【四ツ葉】(2) おしのび
ミネアは四歳になり、最近ますます聞き分けが良い。
巡幸でも、彼女はとても忙しいようだった。四歳にして既に専属の教師が付いており、ダンスや礼儀作法を始め、様々なことを日々勉強している。巡幸が都市に到着したときには晩餐会や会合や儀式で、【最初の娘】の後継として恥ずかしくない振る舞いを見せなければならないから、覚えなければならないことは山ほどある、のだ、そうだ。
ビアンカならとうに逃げ出しているような気がするが、ミネアはどうも、真面目なたちらしい。教師がよほど教え方が上手なのか、それとも彼女本来の性質なのか、勉強も嫌いではないようだ。さすがはエルヴェントラの愛娘と言ったところかも知れないが、しかし、と、思わずにはいられない。彼女はまだ、四歳なのに。
次の日、すっかり勉強に辟易したビアンカはまた一計を案じた。地図を見ると、街道沿いに小さな街がある。巡幸は儀式も宿泊もせずに通り過ぎるが、昼食は恐らくここで取ることになるだろう。街の規模としてはリヴェルより若干小さいくらいのようで、こういったところには普通、屋台があるはずだ。
ミネアにはそろそろ息抜きが必要だと思う、というビアンカの提案は、意外にもとても好意的に迎えられた。――マーシャにあまりにも喜ばれたので、却って後ろめたくなるほどに。
*
ここ数ヶ月で馬術だけはかなり向上している。ビアンカはミネアを前にのせ、ぽくぽくと馬を歩かせていた。これくらいの速度で行けば、巡幸の到着より一刻ほどは早く屋台に――もとい、街に着くはずだ。
マーシャからたんまりお小遣いをもらったし、ミネアは大喜びだし、ニーナからもエルヴェントラからも喜んでもらえたから、ビアンカはとても機嫌が良かった。平服の神官兵がふたり、何食わぬ顔でお供に着いてきているが、彼らのことは無視していいと言われている。街をのんびり歩いて買い食いするなんて、ビアンカにもほとんど経験がない。
草原の入口に当たる街からわずか三日ばかりの距離だからか、道行く人には草原の民らしき人々も多い。街の入口で馬を預け、ビアンカとミネアは手を繋いでその街に入った。リヴェルより小さいとは言え、エスメラルダや【アスタ】と言った場所しかほとんど知らないビアンカにも、その喧噪は新鮮だった。周囲は様々な音と匂いと色合いに満ち、めまぐるしささえ感じる。
「ビアンカ、美味しそうなものがいっぱいだねー!」
ミネアは大喜びであちこち覗いて回っている。ビアンカは彼女のやりたいようにさせてやることにし、ミネアの寄り道を急かしたりせず、いちいち付き合ってやった。ミネアがまず最初に所望したのは水飴だった。次に、湧き水で冷やしたという触れ込みの爽やかな果実水を飲み、的当てをやり、揚げ菓子を食べ、戻って的当てをやり、蜂蜜のかかった揚げパンを食べ、また戻って的当てをやった。彼女が的当てに示す興味には並々ならぬ物があった。ちっとも当たらないのだが、ミネアは一向に嫌気が差す様子がない。
そもそもこの子はとても辛抱強い性質なのだ、と、五回目の的当てでミネアが弾を全部外してしまうのを見ながら思った。四歳児にしてはあるまじき忍耐だ。探究心に富んでいる。彼女の、飽くなき挑戦をし続ける精神は見上げた物だ。学者になったら大成するのではないだろうか。ビアンカならばとっくに嫌気が差して投げ出している。
ミネアはなぜまっすぐ飛ばないんだろうとぶつぶつ言いながら、棒にゴムを挟んで弾をはじき出す器具を矯めつ眇めつしている。ビアンカはまた声をかけた。
「休憩休憩。また何か食べて、また来ようよ。次はきっと当たるよ」
「またおいで、お嬢ちゃん」五度目になると店主にもすっかり顔を覚えられている。「でも今日で店じまいだから、やりたいなら早くおいでね。俺はそもそも草原の街に行く途中で一日だけここで商売やってんのさ、巡幸がもうすぐ到着するってんで大賑わいだからね」
「あら、普段はこんなに賑やかじゃないの?」
「らしいね。そもそもこの街には宿が一軒しかないそうなんだけど、民家の三分の二がにわか宿屋になったそうだからね」
「へええ」ビアンカは感心した。「巡幸って人気なのね」
知ってはいたが、本当にはわかっていなかったような気がする。店主は大きく頷いた。
「そりゃそうさあ。偉大な女神の愛娘――それも長年暴君に虐げられた苦難の王女。見つかったら殺されかねない状況下、それでも巡幸をやめずに歪みの恐怖を払い続けた気高いお方。大変な別嬪さんだそうだし、あの方が通った地面に触ることができたら死んでもいいってまで、思われてんだぜ。この街では儀式はなさらねえそうだけど、そもそも儀式が行われる街はぎゅうぎゅう詰めでにわかが入り込める状況じゃねえんだってさ。んで、素通りする街で同じ空気だけでも吸いてえってことで、こんな街にまで人が詰めかけてんだ」
そう語る店主の頬もほんのりと赤くなっていて、ビアンカは、もし目の前にいるこの可愛らしい幼女がニーナの実の娘であることがわかったらどうなるだろう、と、少々おののいた。どんなに控えめに見積もっても大騒ぎになるだろうし、今ミネアがひねくり回しているこの装置はきっと一財産を築くだろう。
今日は外で素性を話してはいけません、と、マーシャに口を酸っぱくして言われていたし、そもそも先生方の教育が行き届いていたしで、今までひやりとする場面などはなかったけれど。ビアンカは急いで話を変えた。
「ミア、そろそろ行こうよ。あたし今度はお肉が食べたい。おじさん、いいお店知らない?」
「肉なら三軒向こうの燻製屋が美味かったよ。草原仕込みなんだってさ。あっちの方じゃ今ものすごい騒ぎだって、聞いたかい? 巡幸が立ち寄って儀式までやるってんで、国中から草原の民が続々戻って来てるんだってさ。エルギン王の戴冠に草原の民も大活躍したってんで、晴れがましいこったろうね」
店主は話し好きだった。屋台から出てきてまで話をやめようとしない。ミネアが装置を店主に返すと、相好を崩してミネアの頭を撫でた。
「可愛い妹さんだね。またおいで」
「うん。ビアンカ、行こう」
「ビアンカ?」
ミネアが不用意に言った言葉に店主が反応した。
「あんたビアンカって言うのかい。へええ。クロウディアのお姫様と同じ名じゃないか」
まさか自分まで知られていたとは。思わず逃げ腰になるビアンカである。
「そ、そうなのよー、うふふ」
「ビアンカ様も今回の戴冠で大変なご貢献をなさったそうじゃないか。……今頃ご心配なさってるだろうね」
店主の言葉に、ビアンカは驚いた。「心配? どうして?」
「おや、知らないのかい?」店主の鼻が若干膨らんだ。「まあこの辺りにはまだあんまり届いてないかも知れないね。アナカルシスの王座にはやっぱり何かの呪いがかけられてるんじゃないかって、通の間じゃ言われ始めてるよ」
通って何だ。
「でも、どうして? エルギン……陛下は、すごく有能で優しい王様なんでしょ」
「うーん、それがねえ。どうもねえ。いや、巡幸を迎えるこの晴れがましい日に、あんまり不安にさせるようなこと言うもんじゃないな」
言いたくてたまらないという顔をしているくせに、もったいぶって店主は顎に手を宛ててみせる。ビアンカはじりじりした。
「そんなの構わないから、教えてよ、おじさん。エルギン様が即位されてまだ半年よ、もう何か問題が起こったっていうの?」
「うーん、それがねえ、即位前からずっと王様を支えてた侍従や護衛を遠ざけ始めたって噂なんだよ。俺はね、ウルクディアから来たもんでね。あっちの方じゃもうその話で持ちきりなんだ。知ってるかい、護衛が王の不興を買って利き腕を落としたって噂」
ビアンカは愕然とした。「マスタードラが!?」
「そうそう、その人さ。マスタードラさん。どうも、王が……ある仕事を命じた、らしい。エスメラルダの【最後の娘】が王の求婚を受けないのに業を煮やして、マスタードラさんに、攫ってこいって命じたって。だがマスタードラさんはそんなことできなかった。エスメラルダは王を匿った大恩人の地じゃないか。その地の王女を攫うなんてできないし、やるべきじゃない。それで王を諫めるために、自らの右腕を落とした」
「嘘……!」
「いやだから、噂なんだって。けどマスタードラさんが大ケガしてどっか引っ込んだってのは確からしいよ」
「ビアンカ、もう行こうよ」ミネアがくいくいとビアンカの袖を引いた。「お肉食べたい。行こうよ」
「あ……あ、うん。そ、そうだね……」
「またおいでよ」おじさんはにこにこして手を振った。「お嬢ちゃん、今度はきっと当たるよ!」
ビアンカの手をぐいぐい引いて、ミネアは歩いて行く。ビアンカはそわそわして落ち着かなかった。マスタードラが大ケガしたって? 侍従……と言えばイーシャットのことじゃないだろうか。エルギンがイーシャットを遠ざけるなんて、そんなことがあるだろうか?
けれど、今の話にあった“利き腕を落とした”という言葉に覚えがある。シルヴィアがマスタードラに言った言葉を、戦慄とともに思い出す。
主君から非道を命じられたときに高潔な騎士はどう振る舞うべきなのか――
「ビアンカ、先生が言ってたよ。悪い話を楽しそうに話してるときの、話は、信じちゃダメだって」
ミネアに言われ、ビアンカはギクリとした。「え!?」
「さっきのおじさん、楽しそうだったよ。的当てもあのお店ではきっと絶対当たらないよ。お肉を食べて、もう帰ろう」
「う……うん」
確かにそうだと、ビアンカは思った。あのおじさんの語っていた言葉はあくまで噂であり、新王の即位を喜ぶ人たちの中で、自分だけはそう手放しで喜んだりしないという意地や矜持を誇示するための道具に過ぎないかもしれない。もったいぶった話し方、話すときの小鼻の膨らみ方。あの店主は悪い噂を娯楽のように消費している、底意地の悪い無責任な傍観者だ。信頼に足る相手ではない。
けれどどうしても、不吉な予感が胸に巣くって離れなかった。マスタードラが利き腕を落としたという一節が、耳の奥にこびりついているようだった。もし本当にそんなことが起こっていたら、巡幸に知らせが届かないはずがない、だから大丈夫なのだと、何度自分に言い聞かせようとしても、うまく行かなかった。
おまけに、その“新王にまつわる悪い噂”は、的当て屋台の店主の口からだけ、語られたわけではなかった。
燻製屋の店主も、雑貨屋のおばさんも、それとなく水を向けてみたら、みな似たようなことを口にしたのだ。
その日の夜。
街を離れるとホッとした。人々の熱気は高まるばかりで、全く気が休まらなかった。巡幸にはいつもたくさんの神官兵が同行するが、その理由が本当によくわかった。
この辺りの人々は、草原に近いこともあり、またベスタというマーセラ神殿の街が近いこともあり――ムーサが拠点としていた場所だ――、もともとアナカルシス王家に辛辣な土地柄らしい。その反動がルファルファを崇める方に来ているのではないかとビアンカは想像する。彼らは巡幸の行く手を阻むことこそなかったものの、追いかけてくるのをいつまで経っても辞めなかった。今も複数の焚き火が闇夜のそちこちに見えている。
「昔から良くあったことなんですよ」
温かなお茶を入れてくれながらマーシャが優しい声で言ってくれた。ビアンカは馬車の窓を閉め、緞子を引いた。あの焚き火のそばに、的当て屋の主人がいるような気がしてならなかった。
「商売っ気が強くて、なのに儀式のある街で商売権を得られなかった商人たちは、巡幸を待ち伏せして追いかけてくるんですよ。巡幸を迎える大騒ぎのどさくさに紛れて中に入って、何食わぬ顔で商売してしまおうという魂胆なんです、もちろん、見つかる前に“とんずら”するつもりで。あの街に出ていた屋台の大半はそうだと思いますよ。ウルクディア辺りから出張してきてるんです」
「ああ、だから……」
ビアンカはニーナの前の椅子に腰を下ろした。ニーナは、ビアンカとミネアが買って来たお土産を前にして大喜びだった。ミネアが興奮してあれこれ説明しながら披露するのを、ひとつひとつ頷いて喜んで一口食べてやっている。
「ミネア、ほんとに美味しいわ。お土産、どうもありがとう」
ニーナが頭を撫でると、ミネアはとても幸せそうな顔をした。ビアンカは少し胸を衝かれた。今日のお忍びはミネアにはとても楽しい思い出になったのだ。それは救いだったけれど。
と、ニーナがビアンカを見た。
「ビアンカ、さっきから元気がないのね。どうしたの?」
「街で噂を聞いたのよ」
ああ、あたしってばほんとダメだ。
そう思いながらも、ビアンカはついに黙っていられなくなってしまった。ウルクディアから来た屋台の店主たちが、皆、新王の悪い噂を口にしたのが気になって堪らなかった。ニーナはビアンカの話を最後まで聞き、それから微笑んだ。
「エルヴェントラに話してみるわ。ウルクディアでそんなに噂になっているなら、あの人が知らないわけがないもの」
「ねえニーナ……どうなってるんだと思う? 本当なんだと思う?」
「なわけないでしょ」
即答してニーナは、くすっと笑った。
「だって相手はあのエルギンよ? 前王のようになるなんて、絶対にあり得ないわよ」
「そ……そう? でも……」
「カーディスもアイオリーナも、イーシャットもマスタードラもついてて、一体何が起こるって言うの? あたしは信じないわ。この辺りはアナカルシス王家に辛辣な土地柄だっていう話だし、若くて英邁な王の即位の直後には、悪い噂はつきものよ」
「そういうものなの?」
ニーナがあまりに揺らがずにきっぱりはっきりしているので、ビアンカは少しホッとした。エルギンとのつきあいは、ニーナの方が遙かに長い。そのニーナがこれほど信頼しているのなら、絶対に大丈夫、なのだろう。
しかし、その次の日の朝。
ビアンカの不安はまたぞろかき立てられることになった。
イーシャットが巡幸に同行すべく、こちらに向かっている、という情報が、エルヴェントラからもたらされたのだ。
 




