ帰る道を捜すか、いつかいい方法が見つかることに賭けて、ニーナの元へ帰るか」


 アルガスの瞳の奥に、熱が見える。舞はその藍色に輝く熱によって、身体が温まってくるような錯覚に囚われた。優しくて穏やかで、それでいて、烈しい熱。

 心臓が鼓動の度に、ずきんずきんと痛んでいる。

 でもその痛みのたびに、心にぽかりと空いた空洞に、少しずつ、何かが育ってきている。それはまだ、若く青く、未熟だったけれど。景色や周囲の色合いに感じ入ると言う感覚も、久しぶりに――七年ぶりに、思い出している。引きちぎられた心の傷が癒えるにつれて、きっと、色んな感情も育っていくはずだ。今も、七年ずっと憎しみに阻害されてきた様々な色合いの種が、少しずつ、芽吹き始めている。七年ぶりに聞く音色。七年ぶりに見る色彩。色とりどりの、きらきら光るかけらが、世界のあちこちに隠れていて、舞に見つかるのを待っている、そんな予感に似た何かを、本当に久しぶりに思い出していた。


 だからだろうか。この熱が見えるのは。

 フェリスタの時はわからなかった。この熱は、フェリスタの目の中にもあったのだろうか。エルギンの時にもわからなかった。エルギンとはずっと一緒に育ったようなものなのに、いつの間に舞へ好意を持ってくれたのか、全く心当たりがなかった。舞を見る目の中に何があったのか、全然気がつかなかった。


 これは勝手な願望かも知れない。自分の中にあるだけの感情を、アルガスにも持って欲しいと祈るあまりに、勝手に思い込んでいるだけかも知れない。でも、もしかして。もしかしてもしかして、もしかしたら。全然脈がないというわけでも、ないかもしれない。ヴェガスタが言って、言わなかったこと。お前もあの時、窓から覗いていれば良かったのにと彼は言った。


 ヒリエッタから舞を隠すために抱き締めたような体勢のまま、ヴェガスタは、こいつは面白え、と言った。何が面白かったのか、あの時はさっぱりわからなかったけれど。


「どの選択肢を選んでも、俺は協力する。あなたには庇護を宣言した。それは今も変わらない」

「……ありがとう」

「だがひとつ、頼みがある」

「……頼み?」

「どの選択肢を、選んでもいいから――」




「これが完全体かえ」


 唐突に、冷たい声が割り込んだ。舞はぎょっとした。

 ニコルの背嚢がある辺りに、いつの間にか、人魚がいた。

 それも、ふたりだ。


 人魚はとても美しかった。完璧な美しさだった。どんな芸術家だってこの美は再現できないだろうと思うほど、細い肩もまろやかな膨らみも、くびれた腰も、下半身を包む鱗のきらめきも、長い尾びれも、全てが麗しかった。長い髪が水に揺れてゆらゆらと揺らめいていた。圧倒されるほどの美貌を、その長く美しい髪がよりいっそう輝かせている。舞は呆気にとられ、次いで、我に返った。現れたのはふたりの人魚だけではなかった。振り返ると、後ろにも人魚がいた。三、四、五――岩礁から、まるで動物園の檻を覗く来園客のように、こちらを遠巻きに眺めている。


 人魚だ。

 舞たちをこの水の中に招き入れてから、ずっと姿を見せなかったのに、今になってようやく来たらしい。


 舞は居住まいを正し、気を引き締め直した。人魚は人間よりずっと高潔で文化の進んだ種族だ。信頼に足る存在だと聞いたが、それでも、別の種族であることには代わりがないし、繁殖期には人間の男を引き裂いて食べるという話は有名だ。


 ランダールからたたき込まれた、ルファルファの【最後の娘】としての最敬礼をした。ここまでの礼は今まで一度もしたことがなかった。腰を屈め、左手で、顔の前で“敬意”を示す印を描く。


「初めまして、人魚の皆様。危ないところをお招きいただき、ありがとうございます。わたしは【最後の娘】――エスティエルティナ=ラ・マイ=エスメラルダ。【最後の娘】の感謝を、どうかお受けください」


 人魚たちが周囲で、ひそひそ、と言葉を交わしたのがわかった。何だろう、と、舞は思った。


 雰囲気が良くない。敵意を感じる。

 人魚は確かにあの魔物の群れから舞たちを助けてくれたけれど――それがこちらへの好意のためだと言うことはなさそうだ。


 正面にいる、ひときわ身体が大きく優雅な人魚は、嫌そうな顔をした。舞の視線を受け止めて、ふん、と鼻を鳴らす。


「――人間にしては礼儀を弁えておること。礼には礼を返さねばならぬ。儂はウェルダ」

「ウェルダ様、」

「黙っておれ」冷たい声でウェルダは言った。「人間のお喋りは好かぬ。スウェラ、早うせぬか」

「えええ」


 ウェルダと名乗った人魚の隣にいる人魚が、不満げな声を上げた。


「また儂か。水を呼んだのも儂ではないか」

「お黙り!」


 ウェルダはとげとげしい声で叫んだ。その時、アルガスが驚いたように身をひいた。見ると後ろから伸びた細い腕が、アルガスの肩をつついたところだった。つついた人魚はきゃあっと声を上げて飛び退いた。触っちゃった触っちゃった、と言うような華やいだ声を上げながら仲間のところへ戻っていく。

 まるで【アスタ】に行ったときのようだ。ビアンカを初めて見たとき――ロギオン=ジルベルトの小屋の外で、ビアンカたち若い娘たちが、ひそひそくすくす囁き合っていた、あの感じにそっくりだ。若い人魚の腕がまた伸びてきてアルガスの肩に触ろうとし、きゃあきゃあ言いながら戻る。その繰り返しに、ウェルダが苛立った声をあげた。


「下がっておれ、はしたない!」


 視線を戻すと、スウェラと呼ばれた人魚が少しこちらに近づいていた。彼女は見るからに、嫌そうだった。渋々、という感じで舞の前にやって来ると、熱いものにでも近づくようにそろそろと、手を伸ばした。「動くな」キツい声で彼女は言い、さっと舞の額に触れた。慌てて手を引っ込めて、スウェラは下がる。


「どうじゃ、スウェラ」

「完全体じゃな」

「それはわかっておる!」苛立たしげにウェルダは叫ぶ。「陸に連れていっても良さそうかどうか聞いておるのじゃ!」

「無理じゃな。肉体も体力もごく普通の人間じゃもの」

「しかし、十年ばかし箱庭で生きたというぞ」

「何らかの力はあったようじゃが――しかしもうそれはほとんどない。今陸に連れて上がったら二日も保たずに死ぬ」


 そんな、と舞は思った。たったの二日だなんて。


「そうか……。二日ではちと心許ないな。ふうむ」

「これは一体何のお話ですか」


 舞は口を出した。同時に、左手で、さっきとは別の、“依頼”を示す印を描いた。ウェルダはそれを見てまた嫌そうな顔をした。ため息をついて、水中に左手を閃かせた。キラキラと光が散る。


「さすがは【最後の娘】というわけか、礼儀をよう知っておること」


 言葉面は褒めているようだが、彼女が忌々しいと思っていることがよくわかる。舞は、ランダールから、ルファルファの儀礼についてたたき込まれたことを感謝した。人魚にとって人間は下等な存在であるが、礼節を示されれば返さないわけにはいかないはずだ。そもそも人間に礼節を教えたのは他ならぬ人魚だからだ。


「仕方がない。……そなたたちは魔物に喰われて死ぬところを儂に助けられた」


 ウェルダが言い、スウェラが、不満そうな顔をした。実際に助けたのは自分だ、とでも、言いたいようだった。

 しかしスウェラも回りの人魚たちも、ウェルダを畏れている。この場において彼女は代表であり、恐怖で支配する統治者だった。スウェラの不満など意にも介さず、ウェルダは話す。


「じゃからその身柄を儂がどうしようとこちらの勝手じゃ。そうではないか」

「……」


 舞は無言で、もう一度、“敬意”を示す印を描いた。ウェルダはまた嫌そうな顔をする。


「わかったわかった。儂はそなたを陸に連れて行く。そなたは銀狼に捜されておる。気にかけられておる。儂らが既に銀狼と訣別した話は知っておるじゃろう、じゃがな、そろそろ仲直りしても良いかな、と、思っておるのじゃ。人間にとっても良い話であろう――世界の守護者と癒やし手が、また共に手を携えるのじゃもの。繁殖の度に無益な殺生をせずとも良いわけじゃし」


 なんだか言い訳がましい言い方だ、と、舞は思った。


「……そうですね。そのきっかけとして私を利用されたいと言うことですか」

「そなたを陸に連れて行けば、銀狼が嗅ぎつけてくるはずじゃ。じゃがそなたのその身体では、陸に出たら二日も保たぬ。いかに卑賤な人間とは言え、礼儀を示す知識を持った存在を、みすみす弱めて殺すのは後味が悪い。……スウェラ」

「なんじゃ。また儂か」

「娘の横にいる男はどうじゃ。使えそうか」

「ウェルダ様」


 舞はまた左手で“懇願”の印を描いた。ウェルダはちっと舌打ちをした。


「いい加減にせぬか! その男とて儂が助けた、その命は儂のものじゃ! スウェラ、早うせぬか!」

「なんで儂が――」


 スウェラはぶつぶつ言いながらも逆らわず、こちらにまた少し寄った。舞はぞっとした。ランダールの話では、話が通じる相手だと言うことだったのに――しかしスウェラは、必要以上には近づかなかった。舞は少し、不思議に思った。この水の中、人魚は圧倒的に優位だ。いくらアルガスの腕だって、この数の人魚に立ち向かえるわけがないのに、どうして、怯えているように見えるのだろう。


 スウェラはまた左手でさっとアルガスの額に触れ、下がっていった。低い声でウェルダに報告する。


「頑丈じゃな。使えそうじゃ」

「お待ち下さい――」

「人間、黙っておれ!」


 ウェルダが左手を閃かせた。舞が動かそうとした左手を、水が絡め取った。「あっ」舞は思わず声を上げた。左手が重い。水が絡みついて、動かせない。


「――これが人魚の礼節ですか!」

「黙れ、エスティエルティナ! ほんに忌々しい――スウェラ、そうと決まれば話は早い。早うせぬか!」


 その時、えええええ、と周囲から声が上がった。舞たちを遠巻きにしていた若い人魚たちだった。「姐様、あんまりじゃ」「そうじゃそうじゃ、男は儂らにくれると言うたはずじゃ」「ティティばかりずるいではないか、儂らも飼いたい――」


「黙れ!!!」


 ウェルダが一喝し、彼女たちは黙った。スウェラが声を上げる。


「なんで儂じゃ! 儂ばかり! たまには他の――」

「煩い、他のにさせるにはちと荷が勝ちすぎるではないか!」

「ティティにやらせれば良い! 罰を与えるというならば、こういう仕事こそ課すべきじゃ!」

「少し折檻が過ぎた。あの子はまだしばらくは動けまい。スウェラ、言うことを聞かぬとあの子のような目に遭わせるぞ。折檻されたいのか。目をつぶされ殴られ尾びれを切られ閉じ込められたいのか! 銀狼を捕まえたとて、触らせてやらぬぞ!」

「捕ま   」


 舞は言いかけて、愕然とした。言葉が出ない。

 ウェルダは舞の顔を見て、ニヤリと嗤った。


「初めからこうすれば良かった。いかにエスティエルティナに選ばれた娘といえど、肉体は卑賤な人間のものじゃ。おお、そうじゃとも。儂らはそなたを餌に銀狼を捕まえる。仲直りなどと面倒なことをせずとも、捕まえてやれば良いと思い至ってのう」

「     」


 舞はもがいた。しかし腕も手も、足も身体も、頭さえ全然動かせなかった。言葉も出ない。アルガスは剣に手をかけた。それを見て、ウェルダが嗤う。


「戦う気か。ほんに良い面構えじゃこと」

「姐様、もったいないではないか!」若い人魚が後ろで叫ぶ。「人間の娘なんぞに宛がうにはもったいないほど好い男ではないか! ティティのように、儂らも飼いたい!」

「それで儂の怒りを買って、ティティのように折檻されたいというわけか?」


 ウェルダが蔑むように言い、人魚は喚いた。


「姐様の嘘つきー! 男はくれると言うたくせにー!!」

「動くでないぞ、エスティエルティナ」ウェルダはくすくすと嗤った。「儂らの縄張りに男が入った場合の、末路は聞いておろう。今は繁殖期ではないゆえすぐに殺しはせぬが、聞いたであろう、若い子たちは好い男を飼いたいものなのじゃ。少し前に抜け駆けして男を拾った人魚がおった。嵐の海に落ちた、若く麗しい男であった。その人魚は男を助け、食事を与え、温めてやり、優しく世話をしてやったのじゃ。……それがことのほか楽しかったようでのう、儂もやりたいと若い子たちが大騒ぎじゃ。動くでない。逆らうでない。そなたが抗えば、その男、若い子たちに与えてやってもよいのじゃぞ」


 くくく。

 ウェルダは笑い、尾びれでスウェラをべしっと叩いた。


「早うせぬか」

「なんで姐様がやらんのじゃ――」


 スウェラはぶつぶつ言いながらこちらに来た。舞は混乱していた。一体何をしようというのだろう。飼いたい、と言うその欲望が、あまりに異様で気味が悪い。人魚にとっては確かに人間は卑賤で下等な存在なのかもしれないが、だからといって。ランダールの話と違う。あの人が間違えることがあるなんて。


 与えるって何だ。人を何だと思っているのだ。飼うってなんだ。それも、銀狼を。何より、アルガスを。


 エスメラルダには、巡幸のために訓練される犬がいる。あの赤ちゃんは、本当に可愛らしかった。だっこしたかったし、お世話をしたかった。飼育係が羨ましくて羨ましくてたまらなかったものだ。あの時と同じ感覚なのだろうか? 目眩がする。


「        !」

「おお、嫌じゃ嫌じゃ。いつ暴れ出すかしれたものではないわ」


 スウェラはこわごわ舞に近づく。どうしてだろうとまた思った。どうして人魚は、舞に近づくときにこうもおっかなびっくりなのだろう。ウェルダが自分でやらない(何を?)のも、もしかして同じ理由なのかも知れない。何か、舞の持っているもので、人魚の畏れるものがあるのだろうか。初めの内、近づいてこなかった理由もわからない。あんなに時間があったのに。


「暴れるでないぞ。そなたの肉体は陸に上がるには適さない。銀狼を呼ぶ間だけでも、生きていてもらわねば困るのじゃ」

「――そのために俺が“使える”と?」


 アルガスが言い、スウェラは頷いた。


「そなたは生命力の塊じゃ。頑健で健康で体力もある。少しばかり娘に分けても良かろう」


 何て勝手な。目が眩むほど腹が立つ。なのに全然身体が動かない。人魚ってこういう生き物なのかと思うと裏切られたような気がした。悔しい。もどかしい。何から何までそちらの都合ではないか。魔物に喰われるところを助けられたことには感謝しているし、できる限りの返礼をしたいと思っていたけれど、こちらの都合も聞かず、もののように、あるいは愛玩動物のように、扱われるとは思いもしなかった。ウルクディアのコリーンよりまだ酷い。なのに手も足も声も出ない。


 アルガスが握ったままの舞の右手に、力を込めた。何かを伝えるように。


 その時。スウェラが、歌い出した。

 水を震わせるその声は、ゾッとするほど美しかった。

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