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花の歌、剣の帰還  作者: 天谷あきの
第十三章 【四ツ葉】
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【四ツ葉】(1) オーレリアの文献調査

 ひと月経った。

 アルガスもニコルも、もちろん姫も、全く戻ってこない。エスティエルティナも。


 ビアンカは、姫のことが気になって気になって胸が焦げるような気持ちだった。ニーナはもっとだったはずだが、しかし彼女は気丈だった。ビアンカは、胸を締め付けられるような思いでニーナの奮闘を見ていた。


 エスメラルダにいた冬の間、忙しいのはエルヴェントラと姫ばかりで、ニーナには特に何の仕事もなさそうだった。それは当然だったのだと、ビアンカは最近つくづくと知った。巡幸の間、ニーナには全くと言っていいほど自由時間がない。街や都市に滞在中はもちろんのこと、街道沿いを進む間も、ひっきりなしに客が訪れて面会の時間を取らねばならない。空いた時間には衣装の打ち合わせや儀式の段取りの確認をし、謁見希望者の名前と顔と特徴を覚えるという仕事もある。息抜きに外に出たとしても、旅人や集落の住民たちが遠くから拝んでいたりするので気が抜けない。


 その日は、エルヴェントラが特に招いた学者がニーナを訊ねてきた日だった。


 草原の入口に当たる街が、近づいているからだ。


 少し回り道になるため、今まで草原のための儀式は、もうひとつ手前の街で他の土地と合わせて執り行われるのが常だった。

 しかし今年から、草原のためだけに、少し足を伸ばすことになったのだ。フェリスタとグリスタはきっと鼻が高いだろう。草原からは何度か使者が来て、巡幸を迎えるために草原でどんなお祭り騒ぎが繰り広げられているか伝えた。国中に散らばっている民たちは巡幸の到着に合わせて続々と戻って来ていて、ご馳走や贈り物が着々と集まっているとか、既にどんちゃん騒ぎが始まっているとか。草原の民は権力を嫌うものだと思っていたエルヴェントラは、あまりの歓迎の雰囲気に驚いて、少し考えを改めた。接するときに失礼がないよう、草原の風習や歴史について知識を深める必要があると考え、草原について詳しい学者を招いたのだった。付け焼き刃でもやらないよりはマシだと言って。


 午後だった。

 午前中ずっと馬車の中で大人しくニーナの勉強に付き合ったビアンカは、巡幸が止まった後も授業が終わらないことを知って逃亡の計画を企てた。もちろん草原の歴史や風土について学ぶのは面白かったのだが、ものには限度というものがある。


 ニーナも王女だったのだと、思うのはこういうときだ。ニーナは勉強が苦ではないらしい――少なくとも、必要だと認識している勉強については、嫌がったためしがない。しかし根を詰めすぎるのは良くないのではないだろうか。爽やかな夏の昼下がりに、少し散歩をするくらい、許されても良いはずだ。


 そこでビアンカは一計を案じた。自分ひとりが逃亡するのは簡単だが、それではあまりにニーナが気の毒だ。ここはひとつ、勉強が何かに邪魔をされてできなくなる、という風に持っていくのが良いはずだ。勉強を嫌がっているのは自分だけだという事実は棚に上げて、厠に行く振りをしてオーレリアを捜しに行くことにした。騒動を起こすことにかけてはオーレリアの右に出る存在をビアンカはまだ知らない。


 ――そう、オーレリアは、巡幸に同行している。それならデクターも来ればいいのにと思ったが、彼はエスメラルダで、未だに魔法道具の鑑定に追われている。なのにオーレリアだけが同行しているのは、巡幸が留守の間に学者たちの身に累が及ぶことのないように、と言う配慮なんじゃないか、と邪推したものだ。ミハイルを見たら飛びつくんじゃないかとか、行く先々の街で騒動を起こすんじゃないかとか、色々心配もしたが、そう言ったことは一切起こらなかった。オーレリアはまるで人が違ったみたいに、いつも山ほどの文献に埋もれて、ひたすら研究に没頭している。食事時にも顔を見せないことがほとんどなので、気をつけていないと存在を忘れてしまいそうになる。


 だから今回も、勉強の邪魔なんかしてくれないかもしれない。そう思いながらも他にいい案を思いつかず、彼女に宛がわれた馬車に向かってぶらぶらと歩いて行くと、ちょうど彼女が出てきた。ビアンカは驚いた。美しい髪を引っ詰めにしたオーレリアが、珍しく鬼気迫る表情だったからだ。


「エルヴェントラ! ……ビアンカ、エルヴェントラ知らない!?」


 詰め寄られてビアンカは硬直する。「ごめん、知らな――」


「エルヴェントラ! エルヴェントラ、どこにいるの!?」


 オーレリアはすぐさまビアンカを放り出し、文献を片手に走って行く。あの本には一体何が書かれていたのだろう。ビアンカが後を付いていくと、オーレリアはすぐにエルヴェントラを見つけた。打ち合わせ中だったのか、彼が顔を出した馬車の窓からリックの顔も見えている。


「どうした、オーレリア」

「エルヴェントラ、エリカがなんか、言ってたって言ってたじゃない!? 生き物はこの世に生まれたときは完全体で外に出る準備をしてる間に分かれるとか何とかかんとか!」

「ちょっと待て、落ち着いて話してくれ」


 ビアンカは少し茫然としていた。まさかこんなに思惑どおりに行くだなんて。

 あちらから、騒ぎを聞きつけたニーナとミハイルが走ってくるのが見える。エルヴェントラが馬車から降りてきた。ビアンカは一日ずっと停滞していた時間が目まぐるしく音を立てて動き始めたような気配にぞくぞくしながらそこへ行った。


 リックがてきぱきとテーブルを整えた。どこからともなく椅子が五脚も出てきて据えられた。リックは有能な人だなあと、ビアンカは感心した。若いけれどてきぱきしていてとても気が利く人だ。今はここでの会話を記録できるように墨板と鉄筆を準備している。


「何があったの?」


 ニーナがビアンカに耳打ちする。ビアンカが、わからない、と首を振って見せたとき、オーレリアがぼろぼろの文献をそっとテーブルの上に載せた。そして、エルヴェントラに言う。


「エリカがエルギン王に会いに来た時のことよ。彼女が言ったことをもう一度教えて。できるだけ正確に」


 エルヴェントラが眉根を寄せて記憶を探っている。ややして話し出したことは、ビアンカも以前、聞いた話の繰り返しだった。


 “エリカ”(を演じていた魔物?)は、『生き物は一番初めは完全体として生を受ける』と言ったそうだ。人間だろうと蛙だろうと、生き物の一番初めは小さな卵であり、それに何かが辿り着いて命になる。その命は分裂を繰り返してこの世に生まれ出る準備をする。その途中で【人魚の骨】と呼ばれる、歪みを遮断する要素を身体に組み入れて、孵化を起こす。脱ぎ捨てた不要なものをこの世の外に捨てて、この箱庭の中で生きて行けるようになる。


 エルヴェントラが話し終えるやいなや、オーレリアは早口で言った。


「この文献に載ってたわ。【人魚の骨】は歪みを遮断することができる。対になるものに【銀狼の牙】があり、これは歪みを生み出すものである、って。……あたし思ったんだけど、孵化って、人為的に起こせないものなのかしら?」


 エルヴェントラがオーレリアを見る。オーレリアは何度も頷いた。


「完全体っていうのはつまり、たまごなわけでしょ――ひよこになる前の。エリカの言葉をそのまま信じれば、そうなるわけでしょ。ニーナの時には衝動が来て、それをデクターが散らして孵化を先送りにした、って聞いた。その後体力が戻ってから、改めて孵化を迎えた、わけよね。その逆ってできないのかしら」

「逆、とは――」

「孵化を無理矢理……というか、人為的に起こすことができれば。【人魚の骨】を使って、その、身体に組み入れる? それさえできれば、完全体をこの世に生きるのに適した身体に変えることだってできるんじゃない? だってあたしたちだって生まれる前にそれをしてきてるわけだから」


 ビアンカは困惑した。意味がわからない。

 しかし、エルヴェントラは違った。黙ったまま彼は必死で頭を働かせていた。その表情が次第に変わっていく。オーレリアがそれを見守る内に、ついに、エルヴェントラはニヤリと笑った。


「……荒唐無稽だが」彼は低い声で言った。「手がかりにはなりそうだな」


 ニーナが腰を浮かせる。細い両手をテーブルの上について、身を乗り出した。


「――それ、って……」


 と、オーレリアが手を上げた。


「まだ喜ばないで! うまく行くって決まったわけじゃないんだから。でも、とっかかりにはなるんじゃないかと思うの。人魚に話を聞いてみる価値はあるんじゃないかしら、ってだけよ」

「……オーレリア……!」

「喜ばないでってば!」


 オーレリアはニーナの視線に顔をしかめ、煩げに手を振った。


「あんたの感激なんか知ったこっちゃないわ、これはあたしが自分の研究のために見つけた大発見なのよ! あんたを喜ばせるために見つけたわけじゃないんだからね!」

「うわー、めんどくさいわー、オーレリア」


 ビアンカは思わず言い、オーレリアは鮮やかに無視してエルヴェントラに向き直った。


「とにかく今は人魚をたらし込んで情報を得る計画を練らなくちゃ。草原を通り過ぎたらイェルディアでしょ、あの港町なら人魚に接触するのにちょうどいいわ」

「供物を用意しなければならんな」エルヴェントラは眉を顰めた。「ちょうどいい罪人がイェルディアにいるといいのだが――」

「罪人! またそれ! あんたたち権力者ってほんっとーに女心がわからないわよね、バカじゃないの!」


 オーレリアは罵倒するときいつも本当に生き生きするなあ、とビアンカは思う。エルヴェントラの後ろでリックが嫌そうに顔をしかめている。エルヴェントラは全く気分を害した風もなく、穏やかに言った。


「人魚への贈り物は古来、罪人の男と決まってるが。それではダメなのか」


 人魚は繁殖のために人間の男を引き裂いて精を取る、と、言われている。その男は当然死ななければならないから、罪を犯して死刑にされることが決まった人間が差し出される、と言うことは、ビアンカだって知っている。

 オーレリアは一同の注目を集めて機嫌良さそうにほくそ笑んだ。


「ダメに決まってるでしょ。それより必要なのは美形で優しくて穏やかで知的な男。絶対に殺されたりしないから、多ければ多い方がいいわね」

「……そうなのか?」

「あのねエルヴェントラ、人魚も女なのよ」オーレリアは不敵に微笑む。「人魚が男を引き裂くのは繁殖の時、それも他に手段がなくて嫌々やるだけなの。人魚は本来残忍じゃないし、繁殖の時はそう頻繁には来ないから、普段、罪人なんかもらったって喜ばないわよ。罪人よりは贈り物の方が喜ぶんじゃないかしら。でも装飾品は人魚の方が格段に美しいものを持ってるし、布や芸術品や音楽なんかも人魚の方が遙かに格上だから……そうねえ、美味しい食べ物なんかいいかも」


「食べ物?」


「特にお菓子よ、そうでしょ。人魚は火を使うのはあまり好まないから、焼き菓子なんかは喜ぶわよ。ジャムをたっぷり使った、甘くて美味しくて、贅沢なお菓子をたくさん……人魚をひとり招待して、素敵な男たちに色とりどりのお菓子を次から次に運ばせて、優しく、丁寧に、ご機嫌取らせて、ちやほやさせてご覧なさいよ。絶対喜んで色々話してくれるはずよ。女なんて皆そんなもの、ちょろいもんなのよ」


 ビアンカはニーナと顔を見合わせた。すごい偏見だ。ちょっとひと言言いたい気がする。

 ビアンカが口を開こうとすると、オーレリアがこちらを見て機先を制するように言った。


「じゃあビアンカ。あんた、粗野で乱暴で口が臭くて、今までに何人も殺してきた汚い男をひとりもらうのと、美形で格好良くて優しくて素敵な男十人にとろけるような美味しいお菓子勧められて一刻ばかりちやほやされんの、どっちがいいのよ!?」

「そっ、そんな二択だったら後の方がいいに決まってるじゃない!」

「でしょ! だったら黙ってなさいよ!」


 何という言い草だ。ビアンカは一瞬黙り、黙ってたまるかと、声を上げた。


「ずいぶん詳しいのね、オーレリア。まるで人魚と会ったことがあるみたい」


 言葉は悪いが、知ったかぶりだと思ったのだ。オーレリアだって詳しく知らないくせにと、一矢報いてやりたかったのだ。

 しかしオーレリアは、あっさりと言った。


「そりゃあるわよ」

「あるの!?」

「本当に素敵な人だったわ」オーレリアは目を細め、懐かしむような口調で言った。「あたしがマーティンとバルバロッサに初めて会った時のことよ。あたしはあの時貴族の嫡子で、ほんっとーに人生に嫌気が差してて――体調も崩して、絶望のどん底だったの。そしたら、そんなに辛いなら捨てちゃいなさいって、ある人から教えてもらったのよ。で、マーティンとバルバロッサを紹介してくれたの。あたしの乗った船が難破すれば、実家も社交界の人々も、あたしが死んだと思って諦めてくれるでしょ」


 ビアンカは再びニーナと顔を見合わせた。オーレリアの身の上話なんて、初めて聞いた。

 大発見をしたばかりで、気分が高揚しているのだろうか。オーレリアの口は、珍しく軽いようだ。

 万一にも話の腰を折るまいと、神経を傾け直した。この機を逃したら、今後一切教えてくれないに違いない。


「それでまあ、今のような絶世の美貌を持つ流れ者として、生まれ変わったわけなんだけど。その船の上で――マーティンにちょっかいかけ過ぎて、ちょっとその、嵐の海に本当におっこっちゃったのよね」


 てへ、とオーレリアは笑う。てへじゃないだろ、とビアンカは思う。


「そこを助けてくれたのが人魚だったの。とっても素敵な人だったわ。あんなに美しい存在を見たのは後にも先にもあれっきりよ。小島に運んでくれて、食べ物をくれて、温めてくれて、甲斐甲斐しく助けてくれた。繁殖の時じゃなかったのが幸いだったわ。とても情に厚い方で、あたしがこれから人生を謳歌したいのだと訴えたら、他の人魚から隠して逃がしてくれたの。エルヴェントラ」


 オーレリアは座り直した。益々楽しそうだった。


「できればあの時の人魚を捜せればいいんだけど、でも他の人魚だって、そんなに話がわからない人ばかりじゃないはずよ。マーティンに協力を依頼して、レギニータ号を借りればいいわ。綺麗に飾り付けて、そうね、イェルディア湾の夜景が見える時間がいいんじゃないかしら。マーシャのお菓子と、マーティンの料理――辛汁はダメって言っておかなきゃ。びっくりさせるのが主眼じゃないからね。色んな料理人に小さな一口大のお菓子をいっぱいいっぱい作らせて、宝石箱みたいに並べるわけ。で、綺麗に着飾った男たちによってたかってちやほやさせる。でも人選は慎重にね。人魚には衣類を着けて身体を隠すと言う風習がないから、人魚の身体に見とれたり不躾にじろじろ見たりしないように徹底してもらわなきゃいけないわ。必要以上に触れようとするなんてもってのほか。とにかく人魚を楽しくいい気持ちにさせるってことに注力しなくちゃ――そこのあんた」


 オーレリアはミハイルに微笑みかけた。


「あんた適任よ。協力してくれない?」

「申し訳ありませんが、ニーナ以外の女性を口説くことはできません」


 おっと、サラッと言った。ビアンカは思わずニーナの様子を横目で窺ったが、ニーナは心ここにあらずという風にテーブルを見つめて考え込んでいる。


「ニーナ?」


 声をかけるとニーナは、気がついたように顔を上げた。それからオーレリアに訊ねた。


「男性だけしかダメなの? あたしも何かできないかしら」

「あんたはダメよ」間髪入れずにオーレリアは言った。「銀狼の前はもちろんだけど、人魚の前にも出ない方が無難」


 変な言い方だと、ビアンカは思った。女性だから、というよりは、ニーナ特有の問題がある、というような言い方。


「どうして?」

「あのねあんた。あんたの身体に刻まれてる紋章。それがどこから出たかって知ってる?」


 ニーナは驚いたように自分の身体を見下ろした。今日は朝から結構暑かったので、普段より涼しげな格好をしている。襟ぐりが大きく開いていて、首まで覆うあの美しい若草色の紋章がよく見える。手首までびっしりと若草色の蔦に覆われていて、貴金属のような華やかさを備えている。

 ニーナはそれを見て、顔を上げた。


「……銀狼が。魔法を使うとき、同じ紋章を浮かび上がらせるって、舞から聞いたわ」

「そうなの、それ、銀狼から盗まれた技術なのよ。あたしの“炎”もそうだけど、【契約の民】が身体に刻む紋章は全部そう。故に、銀狼は【契約の民】の存在を良く思っていない。でもひとりひとり追い回して殺すほどではない。【契約の民】の紋章は不完全なものだからね。

 でもあんたのは違う」


 ニーナは無意識のように細い指先を組み合わせた。オーレリアは噛んで含めるように続けた。


「あんたのは完全な紋章よ。デクターと同じ。デクターは……戸籍を焼いた直後、ちょっと街道を離れた時に、銀狼に殺されそうになったって聞いたわ。デクターがアルガスと出会ったのは、その時だったんですって」


 ニーナは口元に手を宛てた。


「それが……追いはぎ? 身ぐるみ剥がされて殺されるところだったって……【四ツ葉】のくせにどうしてそんな目に遭ったのかって、思っていたけど」

「ふうん、そんなこと言ったんだ? まあ、あたしの方は正しい情報だと思うわよ。アルガスがあたしに近づいてきたその理由が、銀狼に狙われている人間からその原因を取り除く方法はないか知りたい、という、ことだったから」

「そんな方法が?」


 エルヴェントラが口を出し、オーレリアは首を振る。


「知らないわ。腕のいい彫師なら誰かから契約を引っぺがすことだってできるっていうけど……結構身体に負担がかかるものらしいの。【一ツ葉】でもそうなのに、それが【四ツ葉】だなんて、命まで引っぺがしてしまいかねないでしょ。ただ、銀狼は人間に関わりたがらないものだから。銀狼の前にニーナやデクターが出ていくことがない限り、人間の中に入り込んでまで捜し回る、ってほどの事態じゃないんじゃないかしら。現にデクターだって、今まで五年も無事だったんだから、これ以降も気をつけてれば大丈夫よ。まあ、とにかく――【世界の花】、あんたが銀狼に殺されてしまう事態はどうあっても避けなきゃいけないんだから、人魚の前にだって出て行かない方がいいわ。人魚と銀狼は訣別したとは言えもとは伴侶だったんだから、ニーナの紋章を見て、どんな考えを起こすかわからないから」


「人魚と銀狼は、どうして訣別したのでしょうか」


 ミハイルが、場の空気を少しでも変えようとしてか、話を変えた。オーレリアはふん、と鼻から息を吐いた。


「文献によると、意見の相違があったらしいわね――銀狼は負の存在、つまり魔物を、この世界から排除するのが役割でしょ。でも人魚はそれを嫌がった、らしい」

「魔物を――? 追い出さない方がいいと? でも、魔物は危険な存在なのに」

「あたしもその辺はまだよくわからないんだけど……こないだちょっとその理由がわかるような気がしたわ。そもそも、生き物というのは完全体としてこの世に生を受けるわけでしょ。でもそれではこの世で生きていけないから、【人魚の骨】を身体に組み込んで“負を追い出し”、この箱庭の中で生きていける身体になる。追い出された負は箱庭の外に出て、魔物になる。人魚がその魔物に対して何らかの情を抱いたとしても不思議じゃないと思わない? 魔物はいわば被害者なんだもの」


 いい匂いと共に、マーシャがやってきた。スージーもマーシャの後ろからお盆を掲げてついてくる。ビアンカは色めき立った。今日のおやつはひねり菓子だ。

 ひねり菓子は【アスタ】のあるウルクディア地方では定番のお菓子だ。どちらかと言えば駄菓子の範疇に入るのだが、マーシャのひねり菓子は他のものとは少々格が違った。カリッとした食感なのに、舌に触れた瞬間に溶けて口全体に軽い甘さが広がる。一度製法を盗み見たところ、マーシャは小麦粉ではなく練り粉で作っていた。だからあの食感が生まれるのだろう。

 しかも、揚げたてだ。香ばしい、いい香りが辺りに漂っている。


「ニーナ様、先生がお待ちですよ」


 マーシャが穏やかにいい、ニーナは口に手を宛てた。


「そうだ、授業の途中だったんだわ。すっかり興奮しちゃって」

「お戻りになった方がよろしいですよ。おやつを出せばちょうどいいんじゃないかと思いましたんでね」

「マーシャ、ありがとう!」


 ニーナはホッとしたように立ち上がった。確かに先生も、揚げたての、マーシャ特製美味しいひねり揚げを出されたら、あまり不機嫌でもいられないだろう。

 ビアンカはお前も来いと言われないように縮こまっていた。ミハイルは嬉しそうにニーナの後に付いていく。それを見送っていると、オーレリアがビアンカに言った。


「あんた気が利くわね。お邪魔虫にならないようにしてるわけね?」

「え、え?」

「アバルキナの王子様なら家柄も身分も悪くないし、いいの見つけたじゃない、エルヴェントラ」

「私が探したわけじゃない。あちらから是非にという話だった。だがまあ、渡りに船だと思ったことも確かだ。病も癒えたし、ルファルファが迫害されることもなくなった。ニーナの春はこれからだ」

「……迫害されてる段階から好きだったんでしょ。もっと早く来てくれれば良かったのにね」


 ビアンカはそう言ってから、自分が言ったことに驚いた。驚いたが、それが本音だということも明らかだった。ミハイルはニーナに首ったけだ。しかし、と、思わずにはいられない。それならもっと早く――エリオット暴虐王にルファルファが支配されていた頃から来てくれていれば。あの戴冠への道のりを、一緒に歩んでくれていたら、ミハイルがニーナに求愛することを、もっと心から喜べたはずなのに。全てがうまく行くのを見届けてから求愛しに来るなんて、ちょっとズルい、気がする。


 オーレリアはビアンカの本音を鼻で笑った。


「あんたってほんっとガキね」

「なっ、なによー!」

「国を背負ってんのよ? 一国の王子がルファルファに求愛するなんて、アナカルシスにもしバレたら、アバルキナなんて吹けば飛ぶような小さな国、あっという間に回りのキファサ諸国連合のどこかに蹂躙されてたでしょうよ。いくら好きだからって、おいそれとは求愛しに来られなかった。そういうもんなのよ」

「……それはまあ、そう、なんだろう、けど」


 むうっと唇を尖らせて、ビアンカは黙った。

 そして、お邪魔虫にならない、という大義名分が自分にあることについて、考えた。何て幸運なんだろう。明日もまた、どうにかしてお邪魔虫にならないようにしなければ。


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