探索(2) 彼女のいない日々のこと
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寝る暇もない夜が過ぎ、次の日からは動きがもっと活発になった。軌道に乗るまでの三日間の記憶がビアンカにはあまりない。横になった記憶さえほとんどない。倒れられては困るので、出来るだけ椅子に座るようにしなさい、と、誰かに(多分マーシャだ)言われたのは覚えている。そのわずかな時間に気絶するように眠っていたのだろうと思う。
王妃宮の中にシンディの遺骸と料理長の――残骸、と呼ぶしかない遺骸が見つかった。デボラは涙を見せなかった。ふたりは国葬にされたが、それに参列した記憶さえ朦朧としている。
助っ人で一番早く到着したのは地下街の女たちだった。頼んだ次の日には到着した。荷馬車に大鍋をいくつも積んできてくれて本当に助かった。お陰でその次の日からは、温かな食事を出せるようになった。春をひさぐことを生業とする者も大勢いたが、ビアンカの想像とは違い、皆親切でよく働いてくれた。一緒に働くうちに、ビアンカは今までよりは、そういう風習について詳しくなった――けれど女たちが面白がってかなり露骨なことまでビアンカに吹き込もうとするので、真っ赤になって逃げ出さなければならないこともしばしばだった。アイオリーナは平然と聞こえないふりをしていた。やはり令嬢というのはそう言うところが違う。
その間にも続々と人々がやってきていた。近隣の街から手伝いに来てくれた者たちもいたし、アナカルディアに帰ってきた人たちもいた。【アスタ】で一緒だった黒髪の娘たちも混じっていた。日を追うごとにアナカルディアの街は、まるで若葉が芽吹き新緑が育つように復興を遂げていった。王宮が崩れたのは、少なくともアナカルディアにとっては恩恵だった。仕事もないし糊口を凌ぐのさえ難しいだろうと、帰宅を躊躇していた住民たちも、仕事の、少なくとも食べる口のあてはあるとわかってからは、どんどん戻ってきたからだ。リヴェルへ向かう途中で事態を知ったニコルが戻ってきた。フェリスタも、来る途中の街で捕まえた大勢の流れ者をつれてやってきた。要請されない者も仕事を求めて流れ込んできていたので、崩壊から一週間後には、アナカルディアは路上にまで人が眠るほどの活気を呈していた。
アナカルディアの街が復興するにつれ、王宮の瓦礫もその数を減らしていった。王宮の中からは次から次へと魔法道具が掘り出された。珍しいもの、見たことがないものもたくさんあったが、エスメラルダでも使われている光珠もたくさんあった。割れていなかったものは続々と王宮の回りに並べられ、毎日光量が増えていった。ただそれは、ビアンカにとっては少々困ったことでもあった。今までは暗いことを理由に何とかアルガスを寝場所へ追いやることが出来ていたのに、その口実がなくなってしまったからだ。そこでビアンカは一計を案じて、自分の寝場所を町中に移し、アナカルディアの夜の治安の悪さを理由にすることにした。夜遅くまで王妃宮で働いていれば、アルガスに送ってもらえる。流れ込んでくる人たちの中には食うや食わずの浮浪者や、犯罪者すれすれの流れ者も大勢いたので、ひとりで歩くのは怖いことも確かだった。
アルガスは朝から夜半過ぎまで、ビアンカが見張っていなければ明け方まででも、一言も言わずに黙々と働いていた。ただお腹がすいたら炊き出しの場所へやってくるので、その点はありがたかった。瞳の色はあの夜からずっと、黒に近いほどの藍のままだ。
デクターは王宮から続々と掘り出されるリルア石を使った諸々を、鑑定するのに追われている。エスメラルダの学問所から学者たちもやってきているが、デクターほど詳しい人間はいないらしい。彫師で残っているのはほんの一握りしかいないのだ。こちらは寝食忘れて没頭していたりするので、人手を割いて食べ物を届けなければならなかった。本も続々と掘り出された。今まで前王が独り占めしていた、王宮はまさに宝の山だった。エルヴェントラとスヴェンが、王宮の発掘には新参の流れ者は立ち入らせないように気を配っていた理由が良くわかる。
そうして崩壊からあっという間に八日が過ぎたとき、瓦礫の中から王座が現れた。
そこへ至るまでの瓦礫はほとんど取り除かれていたので、ビアンカもアイオリーナもその近くまで駆けつけることが出来た。アイオリーナは気丈だったが、顔色は蒼白だった。両手が白くなるまで握りしめられていて、ビアンカは却って落ち着いた。アイオリーナも不安なのだと思うと、心臓を押しつぶされそうな不安も、分かち合えるような気がする。
けれどふたりはその現場を見ることは出来なかった。流れ者と兵士たちがふたりを閉めだしたからだ。兵士は「どうぞご遠慮下さい」と言い張り、流れ者たちはもう少しあからさまに、「邪魔だからどいててくれ」と言った。それでもその近くから動くことの出来ないふたりは、久しぶりにアルガスの声を聞いた。
「死体がある。瓦礫を浴びてかなり状態も悪い。後で知らせに行くからどいていてくれ」
――死体。
誰、の?
訊ねる前にアイオリーナがよろめいた。喘ぐような音を聞いて、ビアンカはアイオリーナの身体を支えてそこから連れ出した。そのまま王妃宮まで戻ってきて初めて、王座の辺りに漂っていた血のにおいと、かすかな腐臭に気づいた。冬で助かった、と思った。
遠目に見ていたが、流れ者も兵士たちも、淡々と作業を進めているようだった。どよめきも悲嘆の声も上がらなかった。動きを止めて立ち尽くす様子もなかった。アナカルディアの街中で指揮に追われていたエルギンとカーディスが知らせを受けて駆けつけたが、ふたりに事情を知らせる声も落ち着いているようだ。
後から教えてもらったところによると、出てきた死体は三つだった。死んだ後に王座に座らされていたらしい王妃は、崩壊の反動でか、座ったまま王座が倒れ、奇跡的にそのひじ掛けと背もたれの隙間に倒れていた。瓦礫もあまり彼女の体には降り注いでおらず、綺麗な死に顔だった。
王妃から少し離れた場所に、ヴェガスタの遺体があった。魔物に付けられた大きな爪痕が、致命傷となったらしい。
王座の後ろには大きな、細長い杭。建築に詳しい人が驚くほどの長さだった。姫の身長よりもかなり長く、そして重かった。抜くのにはかなりの力が要っただろう、女性一人でよくこれを抜きましたねと、暢気に感心していて、エルヴェントラが珍しく怒りをあらわにして詰め寄った。なぜ図面を見て分からなかったのだと怒鳴られて、そんなこと言われても、としょぼくれていた。気の毒に。
その上姫が戦わなければならなかったのは、杭の重さと長さだけではなかった。彼女のすぐそばに、前王の遺体があったのだ。
姫は憎い仇と対峙しながらこの長く重たい杭を抜いた。どうしてそんなことができたのか。どうやってそれをやり遂げたのか、ビアンカには想像も付かなかった。
そして、最後に。最も不可思議なものが出てきた。
エリカのワンピースと、今までに一度も見たことのない、風変わりな背嚢だ。瓦礫や何やかんやでひしゃげ、酷く汚れていたけれど、背嚢を形作っている革は薄気味悪いほど鮮やかな色をしていた。それが掘り出されたとき、ビアンカとアイオリーナ、マーシャとデボラ、他の女たち全員が呼ばれた。皆でわいわい矯めつ眇めつしたところ、ふたつの事実がわかった。
ひとつ。エリカのワンピースは袈裟懸けに切り裂かれていると言うこと。恐らく魔物が引きちぎったのだろう。爪がかなり深く食い込んでおり、もしもエリカがこれを来たまま魔物に襲われたのだとしたら、彼女はきっと生きていないだろう、と思うほどの切り裂かれ方だ。
と、ビアンカは思ったのだが。
ふたつめの事実に気づいたのは、マーシャだった。
「この人は初めから下着を着けていないですね」
マーシャはいつもどおりのゆっくりした口調で、しかしきっぱりと、断言した。
「こんなに深く切り裂かれている……ちょうど胸の辺りを通って切り裂かれているのに」
マーシャはビアンカに向き直った。「こう向かい合って……こう、抉られているわけです」ビアンカの左肩から胸、腹を通って、右の脇腹までを手で示した。「下着が一緒に抉られないなんて、あり得ませんでしょ」
「確かにそうだわ。それにこれには、赤い血が付いていない」
アイオリーナが受け、みんなが一斉に喋りだした。ビアンカは皆が自分を見ながらあーだこーだと言う間、大人しく両手を広げて立ったままでいた。そして、確かに、と思っていた。ビアンカが魔物の爪に抉られたのだとしたら、胸に付けている下着も一緒に切られてしまうはずだ。つまりこの人は初めから下着を着けていなかった、ということになる。でなければ魔物がワンピースだけを切り裂けるように力を加減したと言うことになるが、そんなことをする意味が少々不明である。
エリカは初めから下着を着けていなかった、という結論を聞いて、エルギンは判断を下した。
エリカはやはり、魔物だったのではないか、ということだ。
“ルファルファの加護”を持つ姫の存在を敵視し、彼女を首尾良くおびき出し排除するために、エリカに化けて現れたのではないか。魔物は異国風の衣類をどこかの誰かに作らせて(誰に? どこの?)、姫の外見と似た印象の若い娘に化け、姫をひとりだけで呼び寄せられるよう、罠を仕掛けたのではないか。
が、姫がエリカの策略どおり殺された、という、痕跡もなかった。杭の近くにはほとんど血痕がなかったからだ。
つまり彼女は杭を抜き、どこかへ移動した。エリカの“崩壊の力を利用してあちらへ帰る”という話は嘘だったようだから、彼女がどこへ行ったかはわからない。だが、姫が戴冠式の日、あの高い塔から落ちたとき、彼女は一度帰りかけている。その前例を鑑みれば、どこかへ移動したという可能性は充分にある。あちらへ帰った可能性もあるが、この世界のどこかに移動しているという可能性も、否定できない。
どこかで死んでしまった可能性が一番高い、と言うことは、エルギンもビアンカたちも充分承知していたが、誰もそれを口に出さなかった。 それは、銀狼の長が来て、箱庭の中には見つからなかったと、言いに来た後も変わらなかった。
その後どんなに探しても、姫の遺体は見つからなかった。背嚢も、衣服の切れ端さえも、彼女のものらしい血痕も、見つからなかった。
その間に、王妃とヴェガスタは国葬にされた。国民に愛されたアンヌ王妃らしい、参列者の詰めかける葬式となった。王妃宮の庭園の一角、美しい場所を選んで葬られたが、この季節だというのに花が途絶えたことがない。前王はひっそりと葬られた。歴代の王の墓所に葬られたのだが、こちらはひどく寒々しい墓だった。
そして王宮の瓦礫が全てなくなる日が来た。
その日にみんなの間に漂った雰囲気は、とても明るいものだった。姫はどこにもいなかった。少なくとも王宮の下敷きになってはいなかった。だからどこかへ行ったのだろう、だから生きているのだろう。そう思えたことで、一応の懸念は取り除かれたことになる。けれどアルガスの瞳は未だ黒に近い深い深い藍のままで、ビアンカも、周囲を支配するその明るい雰囲気に、逆恨みのような、憤りに似た感情を抱いた。他の大多数の人にとっては、姫が生きているということさえわかれば充分なのだ。もうこれで彼女への義理は果たしたとばかりに、日常へと立ち返ろうとする人たちを、けれど責めることも出来なかった。アナカルディアの街は既にお祭りのようなにぎわいだ。暴君の圧政から解き放たれて、人々がどんどん集まってくる、にぎやかで華やかな、楽園のような場所で、いつまでもその名と功績しか知らない人間ひとりを心配し、捜し、その帰還を胸を痛めるほどに望み続けるなど無理な話だ。
でも哀しい。他の大勢の人たちは、姫が帰ってこなくても平気なのだ。
そしてたぶんあたしもだと、ビアンカは諦めに似た予感を抱いた。
この先、このまま何年も何年も経てば、日常に追い立てられて、彼女の不在に慣れてしまう日が来てしまうのだろう。いつか。
王宮は巨大な岩をくりぬくようにして建てられていた。あのごつごつとした、雄大な建物はもはやなく、地面の上に岩の土台を残すのみにすぎない。デクターはまだ鑑定に追われているが、エルギンが膨大な魔法道具と文献の全てをエスメラルダの学問所に持ち帰って調べることを許可したので、そうなるともう、ビアンカたちにも王宮に残る口実はなくなった。流れ者たちは去り始めた。エスメラルダに住んでいたエルギンの兵たちも、続々と引っ越しの荷物をアナカルディアへ運び込み、近衛としての仕事を始めた。エルヴェントラも神官兵をまとめて帰還の準備を始め、ビアンカとアイオリーナも、手伝ってくれた女たちへの礼とその後の指示に追われた。
アルガスはどうしているのだろうとそれが気がかりだったが、捜している暇もなかった。
そして――
姫が依然戻らないまま、季節はいつしか、真冬を過ぎていた。王妃宮やアナカルディアの街も軌道に乗り、日常と言えそうな雰囲気が戻ってきている頃、アイオリーナはラインディアへ帰った。姫が帰ってきたときのために、いろいろと準備をすると言って。姫が帰ってきたら結婚式だもの、と微笑ったアイオリーナは、少なくともうわべだけは、姫が帰ってくることを露ほども疑っておらず、それが本当にありがたかった。
ビアンカも他のみんなと一緒にエスメラルダに戻ることになった。アナカルディアを出る直前になって、アルガスを捕まえたのはエルヴェントラだった。カーディス王子のための仕事も終わり、姫の護衛という仕事も終わり、瓦礫を取り除きアナカルディアを復興させるという仕事も終わった。今後流れ者に戻るのなら、是非エスメラルダに来て、巡幸が出かけるまでの間だけでも、少年たちに剣を教えて欲しいと頼み込んだ。ビアンカはとても嬉しかった。アルガスが今後どうするのか、とても気になっていたからだ。たぶん仕事があった方がいいだろう。エルヴェントラもそう思ったのだろうと思う。
帰路でさえも、魔法道具が満載された馬車にこもって、デクターは文献を読んだり鑑定にいそしんだりしている。その没頭ぶりはすさまじく、嬉々としているように見え、学問所に入ったばかりのガルテを見ているようだった。デクターにも、流れ者のような生活よりも、こういう生活の方が向いているんだろうな、とビアンカは思った。いっそ戸籍をもらえばいいのに。そうしてくれれば、本当にいいのに。
穏やかな旅を終え、エスメラルダに着いた。姫が戻っているのではないかと期待したが、いなかった。が、ニーナは元気満々でやる気に満ちていて、姫が戻ってこられるよう学者たちを総動員して文献の調査をさせていたので、悲壮な気分になど浸る暇さえなかった。戻るや否や今までの晴天が嘘のような荒れる数週間が訪れた(毎年のことです、とマーシャは言った)。ニーナは嵐だろうとなんだろうと、毎日泉へ出掛け、それから学問所へ出かける。学者たちの報告を受け、励まし、ねぎらい、叱咤激励して、帰りに泉を見てから帰る。ニーナのお陰で国の雰囲気はとても明るい。
エルヴェントラも、嵐のさなかでも忙しそうだ。エスメラルダを取り囲む【壁】がどれくらいできているのかを調べるために、精力的に動き回っている。【壁】はみんなの予想を越えた速度で出来つつあるらしく、近々引っ越しがあるかもしれないという噂だった。
やがて嵐の数週間も過ぎ、穏やかな雨の多い早春が訪れ、人々の動きはさらに活発になった。みんな動き出していた。姫がいなくなっても、やることは山積みで、日々は動いていく。ビアンカも毎日忙しかった。マーシャと一緒に家事もしたし、【アスタ】の人達のところへいっていろいろと雑務をこなしたし、木刀も作り上げて訓練を開始したし、バーサに手紙も書いたし、学問所で奮闘するニーナのために、お昼にはお弁当を届けた。
そして春が来た。巡幸の季節だ。
エスメラルダの春は、息を飲むような美しさだった。
エルヴェントラはその春を愛でる余裕もなく、巡幸の準備もこなしている。王子の兵がいなくなり、がらんとしたように感じられるエスメラルダに、数々の物資が運び込まれる。今年の巡幸を華やかにするか控えめにするかで、エルヴェントラはしばらく考えたようだが、今までのようにこっそり行う必要はないものの、やはり姫が戻らないからと、あまり華々しくはないようにするらしい。
でも。
来年はきっと華やかにするのだろう。たとえ姫が戻らなくても。
そう、姫がいなくても巡幸はできるのだ。
それがいいことなのか悪いことなのか、よく分からない。




