探索(5) 夜にバーサと話したこと
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『まだら牛』にはビアンカがいた。
食事時を外れていると言うこともあり、巡幸を見に客も出払っているのだろう。がらんとした食堂で、ビアンカとバーサはおしゃべりに興じていたが、ニコルが連行されてくるとぴたりとそれをやめた。バーサは急いで茶の支度をしに行ってしまい、ニコルは泣きたかった。なんでこんなことになったのだろう。数ヶ月真面目に勤めてちゃんとした職員になって、バーサに申し込むつもりだったのに。そんな堅実な生活がやはり自分には合っていると思って、自分で選んだ道だったのに。
一番大きな卓に座らされ、その隣にニーナが座った。椅子がどんどん運ばれて、流れ者たちが大勢座った。すぐに茶が配られて、ニコルの前に、紙を何枚も貼り合わせて作られた大きな地図が広げられた。凝り性の地図職人が書いたらしく、とても精巧な美しい地図だ。
「これ、アナカルシス全土なの。有名な地図職人に頼んで二週間かけて書いてもらったの。太い線は今年の巡幸の道筋。巡幸はこのように基本的には大きな円を描いて進むわ。三ヶ月後にはイェルディアに到着の予定。その後アナカルシスの南をぐるっと通る。ここラク・ルダを通り過ぎて、秋の半ばにはエスメラルダに戻る。この内側はね、流れ者と草原の民が、既に捜してくれているの、仕事の合間にね。口伝えに舞の特徴を伝えたりもしてる。だから内側は大丈夫だから、アルガスとニコルには巡幸に同行して、この外側を捜して欲しいの。デクターが持ってる限りの外側の地図をくれたわ」
ニーナは言い、今度は普通の大きさの紙束をどさっとニコルの前に置いた。
こんなに大量の紙。頭がくらくらする。
「……なんで巡幸に同行するの」
「報告が欲しいからよ。十日に一度は巡幸に合流してあたしに報告して。これは絶対守って頂戴」
ニーナはニコルの前に、ふくらんだ革袋を置いた。
「報酬よ」
そのふくらみ方を見て、太っ腹なエスメラルダのことだから、棒一本にはなりそうだなとニコルは思い、
指先で触ってみて、驚いた。感触が。感触が。想像と違う。
「こここここれ全部棒なんじゃ……!?」
「そうよ。二十本入ってる」
「二十本ん!?」
めまいがする。
「巡幸に戻ってきたらもちろん食料とか水とかは補給してあげられるけど、それ以外の食費とか宿代とか、それから情報料? えっと、人に話聞くときに渡したりする必要があるんじゃないかと思って。だからそういうの、アルガスとニコルのふたり分、全部出したら、あなたの純粋な報酬って十本行くかどうかだと思うわ。申し訳ないんだけど」
「だから申し訳ないとかじゃなくてー!」
こんな大金を持ち歩いては、夜もおちおち眠れない。
「他の流れ者たちはこれに専念するわけじゃないからいらないって言ってくれてるの。でも皆さん、」とニーナは流れ者たちに視線を移した。「見つけるのにかかったお金は請求して頂戴? 見つかったらあの子からも出させるから。あの子は今あたしよりずっとたくさん持ってるはずだから。本当にもう、五ヶ月もどこで何をしてるのかしら」
「どうせどっかで迷ってんだろ。すぐ見つかるさ。フェリスタが草原の民にも特徴知らせまくってるそうだしよ」
ノーマンが笑った。フェリスタは戸籍をもらわないまま草原の長の補佐を始めたと聞いていた。未だ流れ者にも顔が広いだろうし、フェリスタの協力があれば、それはもう国中の草原の民と流れ者が、姫の特徴を知ることになるだろう。
ニコルはため息をついて、意を決して、革袋を受け取った。ニーナが笑う。
「……さてと、それじゃあこれ、舞の似顔ね。これはオーレリアが描いてくれたの。あの人って何でも出来るのねえ」
「オーレリアって?」
「エスメラルダで会ったでしょ? すっごく美人な流れ者。腕も立つし炎も持ってて、頼りになるし格好いいけど、男の人だからね。気をつけて。いろいろと」
いろいろと?
「で、彼女が似顔絵も描いてくれたの、ほら見て、可愛いでしょう」
ニーナが差し出した紙には、今にもしゃべり出しそうな姫の顔が描いてあった。特徴を良く捉えていて、ニコルは息を呑んだ。折りたたむのが悪い気がする。
「悪いけどアルガスとニコルの分は二枚しかないの。オーレリアが今もエスメラルダで少しずつ書いてくれてはいるんだけど、昼間は【壁】の調査で忙しいし、あの人いろいろできるのに飽きっぽいのよねえ……あまり量がないの。誰かに渡したりしないで、見せるだけにしてね」
「……わかった」
ニコルは頷いて、意を決して、その絵をたたんだ。懐にしまうとホッとした。彼女は今どこにいるんだろうと、ようやく、そこに考えが至るようになった。もう春も盛りだ。花々が周りに咲き乱れる輝かしい季節だ。もうすぐ緑の初夏が来る。彼女がいなくなったのは去年の終わりだった。
五ヶ月近くも、姿を見せないなんて。
ニコルは近くに座るアルガスを盗み見た。通信舎で会ってから、本当に一言も話していない。元々口数の多い人ではなかったが――何だか痩せたようだし、瞳も藍色のままだし、何だか見ていて苦しくなる。
その夜。
借りている小さな雑居宿の自分の部屋で、ニコルは荷造りをした。流れ者だった短い間に揃えた一式を捨てずにとっておいて本当に良かった。背嚢に寝袋と水を入れた革袋、帰りに買ってきた保存食一式、一番底の方にニーナから受け取った報酬を入れて、アルガスと半分ずつにした『外側』の地図を丁寧にしまい込んだ。それから一応毛布と、防水布と、着替え。姫の似顔絵は旅装の上着の隠しに入れた。あんな短い間でも、自分の荷造り能力が格段に向上していたことを発見して苦笑していると、扉が鳴った。
誰だろう。
ニコルは少々身構えつつ扉を開けた。リヴェルの住民たちはニコルが戴冠に『多大なる』尽力をしたと聞かされて、さっきまでひっきりなしにからかいに来ていたのだ。またその口だろうと思ってぞんざいに扉を開けて、ニコルは硬直した。バーサだ。
あんまり慌ててぶっきらぼうな口調になった。
「ど、どうしたの、こんな時間に。ひとりで来たの? 危ないじゃないか!」
バーサは少し身を縮めるようにした。
「ノーマンが送ってくれたの、帰りはニコルに送ってもらえって、先に戻っちゃったけど。いきなり来てごめんね」
バーサはそして、ニコルの気持ちをほぐそうとするようににっこりした。ニコルはよろめきそうになった。可愛い。
「今日はずっと忙しくって、こんな時間になっちゃって」
「いやいいんだけど、それはいいんだけど、そんなの」
思わずしどろもどろになる。バーサはニコルを見上げて、はい、と持っていた布袋を渡した。
「明日朝早いんだよね。あたしもたぶん朝から忙しいし、今日じゃなきゃ渡せないかなと思って」
「な……なに? これ」
開けてもいいかと訊ねると、バーサは頷いた。おそるおそる布袋を開けると、作りの良さそうな、しっかりした靴が現れた。防水処理をちゃんと施されているのが一目でわかった。ニコルは驚いて、バーサを見た。
「父さんと一緒にね、お金出してね、前に頼んでおいたものなの。ニコルが立派な流れ者になって戻ってきたら、あげようって言ってたんだ。でもほら、ニコル、戸籍もらってきたから……いらないかなあ、と思ってたの。でもこういう機会があったから、やっぱり作っておいてよかった」
「え……っと」
嬉しい。
靴というのは高価なものだ。ニコルなど一足の靴を大事に大事に履いている。ニコルは唐突に泣きたくなり、それだけはと歯を食いしばって堪えた。代わりにうつむいて、言った。
「今履いてもいいかな?」
「もちろん。慣らさないといけないよね。しまったな、やっぱりもっと早く渡しておけば良かった」
「……いやそんな、全然そんな、全然」
なんと返事をしていいかわからず、またもやしどろもどろになってしまう。バーサは微笑んでニコルが靴を履くのを見守り、ニコルが立ち上がってぴったりだ、というと、本当に嬉しそうに笑った。
「そうでしょ? 前にこっそり計っておいたんだよ」
「いつの間に!」
笑いが起きた。ニコルは必死に笑顔を保って、言った。
「ありがとう、バーサ。本当に助かるよ」
「エルティナを」
バーサが急に真面目な口調になった。
「……見つけられたらいいね」
「うん。……頑張るよ」
「なんかいろいろややこしいことだったみたいよね。銀狼の要請を突っぱねたら戦争が起こりかねなかったなんて――話には聞いていたけど、ビアンカに詳しく聞くまで全然ぴんと来なかった。でもあの子が――なんかね、ええと。戦争なんて嫌でしょう、それも相手が銀狼だなんて、絶対嫌よ。だからそれを阻止してもらえたのは本当に嬉しいんだけど、でもそこはまだぴんと来ないの。でもね、魔物と前の王がいる王宮の中に、ひとりで、行くって、決めたってことの、大きさは何となくわかる。ひとりでなんて、あたしは嫌だな。だから……なんて言うのかな」
バーサは言いよどみ、うう、と唸った。
「……死ぬ気だったなんて思いたくないの。そんなのなんか、ずるい、気がするの。だから生きてて欲しいし、生きてなきゃ困るの。だってすごいことよね? そんなことした人が死ぬなんて、おかしいよね? 死なれちゃったら、あたしたち、生きてて幸せでも、なんか後ろめたいよねえ? だから生きてて、後はもうずっと、一生、世界で一番幸せになってもらわなきゃ困るの。それに絶対帰ってくるってビアンカと約束したって言うし、絶対生きてるってビアンカは言うし、あたしもそう思う」
「俺も」
言うとバーサは、嬉しそうに笑った。
「ビアンカも大変だっただろうな。ねえニコル、すごいね。最近生活が変わったよね。税も安くなったって街長さんが言ってたし、なんて言うか、重苦しい雰囲気がすっかりなくなったよね。あたしにはこっちの方がなんか、ぴんと来るし、重要な気がするな。新しい王様は、いい人だったって、ニコル、言ってたよね? でも、ねえ、ニコル。戴冠式であなたが前王の残党を見つけてくれなかったら、こんな生活、なかったかもしれないよね」
「……いやあの」ニコルはうつむいた。「俺ね、前も言ったけど、ただ見かけただけなんだよ。それで姫に知らせに行ってる間に見失っちゃうしさ。そんな大ごとだなんて本当に思わなかったし、だから、そんなに褒めてもらうようなことじゃないんだよ。その後の狙撃とか、兵の乱入とかには、俺、本当に役立たずだったんだ」
「ねえニコル」
バーサの手が、ニコルの手にそっと触れた。
「それでも、あなたがきっかけになったのは確かでしょう。ビアンカから詳しく聞いたの。自信なさそうだったけど、でもすっごく気になって、って言ったんだって? そこであなたが、やっぱり見間違いだなんて自分で勝手に結論づけちゃってたら、新王は今頃死んでいたかもしれないのよ。……自信を持ってよ。剣が使えなくたっていいじゃない。ニコルにはその目と耳があるじゃない。だからアルガスもあなたを指名したんだもの。人捜しには重要な力じゃない、ね?」
「バーサ……」
ニコルは笑顔を見せた。我ながら、泣き笑いのような顔だった。
「わかった。頑張るよ。……だから」
「だから?」
バーサが訊ねる。ニコルは、ニーナに戸籍をくれ、と言ったときのことを思い出した。
ニーナは用意して待っていてくれた。ニコルが言い出すのを。意を決して言ったらすぐ、はい、と手渡してくれた。
言わなければどこにも進めないのだ、きっと。
「……俺頑張るからさ。バーサ、俺が帰ってくるまで、他の男の求婚なんか、受けないでね」
バーサが息を詰めた。
「……ニコル」
「俺バーサが好きなんだ。ずっと好きだったんだ。アルガスに連れてってくれって言ったときも、ほんとはずっとここにいたかった。だから、またここに戻って来たし、これから少しずつ好きになってもらおうって思ってた。でも今、また出かけなきゃいけないから、それはここで中断しなきゃいけないから、だからせめて今のまま、『まだら牛』で待ってて……?」
我ながら。
情けない告白だった。
告白と言うより懇願だった。今好きになってもらえなくても、帰ってきてまた努力するから、せめて今のまま待っててくれなんて。
でもバーサは赤くなり、微笑んで、背伸びをして、ニコルの頬に唇をつけた。
「……わ!?」
「あたしずいぶん前からニコルのこともう好きだよ」
バーサは言って、微笑みを深めた。
「だから待ってる。帰ってくるの、待ってるから。頑張ってきてね、ニコル……」
 




