【四ツ葉】(3) イーシャットの息子
イーシャットの愛息子はミネアよりひとつ年下の三歳で、トマスという名だ。
ラシェルダが一緒に来ていないと知って、ビアンカは少し落胆した。ラシェルダはさばさばしていて明るく、元気満々で、話しているだけで元気をもらえるような人なのだ。
しかしトマスが到着するや否や、ラシェルダの不在を残念がっている暇はなくなった。トマスはいかにもイーシャットの息子らしく、片時も黙っていない子だった。
ふたりが合流したのは、草原の入口の街に到着する前日のことだ。
トマスは長い間馬に揺られてきたというのに、着くやいなや歓声と共にあちこち覗いて回りお喋りして回り、ミネアを見つけると礼儀作法にも【最初の娘】の後継の義務にも一切頓着せずに引っ張り出した。ミネアもあっという間に年齢相応の幼児となり、あちこちで騒動を引き起こした。ビアンカはとても楽しかった。少なくとも“お邪魔虫”になりながら勉強するよりずっといい。
ふたりの後を追いかけ回し、彼らが神官兵の目の届かない場所に行かないように気をつけるのがビアンカの任務となった。お陰でビアンカは、今まであまり良く知らなかった巡幸の構成員たちをつぶさに見ることになった。巡幸は大所帯だと知っていたが、まさかこんなに多種多様な人々が付き従っていたとは、と、改めて驚くことが多かった。人間ばかりでなく、馬も同じくらいたくさんいた。それから犬もいた――彼らは見知らぬ人間が不用意に近づかないように見張りをするのが役目らしかった。たくさんの荷馬車がずらりと並んで進んでおり、大勢の人々が色々なところで働いていた。護衛のための神官兵、彼らの世話をする人たち、食糧を運ぶ人たち。彼らを取りまとめているのがエルヴェントラの秘書を務めるリックである。その日、彼とはあちらこちらで出会うことになった。本当に、リックの仕事は多岐に亘っている。
「大変ですねえ」
リックはとても気のいい人だ。何回目かの遭遇の際、ミネアとトマスの後を追いかけ回しているビアンカに、ねぎらいの言葉を寄越してくれた。そこは馬の傍だった。ふたりの幼児は厩務員たちの気を揉ませながら、興味津々で馬の鼻面を覗き込んでいる。
「いえいえあたしなんか、ただ追いかけ回してるだけだもの。リックは大変ね、いつも仕事に追われて」
「いや、ただ御用聞きしてるみたいなもんなんで」
リックは照れたように笑い、墨板をしまい込んだ。仕事が一段落したのかも知れないと見て取って、ビアンカは一度、トマスとミネアの様子を見た。まだふたりが馬に夢中なのを確かめて、リックを振り返る。
「イーシャットは?」
「エルヴェントラと打ち合わせされてますよ」
「……どうして巡幸に来たんだと思う?」
朝からずっと誰かに聞きたかったことだ。リックは辺りを確かめるような仕草をした。厩務員たちの注意がふたりの幼児に集まっているのを確認してから、声を潜めた。
「カーディス王弟殿下とラインスターク公爵が、イェルディアに行かれているそうなんです」
「えっ?」
ラインスターク公爵と言えば、今はアイオリーナのことだ。父親であるヒルヴェリン=ラインスタークは、エリオット暴虐王の治世に対する悔悛と懺悔のために、エルギンの慰留に感謝しながらも引退した。爵位を継ぎラインスターク家の当主となったアイオリーナは、ラインスターク公爵領に戻り、領地の経営について父親から手ほどきを受けていると聞いていた。
「……なんでまた?」
「うん、それがどうもよくわからないんですがね。イーシャットさんは、カーディス王弟殿下に接触する心づもりでいるようです。で、巡幸と一緒に行きたいと」
「……わざわざ?」
「その方が色々と好都合なんじゃないですかね」
何で?
ビアンカはわけがわからなかった。イーシャットはエルギンの侍従であり、カーディスはエルギンの弟で補佐役である。身分こそ違え、エルギンを支えるという意味では仲間のはずだ。ふたりがイェルディアで接触するのに、なぜわざわざ巡幸を介さなければならないのかがわからない。リックは更に声を潜めた。
「エルギン様とカーディス様の間で、ちょっと意見の相違があったらしいんですよね」
「え!」
「いやまあ、そんな深刻な事態じゃないと思いますけどね。でもわざわざラインスターク公爵を伴われていると言うところがちょっと気になりますよね。ラインディアはアナカルディアから近いですからね、置いてくのは心配だったんでしょうね」
リックは本気で心配しているようだった。口が軽いのも、きっと、誰かと不安を分かち合いたかったからだろう。
「それでイーシャットさんは、子供連れで来たんですよ――ミネア様とトマスは仲良しだし、草原で馬を見るのも喜ぶでしょうし。何て言うか、大義名分になるじゃないですか。イェルディアでカーディス王弟殿下と接触するのも、波風が立ちにくいでしょう」
「そんな配慮をしなきゃいけないような事態になってるの?」
「マスタードラさんが大ケガしたって噂もどうも、本当だったらしいですしね」
――相手はあのエルギンよ? 滅多なこと、起こるわけないでしょ。
ニーナの自信たっぷりの言葉を思い出し、ビアンカは身震いした。なんだか、寒いような気がする。真夏なのに。とても爽やかで、気持ちのいい日なのに。
「ビアンカ、お腹空いたー!」
トマスが喚く言葉で我に返る。ビアンカは、ああ、と声を上げた。リックが微笑んで身体を屈め、トマスと目線を合わせる。
「そろそろお昼かな? 今日のお昼ご飯はなんだか知ってる?」
「なになに? しらない! おしえて!」
「俺も知らない。じゃー、見に行こうぜ!」
「いこーぜいこーぜー!!」
トマスはミネアの手を引いて駆けだしていった。リックはビアンカを見て、困ったように微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
何がだ、とビアンカは思った。リックもそう思ったらしい。困ったように頭をかいた。
「ぺらぺら話しちまってすみません。こんな不確かな噂を話して不安にさせるなんて、絶対やっちゃいけなかったのに。エルヴェントラがなにもおっしゃらないってことは、その、まだ噂に過ぎないってことなんですよ。ごめん。ごめんなさい。忘れてもらえたら嬉しいんですけど」
忘れられるわけがないじゃないか。ビアンカは苦笑して、ううん、と言った。
「聞きたがったのはあたしだし……そうね、まだ不確かな話なのよね。今の話は、聞かなかったことにしておくわ」
「すみません。お願いします」
リックは頭を下げ、それから、トマスとミネアの後を追いかけて走って行った。ビアンカも歩き出し、ため息をついた。
一体何が起こっているというのだろう。姫もアルガスもニコルも戻ってこない。即位してたったの半年なのに、エルギンの治世には既に暗雲が立ちこめ始めている。アナカルシスの王座には、何らかの呪いがかけられているのではないか――今までに聞いてきた根も葉もない噂が、急に、重みを持って迫ってくる。
昼食を食べた後、ビアンカはついに、我慢できなくなった。
トマスが昼寝をした隙に、イーシャットを探すことにした。あれこれ思い巡らせて不安を募らせるよりは、本人にえいっと聞いてしまった方がずっと建設的だ。歩いて行くと、ちょうど折良く、勉強に戻るニーナと立ち話しているところに出くわした。
ニーナはイーシャットに会えてとても嬉しそうだった。エルギンにまつわる不穏な噂など意にも介さない様子で、屈託なくイーシャットに、ラシェルダの様子など聞いたりしている。ニーナの前で不穏なことが聞きづらく、ビアンカはふたりの話が終わるのを待つことにした。ニーナの行くところには最近いつもミハイルがいる。彼も、相変わらずの忍耐強さで、ニーナとイーシャットの会話が終わるのを、ニコニコしながら待っている。
と、イーシャットがビアンカに気づいた。
「こんにちは。……うちの息子がご厄介になっているそうで、申し訳ありません」
「どうして謝るの?」
ニーナがおかしそうに訊ね、イーシャットはぼやいた。
「迷惑かけてるに決まってるからさ。煩いでしょ-、あいつ。誰に似たんだかね、全く」
ビアンカは思わず笑った。
「誰に似ているかについては意見を差し控えるけど、でも賑やかで楽しいわ。トマスを連れての長旅、大変だったでしょう?」
「あー大変でした」イーシャットはしみじみと言った。「ほんっと大変でした……体調も崩さず元気でいてくれたのはありがたいんですがね」
イーシャットは半年前と全然変わらず、ひょうきんな笑顔が嬉しかった。彼の笑顔を見ていると、噂はやはり噂に過ぎなかったのではないか、という気がしてくる。イーシャットはニーナを見て言った。
「草原の勉強三昧なんだって? 相変わらず大変だなあ」
「それがそうでもないの、先生がとっても教え方が上手なのよ」
ニーナはこともなげに言う。ビアンカは黙っていた。その教え方の上手な楽しい勉強についていきたくない自分の出来の悪さについても、意見を差し控えたい。
「それにしても、イーシャットが巡幸に同行するなんて珍しいわね」
ニーナが言い、ビアンカは僅かに緊張した。話の矛先がうまくそちらに向いた。
イーシャットは一瞬だけ逡巡した……ように、見えた。しかしそれはほんの一瞬に過ぎず、ビアンカが瞬きした時にはもう、屈託のない表情に戻っていた。ああ、と彼は言う。
「ちょいと用があったもんでね。トマスに草原を見せたかったし、イェルディアじゃあ船にも乗せてやれるし、ってんで。お前は儀式だの勉強だのでたいへんなのに、暢気で申し訳ないんだけど」
「あら、あたしは構わないわ。賑やかな方が楽しいもの。どこまで一緒に来てくれるの?」
「ラク・ルダまでは一緒に行かせてもらうよ」
「二ヶ月ほどですね」
ミハイルが何気ない口調で言った。
彼は何の気なしに、ただ事実を口にしただけのようだったが、ビアンカは驚いた。二ヶ月。
イーシャットはエルギンの筆頭補佐官であるはずだ。もちろん執務の方はスヴェンが切り盛りしているのだろうが、即位直後のこの大切な時期に、筆頭補佐官がのんびり子連れで物見遊山なんて、少しおかしな気がする。ビアンカがまた少し不安になった時、イーシャットがやや声を潜めた。
「――銀狼がね」
ビアンカは驚いた。「銀狼?」
「先月、エルギン様のところに銀狼が来ましてね――」
イーシャットは慎重な口調で、グリーンリと名乗る銀狼が、【四ツ葉】の消息を知らないかと聞きに来たのだと、語った。
グリーンリと言えば、姫が話してくれた銀狼の名前だ。アンヌ王妃を迎えに王宮へ行ったとき、王妃の傍にいた銀狼だ。そのよしみでか、グリーンリは堂々と正面玄関から王妃宮へ入ってきて、エルギンのところへまっすぐに行き、単刀直入に、全身に刺青を彫った人間を探して欲しいと頼みに来たというのだった。理由は、オーレリアが語ったことと同じ。全身に刺青を彫った人間は、銀狼として見過ごせないから――
「エルギン様はもちろん知らないと言った。けどさ――エルギン様は即位の時に、銀狼の後ろ盾を得てる。無碍に追い返すこともできないんだよ、だからさ」
なんだか歯切れが悪い。
「――だからさ。デクターの方にはラシェルダが知らせに行った。里帰りって名目でね。で、俺が、トマスに草原を見せるって名目で、巡幸に知らせる役目を仰せつかったって、わけで」
「マスタードラが大ケガをしたって噂を聞いたけど、銀狼が関係してるの?」
ビアンカが訊ねるとイーシャットは、ギクリとした。
「……もうそんな広まってんのか。人の口に戸は立てられねえもんだ。ああ、まあ……銀狼のせいだとも言えるだろうな」
ニーナが目を見開いた。
「え、それは本当のことだったの? マスタードラが大ケガするなんて。容態はどうなの、大丈夫?」
「そりゃー大丈夫さ。大ケガっつったって、大したケガじゃなかったんだ。もともと殺しても死なねえような奴だって、知ってるだろう」
ニーナの心配を拭うように、イーシャットはさばさばと笑う。ビアンカにはどうも、その笑顔に翳りがあるように思えてならなかった。
イーシャットが巡幸を訊ねるという名目で知らせると言うのは理にかなっている――ような、気がする。しかしデクターの方にまで、ラシェルダが行ったというのがどうもおかしい、気がするのだ。エルギンの兵、現近衛兵は、エスメラルダ出身の者も多い。エルギンがデクターに情報を知らせようと思うなら、近衛を行かせるのが自然だ。
と。
ミハイルが、穏やかな口調で言った。
「ニーナ、今回の巡幸が終わったら、僕の故郷に遊びに行きませんか」
「えっ?」
ニーナが目を見開き、ミハイルは、ビアンカにも微笑みかけた。
「ビアンカも良かったら一緒に。僕の故郷は寒くて湿地帯が多い国なんですけど、風光明媚で有名なんです。風景を見に来る人で結構賑わっているんですよ。僕の祖母が嫁いできたとき、観光業に力を入れたこともあって――色んな国の色んな食べ物が食べられるし、こちらの人たちには、音楽や毛織物も珍しいと思います」
「そうなの。楽しそうね」
ニーナの言葉にはあまり実感がこもっていなかった。一応礼儀としてそう返したという感じだった。アバルキナは遠い。エルカテルミナがそんなに長い間留守にすることが、歓迎されるとはビアンカにも思えなかった。
ところが、イーシャットの反応は劇的だった。
「そりゃいい!」
ビアンカとニーナが驚く程の大声でイーシャットは言った。ミハイルが穏やかに微笑み、イーシャットは嬉しそうに何度も頷く。
「そりゃいいじゃないか、ニーナ、是非そうさせてもらえよ。俺も一緒に行きたいもんだ。ラシェルダも、トマスも連れて」
「お客様はいつでも大歓迎ですよ。国柄がね、もともとそうなんです。外から来た人を、もてなすのが好きなんですよね」
「ニーナ様」
マーシャが呼びに来た。授業の時間らしい。
ニーナは少し戸惑いながら、それじゃあ、と挨拶をしてマーシャの方へ行った。ミハイルは「後からすぐ行く」とニーナに声をかけ、彼女とは反対方向へ歩き出した。
「善は急げと言いますからね。エルヴェントラに話だけでもしておきましょう」
「そうしてもらえますか! いやあありがたい!」
イーシャットは尾を振る犬のようにミハイルの後に従っていく。ビアンカは事態について行けずに戸惑っていた。イーシャットはなぜ、ミハイルの国にニーナが行くことが、そんなに嬉しいのだろう? 自分も行きたい? ラシェルダも、トマスも連れて――
それって。
思い至って、ビアンカはぞっとした。
――アナカルシスにいたくないって、こと?
その日の夜。
午後もトマスとミネアにたっぷり付き合わされたビアンカは、疲労困憊で寝台に倒れ込んだ。
この馬車は居間とは違い、眠るためだけに作られたものだ。申し訳ないことにビアンカ専用である(以前姫が使っていた物だそうだ)。手足を伸ばして眠れるのが本当にありがたい。
けれど。
どうしてだろう。ビアンカは四半刻経っても眠れなかった。
昼間のイーシャットの様子が、気になってたまらなかった。
以前、エスメラルダで、エルギンやエルヴェントラと一緒に王の交代に向けて働いていたとき、イーシャットはとても生き生きしていた。エルギンに心酔し、自分の役割をこなすのが楽しくてならないという様子だった。
なのに、あれからたったの半年なのに、イーシャットはなんだか、アナカルディアより別の場所に行きたい、と、思っているような気がしてならない。マスタードラも大ケガ? をして、エルギンの傍を離れている。リックの話によれば、カーディスとアイオリーナもイェルディアにいるらしい。スヴェンはどうしているのだろう――スヴェンがエルギンの傍にいたからといって気分が明るくなるわけでもないけれど。
ため息をついて、今エルギンはどうしているのだろう、と考えた。そして、このままでは眠れそうもない、と思った。
着替えて、エルヴェントラを探しに行くことにした。たぶんまだ、起きているだろう。
エルギンとニーナは長いつきあいだが、それはつまり、エルヴェントラとエルギンが長いつきあいである、ということでもある。普段打ち合わせすることが多かった分、ニーナより良くエルギンのことを知っているはずだ。
果たしてエルヴェントラはまだ起きていた。開いた窓から、ぼそぼそと話し声がしている。それを耳にして、ビアンカは驚いた。
ミハイルの声がする。
「――と言う懸念があるのではと思うのですが」
どんな懸念だ、と、ビアンカは思う。自然、物陰に寄って、聞き耳を立てるような格好になる。エルヴェントラのため息が聞こえる。
「確かにその懸念はあります。だが……あなたはエルギン王という人間を良くご存じない」
「アバルキナにも様々な噂が流れてきます。アナカルシスの王座には何らかの呪いがかけられているのではないかと。暴虐王という不名誉な諡を付けられてしまったエリオット=アナカルシスも、即位の直後は名君だと讃えられていたとか」
「……」
「エルギン王は即位の際に銀狼の後ろ盾を得たという話はアバルキナでも有名です。その銀狼に、ニーナが【四ツ葉】であることがバレたらまずい……その事実をエルギン王が掴んだと言うことは、エルギン王に、エスメラルダを脅迫する材料ができたということです」
「……」
「イーシャット殿の急な訪問。ラシェルダという女性は彼の奥方でしょう? 妻女を実家に帰し、息子を巡幸に連れてくる。カーディス王弟も同様の動きを見せている。彼の大切な女性を伴い、アナカルディアから遠く離れたイェルディアへ――加えてマスタードラという、エルギン王の右腕の負傷」
「自ら右腕を落としたと」
「えっ」
思わず声が出てしまった。慌てて両手で押さえたとき、ひょい、と、馬車の窓からミハイルが覗いた。逆光で良く見えないが、ミハイルはビアンカを見ても別に驚いた様子もなかった。
「お散歩ですか、ビアンカ」
「……ごめんなさい。立ち聞きする気はなかったのよ」
「いいんですよ。どうぞ」
ミハイルは馬車の扉を開いてくれた。ビアンカは叱られるのではないかとどきどきしながらそちらへ行ったが、エルヴェントラも別に怒っている様子もなかった。しかし、少し困ってはいるようだった。ため息をひとつ。
「他言無用に願いたい」
「は……はい」
「マスタードラのケガは利き腕を失うというものだったようだ」
ぞっとした。高潔な騎士はどう振る舞うべきなのか――シルヴィアの凜とした言葉が耳に聞こえる。
「自分で……?」
「いや、それははっきりしない。マスタードラ本人は何も言わず、アナカルディアの自分の家で療養中だ」
「蟄居に近いのではないですか」
ミハイルは相変わらず穏やかな口調で言った。ちっきょって、なんだろう。ビアンカは戸惑う。
「つまり、王から、外出するなと命じられると言うことです。アバルキナでは刑罰のひとつですね」
「……」
「はっきりとはわからないのだ」エルヴェントラが繰り返した。「だが……マスタードラにケガをさせられる存在がこの世に何人いるだろう、という疑問から、自分でやったのではないかという見方もできる、という程度だ」
「王の剣は王から何か意に染まぬことを命じられ、拒否するために、それができない状況に自らを追い込んだのだとしたら」
「意に染まぬ――」
「僕はニーナを守りたい」
ミハイルは真摯な口調で言った。
馬車の中の、柔らかな明かりが、ミハイルの美しい顔を更に彫像じみて見せていた。
「本当なら今すぐにでもアバルキナに連れて行きたい。しかし、巡幸を途中で放り出すことは彼女にはできないでしょう。覚えておいて欲しいのです、エルヴェントラ。何か危険を感じたら――僕は全力でニーナを守る」
エルヴェントラは、わかりました、と答えた。
その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。一体何が起こっているのだろうと、ビアンカは、ますます不安が募るのを感じた。




