探索(4) ニコルが連行されたこと
ミハイル=ヴラドレン=アバルキナというのは、キファサ連合諸国の一員である、アバルキナ王国の王子様なのだそうだ。
年齢は二十歳だという。とてもとても、それはそれは、麗しい王子様であった。鮮やかな赤い色の髪は鮮やかだったし、青紫色の瞳は神秘的だったし、顔立ちも整っていて、また立ち居振る舞いが洗練されているのだった。
巡幸の間、ビアンカはつい、彼を目で追わずにはいられなかった。【アスタ】で大勢の娘たちがアルガスやジェイルと言った若い流れ者たちにきゃあきゃあ騒いだように、ビアンカにとってミハイルはつい目で追ってはきゃあきゃあ言いたくなる存在だった。遠い異国の王子様だから、気楽に楽しく鑑賞できるというわけである。
そしてそれは、巡幸に同行している女たち共通の見解であったらしい。
「あの人はね、第三王位継承者なんですって」情報通のスージー(ニーナの衣装係)が刺繍をしながら話してくれた。「お兄様がアバルキナ国王でね――ほら、アナカルシスの王が交代して、治安が良くなったから、留学に来られたんだそうですよ。ミハイル様のお祖母様がアナカルシスのノエルディア伯爵家の出だそうで」
「でもどうして巡幸に同行してるの? アナカルディアの留学生なんでしょ」
ビアンカが訊ねるとスージーは、声を潜めた。
「ニーナ様に求婚するためだそうですよ」
「えー!!!」
「お似合いですでしょ、そう思いません?」
スージーは華やいでおり、ビアンカも思わず華やいだ。しかし、はたと我に返った。お似合いどころの話ではない。大問題ではないか。
「ちょちょちょ、ちょっと待って。だってニーナは――」
「ビアンカ様はまだルファルファの教義に詳しくありませんものね」
スージーは得意げに小鼻を膨らませる。スージーにとって、仕入れた情報を披露するのは至福の時なのだ。
「ニーナ様は生涯独身であられる必要があります――ですが同時に、次代を遺す必要もあります。ニーナ様の次代はミネア様おひとり。もちろん利発でお可愛らしい、申し分ないお世継ぎですけれど、ミネア様に万一の」スージーは左手で空中に祈りの印を描いた。「……ええ、とにかく、ニーナ様のお世継ぎは、多ければ多いほど良いと言うのは人の世の常でしょう。それに、エルヴェントラは――その……年齢が釣り合うとは言えないですしね?」
「ああ、アバルキナの王子は身分も年齢も外見も人格も申し分ない」
「ひいっ!」
出し抜けに背後からエルヴェントラに話しかけられスージーとビアンカは飛び上がった。内緒話をまさか聞かれていたとは。
スージーは昼食後の一休みの間を利用して、ウルクディアでニーナが着る衣装の仕上げをしているところだった。ビアンカはその隣に座り込んで、スージーの刺繍に感心していた。巡幸に出てからと言うもの、ニーナは打ち合わせで忙しく、マーシャはもっと忙しい。巡幸に出てから数日、ビアンカは暇になるとスージーを捜すようになっていた。彼女は動き回る仕事ではないし、気さくだし、お喋りは口調も内容も明るい。陰口や悪口がまず出てこないから居心地がいい。
しかしまさか、ごく僅かに出た陰口に取られかねない発言を、よりによって本人に聞かれてしまうとは。ビアンカは生きた心地がしなかったし、スージーは蒼白である。
「もっ、申し訳……!」
「年齢が釣り合わないということに関しても噂話に私を登場させたと言うことについても特に謝罪の必要はない」エルヴェントラは穏やかな口調で言った。「だがニーナとアバルキナの王子の耳に入らないよう重々注意していただきたい」
そして彼はしゃがみ込んだ。スージーとビアンカの会話に加わるように。
「ニーナは既に義務を果たした。世継ぎを産むのに私のようなものを選ばねばならなかった。だからあのアバルキナの王子は渡りに船だと思っている」
スージーとビアンカは顔を見合わせた。
それからエルヴェントラを見た。「……は?」
「年齢も素性も申し分ない。人格の方はまだ今ひとつわからないが」
「素敵な人ですよ」スージーが囁く。「とても……なんというか……素敵な方です。あの青紫の瞳! ニーナ様も憎からず思っていらっしゃるご様子ですし!」
「ビアンカ。貴女はどう思う」
エルヴェントラに問われ、ビアンカは、口ごもった。アバルキナという、今まで見たことも聞いたこともなかった国の王子様は、ビアンカにとって、あまり現実味がなかった。その色彩豊かな見目麗しい外見と相まって、だから無責任に、きゃあきゃあと騒いでいられたし、ニーナの隣に立ったらどんなにお似合いだろうと、妄想するのは楽しかった。
しかし、現実にニーナの相手としてどうか、という話になると、もっと慎重にならねばならない、気がする。
「……エルヴェントラ、あなたはそれでいいの?」
訊ねるとエルヴェントラは眉を上げた。「私に何か関係が?」
「えっと……」
「ニーナは既に義務を果たした。これ以上、私に縛られる必要はない。ただ、どこの馬の骨とも知れん男を迎えられては困るというだけだ」
「そう……なの?」
「そもそもニーナが恋人を欲しがっているかどうかも私にはわからない。彼女が必要としないならこの話をこれ以上進める気はない、だが、ニーナはまだ十九歳だ。人生の春はこれからだろう」
「……」
確かに、と、思わずにはいられなかった。
そもそも、ゲルトという男と、ニーナが、ミネアの親である――と言う事実を、初めて知ったときには衝撃だった。ニーナが可哀想だ、と思ったことも事実だった。ニーナは割り切っているようだったのが救いと言えば救いだが、ビアンカならば、好きでもない遙か年上の人と婚姻関係を結ぶなんてまっぴらごめんだ。
「あの王子は王位継承の三番目だからこちらに永住するにもそれほどの障害はなかろうし、家柄も悪くない、アナカルシスの祖母を持つからか言葉の問題もなさそうだし――アナカルシスの貴族では色々と近すぎて王家との間に軋轢も生みそうだが、アバルキナくらい遠ければさほどでもなかろう」
そうかあ、と、ビアンカは思った。
ニーナだって、恋をしてもいいのだ。
それならばもっと慎重に、ミハイル=ヴラドレン=アバルキナという人間について、調べなければならない。ビアンカは奮起した。姫がいない間、ニーナを守るのはビアンカの役目だ。どこの馬の骨とも知れない王子様に、易々とニーナを渡すわけにはいかないのだから。
*
巡幸は、アリエディアから、なんとリヴェルに次の行く先を定めたらしい。
ウルクディアを避けたのは、やはり【最初の娘】にわだかまりがあるからだ、ともっぱらの噂だった。まあウルクディアはリヴェルからほど近い。リヴェルを通れば、ルファルファの腕の中にウルクディアも入ることになるから、実質的には問題はあまりないのだろう。
ただ、【最初の娘】は厳しい処置をした(【最後の娘】へのウルクディアの仕打ちがあまりに腹に据えかねたのだろう)、という意見も多かった。
というのは、ウルクディアの都市代表は既に別の人物に替わっており、元の代表の三人の息子もコリーンという侍女も、ウルクディアから追放同然に出されていたからだ。その上、新しい都市代表は涙ながらに巡幸を招いたという。それなのに、巡幸はリヴェルを通るというのだ。今年だけだといいね、来年は許してあげて欲しいね、と、元々ウルクディアの妹のような立場にあり、その繁栄のお陰で生活を支えているリヴェルの民たちはみなそう言った。まあ、リヴェルのような小さな街に巡幸がやってくるというのは、それはそれで晴れがましいことではあったのだが。お陰で毎日お祭り騒ぎで、巡幸を見たい人たちの予約で宿帳もはち切れんばかりだ。バーサはまた火の番をするのだろうとニコルは思う。
ニコルは『まだら牛』で毎日昼食を食べる。おやっさんやバーサや常連客とそう言ったおしゃべりをしながら幸せなひとときを過ごす。その後通信舎へ仕事に戻る。人と話をしたり人との和を取り持ったりするのが得意なニコルは、見習いとして頼み込んで何とか雇ってもらってからは、結構重宝がられていた。どんな難しい客が来ても、人当たりの良さと良く回る口で丸め込むことが出来たし、細々した仕事も苦にならなかった。字が下手で雑なのは直せと言われて今勉強中である。バーサはニコルに戸籍が戻ったことをとても喜んでくれ、昼食を食べに行っても快く迎えてくれる。どう見ても嫌われてはいない。それどころか戴冠式で少しだけとは言え危機を回避するのに働いたことを口を極めて褒めてくれた(少し面はゆいというか後ろめたいニコルだった)。見習いの立場を卒業してもう少し収入が増えたら申し込むつもりだ。おやっさんにはもうそれとなく頼んである。おやっさんはいい顔をしなかったが、その後バーサに持ちかけられる縁談はなりをひそめたようなので、認めてくれているのではないかとニコルは勝手に思っている。
――なので。
いざ巡幸がリヴェルに到着した時も、ニコルは下っ端だから、見に行きたい上役たちに留守居を押しつけられても文句は言わなかった。今夜あたり挨拶には行かなければならないだろうけれど、今は通信舎で得点を稼ぐ方が得策というものだ。遠くがざわめいているが、通信舎の中はとても静かだった。客も来ない。手紙を出すような人だって、巡幸の到着は見たいのだろう。
ニコルは受付の椅子に腰掛けて、肘をついて、戴冠式で見たニーナの美しい立ち姿をぼんやり思い返していた。綺麗だったなあ、とうっとりした。ルファルファのふたり娘はどちらも本当に綺麗な人たちだ。姫も着飾っていて、すごく綺麗だった。彼女はもう帰ってきたのだろうか。死んだという噂は聞かないが、帰ってきたという噂も聞かない。彼女のことだ、帰ってきたら、リヴェルに知らせてくれるのではないかと勝手に思っていたのだが、それは自惚れというものだろうか。
ざわめきが近づいてくる。
ニコルは油断しきっていた。まさかそのざわめきが、自分をめがけて歩いてくるニーナを先頭にした、神官兵と流れ者の集団だなんて思いもよらなかった。
ばん! と通信舎の扉が開いて初めて、ニコルは腰を浮かせた。目をぱちぱちさせた。入り口に、ニーナが立っている。彼女は華やかな服を着ていた。少し風通しが良さそうとはいえ、戴冠式で見たのと似た配色のドレスだから、たぶんこれが【最初の娘】の正装なのだろう。七分丈の袖で、襟が大きめに開いているので、戴冠式の時よりは紋章がもっとたくさん見え、貴金属のような彩りを添えている。ニコルが事情がさっぱりわからずに目をぱちぱちさせ続ける間に、ニーナはずかずかと入ってきた。わらわらと神官兵と流れ者が周囲を取り囲み、全員が自分を見ていることに、ニコルは仰天した。
ニーナは晴れやかに言った。
「……久しぶりね、ニコル」
「ご、ご無沙汰してます……」ニーナの目を見て、噛まれる、と思った。「…………久しぶり、だね」
ニーナのすぐ隣にアルガスがいた。少し痩せて、精悍さが増したようだ。おまけに瞳が藍色だ。怒っているのだろうか。ニコルを? ぞっとする。
「……ご、ごめん、俺、何かしたっけ」
「あら、今からするのよ、ニコル」
ニーナは言って、にっこり笑う。と、ニコルの指導をしてくれている上役が慌てふためいて入ってきて、ニーナに平身低頭した。
「も、申し訳ありません、うちの見習いが、何か……」
「とりあえずこちらに来てくれない、ニコル? そこじゃ話がしにくいもの」
ニーナはあくまでにこやかに、ニコルを呼んだ。ニコルはおそるおそるしきりを回ってニーナの前に立った。流れ者の中には顔見知りもいた。グリスタもいた。アルガスはにこりともせずにニコルを見ている。値踏みするような視線だと思って、何だか背筋が冷える。
「ご、ご存じなんですか」
上役が訊ね、ニーナは頷いた。
「ええ、ニコルには、戴冠式でとてもお世話になったの」
「に、ニーナ!?」
それはバーサとおやっさんに硬く口止めしておいたことだ。通信舎ではあまりその話をしたくはなかった。どんな波紋を呼ぶかわからないからだ。通信舎にはいろいろな人が来る。万一前王の残党がどこかに潜んでいたら、ニコルには自分を守る術がない。
なのにニーナはあっさりと秘密を暴露した。
「ニコルが前王の残党を見つけてくれて、それで危機が回避できたの。あら、ご存じなかった?」
「ぞ、存じませんで……」
上役は目を白黒させている。ニコルは額に手を当て、ニーナに囁いた。
「困るよ、ニーナ」
上役がよろめいた。
「け、敬語を使え、馬鹿者!」
「あらいいのよ。ニコルはあたしのお友だちだもの」
「お友だち!?」
上役は泡を吹きそうになり、そこへ流れ者たちが口々に追い打ちをかけた。
「そうそうこいつは流れ者としちゃかなり見所のある奴でさ」
「耳は早いし目は確かだし、通信舎なんかでなにやってんだよ、お前」
「戴冠に尽力したってんで新王から直々に褒美をもらった男がさ」
「ひー!?」
いったいこれはなんだ。なんのたくらみなんだ。いや褒美をもらったのは嘘ではないのだが、でも嘘に近いではないか。実際戴冠で役に立てたのなんてあの男を見つけたということだけだし、その後見失っているのに。入り口に鈴なりになったリヴェルの住民たちが、興味津々といった風にそれを聞いている。今までせっかく築き上げた堅実な生活が、と思っていると、ニーナが言った。
「そこでまたあなたを雇いたいの」
「や……雇うう!?」
「【最後の娘】を捜して頂戴。ひとりでとは言わないわ。アルガス=グウェリンが一緒だから大丈夫よ。世界の崩壊を救うために杭を抜いて行方不明になった【最後の娘】が未だに戻らないの。死んでないことは確かよ。だから捜すのに、あなたの手が要るの」
「なんで俺!?」
「だってあの子の顔、知ってるでしょ? あの子もニコルが気に入ってるみたいだし。舞はいまどんな状況にあるか分からない。でもアルガスとあなたが捜せばあの子も喜ぶはずよ、だってあなたは、アンヌ王妃をお迎えするために、あの子と一緒に前王の本拠地に乗り込んだひとりじゃないの」
上役が後ずさり、住民たちがざわめき、ニコルは青くなった。それも嘘ではない、嘘ではないが、ただついていっただけでー!
「それに他の流れ者たちも捜してくれるんですって。他の仕事の合間にだけど、流れ者はどこにでもいるし、草原の民も大勢いるから、巡幸の内側は問題なく探せると思うの。そうして舞を見つけたらすぐに巡幸まで知らせてくれるって、約束してくれたの。だからあなたは巡幸に同行して、主にその外側をアルガスと一緒に捜して欲しいのよ」
「外側を……」
青ざめた。巡幸の外側というと、【アスタ】の向こうとか、森の隠れ道の向こうとか、草原とか、そう言う、なんというか、辺境の地ばかりじゃないか。獣も出るし、蛮族も出るし、それにそれに――
「だからなんで俺!?」
「アルガスのご指名なのよ、ニコル。あなたは耳も目も確かだし、いろんな人に話を聞いて回るのが得意でしょう。大丈夫。危険は何もないわ。【最初の娘】が頼んでいるのよ、ニコル?」
ニコルは両手で頭を抱えた。
「だからなんで俺ー!」
泣きたくなった。流れ者は自分に向いてないと、こないだはっきり悟ったばかりだというのに!
流れ者たちが詰め寄り、ニーナも詰め寄った。上役がはじき出され、ニコルは後ずさった。
「……あ、あ、あ、あの」
「ニコル、あたしは【最後の娘】じゃないから、命じたりは出来ないけれど」
ニーナはそれはそれは美しい笑みを浮かべた。
「あなたの返答次第で、巡幸の道筋を変えることは出来るのよ」
「脅迫!?」
「今年はリヴェルを通ったけれど。来年はどうしようかしらね」
大きな声で、聞こえよがしに、後ろのリヴェル住民たちに聞こえるように、張りのある声でニーナは言った。
「あなたが手伝ってくれたら、これから毎年リヴェルを通るわ。ああ、もちろん、ウルクディアも通るわよ、」めんどくさいけど。一瞬だけ真顔で小さくつぶやき、「――今年もこれから行くつもりなの。リヴェルを通ったら――」
ニーナは声をひそめて、囁いた。
「毎年『まだら牛』に泊まるわ。約束する」
「い……」ニコルは頭を垂れた。「行きます……」
「そう来なくっちゃ。良かった、ニコル。ありがとう。あなたのお心に感謝します。――上役殿?」
「は、はい……」
白髪が数本は増えたような上役はか細い声でそう答え、ニーナの微笑みを受けて硬直した。
「ニコルはこれから数ヶ月お休みをいただきますけれど、構いませんね?」
「か、構いませんとも。もちろんですとも。いくらでもお休み下さい」
クビだ、とニコルは思った。クビに決まっている。
ああ全く王女様というものは、下々の立場になんか頓着して下さらないものだ。伝承やおとぎ話でもすべからくそうではないか。
「ではこれから早速」
ニーナはニコルの腕をしっかりとつかみ、その周囲を流れ者が取り囲んで、ニコルは『まだら牛』へ連行された。
街中の人間、それから巡幸を見に集まった観光客も、みんな興味津々で自分を見ている。
罪人が市中を引き回されるような心境だった。




